迷い蝶の還る場所 作:バカが代(国家)
──始まりは私、
「ボクは
「は、はい!」
びっくりしたのはすごく優しそうな、そしてやっぱり家庭教師のアルバイトするくらいだからだろうか、理知的な雰囲気の男性だった。クセッ毛らしい染められた焦げ茶色の髪はいつもちゃんと整えられていて、黒縁の四角い眼鏡とちょっとパッチリしていて長い睫毛が特徴的で、声も低すぎず、まるで穏やかな日差しの下で芝生で寝転んでるみたいな。
「倉田さん?」
「あ、ご、ごめんなさいっ、優しそうな人が来て、ほっとしちゃって」
「あはは、褒められてもサボりはダメだからね?」
「はい」
それは、私にとって紛れもない初恋だった。先生はたったそれだけで私の心全部を奪っていった。
大学一年生の徳川先生はそういうのに疎い私でも知ってるような有名で頭のいい大学に進学するために上京してきてひとり暮らしをしている人だった。学費はほぼ免除されてるらしいけど、決して裕福な家庭じゃないから自分に何かできることはないかって言って、バイトを始めたらしい。これは全部付き合ってから知ったことだけど。
「倉田さんは、自分が思ってるよりずっとすごい子だよ」
「そんな」
「集中力もあるし、自分の記憶を引っ張り出す能力に長けてる。少し応用は苦手だけど」
「……苦手です」
「落ち込むことじゃない、褒めてるんだよ」
なんでもすぐ投げ出しがちで、逃げ出しがちな私が月ノ森に入れたのは間違いなく全て先生のおかげだ。
そして口に出すのが怖くて、先生からしたら迷惑でしかないだろうと思っていたこの気持ちからは、それでも逃げたくなかった。だからもし月ノ森に合格したら、最後の日に告白しようって決めていて。最後の最後になんとか口から言葉が出てくれた。
「好きです……先生のこと、ずっと好きだった」
「倉田さん」
「ごめんなさい、でも、これだけは内緒にしておけなくて……」
「どうして、謝るんだい?」
「だ、だって……生徒に、子どもにこういうこと言われるのは」
「ボクは一度だってそんなこと言ったことないよ」
告白して、返ってきた言葉はやっぱり優しくて、暖かくて心地よい太陽の光が降り注ぐ芝生が柔らかい丘の上のようで。
でも私は、先生の声にいつもと違う音があるのがわかった。丘いっぱいに花が咲いていく。色とりどりの背の低い花たちは青色の蝶を受け入れて、ゆるやかな風を受け入れてくれていた。
「ボク自身も倉田さんに惹かれていたんだ。ずっとずっと、気付かないフリをしてきた。相手はまだ子どもで……バイトとはいえ生徒で。なのにボクは、キミと恋人同士になる夢を見たんだ」
「……先生」
「謝るんだったら、ボクのこの馬鹿げた
必死に首を横に振る。笑うなんて、そんなことできるわけがない。だって私だって同じことを夢見ていた。先生に手を引かれて、一緒に歩く夢を見た。キスする夢を見た。だから私は、笑うことも謝ることもしなかった。その代わりに今度はゆっくりと、息を吐いて、ドクンドクンうるさい心臓を抑え込むように胸に手を添えてもう一度告白した。
「私と、付き合ってください」
「ボクの方からもよろしくお願いするよ」
「は、はい!」
それからすぐに私は高校生になってすぐ
前髪をいじる。手鏡で確認する。また前髪が気になる。するとだんだんと自分がおかしな格好をしているんじゃないかって気分になってくる。もし変な格好してるって思われたら
緊張と羞恥の狭間で私はバンド仲間であり、自分の服飾ブランドを立ち上げている
「シロちゃんって、恋人いるんだよね〜?」
「え、う、うん……まぁ」
「あたし的には全っ然信じてないんだけどさ」
「ひ、ひどい! ちゃんと付き合ってるもん……たぶん」
「なんで自信なさそうなのましろちゃん」
夏休みに私たち『Morfonica』がいつもと同じようにベース担当の
