現代社会で乙女ゲームの悪役令嬢が牧場を救うのはちょっと大変 作:れべっか
中央競馬・地方競馬を合わせ、競走馬の引退数は年に5000頭を超えると言われている。
それらの引退後のセカンドキャリアとしては、繁殖入り・乗馬へ用途変更という2つのルートがあるが、そのルートに入れない馬のほとんどが屠殺され食肉となっているのが現実である。
昭和の頃は競走馬の引退後の扱いについて、明暗の暗については半分ほどタブーとして語られることも少なかったが、平成の世においては動物愛護の観点から問題提起されることもかつてより多くなり、JRAもこの問題に取り組んでいる。*1
今のところJRAでは乗馬転向支援が検討されているようだ。元競走馬が馬術競技で上位入賞したら追加賞金を出すとか、馬のメンタルを速く走ることから切り替えるためのノウハウ蓄積(とある乗馬クラブでは競走馬の意識が乗馬に切り替わるまで最長一年かかったとも言われており、3か月~半年の再トレーニングで乗馬転向させれば餌代節約になる)とか、手早く目に見える方策だからね。
とはいえ全国の乗馬クラブにも馬房数に限りがあり、新しい馬が1頭入れば古い馬が1頭出ていくというトコロテン式は根本的な解決になっていない面もある。イギリスのROR(Retraining of Racehorses)やアメリカのTAA(Thoroughbred Aftercare Alliance)という団体を参考に、競走馬のセカンドキャリアを支援する団体を日本でも作ろうという動きもあるが、全国規模の組織となると設立までのハードルも高い。
引退した調教師などが団体設立の音頭を取ってくれるなら、
それはともかく。競馬業界の一端に関わる立場として、引退競走馬に無関係ではいられないだろう。今まで馬産関係者をずっと悩ませてきた難問に素人考えが通用するとは思わないが、まずは問題を整理するところから。
引退競走馬が屠殺されず生きていくにはいくつかハードルがあるが、一番は馬の食い扶持をどうやって稼ぐかという点であろう。サラブレッドは牧場や乗馬クラブに飼育を委託するなら餌代や蹄鉄費込みで月10万円ほどの委託費がかかるが、これでも個人で飼育するより簡単だ(個人で馬を飼う場合は最低でも200坪、騒音や悪臭など近所から苦情を言われないようにするなら600坪の土地が必要とされる)。
トラックや耕運機などの機械化により、現代で馬が労働力として使われることはほとんどない。
山で伐採した木材を搬送する馬搬は、機械の入りにくい高傾斜地や短距離(200m以下)なら小回りが利くので細々と生き残っているほか、観光地で観光馬車を引く、馬で代搔きを行う昔ながらの手法で育てたブランド米、といったニッチな需要はあるが、パイが狭すぎる。引退競走馬に荷物を引かせる訓練を改めて仕込んでも、最初から農用馬として育てられた道産子などと争うことになるからだ。
労働力以外に家畜に期待されることは、乳肉毛皮などの生産物だが、肉と皮は屠殺とイコールなのでここでは除外する(化粧品の馬油も生きている馬からは採取できない)。乳は馬乳酒などに加工できるが、まずは母馬が仔馬を生まないと乳が出ないので、馬の生産が前提となる。引退競走馬のセカンドキャリアとしては、馬乳は安定した収入源になり得ない。
最後に馬のたてがみや尻尾の毛は、カツラ、ブラシの毛、弦楽器の弓の素材などに古来から用いられてきたが、これも化学繊維に追いやられて安定した収入源にはなり得ない。
こうしてみると馬の家畜としての価値はかなり低いのだが、近年はエコロジーの観点から循環農法という考えが生まれており、馬は雑草灌木を食べ堆厩肥を供給する存在として注目されている。耕作放棄地や林地・果樹園で下刈りの省力化として山羊を使うという手法は有力視されており、馬と山羊を一緒に放牧することが研究されている。
