図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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基準

印刷物管理局登録番号2が納入された。衙堂のまとめた収穫報告である。これは結構な数刷られることになるので確認作業は部下にある程度投げる。私とケトだけではさすがに追いつかなくなってきたのだ。

 

「それで、進捗は?」

 

私は目録に使う手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)に孔を開けながらケトに聞く。まだ2枚しかないが、今後もっと増えていけば役に立つだろう。

 

「順調です。今日中には終わるかと」

 

「それはよかった」

 

「……それと、顕微鏡の話ですが」

 

「ん?」

 

顕微鏡とは言っても、適当にレンズを組み合わせて黒く塗った紙の筒で固定しただけのものだ。30倍に拡大して見ることができるが、倍率だけであればアントニ・ファン・レーウェンフック型のほうがいい。棒状の硝子(ガラス)をうまく炙るなりしてレンズに使う硝子(ガラス)球を作るのはこの世界の技術でも簡単にできる。あとは螺子(ねじ)とかを利用した試料置きがあればいいのだが、別に必須ではない。これであの苦労してレンズを削って作った顕微鏡よりも性能がいいのだ、少し悔しくもなる。ではなぜこの形にしたかと言えば、加工物の観察にはこっちのほうが便利そうだったからである。

 

「書字生や細工師から注文が入っているようで」

 

「少し意外だ」

 

初期の顕微鏡はあくまで道楽のためという側面が強かった。科学というか工学的に実用された初期の例としては粗粒陂(ソルバイト)に名を残すヘンリー・クリフトン・ソービーの鋼の観察がある。ただこれは19世紀中頃で、ロバート・フックがMicrographia(顕微鏡図譜)を出版した1665年から200年近く経っている。まあレンズの問題とかはあっただろうが、それでも多くの人は小さな世界の実利的な可能性に長く気がつかなかったのだ。それなのにこの世界の人々がそこに着目するのは少し奇妙だ。

 

「文字版を作るために使う木版や銅型の作業用に、とのことです」

 

「本当かなぁ」

 

「……疑う理由があるんですか?」

 

「いや、すまない。ただこれ作るのも楽じゃないし改良も必要だしな……」

 

この城邦にはあまり硝子(ガラス)細工の職人がいないのだ。ただ、老眼鏡とか拡大鏡とか望遠鏡とかの需要が増えれば行けるかもしれないし、商会が面白い市場だとみなすかもしれない。まあこれについては後々考えよう。

 


 

私の作業空間となっている図書庫の空き部屋で、良質な鋳鉄の棒材を丁寧に磨き上げる。正確な水平面と直角を出すテクニックはたぶん今のところ私以外には使えない。ヘンリー・モーズリー以来精密な平面を作るために使われる手法、三面摺りだ。ただ彼が使ったような紺青はないのでよくすり潰した酸化鉄(III)を使う。レンズを作るときにも使った、赤い色をした微細な粉末だ。これを塗った板にまた別の板を載せて、ゆっくりと垂直に持ち上げるとそれぞれの板の盛り上がっているところに顔料が濃く残る。そこを削って、また同じように摺れば次に高い場所がわかる。もちろん私が適当にやるのでは精度としてはいい加減なものだ。が、実際の測定における誤差を考えれば最初の基準に使うには十分だろう。まあ、この手の細工は父の会社に遊びに行った時に色々と教えてもらったので手は思ったより素直に動いてくれた。

 

私が作っているのは原器だ。トレーサビリティ、つまりは「オリジナルのコピーのコピーのコピー」といった形で正確性を保証するための過程において、一番最初にあるもの。白金(プラチナ)-イリジウム合金で作られたメートル原器はたしか6桁の精度を出していたが、私が作っているのは3桁もあれば十分だということにしている。最初から無駄に基準を高くしても意味がないしね。あとこれぐらい精度が低くていいなら自重によるひずみや熱膨張についてそこまで考慮しなくていいのもある。

 

そうやってできた成形済み棒材を、顕微鏡を覗き込みながら丁寧に掘り込んでいく。そうして表面にできた二つの十字の溝の中心を結んだ長さには基本文字高さというそっけない名前をつけているが、今後印刷物管理局規格における長さは基本的にこれで表されることになるのだから重要だ。なお法律についての問題もばっちりだ。税収に関係しないものであり、取引において公正であることが保証されるのであれば問題なく使えるようで。

 

まあそうやって集中していると、澄んだ金属音が聞こえた。入室前に鐘を鳴らすように、と扉に書いておいたのでちゃんと読んでくれたのだろう。なおこの鐘は市場で買った。音が気に入っている。

 

「入っていいよ」

 

私が声をかけると扉が開く。

 

「キイさん?そろそろ夕方ですが」

 

顔を出したのはケトだった。

 

「……そうだね。帰ろうか。ちょうど一区切りついたところだ」

 

布で原器に油を塗る。錆は恐ろしい。

 

「最近、少し気になることがあって」

 

私が道具を整理していると、ケトは言う。

 

「何でしょう」

 

「いろいろとやりすぎではありませんか?」

 

「……確かにね」

 

印刷物管理局局長の座を手に入れ、金銭に余裕ができたのもあるだろう。それを加味しても、私はかなりの無茶をして、見方によっては危ないことをしている。

 

「キイさんの健康と生命に影響がない限り、基本僕は止めはしません。けれども、理由があるなら聞いていいですか?」

 

「なら、帰りながら話そうか」

 

荷物はまとめ終わった。最近は帰る時間が違うことも多かったので、改めて話すのは少し久しぶりかもしれない。

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