恋バナとか、憧れるといえば憧れるんだけど、私はそれができるような性格じゃないし、なによりあんまりちゃんとデートとかしたことないから。
「シロって、キープなんじゃね?」
「そっ、そんな……っ」
「否定できないのね」
透子ちゃんだけじゃなくて遠くでバイオリンを弾いていた
不安にならないかと言われたら嘘になる。私が告白して、付き合ったのは確実──だと思うんだけど、拓海くんはすごく素敵な人で、正直私みたいな子どものことを好きになってくれてるなんて、四ヶ月経った今でも信じられなくて。
「まぁシロは身体は十分エロいからじゃね? それ目当てで──」
「桐ヶ谷さん」
「──なんだよ瑠唯」
「冗談でも、本当でも、言っていいラインを見極めるべきよ」
瑠唯さんの咎めるような、そして庇ってくれるような冷たい語調にほっとするけど、もしかしたらそうなのかもと疑ってないかと言ったら嘘になる。そんなことする人じゃない、拓海くんはそんな人じゃないって否定する気持ちとは別に、たった数ヶ月付き合っただけで全部を知ることはできない。あんな素敵な人が私なんかを好きになってくれる要素がないと思う気持ちもあるから。
「デリカシーのない透子ちゃんは置いといて」
「ふーすけ?」
「デートってしないの?」
「そーだよ、大学生だって八月は夏休みでしょ〜?」
「そうね、アルバイトで忙しいとはいえ、休みがないわけではないでしょう?」
夏休みずっとアルバイトなんてあるはずがないのはわかってる。でも、言い出す勇気はなかった。忙しいと思っていた方が、だから会えなくて当然だって思う方が、私は私の心を守ることができるから。
私は誰かに好きでいてもらう自信がない。こんな言い訳ばっかりの、まっすぐ飛ぶこともできない私にそんな勇気はなかった。
「でも当たって砕けるしかなくね?」
「砕けちゃダメだと思うけど〜」
「とにかく! シロがここでうじうじ言ってたらマジでどうにかなる前に別れるってこと!」
「う、うん……そうだよね」
まだ全然自信は持てないけど、ここで行動しなくちゃいけない、という気持ちにはなった。別れたくない、まだ一緒にいたいって気持ちが透子ちゃんの言葉に首肯させる唯一の原動力だった。
早速、帰ってご飯もお風呂も済ませてから電話をしてみる。今更になって断られたらどうしようとか、不安になるけど、数コールした後で電話口から優しい声がした。
「も、もしもし! い、今って電話しても、大丈夫、ですか!」
「ぷっ、あはは……どうしたの? 大丈夫だよ」
「あ、うん、えっとね……えっと」
「落ち着いて」
穏やかで小さな声だったんだけど、その声にほっとして、ドクドクうるさかった心臓の鼓動が落ち着いていく。
なんだか魔法みたいだ。ぐちゃぐちゃだった頭が言いたいことがちゃんとまとまっていく。私にとってはそれは勇気のいる行動だと思っていたのに、なんだかするりと、あっさりと口にすることができた。
「……あのね」
「うん」
「夏休み、でしょ? 八月入ったら」
「そうだね」
「デート、したいなって」
「そっか、どこがいいかな?」
「き、決めても……いい?」
「もちろん。ボクじゃどういうところがいいとかよくわからないからね」
「うん、だから空いてる日、教えてほしい」
「そうだね」
思っていたよりもずっと、なんだかあっさりとデートの日取りが決まってしまう。行き先は後で考えてから決めると言ってそれから電話を切ろうとすると制止の声を掛けられた。
どうしたんだろうかと疑問に思っているとちょっと謝った後に優しい声で質問をされる。
「もう寝るだけかな?」
「うん」
「じゃあ、もう少し話していたいんだ……ダメかい?」
「う、ううん! そんなことない!」
話していたい、そんなことを言われて誰もいない部屋で自然と頬が緩んでしまう。拓海くんからこんなこと言ってくれることなんてないと思ってたから、すごく嬉しくて。
イスから立ち上がり、ベッドに寝転がって、ああダメだニヤニヤが止まらない。まだなんのお話もしてないのに。
