時間を忘れてキングヘイローと走っていた。
あたしの敗北があり得ない以上、勝負の決着は彼女が諦めることでしか終わらない。
彼女は未だに諦めず、あたしに食らいついていた。
バ体を寄せて肩と肩で競り合う。
「はあっ、はっっ……ぐあっ……!」
すぐ隣にあったキングヘイローの息遣いが後方へ流れていく。
足を止めて振り返ると、彼女はまた膝と手を地面についていた。荒い呼吸に合わせて上下している背中が見て取れた。ここで走る前はある程度整っていた鹿毛の髪も今では汗と泥にまみれ乱れており、頬や首筋に張り付いていた。
「…………」
「ぐっ……はっ、っ…………」
倒れた回数が両手の指の数を越えてからは数えるのを止めていた。
「はあっ……はあっ……」
彼女は呼吸を整えてから立ち上がる。全身が芝と泥に汚れており、両膝をはじめあちこちにできた擦り傷から血が流れている。それでも痛がる素振りなど一切見せず、彼女は再び走り始めた。
近づいてくる彼女に背を向けて、あたしも再び走り出す。全力疾走はせず、彼女に合わせたペースで走る。
彼女の足音と息遣いがまた近くなってきた。
「はっ、はっ」
「……」
……ここまで諦めが悪いウマ娘だとは正直思ってなかった。
元々の性質のためか、何か目的があるのかは分からないが、この不屈さは認めないといけない。ここまで走ってきた疲労も、転倒による打撲や擦り傷の痛みもあるはずなのに。
走りが未熟だとはいえ、むしろ感心しているぐらいだった。
けれど、ひとつだけどうしても気に入らないことがあった。
「……っ」
「っ!? ぐうっ!」
追い上げて並んできた彼女の身体へと競るように身体を寄せる。決してタックルにはならないよう勢いに気をつけながらも、押し込むように肩を当てていった。
「ぐぐっ……!」
彼女はあたしの競りに
それがどうしても気に入らなかった。
彼女は一度だって競ってくるあたしに対して逆に競りかけたり、肩を当ててタックルしてこようとはしなかった。あたしのバランスを崩そうとしないのだ。
ただ自分が転倒しないように踏ん張っているだけ。自分が競られて何度も何度も転倒させられているのに、一切やり返してこようとしない。
ここまでされたなら普通は抵抗するものじゃないだろうか。あたしだったら…………どうだろう? せめて転倒しないように、相手が競ってきたタイミングで競り返すぐらいのことはすると思う。そうしないとあたしだって競り合いに勝てないのだから。
(……舐められてる?)
反撃したらあたしが転倒すると思っているのだろうか? そう思われているならはっきり言って心外だ。キタサンブラックはキングヘイローの抵抗程度でバランスを崩すようなウマ娘ではない。彼女があたしについてどこまで知っているのかは分からないけれど、トゥインクルシリーズ、DTL、そして日本よりはるかに競り合いの強度が高い海外であたしは走ってきたのだ。
それともあたしに気を遣っている? 優しいから? 闘争心が無いから?
