底辺キング   作:シェーク両面粒高

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追想12 連綿と

 朝起きるとサトノダイヤモンドの姿は既になく、テーブルの上に書き置きだけが残っていた。一言だけ“帰るね”とだけ書き残してあった。

 時計を見ると起床予定の時刻を数分過ぎたところだった。

 

「…………ん…………」

 

 意識がはっきりしてきて昨日のことが蘇ってきたけれど、昨日ほど気持ちを乱されないでいた。この感じなら対外的に表面上は誤魔化せると思う。

 

 昨日、サトノダイヤモンドが来てくれて一緒に過ごしたことで、ある程度精神的には安定した。

 電話で話を聞いてくれて、夜も共に過ごした。彼女はここに来てからトレーナーさんのことについては何も触れないでいてくれて、本当に普段通りに傍にいてくれた。

 独りでいたら多分あたしは押しつぶされていたと思う。誰かと一緒にいるということがこれほど心強いものだと改めて感じた。

 

 スマホを手に取り、LANEで彼女に昨日のことについて感謝のメッセージを送った。本当なら電話をして直接伝えた方がいいのだろうけど、彼女の仕事の都合もあるし、今はメッセージだけにしておいた。また夜になったら改めて電話をかけよう。

 

「…………」

 

 頭が今日のことを考える。

 ……昨日のことで、今日学園に行ったら何か起こるかもしれない。トレーナーさんやキングヘイローがあたしやアルファーグにアクションを起こすかもしれない。

 でも、それを今考えてもどうにかなることではない。今日もすべきことがたくさんある。週末のSDTに向けて、午前中はトレセン学園でメディア対応に追われ、午後からは模擬レース含めたトレーニングだ。

 

 本当なら今から日課の朝のランニングに出るところだが……

 

「……もう朝は走れないや……」

 

 と言うのもキングヘイローと出会う可能性があるからだ。早朝のランニングで度々出会っていたように、時間帯やランニングコースが彼女と被っているのだ。

 あんなことをしておいて、彼女の前に姿を現すなんて出来ない。

 

 コースを変えるか……それともトレーニングを調整して夜走るようにするべきだろうか。あるいはその両方か。

 

「……これから考えよう……」

 

 頭を切り替えて、朝の支度に取り掛かった。

 

 

 ◇

 

 

 午前中のメディア対応を終え、午後のトレーニングに臨んでいた。

 今走っているこの模擬レースが今日の最後のメニューだった。一緒に走るグラスワンダーとエルコンドルパサーが秋の始動戦として予定している毎日王冠と同じ1800mで行っていた。あたしがSDTで出場するのは2400mだが、レース前の仕上げとしてはちょうど良い距離だった。

 

 スタートして先頭を奪ったあたしは彼女ら2人を付き従えてバックストレートを走っていく。グラスワンダーがあたしをマークするようにすぐ後ろにいて、更にグラスワンダーから5バ身ほど離れてエルコンドルパサーがいた。

 ハイ寄りのミドルペースで1ハロンごとに同じラップを刻んでいるが、その中でペースを速めたり遅めたりしていた。1ハロンのタイムが同じでも、蹴りだす力や着地位置を微調整して速度を細かく変え、相手を揺さぶるようにレースを運んでいた。

 単なる模擬レースでしかないのに、2人から発せられるプレッシャーを背中に感じる。それらは獰猛な肉食動物のようで、例えるなら息を潜めて獲物を狙うグラスワンダーと、自身の大きな牙を隠そうともせず見せびらかしながら獲物を追うエルコンドルパサーといった感じだった。

 

 単なる世代トップでは収まらないほどの資質を秘めた2人。それだけではなくて、相手があたしであろうと食い殺そうとする闘争心を持っている。

 

(……)

 

 キングヘイローはクラシックが終わったら間違いなくこの2人と戦うことになる。彼女はこの2人に勝てるだろうか。

 キングヘイローを応援したい気持ちもあるけれど、このチームに入ってからの2人も知っているから、どちらに勝ってほしいとかそんなことは言えない。

 

 そんなことを考えていくうちに第3コーナーが目の前に見えた。

 

「……ふっ!」

 

 後ろのグラスワンダーが動く。第3コーナーを半分過ぎたあたりで半バ身まで距離を詰めてきた。外から被せるようにして迫ってくる。

 

(……今はレースに集中しよう)

 

 余計なことを考えすぎていた頭をレース用に切り替える。

 第4コーナーに入ったあたしはペースを上げる。ハイペースでコーナリングし、あたしを捲ろうとしたらオーバーペースになるように調節した。

 グラスワンダーにとっての最善策はこの位置を維持したまま直線を向くこと。ペースを下げ元のポジションに戻すのは少し悪手。意地になって捲っていったら最悪で、直線で失速し自滅するしかない。

 けれど、この展開で()()()()()()()()()()()()()()()()。直線を向いた時点であたしにリードを許せばその時点でゲームオーバー。直線での末脚と競り合いであたしに擦り潰されるだけ。

 

 どこまで彼女が理解をしているかは分からないけれど、どれを選ぶかな? 