「最近会えなくて、ごめんね」
「ううん、大丈夫……じゃないけど、寂しいけど、拓海くんは忙しいから」
「……うん」
「我慢できるよ、だから」
我慢できないなんて言えない。寂しいって言うのも本当は、ちょっと躊躇った。大丈夫って嘘はすぐバレちゃうってわかってなかったら言ってたかも。
でも、ここでわがままを言ったら、もしかしたら嫌われちゃうのかもしれない。幻滅されて、別れるなんて言われたら嫌だもん。それに比べたらこれくらい我慢できる。
「そっか、ありがとうましろ」
「うん」
「なんだか、不思議だね……付き合う前はあんなに毎週会えたのにね」
「本当に」
もう拓海くんは私にとって家庭教師の先生じゃない。ちゃんと恋人になれたのに、恋人になる前の方がもっと気軽に顔を合わせていられたのにな。今じゃ会いに行こうと思わないと、会おうと思ってくれないと会えなくなっちゃって。
──言われるとますます寂しさが降り積もっていく。それは真っ暗な世界で、一輪の花を探すようなもので、まっすぐ飛べない私が飛べなくなるのは、時間の問題だった。
「それじゃあおやすみ、ましろ」
「うん……おやすみ」
電話が切れて、私は息を吐く。嬉しかった、声が聴けただけで幸せなんだけど、それと同時に会いたいって気持ちが強く、より強くなった。そんな私に手を差し伸べてくれたのが、透子ちゃんであり、七深ちゃんであり、つくしちゃんであり、瑠唯さんだった。
バンドの仲間たちが暗闇の世界に月明かりで道を照らしてくれる。私はそれに甘えることにした。
「はいテーマパークのやつ、ホテル一泊二日付きだからね」
「あ、ありがとう、つくしちゃん……!」
「レストランの料理おいしいから、すごくオススメだよ!」
つくしちゃんにはホテルの宿泊付きのテーマパークのチケットをもらった。思っていたものより豪華なもので高そうで最初は遠慮しようと思ったんだけど、両親の伝手を使ったからタダだよって言われてしまった。これで行き先も決まった。
──次は透子ちゃんがすごく楽しそうな顔で、そして七深ちゃんはいつもの笑顔で私の前にやってくる。
「はいこれ、当日はこんな感じでどう?」
「わ……これ、私?」
「そうそう! あたしがデザイン考えた服と、ななみが考えたアクセサリーを組み合わせてななみが絵にしてくれたんだ!」
「……す、すごい」
「わ、私は別に、とーこちゃんがすごいからだよ〜」
いつもモニカの衣装担当をしてくれる二人によって、私の当日のコーデまで考えてくれる。ネックレスやピアスまであって、二人の気分としてはライブ衣装作ってるみたいだって笑ってた。
瑠唯さんはその騒がしいのをちょっとだけ遠くから静観しているだけだった。でも私としてはその前に言葉をくれただけで、嫌な感情を持ってないんだなって思うだけで十分だったのに、誰も見ていないタイミングで、少しだけ声を潜めて話しかけられた。
「倉田さん」
「どうしたの?」
「さっきまでの話を総合して、効率的なスケジュールを立ててみたわ。参考にするかどうかはあなた次第だけれど」
「え、あ……ありがとう」
「あなたの気分が良くなれば、バンドに対する意識も高くなるでしょう?」
そこには分単位で刻まれたスケジュールがあった。すごく細かくて、瑠唯さんのきっちりしてて効率重視という性格がよく表れていて。でも、冷たい感覚はしなかった。むしろ暖かくて、嬉しくて。もう一度だけありがとうと頭を下げた。
──それから数日後、実物の服が完成したらしく、透子ちゃんがマネキンに着せたそれの前に立ってドヤ顔をしていた。
「どうだ! テーマはずばりシロのはじめてのデート!」
「まんまだよ透子ちゃん」
「はじめてのおつかいみたいね」
「ルイルイ、それ言わなかったのに〜」
