私はトレセン学園の応接室にて坂川を待っていた。
昨日とは打って変わって回復した天候の下、懐かしくなった校舎が窓のガラス越しに建っていた。
これを終えたらすぐに自家用機で関西の方に戻らないといけない。家業である仕事のスケジュール調整を頭の片隅で組み立てながら、窓の外で揺れる植え込みの木々や花を眺めていた。
つい先程、事務局の方から彼がここに向かっているとの連絡があった。
「……」
彼がやってくるまで、昨日のことに思いを馳せた。
◇
昨日の夜、親友であるキタサンブラックに電話をかけた。
お互い別々の道を歩んでからは直接会う機会も少なくなったので、こうして電話で連絡を取ることが多かった。いつものように週末にあるSDTの決勝の応援と激励をしようと思っていた。
そんな軽い気持ちは電話口から聞こえてきた涙に濡れた彼女の声により消え失せた。
彼女は涙声でこれまでのことを……彼女が今まで独りで抱えていたことを語り始めた。坂川のノートを読んで当時の彼の想いを知ったことや、それを読んだ上で歩んできた彼女本人の気持ちも全て。
彼女は泣いて詰まりながらもそれを私に伝えてくれた。
その話を聞いていて一番に感じたのは自身の無力さだった。
あの事件直後のキタサンブラックはずっと泣いていた。ドーピングされたことにも傷ついていたようだったけれど、彼に大切な存在じゃないと言われたことが何よりも彼女の心を深く傷つけていた。悩み事があったって対外的には明るい顔を見せられる彼女なのに、それさえできなくなっていた。だから当時の私は付きっきりで彼女を支えていた。
それから徐々に普段通りに戻っていったのだけれど、時折突発的に彼の面影を何かに感じて泣き出してしまうことがあった。
それがやっと落ち着いたのは菊花賞直前のことだった。
それ以降、キタサンブラックは坂川健幸の話を一切しなかった。
彼女にとっても忘れたい人物と出来事だろうし、話に出さないことを私は何もおかしいこととは思わなかった。私個人としても彼女自身をあんなに悲しませたことは早く忘れてほしかった。
それが1ヶ月……半年……1年……数年……そして現在へと至る中で、彼女の中で坂川のことは消えたんだと思っていた。
でもそれは私の思い違いでしかなかった。むしろ逆で、彼女は彼への想いをずっと募らせていたようだった。
私は気づかなかった。ただ無力さを感じた。
……親友が聞いて呆れる。
実はキタサンブラックが何かを抱えていることは薄々感じ取っていた。しかし、それが坂川のことだなんて夢にも思わなかった。
最初はほんのわずかな疑念だったのだが、DTLで故障を抱えながらも走り続ける彼女を見ていくうちに確信に近いものに変わった。
だから以前のお茶会で彼女を問い質したのだけれど、彼女は口を噤んだ。何かを隠していることが分かっただけだった。
電話口では彼女が抱えてきたものの話から、キングヘイローとの間にあった出来事の話になった。
自身と似たようなレース成績を辿ってきたキングヘイローに昔の自分を重ねて、昔の自分への怒りを偶然会った彼女にぶつけてしまったと、彼女は泣きじゃくりながら話していた。
許されないことをしたと、取り返しのつかないことをしたと、涙声で話しているのを聞くと本当に心が痛くなった。
こんな状態の親友を放っておけないと思った私は自家用機を使って彼女の元へと急いだ。
彼女のマンションにたどり着くと、リビングの椅子に汚れた格好のまま座っている彼女がいた。身を引きずって行ってなんとか椅子に座ったといった感じだった。髪の毛もくしゃくしゃで、目も真っ赤で腫れあがっていた。笑顔を作って健気に私を迎えてくれたその様子が更に痛々しさに拍車をかけていた。
こんな格好のままにしておけなかったし、気持ちを落ち着けてほしかったので彼女と一緒にお風呂に入った。他愛のない話をしながらゆっくりと湯船につかった。
お風呂から上がると彼女の顔色は少し良くなっていた。
彼女に許可を取って冷蔵庫の中身を使って暖かいスープを作って一緒に飲んだ。話をしていると脚の痺れと痛みがあると漏らしていたので薬を飲んでもらった。
その後は寝室のベッドで一緒に寝た。何年も前にここへお泊りで遊びに来た際、何度かこうやって2人で寝たときの思い出話をしながら眠りについた。
私がマンションに来てから朝出ていくまで、電話でしていた話や坂川の話はしないようにしていた。今はこうやって普段通りに接して落ち着けてあげることが必要だと思っていたから。
