すこしケトを驚かせることができたが、逆に言えば今の私にはこれが精一杯だ。いきなりすらすらと話し出すことができればいいのかもしれないが、現実はそうは行かない。
ケトは籠からまた新しいものを取り出す。オレンジ色の半透明な細長い物体と、小さな折りたたみ式のナイフ。
「それは何ですか?*1」
「これはナイフです」
そう言いながらケトは器用に右手だけで刃を持ち手から出したり入れたりする。刃渡りはケトの人差し指の長さほど。刃がすり減っていることと持ち手の木の部分が飴色になっていることから考えると、それなりに使い込まれているのだろう。オレンジ色の棒を削って、その欠片を私に渡してくる。少し硬いが、爪で傷はつく。モース硬度は2。
「これはkheeweです。kheeweは████████です*2」
そう言ってケトはケーウェと呼んだオレンジ色のなにかを齧る。私もそれに合わせて齧る。潮の匂いと、熟成された旨味。噛めばじわりと味が滲み出てくる。塩辛いが、おいしい。私の知っているこれに一番近い食べ物は鮭とばである。確かに鮭は地球における北半球の海の色々なところに存在するし、塩漬けにして干すというシンプルな加工方法はどこで生まれてもおかしくない。
ケトに視線を戻すと、私が驚いたのを見てかどことなく楽しそうに口元を隠して笑っていた。なんだか恥ずかしい。
「僕はケーウェを███████。あなた█████ケーウェを███████*3」
ちょっとしたパズルだ。ケーウェを説明するのに最も簡単な説明は「食べ物」だろう。「僕」と「あなた」という単語は自己紹介のときに出てきた。構造としてはSVO、となればこれは「食べる」という動詞だろう。
「あなたは食べている」
「はい」
目的語を省略しても、最低限の意味は通じるようだ。自分の予想があたっていたことに嬉しく思っていると、ケトは口を開けて私に中が見えるように見せた。ぬらりと唾液が光る口内。
「僕はケーウェを食べ █████*4」
行動の完了を意味するのだとしたら、「食べ終わった」だろうか。「食べた」であればわざわざ口の中を見せる必要がない。いや、「食べた」でもそれを示すためには……と思考を頑張って回す。決してケトの粘膜をみて邪な気持ちが芽生えたわけではない。
またケトがひとかけらケーウェを切って、口に近づける。
「僕はケーウェを食べ █████*5」
「食べようとしている」だろうか。となると、時制の説明だろう。ここまで理路整然と例を出せるとなると、ケトはかなりこの言語に精通している可能性がある。私がこういう説明を日本語でやろうとしてもここまで滑らかにはいかない。文法の研究は私の知っている歴史だとインドのパーニニが記した文法書が紀元前4世紀ごろにはできていたはずなので、私が今いるのが過去だという説を取ってもあまり矛盾はなさそうだ。いやそんな昔に20世紀になるまで再発見されなかった構造言語学の概念を生み出しているというのがおかしいといえばおかしいのかもしれないが。
「僕は███████ █████*6」
ケトがそう言って立ち上がった。
「僕は███████。僕は███████ █████*7」
そうして座る。なるほど。ざっくり未来・現在・過去の時制だと考えていいだろう。これで「食べる」と「立つ」は手に入った。まだ脚が痛いので難しいが、ちょっと試してみよう。
「私は……」
「あなたは██████*8」
身体を倒して文章を言おうとすると、少年はちゃんと意図を掴んでくれた。これで「寝る」も手に入った。
「私は寝ていた」
「はい。そのとおりです」
褒めてもらえるのは嬉しいものだ。
「█████……『私は███████ ████』『あなたは寝ています』 █████ ██████ ██*9」
ああうん。わざわざ一人二役をやってくれた理由はもう見当はつくよ。正しい質問の方法か。
『あなたは何をしていますか?』
ナイフで追加のケーウェを切ろうとするケトに私は言う。
「僕はナイフでケーウェを切っています」
要素が増えたが、知っている単語ばかりだ。これで動詞を手に入れる方法と、文法構造の詳しい情報を掴むことができた。
「ナイフは切るものです*10」
「……はい」
ケトはそれを聞いて微妙そうな難しい顔をした。文法的にはあまりいい表現ではなかったらしいが、間違っていると言えるほどではなかったのだろう。まあ、ここらへんは色々覚えていくしかない。