図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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引継

硝子筆(ガラスペン)の利点の一つはインクを保持できる量にある。つまりはインクを付け直す頻度が低くてすむのだ。

 

「局長、面白いもの使ってますね」

 

そう聞く局員に私は目を上げる。衙堂から来た人で、前に活字を手際よく並べていたのを見たことがある器用な若手だ。ケトと同じぐらいか、ちょっと上の女性。

 

「まだ慣れないけどね」

 

聖典語の書体は一筆一筆丁寧に書かれることを前提としている。ペンをあまり離さず、崩して書くのにはそこまで向いていないのだ。蝋板のために使われる書体を参考にしているが、まだペンが引っかかる。

 

「で、書いているのは?」

 

「引き継ぎ用の書類」

 

「え、局長、辞められるんでしょうか」

 

「いいえ。ただ、私の才能に依存した運営は行われるべきではないからきちんと書き残しておかないと」

 

「……変な人ですね」

 

「自分の仕事を奪うようなことをなぜするのか、という意味で?」

 

「はい。もちろん局長があまりそういうことを気にしない人であるのはわかっています。そういうところが好きな人は局員にも多いですし」

 

「……もしかして、管理局に来ている人って厄介な人が多いの?」

 

「そういう人は大抵有能なんですよ」

 

「確かに」

 

この局員は器用で、謄写版、あるいは東方通商語あるいは聖典語の直訳であれば蝋紙版印刷機の改良においてもテスターをやっていた。他の局員からは「どんな機材でも使いこなせるので改良には向いていない」と評されていたが。

 

「それに、局長が他の場所に移るにしてもついていきたい人は多いと思いますよ」

 

「そういうもの?」

 

「ええ……、ああ、ケト君はともかく局長はあまりこのあたりの知識が無いんですよね」

 

「まあね、余所者だから」

 

そういえば局員のほとんどはこういうところにはあまり突っ込んでこなかったな。まあこういう変なやつもいるだろうぐらいに思われていた可能性はある。少し常識を学ぶように心がけよう。

 


 

基本的にはマネジメント論の説明だ。とはいえ社会背景が異なればマネジメント方法も当然異なる。やりがいが仕事において重要なのは事実ではあるが、給料が安いので辞めていく人には基本的に給料を上げる以外の対応を取ることはできないのだ。それを無視してやりがいだけで組織を回すとしばらく経った頃には深刻な人材不足がやってくる。ここらへんは完全に恨みつらみがあるな。とはいえ景気が良くない限りどこも予算には苦しむのだ。

 

つまりは嫌でもある程度の選択と集中が必要である。あるいはやることをはっきりとさせる必要がある。私は基本的にある程度の自由裁量を部下に与えているつもりだが、根本的な「印刷を通した情報伝達の効率化」とかは伝えているので暴走することは……結構あったな。まあ程度の問題だよ。

 

そして本当であればこういう組織がもっと欲しい。情報インフラが一番私のやりたい事の基盤になるので今の私の配属が不適切というわけではないし、むしろよくこんな完璧に近い職場を作り出したなと考えるレベルであるが、ともかく人材が足りないのだ。

 

ちょっとしたことを考えよう。ある製品を1日に10個作るために10人の労働者が必要であるとする。ここで必要な製品は1日に1個なので9人をクビにしたらどうなるだろうか?まず1人では仕事は回らない。人数が多いということのメリットの一つは一人あたりに割り振られる作業の複雑度が下がるということにある。もちろん多能工のように一人ができる業務の種類を増やすこともできるが、限界がある。もちろんそのための手間を惜しむのは良くないが。

 

この城邦の人口のうち、私のやりたい事を理解してすぐ行動できる人間は500人程度だろう。そのほとんどが既に要職についていると考えられる。そこから人を引き抜くとなれば、どうしても混乱が起こる。

 

つまり、方法は大きくわけて二つ。母数を増やすか、割合を上げるかだ。人口を増やすためには例えば他の邦と手を組むことが考えられるが、これは時間がかかる。電信と論文誌が多少はマシにするだろうが、インターネットのレベルで情報網がないと難しい。言語の壁もある。聖典語は東方通商語よりかなり広い範囲で使われるが、話せる人口は決して多くはない。聖典語の教科書を作るか、あるいは民衆語の語彙を拡張するか。前者にしても後者にしても印刷機は助けになるだろう。もっと簡単な人口の増やし方としては農業生産量の向上などがあるが、これは百年単位の計画になるしなにより人口増加は面倒な問題を一気に引き起こす。図書庫の城邦の勢力圏を増やすのもあるが、これは流血を伴うだろう。まあどれにしても時間はかかる。

 

では次、割合を上げる方法。男女問わない基礎教育の提供体制と、制度化された高等教育・研究機関。代償は高学歴化の発生。これまた厄介な問題だ。正直言ってあまり触れたくないが、たぶん避けては通れないし私以外に解決させればかつての世界の歴史と同じ経路を辿るだろう。つまりは解決できない。あとは普通教育とか女子教育に対する社会からの反発か。昔っからどこにでもいるんだよなぁ。幸いにも私が生まれた世代はそういうものが薄まっていたせいで色々と助かったが。代わりに割を食った人間はいただろうと考えると複雑な気分になる。ああ、やめやめ。自分の立っている場所が自分の才能とかではなく一種のずるで得たものだと指摘されて楽しい人間はいないのだ。

 

ともかく、教育は重要だ。この図書庫の城邦で行われている教育方法は面白いが、基本的に選抜方式だ。セーフティネットとしての社会はあるが、網の目を小さくする工夫はない。

 

私は硝子筆(ガラスペン)を置く。できたのは十数枚の紙にまとめられた論文だ。まったく、メインの業務が捗らないかわりにこういうものはすぐ書けるんだ。

 

表題は、「教育不要論、あるいは幸福な社会について」。

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