体内時計が不適切になってから久しいが、どうやら一種の時差ボケと相まって目覚めは悪くなかった。
「███████ █████、キイさん*1」
私が寝台から起き上がると、木の板のようなものを持っていたケトが声をかけてくれる。ちょっと待て。
「それは何ですか?」
「これは……」
そう言いながら立ち上がり、私の手元に見えるようにケトが板を見せてくれる。大きさはA4ほど。木の枠に黒い粘り気のある脂状のもの、おそらくロウが伸ばされていて、ケトが持っている草の茎で作られたらしいペンで文字を書くのだろう。
『え、文字が書けるの?』
思わず私は日本語で口走ってしまう。しまった。原則ケトに日本語は聞かせたくなかったのだ。理由としては彼が好奇心旺盛だろうというのがある。そりゃまあ意思疎通に使える語彙は相互に増やすのが短期的にはいいのだろうけど、長期的にはあまりメリットがないのである種秘密にしていたのである。
「キイさん、何を言ったか教えてください」
ああほら。昨日一日かけて単語を詰め込みまくったので推察能力も高まり、この程度の文章なら聞き取れてしまうようになった。自分の理解力が恐ろしいが、これはケトのわかりやすい説明の影響のほうが大きいように思う。
「……これは蝋板ですよ」
私のヘレニズム仕込みのアルカイック・スマイルを見て、ケトは負けたようにそう言った。罪悪感が溜まる。
「これは███████ためのものです*2」
そう言いながら今まで書かれていた文字を消し、新しく、消されたものよりも大きく、そしてゆっくりとペンで蝋に線を刻んでいく。
「『ケト』、『キイ』」
縦長の、直線によって形成された文字。ケトは三文字、キイは二文字。「kh-e-t」と「k-ii」だろうか。「ki-i」かもしれないが。
「これ、取ってほしい」
私はケトの持っている蝋板を指差して言う。
「はい!」
喜んで渡してくるあたり、きっと私が文字を書いてくれると思っているのだろう。違うんだ。許してくれ。
私が描くのは直角三角形。底辺が3、高さが4、斜辺が5。長さの比がわかりやすいように、垂直に短い線を引いて区切りにする。
「……キイさんは███████ ████か██████████████なんですか?*3」
これだけでは足りない。私は直角三角形のそれぞれの辺を一辺とする正方形を描き、マス目に分割する。ケトがどれくらいの知識を持っているかが知りたいのだ。
文字を読み、書くという能力は決して習得が容易なものではない。21世紀初頭における日本の識字率は基本的に100%とみなしてよいと考えられているが、時代や地域によっては識字というのは高等能力であった。秘書を意味する英単語、secretaryは
ラテン語を学べなければ、あらゆる学問の入り口にすら立てない時代があった。言語が学問に、宗教に、そして身分に強い影響を与えていたのだ。そういう聖俗が切り離された世界では、「話し言葉」を「書く」ということは難しい。それにケトの話す言葉はこう言っては何だが俗っぽい。「高等な言語」特有の複雑な文法やら活用やらがないのだ。
もしケトが書く文字が話している言葉と関係がないのであれば、文字を言語学習の糸口にすることは難しい。しかしもしそうだとしても、ケトは高度な教育を受けているという証拠になる。ここで出会った唯一の人間がそれなりに将来を期待されているというのは少なくともマイナスではない。逆にケトが「文字を書けるだけ」の少年なのであれば、それはそれでまた別の可能性が拓ける。識字率が高ければ、本の需要があるのだ。情報密度の高い本を読むことができれば、世界を知る助けになる。
……嘘だ。こういうのは後付だ。ケトを驚かせたかったというのが正直なところだ。教えられてばかりが癪だった。かといって私個人の知識や経験の話をしたくなかった。これだけの建物を作れるなら、数学を理解できる文化かもしれないというのに賭けたのだ。
三平方の定理、あるいはピタゴラスの定理として知られるシンプルな法則がある。直角三角形の斜辺の長さを $c$ 、それ以外の辺の長さをそれぞれ $a$ と $b$ とおけば $a^2 + b^2 = c^2$ が成り立つというものだ。ちなみにこれがピタゴラスによって示されたということについて数学史家は否定的なのだが。
19世紀初頭、これまた後世の数学史家は否定しているのだが、数学者のフリードリヒ・ガウスが大地に直角三角形と各辺を一辺とする正方形を描き、宇宙から見ても地上に文明が存在するとわかるように示そうとしたという話がある。別にコミュニケーションに数学を使うというアイデア自体は特別なものではない。まさか私がそれを行うことになるとは思ってもみなかったが。
「……█████ ██████ ███ ████████ ████*4」
蝋板を返すと、ケトは几帳面な字で私の図の隣に文字を書く。
「█████ ██████ █████████ ████ ███ ████……*5」
そこまで言いながら書き、ケトは慌てて書いたものを消す。響きが独特だった。
「なにが消すもの?」
「……これは████████。████████ではない*6」
そう言って、改めて言葉に合わせてケトは文字を書く。今度は多少わかる単語も混じっていたが、あまり聞き取れなかった。