トレーナー室に軽快な着信音が流れている。
キングヘイローはそれを発するスマホの画面を恨めしく見ていた。
~~♪♪ ~~♪♪ ~~♪♪ ……
3回、4回と着信音が繰り返される。
キングヘイローは何もアクションを起こさなないままでいた。
「……」
この状況は一体何なのだろうか。電話に出るなら出ればいいし、後でかけ直すなら切ってしまうか一言だけ話せばいいだけのことだ。それとも俺がいるから出たくても出られないのだろうか。
こうしていてもどこか居心地が悪いので、とりあえず俺から働きかけてみることにした。俺はトレーナー室を出ていこうと椅子を立った。
「取らないのか? 俺は外に出とくから電話したかったらしてもいいぞ」
キングヘイローは立ち上がった俺に目をやったが、すぐにスマホの画面に視線を戻した。
「……いいの。あえて取らないだけで──しまっ、落ち──っ!」
「ん?」
キングヘイローの焦った声の直後にカツ、と床に何かが落ちる音。それと同時にピッ、と鳴り響いたのは電子音。
『……もしもし? もしもし?』
そして聞こえてきたのは女性の声。その発生源はキングヘイローではなく、床に落ちたスマホだった。
「……っ」
キングヘイローはスマホを拾い上げ、胸の前で構えたそれと向かい合う。その表情は先程の恨めしそうな雰囲気の中にどこか弱気な色が見え隠れしているように見えた。
「どうして……つながっちゃうのよ……!」
『ねえ、どうしたの? いるなら反応したら? キング』
「! …………っ……ごきげんよう、お母さま」
(『お母さま』……やっぱりキングヘイローの母親、グッバイヘイローか)
そう言われてみるとスマホから聞こえる声は聞き覚えのあるものだった。ガキの頃にテレビで見ていた現役時代から、勝負服のデザイナーとして度々メディアでインタビューを受けている今現在まで、幾度となく聴いたことがあるグッバイヘイローの声のように思えた。
『はあ、やっと返事が返ってきたわ。まったく、子どもなんだから』
「……簡単に子ども扱いしないで。電話に出にくい状況だってあるでしょう? 今は平日のお昼なのよ」
通話が始まってからというものの、何とも気まずいというかぎこちない雰囲気である。親子喧嘩でもしているのか、それとも元々親子関係がイマイチうまくいっていないのだろうか。
『この前、放課後はトレーニングと勉強で忙しいし、夜の電話は同室の子に迷惑がかかるからって言ってたのはどこの誰だったかしら?』
キングヘイローは押し黙る。スマホを見る目がより一層厳しいものになるが、同時にその弱気な表情もより明確になってきた。
「……それで、何か用かしら? お母さまも暇つぶしに電話をかけてきたのではないでしょう?」
『そうね。……見たわよ。昨日の模擬レース』
「!! ……どこで、それを」
『さあね。それにしても、無様な敗北だったわね』
「…………っ……」
キングヘイローの表情が歪む。強気そうに吊り上がった眉や自信にあふれる瞳は影を潜めていた。
グッバイヘイローは中々にキツいこと言う母親のようだ。それだけキングヘイローにかける期待が大きいということだろうか。わざわざ模擬レースの映像を手に入れて確認し、翌日である今日に連絡を入れてくるのだから、よほど娘のことが気になっていることは確かだ。
『ペースも読めず直線で沈んでいてくあなたと比べたら、グラスワンダーさんとスペシャルウィークさんの走りは素晴らしいものだったわ。末脚、勝負勘、ペースを読む力……どれもあなたとは比較にならない』
「…………」
流石はGⅠ7勝ウマ娘、あのレースがどんなレースだったかはちゃんと分析できているらしい。
『あんな子たちが同期だなんて、諦めという感情も沸いたんじゃない? ……レースの世界はそんなに甘いものではないのよ』
「…………」
『それにキング、トレーナーはついたの?』
「…………」
『……まだ、ついてないのね。もうすぐ10月になるのに』
「…………」
キングヘイローは完全に押し黙ってしまった。
……ここまで言われると可哀想に思えてくる。親なりに心配しているような感じではあるのだが、如何せんここまで厳しいことを言われた子どもの方はたまったものではないだろう。正論を絡めてくるのだから、キングヘイローがそれに反論できるはずもない。
それに先程の言葉が気になる──『諦め』。不甲斐ない娘に発破をかけるための電話かと思ったがどうも違うらしい。
グッバイヘイローはキングヘイローにレースを辞めさせたいのだろうか。
『なら、もう諦めて帰ってきなさい。人生はレースだけじゃない。ほかの道のほうが幸せになれるわ』
「……」
どうやらそのようだった。グッバイヘイローはキングヘイローがレースをすることに反対の立場だったのだろう。
