ついにここまで来た。大きな磁器に硫酸銅飽和水溶液と木の枠に入れたままの蝋版を入れ、空いたスペースに素焼きの筒を入れる。その中には希硫酸と鉄の棒。そして鉄の棒と蝋板を銅線で結ぶ。基本構造はジョン・フレデリック・ダニエルが1836年に作った電池と同じだ。これ自体が硫酸銅から銅が析出するために必要な電流を生む。ただこれだけでは時間がかかるので、発電機にもつなぐ。向きを間違えるととても悲惨なことになるので注意しよう。
「……これだけですか?」
「これだけ」
ケトはしげしげと完成した装置を見つめる。
「染色槽にも似ていますが……こんな簡単に銅型が作れるんですか?」
「たぶん」
基礎実験ではそれなりにうまく行っていたので、今度もうまくいくと信じるしか無い。これについては試行錯誤は嫌だ。
銅の原子量は64ぐらい、密度は9 g/cm3ぐらい。ファラデー定数がだいたい105 C/molだったかな。簡単な計算をしよう。200平方センチメートルの範囲に5ミリメートルの銅が析出するならその体積は100立方センチメートル、質量は900グラム、分子量は14モル。ということは必要なのは1.4×106クーロンか。ここまで計算して電流がわからないことに気がついたのでやめた。一応1アンペアの電流が流れていれば二週間ちょっとでできるはずだが、この計算は信用できない。ただまあ、百倍にはならないし百分の一にもならないだろうといったところ。ともかくのんびり行くしかない。
この計算結果は残せないな、と私は入念に蝋板を均す。前提となる実験もなしに知っていていい定数ではない。まあこの世界にはマイケル・ファラデーはおろかシャルル=オーギュスタン・ド・クーロンもアンドレ=マリ・アンペールもいないのでこの数字自体が特別な意味を持つことはないのだが。逆に微細構造定数みたいな無次元量の定数を書き残していたりしたら後世の研究者は偶然の一致という少し苦しめの解釈に縋り付くしか無い。たぶんいきなり未来知識を持った人間が現れたという学説を学会で発表してもだれも見に来てくれないだろう。追放されることは会費の支払いを忘れなければあまりない。あ、口座からの自動引き落としじゃなくて振り込むタイプだから私は自動的に学会を追放されるのか。まあよし。実際様々な分野の学会に出たり入ったりしていたので整理できていなかったのだ。全部忘れられるこの世界に少し安心する。
「暇になりましたか?」
昼間から寝台でだらけていた私に、学舎から帰ってきたケトが言う。
「まあね」
「……印刷機ができたら、しばらく休むって言ってましたよね」
「いやあ電池ができちゃったから……」
ケトの目が怒っている。
「僕の授業はあと数日で終わります。あの銅型ができるまで、遊びますよ」
「……どこで?」
いや見るべきものはいっぱいあるが、ありすぎるほどあるが。
「どこにしますか?」
「決めてないの?」
ケトは目をそらし、寝台の上にいる私の隣に座る。
「僕としては、キイさんと何かを見れるなら結構どこでもいいですよ」
「図書庫とか?」
「あそこ、入れるんでしたっけ」
「……前にあの晩餐にいた講官に頼むとか?」
顔がおぼろげになってきてる白髪の男性を思い出す。
「それ、キイさんは休めませんよね?」
「うーん、確かに……」
そう言いながら私は恐ろしいことに気がつく。勉強も研究もせずに長期間だらだらとした記憶が無いのだ。高校生の頃から毎日何らかの本を読んでいたし、大学生の夏休みは図書館に入り浸ってオンライン公開されていない論文誌に片っ端から目を通していたし、大学院以降は意識がないか、あるいは何かについて考えているかだった。……おかげで妙にむずむずするはずだ。
「ねえケトくん、質問」
「なんでしょう」
「男性が女性に遊びを誘うのって、特別な意味を持つことがある?」
「っ、んー……、あると言えばありますし、そういう意味を持たない関係だということも考えられます」
「なるほど。ちなみに、特別な意味を持つ場合にはどういう場所に行くのがいいのかな」
「……どこなんでしょうね」
「知らないの?」
「経験がありませんし、読んだことのある本は信用できないので」
「例えば?」
「海の底に行けますか?」
「あー、そうか、聖典にあるような代物……」
この世界の聖典は多神教における神話という側面も持つ。まあギリシア神話とかローマ神話とかケルト神話とかスカンディナビア神話とか日本神話とかみたいなやつ。スケールも山を作ったとかいうレベルからそこらへんにありそうな痴話喧嘩まで様々で、当然のことながら恋愛的要素は多い。そして結構不条理で幻想的だ。
「ええ、なのでどうしようもない、と」
「市場でも見て回る?」
「次の発想につながるものを見つけたら買い付けてしまいません?」
「買い付けないと思う?」
「思わないのでこう言っています」
「ちゃんと君は私のことを理解しているなぁ」
「というより何を見せても考えることを止められないのでは……?」
「……君は頭の中で詩を撚るのを止められる?*1」
「無理です。ごめんなさい。ならキイさんは止められませんね……」
「やはりか……」
私とケトはなんとなく同じ側の人間である。思考が止まらず、あっちこっちに彷徨うような。それでもまあ、しばらく目的もなしに城邦を見て回るのは悪くないだろう。