いくらか可能性を考えてみたが分からなかった。
別にそれはそれで構わない……力があるのなら。これを続けて勝てるのなら何も問題ない。
でも、そんなことにはならない。そんな力は彼女にない。彼女は競られてただ転倒するだけ。
「ぐっ!」
彼女のバランスが崩れる。上下左右の動揺が大きくなってくる。
耐えるなら、上体に力を入れて抵抗するんじゃなくて脱力して受け流すように対応すればいいのに。そうしないからこうやって──
「っあ!?」
──倒れるのだ。
キングヘイローが前のめりに転倒した。
「っあ……っ……」
転んだ彼女はさっきと同じように、四つ這いになってから再び体を起こそうとしていた。
「ぐっ……」
……段々と立ち上がるまでの時間が長くなっている。流石にダメージはあるようだった。
故障をしていないかを確かめるため、彼女の走りのフォームだけには気をつけていた。流石にそうなったら走るのは続けさせられない。
今のところ不自然なフォームの崩れはない。怪我はしてないようだった。
「……」
そろそろ声を掛けるべきだろうか……諦めろと。
彼女だってもう嫌気が差してもおかしくはないと思うのだけど……
「ふっ、はっ……くっ……っ!」
しかし、立ち上がった彼女の瞳には未だに強い意志が光っていた。負けを認めてなるものかと、言葉にせずともその瞳が語っていた。
「…………まだ、諦めないの?」
「はっ、はあっ……この、キングに負けを認めろって? 何があってもありえない、舐めないでくれるかしらっ!」
「あたしに敵わないの、分かるでしょ?」
「どうかしら? ……行くわよ。準備なさい」
「……」
不思議なウマ娘だな、と思った。
ここまでしても負けを認めようとせず、挑んでくるメンタリティは素直に評価できる。一方で、走り自体を見ているとあたしを倒そうとする闘争心や攻撃性には欠ける。
たとえ模擬レースであってもあたしに対して獰猛な面を見せてくるグラスワンダーとエルコンドルパサーとはえらく違っていた。
「……ふっ!」
キングヘイローがまた走り始めた。
「……っ!」
あたしも同じように走り始めた。
──トレーナーさんが、コースへ向かっているとも知らずに。
◇
それからもしばらく、同じようにキングヘイローと走った。
あたしが競りかけて、それを受けてキングヘイローが倒れるだけの状況は大きく変わりなかったけれど、疲労の色が濃くなってきた彼女の走るスピードが段々と落ちていった。変な走り方にはなっていないので故障はしていないようだったが、目に見えてふらつくようになっていた。強い意志を宿していた瞳も疲労により虚ろになってきていて、ぼんやりとした表情になっていた。
「はあっ、はあっ…………ぐ、うっ……」
コーナーから直線に入ったところで、キングヘイローは力が抜けて崩れ落ちるように倒れてしまった。
彼女が立ち上がるのを待とうと立ち止まって振り返った。
──彼女の状態に注意を払い過ぎていて、周りのことに意識を向けていなかったのは事実だ。
その瞬間だった。
ぬかるんだターフを駆けてくるヒトの足音がこちらに向かっていることに気づいた。
「っ! おい! キング!」
そして耳に届く、ある男性の声。
(──え?)
懐かしい、聞き覚えのある声。
でも、忘れたことなんて一度もなかった声。
その声はあの頃より少しだけ低くなっていた。こうして直に彼の声を聞くのは、家の前で別れて以来のことだった。
フードを取って、こちらに向かってくるその男性の方を向いた。
キングヘイローには正体がバレているし、フードを被っていても意味なんて無いだろう。この走るフォームを見られていたのなら、彼もあたしが誰かなんて気づいているだろうから。
走ってきていた男性と目が合うと、彼はその足を止めた。
「……っ」
(ああ────)
トレーナーさんがいた。
距離にして10mもないぐらい近くに彼がいた。
少年と青年の境目だったあの頃から時は流れ、青年から壮年へと移り変わり始めている大人の男性になっていた。歳を重ねて大人びたトレーナーさんがいた。
彼の姿を目にすると、なぜここに……なんて疑問は消え失せた。
瞬時に様々な感情が湧き上がり、胸の中で渦巻いた。それが表に出ないように無表情を装った。
でも、率直に……ありのままに、今のあたしの感情を表すのなら。
──ただ、嬉しかった。
──トレーナーさんにまた会えて、嬉しかった。
しかし、険しい顔をしたトレーナーさんが距離を詰めてくると、嬉しさなんて感情は刹那に消え去った。