それは全体的に青色で統一されたすごくガーリーな服装だった。私が普段来てるのとあんまり変わらないけど、違いは透子ちゃんが「夏らしさ」と「ガーリッシュ」を意識したと言ってた露出感だった。
深い青色のスカートもいつもの私服よりも短くて、広がりが少なくて制服と同じくらいなんだけどちょっと脚が見えちゃう気がする。
それと一番違うのはトップスだった。薄くて淡い青色のカットショルダーに肘くらいの袖にはリボン状に結ばれた紐があって、絞られてる感じとは対照的に袖口はレースでふわりとした印象を与えていた。
「わぁ……かわいい」
「だろ? 今回はマジ自信作だから!」
「いつもでしょう?」
「そん中でもってこと!」
襟も刺繍の入ったレース状になっていて、首には小さなネックレスが着けられていて、近くの机にはアイスブルーの花の模様の髪飾りと値札のついた白いヒールのついたサンダルまで置いてあった。
本当に余すことなく全部コーディネートされてて、しかもその全部がかわいい。でも、そうなると私に似合うかどうかがちょっとだけ不安になってきちゃった。
「大丈夫だよ! これにちょっと背伸びした感じの下着を履けば完璧だって!」
「し、下着って」
「確かに、万が一を考えるのは当然ね」
「瑠唯さんまで」
「ちょ、そういうのはまだダメでしょ! 結婚するかもわからないのに不健全だよ!」
「……ふーすけ」
「つーちゃん、それはさすがに違う気がする」
でも、私も拓海くんとそういうことするっていうのは全然、考えてこなかったわけじゃないけど。知識がなさすぎるせいなのか、あの優しくて穏やかな拓海くんが性欲みたいなのを見せるのが想像できないというか。そういうことになるシチュエーションが妄想できないというか。とにかく、私もまだ早いと思ってるんだけど透子ちゃんと瑠唯さんには否定されてしまった。
「いやいや、もう付き合い始めてケッコー経ってんじゃん。早いわけないって」
「そもそも時期ではなくタイミングときっかけが重要で、今回はその状況に極めてなりやすいのだから、身構えておくのは当然ではないかしら?」
「不健全……」
「つーちゃん、諦めよう?」
瑠唯さんと透子ちゃんの言い分を合わせると、付き合ってそれなりに経過しているし一年間ずっと顔を合わせて、想いをつのらせてきたんだから心理的なハードルの低さがあって、デートでホテルに泊まる──つまりは想い合う男女がふたりきりの空間で一晩過ごすのだから
──拓海くんに、抱かれる。やっぱり、そういう時になっても彼は優しいのだろうか。もしかしたら過去にそういうことをした女の子がいて、慣れてるのかな。
「おーい、シロー? ダメだ、妄想の世界入ってる」
「想像もしてなかったみたいだし、仕方ないんじゃないかな〜?」
「そろそろ練習を再開したいのだけれど」
「うう〜、絶対によくないんだってば〜」
そんなお膳立てから幾日が経過して、ついに当日になった。私は透子ちゃんと七深ちゃんに作ってもらった服と、つくしちゃんに教えてもらって着替えやお泊りに必要なものを先にホテルに送って、瑠唯さんのスケジュールを何度も読み込んでいたところで予定どおりにいかなくても焦らなくて大丈夫というニュアンスの励ましを送ってくれたことに感謝しながら、待ち合わせ場所に二十分早くやってきた。でも、独りで待っているとそわそわしてしまう。前髪が気になって、服ももしかして気合い入りすぎてて変だと思われるんじゃないかって不安になってきていた。
「おまたせ、ましろ」
スマホに目線を落としていると聞き慣れた優しい声がした。立ち上がると、カーキ色のサマーニットに黒スキニーのすっきりした格好をした拓海くんがいて、私はそれをずっとずっと、長い間待ち望んでいたかのような感覚になった。
月明かりと私と同じ青い翅を持った星の妖精たちが照らして、示してくれた道標は、まっすぐに真昼の世界へ、そして太陽を受けて咲き誇る一輪の花を私に見つけさせてくれた。
後編は明日投稿されます!