そこでふと思い出した。水場で出会った時にキングヘイローが言っていたあのセリフ──
──『絶対に、認めさせてやるんだから……!』──
あれは周囲の他人だけではなく、おそらくこの母親にも向けられていたセリフなのだろう。
レースに反対する立場の母親を認めさせたい。
なるほど、この母親との関係性なら納得できることだ。
『あら、
「…………子ども扱いしないで、って言ってるでしょう……」
やっと絞り出されたキングヘイローの声は初めて聴くほどに弱々しかった。スマホを見つめるその瞳は潤んでいるように見える。
母娘の関係に他人が口を出すべきではないのは分かってはいるが、キングヘイローの様子を見ているとつい口を挟みそうになってしまう。トレーナーもついておらずまだデビューもしていないのだから、ここまで言うことはないだろうと思う。
そう考えているところにグッバイヘイローの決定的な言葉が言い渡されることになる──
『あなたに走りの才能はない。諦めなさい』
──走りの才能がない。だから諦めろ。
グッバイヘイローはそう言っている。その言葉は俺にとって大きな爆弾だった。今日何度言ったか聞いたか分からない、才能についての話。
そして再び昨日のキングヘイローのセリフが思い出された。
──『あの人みたいに……お前には才能がないって、そう言いたいの!?』
あの人とはおそらく母親の事だったのだ。この様子だと学園に入る前からそう言われていたのだろう。なら、これまでのキングヘイローの言葉や態度にも納得のいく部分がある。
自身の才能を否定する母親を認めさせたい。だから一流のウマ娘を目指して走る。
そう考えるとあべこべだ。母親は才能がないからレースを辞めろと言う。娘は才能を証明するためにレースをすると言う。どちらかが折れない限り両者は決して交わることはない。
子どもにレース辞めろと言う親──今まで俺が担当してきたウマ娘の中でもそんな親は少なからずいた。責任のある親として、子どもを想う親として、それを言うのは当然の権利だ。
しかしだ。それでもレースを選ぶかどうか、最終的にはその当人のウマ娘が選ぶべきだと俺は思う。たとえこの先どんな結果が待っていようとだ。
だから俺はグッバイヘイローの物言いが単純に気に入らなかった。
(……しょうがねえな)
少しちょっかいをかけてやろう。
母娘関係に口を出すことができないことには変わりない。レースを辞めろと言う母親の考えを否定することはできない。間に入ることなんて他人の俺には許されない。
ということは否定もせず間にも入らなければいい。母とも娘とも違う立場にいればいい。
間を取り持つなんてことにはならない。ただ俺とグッバイヘイローが相対するだけのことだ。
現役時代からの大ファンとして、グッバイヘイローに俺の熱い思いをお見舞いしてやろう。
◇
それはこれまで何度も言い聞かされたことばかりだった。
『あなたには走りの才能がない』『諦めて帰ってきなさい』『レース以外の道を見つけろ』……いつもその言葉を聞くたびに反骨心が沸いていたのだが、今日はどうしても言い返せないでいた。それは昨日の模擬レースの結果が影響しているのは自分でも分かっていた。認めたくはないが、今の自分は弱気になっていると思う。
──現役中も、引退してデザイナーになってからも私のことはほったらかしにしていたくせに、今更この歳になってから急に母親面しないで欲しい。
そんな気持ちをいつも奥底に抱えていながら、無言で母の言葉を聞いていた。
「あの~ちょっとよろしいですか?」
「え?」
その時だった。立ち上がっていた坂川が目の前まで来て声をかけてきた。彼はスマホに向かって話しかけている。
状況が飲み込めない。この男はどうするつもりなのだろうか。母と話したいということなのだろうか。
『誰!? ……男? キング、あなたまさか学園をサボって男と逢引き──』
「なっ!? そんなわけないでしょう! この男は──」
「私はトレセン学園でトレーナーを務めております、坂川健幸と申します~」
『! トレーナー!? どういう状況なの? 聞こえているのでしょうキング、説明しなさい』
「えっ!? そ、それは……」
突然のことで頭がこんがらがっている。目の前の坂川の気味の悪い媚びるような声色と敬語に気を取られている場合ではない。しかし、母にこの状況を説明するのも難しい。
「キングヘイローさんのお母さま……グッバイヘイロー様でよろしいでしょうか。たまたま近くを通りかかったトレーナーでして、話を聞く気はなかったのですが、声が聞こえたものですからついお声をかけさせていただきました」