さっきまでとは逆の感情が顔を覗かせてきた。
恐怖が襲ってきた。
あの頃からずっと恐れていたことが頭を過ぎる。
──トレーナーさんは、あたしのことを……
(……っ)
1歩、2歩と、その足を速めてトレーナーさんはこちらに近づいてくる。
あたしの背後には、倒れて立てないキングヘイローがいる。
あたしが一体何をしていたのか、彼にとってこの状況はどう見えているのか。
走っていた熱から冷めて我に返ると、じわじわと今の状況への理解が及んでくる。
キタサンブラックが彼の担当ウマ娘キングヘイローを痛めつけていたということ。
──怖い。
息が詰まる。
──怖い。
呼吸ができなくなる。
──怖い。
近づいてきて何をされるのか、何を言われるかと思うと、金縛りにあったように体が動かなくなった。
体全体に速くなった心臓の鼓動の音が響いている。
距離を詰めてくるトレーナーさん。
2m、1mと近づいてきた彼は──
「キング、大丈夫か!?」
──あたしの横を通り過ぎ、キングヘイローの元へと駆け寄っていった。
彼にとって大切な担当ウマ娘の元へ。
「……? トレーナー……?」
「怪我はねえか? 痛むところは?」
「ええ……特別、痛むところはないわ……ただ、力が入らなくて」
「濡れた芝の上ですまねえが、体触るぞ!」
トレーナーさんはキングヘイローに怪我がないか身体を動かしたり触ったりして確認しているようだった。
──……そう、だよね。
そんな2人の様子を見るしかできないあたし。
──今のあたしは、トレーナーさんの担当ウマ娘でも何でもないんだから。
彼が一番に優先するのは彼自身のウマ娘であるキングヘイローだ。彼女が倒れているなら尚更で、10年も前に担当していたウマ娘なんて気にかける必要はないのだ。
「……大丈夫そう?」
「ああ、故障はないみたいだ……良かった。お前、あいつと知り合いだったのか」
「いいえ……今日、初めて話しかけられて──」
キングヘイローが今日のことについてトレーナーさんに話している。声がそこまで大きくないので全てを聞き取れないけれど、どうやら彼女が勝ったらあたしとトレーナーさんの関係を話すことは伝えていないようだった。
「……そうか」
彼女が説明し終えると、彼がこちらを向いた。目は一瞬だけ合ったけれど、彼はすぐに目線を下げた。
「なんで、こんなことをした……?」
今の担当ウマ娘であるキングヘイローに昔の自分を重ね合わせて思い出し、この行き場のない感情を偶然出会った彼女へ向けた。感情を処理するためのはけ口にしたのだ。
実力が知りたいのは建前でしかなくて、醜くて卑しいあたしの身勝手な愚挙で彼女を痛めつけた。
こんなこと言えるはずがない。しかし、こんなことをしたのだから説明して謝らないといけない。……謝っても、許される行為ではないのは分かってる。
葛藤が襲う。
口を開こうとする。
でも開けない。
「…………」
そうして逡巡しているうちに、彼が口を開きかけているのが目に入った。
耳に残っている、あの時の言葉。
──『俺はお前のことを大切になんて思ってなかったんだよ』──
また同じようなことを言われたらと思うと、恐怖に心と体が支配されていく。
あなたになにか返せたらって、感謝の気持ちを伝えたいって、あなたに笑顔と元気をあげられたらって思いながら走ってきたあたしのこれまでの日々が走馬灯のように脳裏をよぎっていく。
今から発せられる彼の言葉によって、それらが全て意味の無いものだったって否定されるかもしれない。
──怖い。
──怖い。
──怖い。
大切な担当ウマ娘を痛めつけたあたしに、彼は何を言うのだろうか。
この場から逃げ出したかった。耳を塞いでしまいたかった。
けれど、体が凍りついたみたいに動けなくて、どちらもかなわないと気づく。
もうどうすることもできない。
ただ彼の言葉を待った──
「俺が憎いなら! そんなに……今もそんなに俺を恨んでるなら!」
(──え)
耳に届いたのは、思いもしなかった言葉。
あたしがトレーナーさんのことを──
──憎い。
──恨んでいる。
「……俺に、何かすればいいだろうが………………こいつは、関係無いだろう……」
彼は絞り出すようにそう言って、顔を俯けてしまった。
そんな彼の様子と声色は本当に苦しそうで。
──違う…………違うの……
あの出来事を経て、確かにその感情が一切ないと言えば嘘にはなる。
