現代社会で乙女ゲームの悪役令嬢が牧場を救うのはちょっと大変 作:れべっか
一条絵梨花に依頼した樺太の畜産業に関するレポートが上がってきたので、気分転換がてらそれを眺める。
結論から言うと、樺太は畜産業が盛んな地であり牧場を買収するのは難しくない。
むしろそのレポートに書かれた、樺太で畜産業が栄えた歴史の方が面白かった。
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樺太地図
樺太の面積は北海道とほぼ同等の76,400km2(北海道は77,981km2)、南北に細長く、約70%は山岳地帯で平地は北部に集中している。
気候は亜寒帯モンスーン気候に属する。対馬海流(暖流)の影響が大きい南樺太は比較的温暖だが、大陸の影響を受けやすい北樺太は夏冬の気温差が大きい(ノグリキで1977年7月に最高気温39℃が観測された)。
豊原(ユジノ・サハリンスク)の平均気温は、およそ北海道・日高門別より4℃低い。詳細はグラフを参照。
月間平均気温
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「これを見る限り樺太競馬の開催は5月後半から10月前半までの5か月、頑張っても6か月。年に80日開催*1だと仮定して、概算で平均週4日開催*2かぁ」
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1905年のポーツマス条約により南樺太が日本に割譲され、明治政府は樺太開拓に乗り出した。
送り込まれた農業開拓民は、地主の下で小作農(農奴)として働く形ではなく、開拓した土地は自分のものになる自作農という形だった。政府(樺太庁)は食料・飼料・肥料などの自給自足を達成したのちに余った部分を販売する「北方農業」を目標としたが、これはいくつかの要因で失敗した。
まず、樺太の大地は全体にポドゾルと呼ばれる白っぽい土で、酸性で養分が少なく痩せた土で農業には向かなかった。開墾当初の実りは少なく、当時は農業金融が未整備であり国の補助金も弱かったため、農家は冬季の林業など副業が必須だった。
「入植・開墾」→「家畜なし・出稼ぎあり」→「家畜あり・出稼ぎあり」→「家畜あり・出稼ぎなし」とつながる専業農家への道はあるが、耕作地3ha未満の貧農は「家畜なし・出稼ぎあり」から抜け出せず離農率も高く、耕作地5ha以上の「家畜あり・出稼ぎなし」富農と二極化していく。
次に、樺太は寒冷地であり稲作ができず、主な作物は麦・豆・馬鈴薯であった。
樺太庁は先に述べたように「北方農業」を掲げ、主食に燕麦を推奨した。しかし本土からの移民農家はそれまで米を主食としており、彼らにとって主食を燕麦に切り替えることは生活水準を落とすことを意味する。
そのため農家は商品作物を生産して米を買い、樺太庁は食料自給率の低さに頭を抱えることになる。
樺太庁は1930年代半ばに甜菜や麻などの商品作物を認めたり、酪農を奨励するなど「北方農業」を方針転換した。
甜菜の製糖業は失敗したが乳製品は一定の成果を見せ、当時の富農は牛飼いを儲かる現金収入として見ていたようだ。
結果として、1941年時点での樺太の食料自給率は15%程度であり、樺太庁長官が「農業の採算は合っていない、他部門の黒字で農業の赤字を補填する」と国会で発言するくらいであった。
太平洋戦争終了後、わずかな期間を置いて樺太はロシアに占拠され、北日本人民共和国となった。
北日本は貧困国であり、モータリゼーション・道路整備や農業機械化は日本国と比べ劣ったため、農耕・輸送のための馬は地方において長らく需要があった。
農水省の1990年代統計を見ると、北日本国を吸収する前後で馬繋養頭数が激変していることが分かる。
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とりあえず、樺太に牧場が多数ある理由は理解した。
樺太の食料自給率が低い問題は政治家先生に頑張ってもらおう。
「牧場の候補地に久春内がある…… 七海から何か聞けるかな? いや、姓と都市名が同じだからってそこ出身とは限らないか」
側近団の久春内七海は孤児院出身*3だから、たぶん無関係。
「牧場といっても、生産・育成・外厩と色々あるから。苫小牧のテーマパーク*4みたいなのは流石に無理だけど」
そういえば、樺太競馬場に付属する厩舎って屋内調教施設はあるのだろうか?
確か門別競馬場は冬季の調教で雪かきが非効率だからと屋根付きコースを作る動きがあったはずだ*5。
もし樺太競馬場にないのであれば、本家より施設が立派な外厩を作って、そこで鍛えた
いや、捕らぬ狸の皮算用という自覚はあるけどさ。鵺武者関係でポケットマネーからポンと10億円出してそれを安いと感じる金銭感覚*6だと、外厩設備で差をつけろ案も実現不可能じゃないからね。
天満橋あたりは”それでJpn1グレードレースが取れるなら安い買い物”とか言いそうだし。
修正履歴:ポーツマス条約の年が間違っていたので修正