馬糞肥料はマッシュルーム栽培の苗床に適している、薔薇栽培で黒点病防止に効果がある、などの伝統的な利用法だけでなく、科学的アプローチの結果、馬糞肥料は鶏糞豚糞肥料に比べ窒素含有量が低いことから、トマト(葉があまり茂らず実に日光が当たりやすい)や里芋(親芋が小さくなり子芋孫芋が大きくなる)栽培に有用といった研究結果も報告されている。
最後に、馬糞を燃料として活用する方法が研究されている。
馬は植物しか口にしないので糞にも植物繊維が多く含まれ、乾燥させて燃料にすることは古来から行われている。
科学的手法で脱水脱臭した馬糞をペレットとして固めれば、木材ペレットと同様に焚火や薪ストーブの燃料として使用できる。
また家畜糞を金属タンクでメタン発酵させるとメタンガスが得られるが、このメタンガスは90年代後半の京都議定書に基づく平成14(2002)年の「新エネルギー利用等の促進に関する特別措置法」によるバイオエネルギーとして、政府から補助金が得られる。
1日当たり100tの家畜糞を集められるならバイオガス火力発電が採算分岐ラインに乗ると一説に言われ(なお馬1頭で年に7tの糞尿なので単純計算で5500頭だ)、北海道の馬産地やトレーニングセンターのある美浦・栗東では自治体が馬糞燃料発電を真剣に検討しているとかいないとか。
「補助金ありきとはいえ、馬糞が収入に繋がるなら悪くないかな」
現時点でどこまで実用化されているのか不明だが、バイオガスシステムは悪臭を金属タンクに閉じ込めるので、糞尿処理する人間の尊厳が削られないという地味に重要な利点がある(家畜生産農家にアンケートを取ると、糞尿処理はやりたくない作業の上位に位置する)。
「んー、
馬に興味はあるが乗馬クラブは敷居が高いという人をメインターゲットにし、馬と触れ合う、引き馬(インストラクターが馬を引いて、背に乗る人は操作しない)をメインとする。ステップアップして乗馬をやりたいという人には別の乗馬クラブを紹介して、とにかく馬初心者の裾野を広げる方向はどうだろう。
引き馬だけなら老齢で馬術クラブを去るような馬ももう少し働けるだろうし、一口馬主のように支援者を集めれば1人あたりはお手頃の支援でも馬を養うことが可能だ。
「初心者のふれあいメインにするなら、立地は都心からあまり遠くない所よね。秩父山地の比企郡小川町・都幾川村*3あたりなら池袋から帝東鉄道*4直通で行けるかしら。キャンプ場も併設して、アウトドア愛好家を馬に引きずり込むきっかけになれば良いなぁ」
「問題は、素人の思い付きだけでは採算取れないってことよね」
道楽で始めた馬事業だが、最低限従業員は食わせていく義務がある。
「お嬢様、ティーブレイクしましょう」
「そうね、頂くわ」
一条絵梨花は私が思考の袋小路にはまったと判断したのか、声をかけてきた。それに生返事で応じたところ、彼女は私がにらめっこしていた資料に軽く視線を向けると、呆れたような声を上げた。
「お嬢様は以前、インベスター(投資家)であってプレジデント(社長)ではないと言われましたよね*5。お嬢様は桂華競走馬の社長ではないし、桂華競走馬の社員を直接食わせていく必要ないんですよ」
「……あっ」
彼女の言葉を理解して、全身から力が抜ける。
「それにしても、私の考えを的確に読んだわね」
「小声でぶつぶつ呟いてましたよ? 漏れた言葉を聞き取っただけです」
絵梨花はテーブル上の資料をまとめると、私から取り上げた。
「この案件は桂華競走馬に検討指示して、いったん終わりにしましょう」
私はそれに頷いて、凝り固まった背中を解すためにひとつ伸びをした。
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