謄写版はなんと20回程度刷ることができるようになったようだ。ただ
「何やってるんですか、局長?」
局員の一人が私に声をかけてくる。
「鉄細工だよ」
そう言って私は手の中の棒状の鉄を見せる。比較的炭素濃度が低い鍛鉄を、焼入れして表面を浸炭処理した細い彫刻刀のようなもので削るのだ。ちなみに無茶苦茶に難しい。鉄の細工に長けた職人は決して多くはないというが、まあそれも当然だなと納得できる。
「いえ、目的についてです」
「紙に孔を開けたいんだ」
「錐を作って糸を通すのですか?」
おお、そういう発想がすっと出てくるのか。
「それを君はどこかで見たことがある?」
「父が革細工職人でした」
「なるほど。ただ、私が作りたいのはそれよりもう少し大きな孔を開けるためのもの。通すのは糸ではなく棒だ」
そう言いながら私は指の幅の半分ほどの直径を持った円を紙に描いて示す。
「……何に使うのです?」
「試作品ができたら見せるよ」
「我々はまだあれをろくに扱えていないのに、これ以上増やすのですか?」
謄写版の方を見ながら言う彼は口調に興奮を隠せていない。もう少しなんとかしようよ。まあやる気のある人は好きだ。
「そう。なかなかに面白いと思うよ」
「そうですか。……今日は早く帰っても?」
「そもそも仕事はないし、構わないが。なぜ?」
「久しぶりに父と会おうかと。もし可能であれば、そのような孔を開けるのに相応しい道具を持ってきます」
「いいのかい?」
「ええ」
確か彼は図書庫から来た局員だったはず。親の仕事を継ぐことは少なくないが、やはりこの城邦では勉強して良い職に就こうとする人が多いらしい。具体的には子供をそういう進路に進ませようとする親か。歴史的に見ればそういう層にアプローチをかけることで科学技術系の人材育成を行ったなんてこともあったな。野口英世は本来梅毒スピロヘータの研究で評価されるべきだが、死因でもある黄熱病の研究で知られているのはそういう「物語」が作られたからというのもある。20世紀初頭の親や子供にとって、貧しい村から障害に負けず勉強を重ねてついには世界的な研究者になったというロールモデルはかなり強く影響を与えたのだ。
「大丈夫かい?」
ケトに声をかける。
「いいえ」
「なるほど、それは大変だ」
ケトの前にあるのは算学の教科書。先日の紙の規格で出てきた黄金比の理論について書かれている場所が開かれている。
「すみませんね、彼に勉強を教えてもらって」
「それは別にいいんだがね」
そう言いながら頭を掻くのは先日私の書いた蝋板を回収した局員。
「あなたの書き方はなかなか良くできている」
「そうでしょう」
小学校の算数でも、教え方のレベルからしっかりやるとかなり面白いのだ。そもそも数という概念が薄い児童に教えるのだから様々な工夫が凝らされている。
「ただ、見たことがない。よその邦での方法ですか?」
「あまり詳しくは言えない」
「……なるほど」
察してくれたようだ。計算術というのは専門知識で、ゆえに独占されがちだ。他人の飯の種を奪ったなどという面倒事に発展させたくはないだろう。
「ただ、それを使ったところでこの城邦でなら問題はないとは言っておくよ」
「なるほど。それと疑問が。ここで積を求めているでしょう?」
私がやった掛け算の筆算の途中の部分を彼は指差す。
「ええ」
「……これ、どうやって計算を?もしや暗算で?」
「一行一行はそうですよ」
「そうか……」
ああ、九九か。確かにちょっとできる小学生が暗算で計算するようなレベルのものに使うネイピアの骨というツールがある程度には特殊な技能だった。九九の起源自体は中国のはずだが、これがヨーロッパであまり広がらなかったのは数字の読みが少し奇妙な法則を持っているからかもしれない。あまり詳しくない分野をうろ覚えの知識で話すとボロが出るのでこの辺にしておこう。
「それで、最後には列ごとに足し合わせる」
「そういうことです」
「この略記方法はいい。特にこの空位記号は面白い」
位取り表記のゼロだ。っと、そういえばこの世界の数学ではあまりこれについて議論されていないんだったか。
「別にこの記号は他のものでもいいんだがね、なにかいい代替案はあるかい?」
「特にないですね。これに慣れようと少し格闘しているんですが、使いこなせれば便利そうだ」
レオナルド・ダ・ピサ、前に出てきたフィボナッチ数列の人が確か12世紀初頭にヨーロッパにアラビアの数学体系というか数字体系を持ち込んだのだ。その目的は金融。まあ浸透にはかなり長い時間がかかったのだけど。
「商会とかでも使われそうかい?」
「使える人を育てるにも時間がかかるでしょう。読むのは比較的楽ですが」
「略記方法について、手引でも作ろうか?」
「そこまで局長に手間をかけさせるわけには」
「まあ、困ったら聞いてくれ。算学の話であればいくらかできるからな」
「助かる」
ふとケトを見ると少し不満そうな視線をこちらに向けていた。まあ、自分のわからない話を目の前でされるのは楽しくないからな。