でも、あたしのためにいっぱい悩んで苦しんで、それでも頑張ってくれていたのを知って、そしてあなたから大切なものをたくさんもらっていたって気づいた。あなたには負の感情より、感謝と……あなたのことをずっと想っていた。
あたしが負の感情を向けていたのは、あなたのことを分かってあげられなかった、想ってあげられなかったあたし自身なのに。
そんな感情のために理由をつけてキングヘイローを痛めつけたのはあたしで。
あなたを憎くて恨んでるから、こんなことをしたんじゃなくて。
悪いのは全部、あたしで…………
誤解だと言えば解決するだろうか……いや、そんなことにはならない。トレーナーさんにとって重要なのはそこじゃない。
重要なのはあたしがキングヘイローを痛めつけた事実で、言い訳をしたところでそれが何か変わるわけじゃない。
彼は俯いたままでただ黙っている。悲痛な表情は変わらなくて。
自分の大切にしている担当ウマ娘がこんな状態になっても、あなたはあたしを咎めるどころか自分自身を責めている。
俯いているあなたの表情は目を背けたくなるほど辛そうだった。
……あなたにそんな顔はさせたくなかったのに。
怒ってもらう方が、詰られる方がよっぽど良かった。悪いことをしたあたしが責められるのが当然の報いなのに。
あなたにそんな顔をさせるためにあたしは今まで──
「…………」
──もう限界だった。
これ以上ここにいると、色んなものが崩れ落ちてしまいそうだった。
必死で表面上だけ取り繕いながら踵を返し、コースを出ていくために歩みを進める。
ちょうど出口の階段へ向けて歩いている途中に彼のチームであるペティとカレンモエがいた。
ペティがここにいるのを見て、改めて彼女が彼のチームに所属しているとの実感が湧いた。
すれ違ったところで足を止め、口をついて出たのは率直な思いだった。
「本当に、そこにいるんだね」
「……わたしがどのチームにいようが、わたしの勝手でしょう」
……その通りだ。
あたしがトレーナーさんのそばにいないことと、ペティがトレーナーさんのそばにいることは何の関係もない。
「……そうだね」
再び歩き出し、4人を残してコースを去った。
そのまま上着だけ羽織ってあたしは自宅へと帰っていった。
──取り返しのつかないことをしたという後悔と絶望を抱いて。
◇
何とかマンションの自室の前までたどり着いた。帰宅への道のりでは必死に何も考えないようにしていた。
扉を開けて中に入り、閉めた扉に背を預けてからゆっくりと滑り落ちるように三和土へと座り込み、膝を抱えて首を垂れる。コンクリートの冷たい感触が衣服越しに肌へと伝わってきた。
電気をつける気力もなく中は真っ暗だ。リビングへとつながる廊下が暗い口を開いてあたしを迎えていた。
「…………」
コースを出てから気づいたのだが、脚の痛みと痺れが酷い。臀部から足部にかけて下肢全体に神経症状が出ているようで、長時間正座した時に来る痺れや痛みと似たような感覚がどくどくと脈打つように脚を襲っている。レース前の調整時期なのに無理な走りをしたせいだ。
この痛みさえ今では気が紛れて良いかもしれないと思った。それに、こんなのでは足りないけれど、あんなことをしたあたしにとっては良い罰だ。だから痛み止めと痺れ止めの薬を飲む気にさえならなかった。
ここでも何も考えないようにしたかったけど、いつまでもそうはいかなかった。自然とさっきまでの出来事が頭の中に浮かんできた。
『俺が憎いなら! そんなに……今もそんなに俺を恨んでるなら!』
『……俺に、何かすればいいだろうが………………こいつは、関係無いだろう……』
“お前なんて今ではどうでもいい存在なんだ”って、“そんなお前が自分の担当ウマ娘になんてことをしてくれたんだ”って……そんなことを言われるかもしれないって思っていた。
『俺はお前のことを大切になんて思ってなかったんだよ。だからお前をぶって、ドーピングさせたんだ』
……ずっと耳に残っているあの言葉があったから、きっとあたしにドーピングしたことなんて彼はどうでも良いって考えてるのだと思っていた。
しかし、今日話したトレーナーさんは違っていた。あたしを非難するようなことを言わなかった。むしろ逆で、あれから10年も経った今でも自責の念に苛まれているように思えた。憎んでいるなら、恨んでいるなら自分自身に何かすればいいとまで言った。
あたしにドーピングしたことを後悔してくれているように──
「…………本当に……?」
──本当にそう?
