ケトが茎の筆を置く。丁寧な、高さと幅が揃った文字だ。筆記具の特徴上なのだろうか、ぱっと見た限り曲線は使われていない。さて、文字がわかれば少しずるいテクニックが使える。古典的な暗号解読にも使われた、頻度分析だ。
同じ文字がいくつかある。最も多いのはギリシア文字の
「e*1」
私が文字の一つを指差して言う。今まで学んだ単語にあった音の中で、たぶん一番多く出てきたのはeだ。次がa。違ったらそれまでだ。
「……はい」
少し訝しむように、ケトは答える。あれ、困ったな。
「僕は蝋板を█████……███、僕は█████を████ています*2」
隙間に文字を書きながらケトが言う。ええと、「文字を書く」か。
「僕は文字を█████ます」
そう言って蝋を平らにする。これは「消す」かな。
「消しますね」
そう言ってケトは蝋板全体をぐるりと指で示した。
「はい」
ケトは筆を横にして、一気に図と文字を消していく。かなりいっぱいに書かれていたからな。その間、ケトが書いたものについて考える。
『
その内容は多岐にわたるが、基本的には一歩一歩積み上げるような証明がメインになっている。5つのルールから複雑な幾何学が展開される様子は、まだ小学生だった私に強い印象を与えた。そうして私は日本語訳の『原論』を近くの大学図書館から取り寄せ、挫折した。
なにせ一々細かいし複雑なのだ。三平方の定理を求めるためにも補助線を何本か引き、同じ面積の三角形を作りながら求めていく。こんなことしなくても文字式を使えばいいのに、と中学生の頃には思っていた。しかし、高校生になって初めてこの操作の意味を理解した。数式を使えなかったから、こういう書き方をするしかなかったのだ。
数学史の中で、私は等号を始めとした数式という表記方法の発明というものを気に入っている。それは数学を実世界から切り離し、より抽象的な操作を可能としてくれた。例えば単純な2次方程式を考えよう。
「ある数を用意する。それを二乗したものと、それを3倍にしたものを足したものは10に等しい。その数はいくつか?」
長い。一方数学的記法ならこうだ。
$$x^2 + 3x = 10$$
そしてこの抽象的表記法のメリットは、「現実ではおかしいような答え」を出せるということだ。先ほどの問題の答えは $x = -5, 2$ であるが、長い間 $-5$ という非現実的な数字は答えとして扱われなかった。私の時代には中学生が何も考えず解答用紙に記入していたのに、である。
脱線が過ぎるな。結論を示そう。
ケトが数式らしいものを一切使わず、全てを文章として表していたということは、この時代か世界には、ある程度以上に抽象的な考え方というものが存在しない可能性が高い。
もちろん、数式がなくとも数学は行える。あのアイザック・ニュートンも天体の運動を幾何学的に導出したのだ。ちなみにそうやって求めた「惑星の軌道は楕円である」という結論は微分方程式と極座標系を使えば少し数学が得意な高校生が数時間で理解できる程度の内容である。たぶん紙一枚で説明しきれると思う。
抽象的な思考ができるということは、様々な分野の前提となる。19世紀中頃にジョージ・ブールがブール代数を作るまで、私たちは論理をきちんと抽象的に扱うことはできていなかった。人間関係における選択と利害について抽象化したゲーム理論をジョン・フォン・ノイマンとオスカー・モルゲンシュテルンが発表したのは1944年。どちらも小学生が理解できる程度の内容で、それを使えば古代の哲学者が喧々囂々と議論した問題のいくつかを比較的簡単に扱えるのにもかかわらず、それまで生まれていなかったのだ。どう考えてもこんな簡単な数学的なものよりも一年に数十秒しか狂わない精密時計を作るほうが難しいように思えるが、その精度を出せるクロノメーターができたのはブール代数が生まれる100年近くも前だ。おかしいだろ!
いや、落ち着こう。抽象的思考は近代以降の科学に、技術に、産業に大きな影響を与えていた。なにせ大学と大学院で9年もやってきた専門分野だ。ここらへんについては私の知識は世界でも指折りだという自負がある。そしてその知識に基づけば、抽象的な思考がない世界にはおそらく色々なものがない。統計学なしに疫学が成立するだろうか?経済学なしに政策決定ができるだろうか?
そこまで考えて、一つの疑問が頭に浮かぶ。
私の知る文化的な生活というものは、ここでは手に入れにくいものだったとしたら?
口角が上がっているぞ、私。
欲しいものは、手に入れるしかないだろう?
その方法は知っている。