ついに銅型が完成した。まあおもったより剥がすのが難しかったが、完成したからいいとしよう。裏に溶けた錫を流し込んで補強して、文字ごとに分割して、いい感じの木型に固定して、割鋳型にセットできるようにする。黒鉛の方と鉛の方とで両方とも銅型ができたので比較的マシなほうを纏めてセットにしてある。
「銅型は何回ぐらい使えそうですか?」
活字を型から手際よく取り出している金属細工職の青年に私は声をかける。この後は高さを調整した後に文字ごとに木の箱に入れて、実際に作れるようにするわけだ。今のところ作った銅型は問題なく使えている。一発で成功してよかった。時間がかなりかかるので試行錯誤がやりにくいのだ。
「さあな、だが印刷機何台か分にはなるだろ」
そうそう。印刷機というのもケトの命名だ。案外使われているようで何より。
「なら印刷規模の拡大もできますね」
「今でも普通に事務書類の印刷なんかにちょくちょく使われているらしいが、本はまだ作られてないはずだぞ」
本と言っているが実際は巻物である。もちろん冊子状のものも無い訳ではないが、ちゃんとした公文書であったり記録であったり発表であったりというものは巻物だ。
「最初の本は何になるんですかね」
「さあな、ただ気合い入れて作らねぇと」
こんな会話をしている間にも五、六個の活字ができていた。
活字の大量生産の目処が立ったので、プロジェクトが本格的に動き始めた。書字生として雇われた若者たちが四苦八苦しながら枠に活字を収めていく。
「あの子、なかなか手際が良いと思わない?」
私はケトに声をかける。ケトと同年代だろうか?ちょっと若いかもしれない。
「確かにそうですね」
並んだ箱から右手の細い指が器用に活字をつまみ、手の中で単語ができていく。左手で空白に相当する何も彫られていない活字が挿入されて整えられる間に右手が次の単語を拾う、というわけだ。何なのだろうな、と私は彼女の動きを観察する。無駄がたぶん少ないのだろう。実際ここらへんをちゃんとやろうとするとビデオカメラとか、そうでなければ観察眼のある人間と時間測定者のコンビが必要になる。そういえば気になって調べたが、かつての世界の秒、あるいは人間の心拍のスケールの時間の単位が天文学の分野はともかく市井にはないんだよな。ある程度精密な時間測定をやるとなると必須なのでどうにかしたい。ただこれを単位系に組み込むとなると全体のバランスをとるのが大変だ。やりたいことリストがどんどん伸びていく。
「ああ、あの子?期待されてる新人さんだよ」
「あっどうも」
何回か見た顔、確か組版をやっている人が教えてくれる。
「そういえば鉛の粉が舞うので注意すべきことの内容ってもう回っていますか?」
「ああ、それなら読んだね。ああいう形で掃除やら清潔が求められるのは意外だったが」
書いた内容はそう難しいものではない。指を舐めるな、作業用の服を着ろ、定期的に掃除を行え、帰るときには手洗いとうがいをしろ。脂汚れを取る用の石鹸も置いてあるし、洗うときの水が冷たくないようにぬるま湯にもしてある。ここらへんを中心に本当なら管理学を構築したいところだが、まだそれができる下地がない。もっと労働集約的な活動をしないと。
「書字生たちからの反応はどうです?」
「まあとやかく言われるのは慣れちゃいるけど嫌らしいな、まだ理由があるだけマシらしいが」
なるほど。まあこういうのは結構文化的背景にもよるので難しい。海外への技術移転の話を聞くと大変なのはよく分かる。事実国立産業技術史博物館にも
製本の過程で色々聞かれた際に、私は奥付をつけるようにデザインを工夫してくれと頼んだ。
シンプルであるが、綺麗な縁取りで書誌情報が囲まれている部分の印刷された紙が最後に貼り合わされる。
「……完成、ですか?」
「まだ乾燥させる必要はあるけどね」
手についていた糊をボロ布で拭きながら作業をしていた女性が言う。最上等とまでは言わないが、かなり格式のある装丁だ。ここらへんは色々見て何となく分かるようになってきた。印刷された長い紙を、土台となる別の厚手の紙に貼っていくわけだ。ここで文字と紙の長手方向が同じ向きのものを横本、直交するものを縦本という。読む時に左右に広げるか、上下に広げるかの違いと言ってもいい。
印刷されたものは聖典語の例文書だ。非常に一般的なもので、ケトなんかは全部暗記しているほど。内容は簡単だが、色々な文法要素であったり修辞だったりを盛り込んでいてなかなか奥が深いらしい。今までも木版で刷られて多くの学生が使っていたので、最初の製本にも相応しいということのようだ。この世界での42行聖書に相当するのかな。いや、それ以前にも印刷された本があったっけ。正直あまり覚えていない。やはり記憶には限界があるな。だから本が必要なのだ。