衙堂宛に届いた手紙は、注文した品の到着を示していた。トゥー嬢から紹介された一種の何でも屋、もう少ししっかり言えば薬学材料を中心として取り扱っている小さな商会である。この世界の商会のシステムは正直なところかなり面白い。船の民についての話は結構琴線に触れたが、これはまた後でいいか。
「確かめてくれ」
港のある北西側の地区にある建物の一つで、商者の男性と共に私とケトは品物の品質を見る。蝋樹と呼ばれる一種の木の葉から取れるもので、上等の蝋板に添加物として使われる。蝋には他にも草や種から取れるものがあり、良い職工は自分の独自の組み合わせで木の艶出しなどにつかっているらしい。そういえば蜜蜂はこの世界ではまだ見かけていないな。生物相が色々と違う可能性がある。ただまあ、何でヒトが存在するのかはちゃんと結論が出せていない。正直ここらへんは答えが出そうにない予感がしているので触れないでおこう。
「……求めていたものです。そしてそちらが黒鉛*1ですか?」
「ああ」
爪で削れるほどの柔らかさ。指で潰すと黒い粉がつき、つるつると滑る。よし。
「……商品は確認しました。支払いはここで?」
「ええ」
紙が一枚出される。契約書だ。これに取引者と証人の名前を書けば契約が成立するというわけだ。本来は証人は衙堂関係者が第三者として行うのだが、今回は私自身が衙堂関係者だということで頭領府から来た人間が立ってくれる。というかこの世界の国政もわかりにくい。政策決定機関としての頭領府、行政組織としての衙堂、意見収集機構としての長卓会議、暴力組織としての巡警、その他諸々。で、これらはあくまで協力しているだけであって完全に頭領府の統制下にあるというわけではないらしい。私の中にある軍事畑の部分が早くクーデターを起こして権力を集約し総力戦に備えよと言っているがこれは完全に邪念である。そもそも今の状態は互いに出し抜きあおうとする取引やらなんやらが奇妙なバランスで絡み合って適度な関係性を保っているのだ。悪く言えば癒着であるが、安定のために必要な信頼の醸成が行われているとも言える。
「大衙堂の保証の下、司女見習いのキイ、以上相違ないことをここに認める……っと」
ここでの識字率は決して低くはないし、多くの人が自分の名前を書いて簡単な文章を読むことができる。書けるのは成人の三割だろうか。正直なところ結構いい加減な推定だ。必要となって字習いのために学舎に通う成人もいるが、余裕があればできるだけ若いうちに身に着けさせておいたほうがいい技能ではあるらしい。ここらへんも聖典語教育に批判的な意見とかもあるので難しいが。ただこれは反教養主義的文脈なのであまり私の好む論調ではない。
それでも文字を書けない人はいるので、場合によっては花押のような自分特有のシンボルを使うこともあるとか。色々と面白いものがあるが、本題に戻ろう。
「……確認しました。これにて取引は成立です」
証人が私たちのサインに重なるように色付きのインクでサインをした上で、別の紙を契約書に乗せる。インクは多少乾きにくいようになっているので、こうすると一種の同一性証明になるということらしい。
蝋の調合は今までの作業に比べれば非常に簡単だった。樹脂を少し混ぜた蝋によくすりつぶした黒鉛粉末を混ぜればいい。これで常温ではそれなりに固く、湯煎すれば溶けるぐらいのいい塩梅になった。そういうわけでできた蝋は一旦木型に詰め、私たちは大衙堂の一室に入る。印刷機をよりよく扱うべく試行錯誤を重ねている人たちの横で、私は荷物を置いた。
「ああ、キイ嬢とケト君。久しぶりだね」
顔見知りとなっている彼は煩務官に仕事を投げられた哀れな司士である。書字生やら工師一歩手前の木細工の工員やら工房に所属していない金属細工職やらを集めていろいろとやっているわけだ。私が活字を作るまではデザインを詰めてもらっている。本当に遅れてすまない。ただまあ、材料が到着してすぐ作業が始められる程度には色々と揃っていた。
「どうも、お疲れ様です」
そう言いながら私は試し刷りを見る。色インクやら文字のサイズの調整やら組版やらがかなり細かくできているようだ。フォーマットがある程度固まっているらしい。
「で、これが木版だ」
改良を重ねられ、修正が加えられた書体だ。私には何が違うのか正直わからないが。
「ありがとうございます。少し火を借りますね」
大鍋に水を入れ、湯煎した小鍋に枠から取り出した黒い蝋を割り入れる。これで溶けたものをいい感じに型に流し込み、冷めるのを待つ。このタイミングは事前に確認済みだ。
印刷に使われている圧搾機は改造を加えられていた。うまい具合に圧力が分散するようになっていて、今回の目的にはちょうどいい。蝋が適当な硬さになったところで木版を乗せ、圧力をかける。……ちょっと強すぎたかな?まあ、弱いよりかはいいだろう。
慎重に、垂直に木版を外す。ちょうど欲しかったような、読める方向になっている文字の窪みが蝋にできていた。