『え、ええ……それで、学園のトレーナーがどうしたのかしら。何か娘に問題でも? 通話が禁止の場所だったのかしら?』
母はあからさまに動揺しているように聞こえる。坂川は私の手からスマホを静かに取り上げた。
「な、なにす──」
「いえ、そういう訳ではないのです。娘さんに非はありません。ただ私が話したいだけでして」
スマホを勝手に取られたことに抗議する私を無視して坂川は母を会話を続ける。
『話したい? 何を? あなた、私とどこかで会ったことでもあるのかしら?』
「いえいえ、実は──」
坂川はその媚びるような声色のまま、プレゼンでもするかのようにわざとらしく喋っている。これまでのぶっきらぼうな口調を知っているだけに余計気色悪さを感じてしまう。
「私、幼い頃からグッバイヘイロー様の大ファンなのです! だからそのお声を聴いたとき、居ても立っても居らず、話しかけてしまった次第であります! 少しの間でいいので、お話をさせていただけませんか」
『はあ……?』
「────っ!」
──その言葉を聞いた瞬間、感情が一瞬にして冷え込むのを感じた。
「…………」
坂川は今何と言った? グッバイヘイローの大ファン? 今まで母のことなんて一言も話していなかったのに……
ということは私にあんなアドバイスをしてくれたのも、結局私がグッバイヘイローの娘だったからなのだろうか。
(…………そう、結局はこの男も同じだったってわけね)
口にしてないだけで、坂川も私の後ろに
これまで私に言い寄ってきた他のトレーナーたちと何の変わりもない。坂川もその内の1人というだけだったのだ。母との会話とこの態度がそれを物語っていた。
(何よ、ちょっと期待した私が馬鹿みたいじゃない……)
今日のここでの会話から、このトレーナーとなら……と考えていたが、そんな考えは跡形もなく消え去ってしまった。
(ほんと、へっぽこだわ……)
自分自身が情けなくて涙が出そうになる。人を見る目もまだまだ未熟なことに気付いて落ち込んでしまう。
そんな私の心の動きとは関係なく、坂川と母親の通話が続く。
「初めて拝見したのはアケダクトのGⅠ、デモワゼルステークスです! 私は幼い頃から海外競バにハマっていて、偶然のそのレースをテレビで拝見していたら、10バ身差の圧勝で見事初GⅠ制覇! 栗毛を靡かせる優雅なそのお姿と華麗な走りに私の心は奪われたのです! それからあなたのレースは引退まで全て欠かさず拝見いたしました」
『……そう、ありがとう。……娘に代わってもらえる?』
母の声からうんざりしている様子が目に浮かぶ。現役の時から今まで、それこそ星の数ほどの賞賛を受けてきた母だ。この程度の言葉は耳にタコができるぐらい聞いてきたはずだ。この坂川のように私の目の前でも、母を称える人を数えきれないほど見てきた。
「いえ、そうおっしゃられずにあともう少しだけ! お時間は取らせませんから」
『……』
坂川は無理にでも会話を続ける気だ。そこまでして……いや、それだけ彼にとって母は憧れの存在だったということだろう。
「ジュニア時代にGⅠを2勝! そしてその勢いのままクラシック級へ! ラスヴァージネスステークスで同期のライバル、ウイニングカラーズと初対戦してクビ差の勝利! サンタアニタオークスはウイニングカラーズに3着と敗れてそこから2人は別々の道へ! グッバイヘイロー様はティアラ路線、ウイニングカラーズはクラシック路線に進み、それぞれ成績を残した両者はアメリカ競バの総決算BCディスタフで相見え、1つ上の無敗の最強ウマ娘パーソナルエンスンと3人での熱い叩き合い! 3着に敗れてしまうも、あのレースは伝説に残る名勝負でしょう! 長い休養もなくレースに出るそのタフさ、熱いライバル関係とレース、どれもこれも最高でした!」
『……』
「ご本人に直接私の思いを伝えられたこと、光栄に思います」
(本当に、ファンだったのね……)
私でもうろ覚えとなっているレース名などをここまで適確に思い出せるのだから、ここまで詳しく知っているとなると、大ファンだというのは偽りではないだろう。この調子なら母の全てのレース結果が頭に入ってそうだ。
『もういいかしら? そろそろ──』
「いえ! これだけでは私の思いをまだお伝えできていません! ファンの私が思う、グッバイヘイロー様の1番の魅力──」
そこで坂川はもったいぶったように間を開けて──
「グッバイヘイローの一番の見せ場、シニア級について語らねえとなあ」
『……!』
「へっ……?」
私は2つの意味で驚いていた。坂川の気色の悪い敬語から普段の口調に戻ったことと、坂川の放ったその言葉の内容についてだ。特に驚いたのは後者のほうで、母の一番の見せ場はシニア級と言い切ったことだ。
(どういうこと?)