朝、先に起きた私は帰る旨を記した書き置きをしてマンションを出た。出る前に見た彼女の寝顔は穏やかで血色も元に戻っていたけれど、目尻から涙が一滴だけこぼれていた。
「……っ」
それを見た私は無意識的に下唇を噛んでいた。
◇
そして私はその足でトレセン学園へと向かい、坂川健幸に会って話をするためにこの応接室にいた。
彼がどういう人間なのか見定めるためだ。
「…………ふぅ……」
ひとつ息をつく。もうじきここへ彼はやって来るだろう。
彼と最後に話したのはあの事件前のことだ。あの事件以降彼とは話していない。キタサンブラックにドーピングした人間と話す気になんてなれなかったし、当時の自分が彼に会ったら
当時の彼の印象を思い出す。若くしてトレーナーになり名前が通っていただけあって、キタサンブラックの担当になる前から当時の私も名前と顔ぐらいは知っていた。
実際に会うと彼は齢相応の青年だった。幼い頃からサトノ家で様々な人と会ってきた経験から、若く優秀な人物にありがちな奢ったような感じやギラギラした感じがあるかと思っていたが、それもなかった。生真面目でないのだけれど、真っ当にトレーナーとして頑張っているといった印象だった。ウマ娘の扱いに長けているようでもなく、どこか彼女や私との……ウマ娘との距離感をはかりかねているようで、その初々しさも記憶に残っている。
キタサンブラックの担当になると知ったときにサトノ家の情報網を生かして彼の出で立ちを調べると、普通の一般家庭の出身だった。近親にウマ娘がいるわけでもなかった。高校も普通科の高校の出で、素行に関しても何も問題なく、特筆するべきものは何もなかった。ただあの歳でトレーナー試験に合格するだけあって学業の成績は優秀だったようだ。
……坂川がドーピングをしてあんなひどいことを言ったとキタサンブラックから聞いた時、俄かには信じられなかった。
キタサンブラックを傷つけた彼がとにかく許せなかった。その後、傷ついて泣いている彼女を間近で見ていると、より一層許せない思いと怒りが湧いていた。
でも、キタサンブラックも彼について何も言わず忘れようとしているように見えたので、私も同じように忘れようと思っていた。実際、今の今まで彼のことは気にかけていなかった。最近キングヘイローというウマ娘の担当として再び表に出てきたのを知っているぐらいだった。
「…………」
あの事件から10年、彼が今どういう人間になっているか見当がつかない。
表向きに問題を起こしたとは聞かないけれど、彼はドーピングをし暴力を振るい、あそこまでひどいことを言ってのけた人間だ。元々の人間性がどうかも定かではないし、年齢を重ねるごとに悪い方向へ傾いているかもしれない。
私の目的は、彼がキタサンブラックについてどう思っているのかを確かめること。
あの時に“大切じゃない”と言われた彼女がそう考えているように、坂川健幸のキタサンブラックに対する感情が無関心だったり
坂川の抱いている感情を彼女に伝えるかどうかは彼の答え次第。彼と話したことは伝えるつもりでいるけれど、もしその内容が彼女を傷つけるようなものばかりなら、こうやって話したことさえ知らせない方がいいかもしれない。
……結局、坂川健幸という人間次第だ。
コンコンと、扉をノックする音がした。
「……!」
間を置かず扉を開く音がする。振り向くと坂川健幸その人が部屋に入って来ていた。
「お待ちしておりました。坂川さん」
まずはこちらのペースに引き込むために、優雅な態度で笑顔を浮かべて余裕のある振る舞いをした。
「お久しぶりです。キタちゃんとのことがある前ですから……10年ぶりくらい、でしょうか?」
「そうだな。……話をするなら、俺のトレーナー室でも良かったんじゃねえのか」
「いいえ、ここが良いのです。学園の応接室は、ウマ娘の聴力でも外から盗み聞きできないよう、防音がしっかりしていますから」
ドーピングのことを含めて、誰が聞き耳を立てているか分からないトレーナー室ではこんな話はできない。
「そして、外から盗み聞きできないということは……中で何をしても、外には漏れないということです」
彼が入ってきた扉へと向かい鍵をかけた。
こうして外部と遮断したことを理解させておけば本音を聞き出しやすいと思い、少し誘いをかけた。
