図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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出勤

目を覚まして、身体を拭いて、靴の紐を締める。今日のケトはトゥー嬢のやっている教科書作りの手伝いをするそうだ。なら、別に起こさなくてもいいだろう。トゥー嬢はたしかあまり朝に強くないから、遅めの時間から待ち合わせているのだろうか。まあケトぐらいの年頃の少年にとって朝のうたた寝の時間は大切なものだ。それを邪魔するほど私は無粋ではない。外套の帯を結ぶ。

 

「行ってくるよ」

 

静かな部屋に私の声が反響した。扉を閉じる。さて、と私は思いながら道路を歩く。この時期は日が出るのが遅いので、まだ街は薄暗い。

 

「何を食べようかな……」

 

まっすぐ大図書庫に行く路をずれ、少し遠回りをして屋台のある通りへ進む。いい匂いだ。並ぶ店を見て、今日の朝食を揚げた小魚と固めの麦粥にする。まとめて銅葉二枚。一枚だと不足だし、三枚の朝食だとさすがに多い。私にはこれぐらいがいい。

 

「あいよ」

 

注文をするとすぐにご飯は素焼きの碗にまとめて入れられてやってくる。まだ湯気が上がっているので、適当なところに座って食べよう。

 

息を吹きかけて冷ましながら、今日の予定を考える。確かそろそろ新しく印刷された本が何冊か入ってくるころだ。印刷物管理局の仕事が忙しくなってきたので、そろそろ人員を開発研究から引き抜かねばならない。いや局員は別に開発研究をやっているという意識をはっきりとは持っていないかもしれないが。ただ、謄写版が数月でかなりの水準に到達していたのは驚きだ。しかし有能な人材に時間を与えるのは大切だが、世界はそういうことを許してくれるほど余裕はない。悲しいなぁ。

 

香ばしい魚を噛む。これは下味をつけてあるのだろうか。あまり私の舌は詳しい分析をしてくれない。大抵の物を美味しいと感じてしまうのは利点でもあり欠点だ。参与観察をやっていた民俗学者の先生曰く、その分野の研究者として必要なのはアルコール耐性と強い胃袋だという。海洋生物学者の中にも似たようなことを言っていた人がいたな。それにはどんなに揺れていても爆睡できる才能も入っていたが。ともかく似たようなものだろう。食に対して郷愁が発生するという話を留学した人から聞いたことはあるが、今のところ私にそれは起きていない。

 

ま、こういうとりとめのない事を考えられるのは朝食のときぐらいだ。仕事が始まったらそちらに集中するので、この時間は大切にしよう。けどまあ匙を動かしていると碗の中はほとんど空になって、私のお腹はそこそこ満足していた。

 

「美味かったよ!」

 

「いつもありがとね」

 

こういう会話もやはり大切だ。ここで話が発展することもあるが、その時は本当に疲れる。まだ日常会話は難しいのだ。日常会話というのはかなり非言語的な側面や文法的にはおかしい表現が用いられるので、慣れていくしかない。正直なところ、私の東方通商語の能力は日常会話の部分においてはあまり優れてはいない。専門的な会話ならともかく、世間話であれば下手すれば三歳児と話すのも難しいほどだ。

 

大図書庫の入り口をくぐる。木の札を見せると、守衛が通行を許してくれる。とはいえきちんと入退出を管理しているわけではない。たぶん中には抜け道から入る人もいるのだろう。私が勤めている区画は私が上に手を伸ばして指が引っかかるぐらいの高さの壁で囲まれている。防火用区域らしい。ただ場所によっては壁に隙間があるのだとか。そういう話をしている局員がいた。

 

そんな事を考えながら少し出てきた日を左側から浴びながら中の小路を歩く。

 

「おはようございます、局長」

 

隣から声がかかる。局員の一人だ。

 

「おはよう。最近の様子はどうだい?」

 

「あの蝋紙版印刷機、欲しがっている人が多いようで。どうしましょう、売ってしまっていいですかね?」

 

「必要なら商会を通して売ってもらう。もし数人だけなら印刷物管理局から直接売ってもいいいかもしれないけれども」

 

「わかりました。そこらへんは商会から来ているやつらに任せるんですね」

 

「局員と言いなさい」

 

「……っと、そうですね」

 

すまないね。こういう言葉遣いを直すのがどこまで正しいかはわからないが、個人的に組織内ではできるだけフラットに他の局員と接してほしい。そう考えるとケトに対して少し特別扱いをし過ぎだろうか。

 

印刷物管理局が事務室として使っている部屋を覗き込むと、一人が床で寝ていて、二人ぐらいが作業をしていた。

 

「そこの彼は何を?」

 

「作業に集中しすぎて帰ってないんですって」

 

寝ている局員を見ながら聞くと、衙堂から出向している女性局員が呆れたように言った。

 

「まあ、彼はいつも真面目に働いているからな」

 

私は自分の作業卓に行き、職員名簿を取り出す。一種の閻魔帳だ。さすがにこれに直接書き込んで不正をするという不届き者はいないらしい。

 

「場合によっては今日は休ませてもいいが……というか、ここ半月休んでいないんじゃないか?」

 

「ここ、別に勝手に早帰りしてもいい場所なのであまり気にされていませんよ?」

 

「定期的に一日だらだらしないと人間はおかしくなるんだよ」

 

「そうですかね?」

 

彼女は首をひねる。まあ、ここにいるやつはそもそも最初からおかしいか。

 

「ま、今日も仕事を始めますか」

 

私はそう言いながら金属印を取り出し、レンズで拡大しながら日付部分を構成する小さな印を取り替える作業に入った。

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