私も母の成績は知っている。坂川が言ったように、母はクラシック級で特に顕著な成績を残しておりクラシック級のBCディスタフまででGⅠ6勝をあげている。一方で母はシニア級でGⅠは1勝しかあげておらず、成績だけで言えばクラシック級の方が圧倒的に良いのだが────
「何と言ってもアルゼンチンから移籍してきたウマ娘バヤコアとの戦いだ。初対戦、サンタマルガリータ招待H(ハンディキャップ)から始まりヴァニティHまでバヤコアに4連敗ときた! 初対戦は2バ身差だったのが勝負を重ねるごとに着差は広がり4戦目ヴァニティHでは8バ身差の3着敗退!」
『……あなた……っ!』
「デルマーのGⅡではバヤコアの不調もあって勝利するが、スピンスターステークスで11バ身差の2着! そして最後の対決となったBCディスタフではレコード勝ちするバヤコアからなんと17バ身差の6着敗退! 同期のウイニングカラーズも9着で2人もろともバヤコアに蹂躙されましたとさ」
「な、なにを……!?」
それまでの母を称賛する言葉はどこに行ったのやら、坂川は徹底的に母を貶している。もちろん母がバヤコアというウマ娘にシニア級で負け続けたことは知っている。そのBCディスタフで一度現役に区切りをつけた母は次のステップへ──日本で言うドリームトロフィーリーグへ──進んでいくのだ。
『あなた、坂川と言ったかしら。とんだ食わせ者だったようね』
「おいおい、まだ終わっちゃいないぞもうちょっと語らせてくれ。グッバイヘイローの1番の魅力をな」
(まだ、何かあるの?)
「俺はバヤコアに負けた時にカメラに抜かれてたグッバイヘイローの表情が好きでなあ。バヤコアとの初対戦時に2バ身差で負けた時、あんたはレース後に歯を食いしばりながら悔しそうにしてたんだが、それがレースを重ねるごとに変化してくるんだ。4戦目ヴァニティHの時には悔しそうにしながらも力が抜けた表情、そして最後の対決7戦目BCディスタフで17バ身つけられた時には呆然として少し笑ってたんだ。あの時のグッバイヘイローの気持ちは誰だって分かるんじゃねえか……『何もかもが違い過ぎる。ああ、私はバヤコアさんにはどう足掻いても勝てないんだ』ってな感じだろう。どうだ? 正解か?」
『……っ!! 坂川!』
「おお、大体合ってたみたいだな。バヤコアと対戦を重ねるごとに絶対的な彼我の差を痛感して悔しさから諦めに変わっていく……あの過程がグッバイヘイローの1番の魅力で、俺が大ファンになった理由だ。バヤコアがいなけりゃGⅠ10勝だったのになあ! ハッハッハ! マジで最高! 傑作だったわ!」
『~~っっ!!!』
電話越しにも母が怒っているのが分かる。母の表情や様子が容易に目に浮かぶ。
話を要約すると、この坂川という男はバヤコアに負け続けたグッバイヘイローが好きなのだと言っているのだ。
なんて……なんて、趣味の悪い……
「よし、言いたいことは……っと、最後に1つだけ言い忘れてた」
母のことなんてお構いなしに坂川は続けた。
「グッバイヘイロー、お前はあそこで
『!! ………………』
母は沈黙したままだった。
「……なるほどな」
坂川はその沈黙から何かを得たのだろうか、納得のいった様子だった。
「言いたいことは言った。ほらキングヘイロー、スマホ返すぞ」
「え!? ちょ、ちょっと!」
待って待って。こんな状況で返されても困る。
もはや何を話していたかも忘れてしまうほどの坂川の話だった。
「……えーっと、お母さま?」
すこし気を遣うように、おそるおそる返答を待つ。
『…………キング』
母は幾分か落ち着いたようだが、それでも気が立っているのが分かる。
『悪いことは言わないわ。トレーナーを探しているのなら、この男をトレーナーにすることだけは止めておきなさい』
「え?」
『この男だけは絶対に駄目。いいから、私の言うことを聞きなさい!』
「なっ……!」
これまでの諭すような言葉ではなく、強制的に言うことを聞かせるような母の言葉に戸惑いが生まれた。普段こういう言い方をする人ではないのは娘の私がよく知っている。おそらく坂川の言葉がよほど効いたのであろう。
「…………わ」
『……わ?』
それは分かっているのだが、だからといって母の言うことを素直に聞ける私ではない。親にこんな言い方をされてたら反発をしたくなるのが子どもである。
「私のことは私自身が決めるわ! お母さまは口出ししてこないで!」
母を気遣う気持ちはどこへやら、感情に任せて言い切った私はその勢いで通話ボタンを押した。
「はあ……はあ……」
通話が終了し、スマホの画面がホームへと切り替わったタイミングで顔を上げると、こちらを見ていた坂川と目が合った。
「なんだ、通話切ったのか?」
意外そうな表情をしている坂川の姿がそこにはあった。
(ウマ娘)オタク特有の早口でしゃべるトレーナーさん