確かにそんな様子には見えた。言葉からもそれは伺えた。
でも、トレーナーさんからあたしに対しての感情やどう思っているかは言葉として形になっていない。それに状況が状況で、あたしが彼への憎しみと恨みであんな行動をしていると思われているなら、本心を隠しあの場を凌ぐためにああ言っただけかもしれない。
危害が及ぶなら庇って自分に……なんて、ウマ娘思いのトレーナーさんならやりそうなことだと思う。
……それらにしても、本当かどうかは分からなくて、あたしがただ考えているだけのことで。
「………………」
分からない。
トレーナーさんのことをあたしは分からない。あたしはあのノートで初めて彼の想いを知ったウマ娘だ。彼のことを分かろうとしてこなかったあたしに、あの人のことが今になったからって分かるはずがない。
結局、何も変わって────いや。
それどころか、状況は今までよりも悪くなって────
「あ…………ああ…………」
もし仮に……もし仮に、トレーナーさんが今でもあたしのことを想ってくれていたとしても、自分の担当ウマ娘であるキングヘイローに危害を加えたあたしを彼は許してくれるだろうか。
……彼だけじゃない。キングヘイローだってあたしのことを許さないだろう。あちら側の視点に立つなら、トレーナーさんに憎しみや恨みを抱いていたキタサンブラックが、関係のない彼女にそれをぶつけたのだ。
ドーピングのことを置いておいても、彼が彼女のことを思えば……彼にとって大切な担当ウマ娘が傷つけられたことを思えば、あたしのことを──
「…………っ……」
思考を止めた。思考であっても言葉にしたくなかった。
あたしが何を想ってようが、自分のせいで傷つこうが、あたしがキングヘイローを痛めつけた事実は変わらない。
そんな考えに至って、必死にこらえていたものが溢れてきた。
着ている服、あるいは床へと滴が落ちていった。
「…………っ…………うぅ…………」
胸が張り裂けそうだった。
悪いのはあたしで、自分のせいなのに。
泣く資格なんて、あたしにはないのに。
DTLでここまで頑張って走ってきた自分さえも、短絡的な行動で蔑ろにして。
「…………ぅ……ぐっ……」
どうしようもなくて。
このままでいたら、心も体も壊れてしまいそうで。
独りでこのままうずくまっていたら、もう動けなくなってしまいそうで。
あたしという存在が、この暗闇の底に沈んでいってしまいそうで。
そんな中、スマホから着信音が鳴った。
「…………ダイヤ、ちゃん…………」
スマホを取り出すと、親友の名前が表示されていた。
「……………………」
彼女はDTL決勝の数日前に毎回電話をかけてきてくれる。これもたぶんそうだ。
こんな状態では電話に出られないし、出るべきではない。
なのに、あたしは通話ボタンを押していた。
そうすると、彼女はいつもの調子で話しかけてきて。
「ダイヤちゃん……あのね──」
あたし独りだけで抱えていくのは限界だった。
ここまで隠してきたくせに、今になって彼女に打ち明けた。
あの事件から現在に至るまでの全てを。
あたしの気持ちや想いも。
◇
『とにかく、今向かってるから。キタちゃん待っててね、すぐ行くからね』
「……うん……」
通話が切れた。
「…………」
話の途中で泣いてしまい、何回も何回も言葉に詰まってしまったけれど、なんとか全て話すことができた。
話したことで少しあたしも落ち着いた。
サトノ家の仕事のために遠方にいるサトノダイヤモンドはあたしの家へ向かってすでに出発したらしい。
そこまで迷惑をかけるわけにはいかないと断ったけれど、やると決めたら頑固な彼女は聞き入れてくれなかった。
……そんな彼女の優しさに甘えてしまった。
「…………」
未だにあたしは玄関で膝を抱えたまま。
暗闇の中に独り、動けないでいた。
「…………」
落ち着きはしたけれど、張り裂けそうな胸の痛みは変わらなくて──
「……っ………………っ……」
──やっぱり、落ち着いてなんていなくて。
色んなことが頭をよぎると、また涙が溢れてきて。
「……うぅ………………っ……………………っ……」
痛くて。
辛くて。
苦しくて。
それでも脳裏に浮かんできたのは、トレーナーさんの優しい顔で。
「トレーナーさん……」
「助けて……」
届くはずのない声は暗闇に溶けて消えた。