暴力沙汰にする気はさらさらないが、彼が何かしらのきっかけで逆上し襲いかかってくる可能性だってあり、そうした場合こちらも身を守るために抵抗する必要がある。素手なら何も問題ないが、凶器の類を持ち込んでいる可能性は排除できない。
表沙汰にはしたくないし、昨日の事で彼が怒っていて、キタサンブラックと近しい関係の私に恨みを募らせている場合だって考えられる。スマホはワンタッチでサトノ家の者へ通知が行き助けを呼ぶようにしてある。彼の人となりが分からない以上、神経質になるほど念には念を入れて対策していた。
「さあ、坂川さん。お座りください。お話、しましょう……?」
彼がソファに座ったので、私は彼の向かいに腰を下ろし向き合った。
あの頃から10年ほど経過した彼は全体的にくたびれた雰囲気を纏っていた。彼の清掃員のような上下の作業着が目につく。このくたびれた感じはこの服装のせいだろうか? 10年前はフォーマルな恰好だったり、ジャージだったりとおおよそ一般的なトレーナーの服装をしていた。
……お酒の匂いがこちらまで漂ってくる。なんてだらしのない……
「なぜ私があなたを呼び出したのか、改めてお伝えするまでもないですよね?」
「昨日のことだろう。お前は何が聞きたいんだ」
「昨日、キタちゃんとあなたとの間に何があったのか、です。一から説明していただけますか」
彼を試す気持ちでそう言った。嘘をつくようならその時点で話を終えようと思っていた。この期に及んで嘘をつくような人物なら見限るほかなく、会話する必要もない。
彼は昨日のことを自身の視点で話し始めた。
キングヘイローがロードワークから帰って来なかったので、彼女の身に付けていたGPS機器で居場所をつき止め、トレーニングコースへ行くとキタサンブラックがいたこと。
キタサンブラックは何も言ってくれなくて言葉を交わさなかったこと。
キングヘイローは打撲や擦り傷こそあれ怪我は無かったこと。
「──そんなところだ」
キタサンブラックと聞いた話と特に矛盾は見つからなかった。あからさまにおかしい部分もなかったし、正直に話してくれたんだと思う。
話しているときの彼の様子も見ていた。挙動不審なこともなく、逆に大仰な態度も見せなかった。
キングヘイローに怪我がなかったことはちゃんとキタサンブラックに伝えておこう。
「…………キタちゃんから聞いた話と、相違ないですね」
昨日の話はこんなものだろう。これ以上掘り下げるにしても、私は先に訊くことがある。
あのドーピングについて。
意を決してそれを口にした。
「…………なぜ、キタちゃんにあんなことをしたのですか」
「は?」
「10年前の、あの時のことです」
「……」
彼から視線を外さず見つめた。
そんな私の視線を彼は受けとめていた。表情や仕草も変わらず平然としていて、見た目からは感情を読めなかった。
「俺が最悪なぐらい未熟でバカだったからだ。キタサンのためだとか言って、俺は自分のことしか考えていなかった。それに尽きる」
……“最悪なぐらい未熟でバカ”。言葉選びはともかく自分を非難する言葉だった。それと“自分のことしか考えていなかった”という言葉が気になる。私利私欲のためにやったということだろうか。
「キタちゃんが傷つくと思わなかったのですか?」
「……思わなかったんだろうな。だからやったんだ」
少し間があったけれど、彼はそう言ってのけた。
……私は憤りを感じ、感情的になった。
「本当に……本当にっ!」
「……」
「あなたはっ、何も思わなかったのですか!? キタちゃんにドーピングさせて!!!」
思わず声を張り上げてしまった。
そんな私の様子を見ても彼は微動だにしなかった。ただ私と向き合っていた。
「……さっきも言ったろ。俺は自分のことしか考えてなかったからドーピングさせたんだ。キタサンの気持ちを少しでも考えてたなら、騙してドーピングなんてするはずねえだろ」
「……っ」
「坂川健幸はキタサンブラックにドーピングさせた。その事実が全て物語ってる」
坂川は淡々とそう話す。
その言葉にどこか
直感だけれど、彼は本心を隠している……?
そんなことを思ったけれど、自分のことしか考えず、キタサンブラックのことを考えていなかったという言葉を聞いて我慢ならなかった。本心はどうであれ、こうやって言ってのける彼自身に対しての怒りもある。
あんなに彼女を傷つけて、悲しませていたのに──!
「────っ!」
気づいたときには彼の目の前に立ち、手を振るってしまった。
乾いた破裂音が響き、右の手のひらに彼の頬を張った感触が残った。
彼は頬に手をやるわけでもなく、ぶたれた方向へ顔を向けたままだった。
どんな理由であれ暴力はいけないことだ。彼に対して思うところがあるのも確かだけれど、胸の中には罪悪感が湧いてきた。
「……ごめんなさい。手をあげたことは謝ります」
「…………」
「キタちゃんをあんなに傷つけたあなたを、私は一生許しません」
彼は逆上することもなく、立ち尽くしている私に視線をよこしただけだった。
下から見上げてくる坂川。そんな表情はわずかに歪んでいて──
──悲しそうに見えた。苦しそうに見えた。
初めて彼の感情の動きが見えた気がした。
私は今日彼に訊かなければならないことを口にした。
「あなたは今……」
「……今、なんだ?」
「キタちゃんのことをどう思っているのですか? あなたの担当じゃなくなってからトゥインクルシリーズで名を上げ、DTLでも絶対的な王者であり続けるキタちゃんを見て、あなたは一体何を思ったのですか?」
坂川健幸はキタサンブラックについて今どう思っているのか。彼と袂を分かち歩んでいったキタサンブラックを見て何を思ったのか。
キタサンブラックがずっと知りたがっていたこと。
キタサンブラックがずっと胸の奥にしまいこんでしまっていたこと。
彼とこうやって話すなら、これだけは絶対に訊き出さないといけない。
……それを彼女に伝えるかどうかは別にして、だけれど。
「そもそも、あなたはキタちゃんのレースを見ていたのですか?」
「ああ、見ていた。勝ったレースも負けたレースも全て」
即答だった。
彼女が“あたしのレースなんて見たくもなくて、忌避しているかもしれない”と言っていたことを思い出す。どうやらそうではないらしい。
「……そう、ですか。それで、あなたの手から離れたキタちゃんを見てどう思ったのですか」
「良かったと、思ってる」
“良かったと、思っている”
「……」
その言葉が耳に残って全く離れてくれない。そして胸にある感情が遅れて訪れようとしていた。
私がその感情を理解する前に彼は言葉を続けた。
「キタサンは昔から、自分の走りでみんなに元気や笑顔を与えたいと言っていた。それは達成されたんだ。GⅠ7勝だぞ? ルドルフに並ぶ快挙だ。加えて、表彰式での歌唱やウイニングライブでのあのパフォーマンス……レース場は大歓声に包まれてた。メディアにだってたくさん出た。日本でキタサンブラックを知らない奴なんていないだろう。間違いなく、アイツは多くの人間やウマ娘に感動を与えた。元気と笑顔をみんなに与えることができた。夢は叶ったんだと思う。……本当に良かった」
確かにそうだ。
彼女はレースで圧倒的な成績を残した。日本だけでなく、世界的にも名を挙げた。
身の周りの人や彼女を応援する人たちに彼女は元気や笑顔を与えた。幼い頃から言っていた夢を彼女は叶えた。
彼女のことを想ってないと出てこない言葉だと思う。けれどそれより──
──本当に良かった。
……本当に?
本当に良かったの?
──『ダイヤちゃん……あのね──』──
キタちゃんはあんなに泣いてたのに?
「俺みたいな最低のトレーナーから離れられて、本当に良かった。キタサンも喜んでるだろう──」
「っ!!」
その言葉を受けて気がついたときにはまた手を振るっていた。
「今度は謝りませんっ!」
「な……!? お前……?」
いつの間にか視界が涙で滲んでぼやけていた。
「キタちゃんは……今のキタちゃんは! 身体もボロボロで、もうとっくに限界を迎えてるんですっ!」
「は……?」
「そんなキタちゃんがどんな思いで今も走り続けているのか、あなたは知っていますか!? 知らないでしょう……!」
「一体なにを……」
彼がキタサンブラックの状態を知るわけがない。
彼がキタサンブラックの気持ちを知るわけがない。
……私もつい昨日までは知らなかったくせに、なんて恥ずかしげのない。
彼に放った言葉が自分にも鋭い棘となって突き刺さる。
それでも、自分から離れられて良かった、喜んでるだろうと言った彼が許せなかった。
あなたがドーピングなんてしなければ。
あなたが大切じゃないなんてひどいことを言わなければ。
あなたがキタちゃんとずっと一緒にいてあげられていたなら。
もしそうだったなら、きっとキタちゃんは今でも幸せでいてくれて──
キタちゃんがあんなに傷ついて、苦しんで、悲しむことはなかったのに……
「……本日は突然お呼び出しして申し訳ございませんでした。失礼します」
激情を無理やり抑え込んでそう言った。
唖然としている坂川を残して、私は応接室を後にした。