 

「……っ……く……!」

 

 グラスワンダーは最善策であるその位置に留まることを選択した。捲ったら直線でもたないことを分かっている。クラシック級の今の時期でこの判断が出来るなら上出来だ。

 

 

 第4コーナーから直線に向く。変わらずグラスワンダーは半バ身後ろに位置しているが、徐々にその差が開き始めていた。

 

「ぐくっ!? ふっ! ふうっ……!」

 

 追い縋ろうとしてくる彼女の息遣いが半バ身から1バ身、2バ身と離れていく。

 

 そもそも、キタサンブラック(あたし)に勝とうとするならマークしてレースを運ぶことが間違っている。実力差を考慮して、あたしに勝つには後ろにいる──

 

「はあああっ!」

 

 ──エルコンドルパサーのように、離れた位置から末脚で強襲するのが最善策。

 

 バ体を合わせないようあたしから距離を取って彼女は迫ってきた。直線を入った時にはまだ6バ身ぐらい離れていたけれど、ぐんぐんと差は詰まってきて3バ身ほどの差になり、グラスワンダーと同じ位置までやって来た。

 そんなエルコンドルパサーが目に入ったか、グラスワンダーも力を振り絞り、なんとかあたしとの差を詰めようと走っていた。

 

 マークしてあたしと向き合って実力で斬って捨てようとしたグラスワンダー。

 自分の持てる力を発揮して最大出力でねじ伏せようとしたエルコンドルパサー。

 

 実力的には遜色ないけれど、性格が出ているなと思った。

 

「……ふっ!」

 

 回転する脚に力を入れてトップスピードまで速度を上げる。すると──

 

 

 ──下肢全体に電流が走ったかのような痺れが一瞬走った。

 

 

(──っ!? 痺れと……痛みも……)

 

 

 痺れの直後に訪れたのは痛み。

 

 

(やっぱり、昨日無理したから…………でも)

 

 

 しかし脚は変わらず動いてくれている。詰まっていた差が3バ身半、4バ身と開いていく。

 

「ふぅ、ふっ……! 必ず、捉えて……っ!」

「はあ、はあ! くうううう~~~~~~、追いつけないデース!」

 

 そんな声が聞こえてきた瞬間、ゴールへとあたしは達していた。

 4バ身遅れてエルコンドルパサー、彼女から半バ身遅れてグラスワンダーの順にゴールしていた。

 

 遅れてゴールした彼女らに声を掛けた。彼女たちに心配させたり負い目を感じてほしくないので、決して脚の痺れや痛みがバレないような歩き方を心掛けた。

 

「ふうっ……2人ともお疲れ様! 走り、良かったよっ!」

「ふっ、ふっ、はあっ……あ、ありがとうございました……まだまだ、精進せねばですね」

「ぜえ、ぜえ……悔しい~~~~! もっともっと、速くなってみせます!」

「あはは! 2人ともその意気だよっ! 毎日王冠にはサイレンススズカちゃんが出るかもなんでしょ? あの娘、もしかしたら今のあたしより強いかもしれないよ?」

「「キタサン先輩以上……」」

 

 そんな話をしていると、清島がコースに姿を現し、あたしたち3人の元へやって来た。

 

 ……表情はいつもと変わらないけれど、どこか雰囲気が違う。長年共にいないと気づかないだろう……少なくともこの2人は。

 

「トレーナーさん、お疲れ様です」

「お疲れさまデース!」

「ああ……キタサン、ちょっといいか」

 

 ……昨日のことだ。それしかない。

 

「……はい。じゃあ2人とも、トレーニング頑張ってね」

 

 

 

 無人のトレーナー室へと連れられた。

 

 

「昨日、なぜあんなことをした?」

「…………」

 

 ……やっぱりそうだ。彼ほどの地位にいれば、トレセン学園であったことなんて何でも情報が入って来るだろう。もしかしたら、トレーナーさんからも連絡があったのかな……。

 

「……黙ってても分からねえぞ、キタサン」

「…………」

 

 話すべきだ。あんなことをしておいて、何も言わないというのは道理が外れている。

 

 ……本音を言えば話したくない。またあの時の感情を思い起こしたくない。

 こんなウマ娘だと知ったら、清島は何を思うだろうか。

 

「…………」

 

 口を噤んでしまう。

 

 ……自己嫌悪に陥る。嫌いな自分がもっと嫌いになる。ここまで来て、結局あたしは自分のことしか考えてない。

 

 過去も、昨日も、そして今日も。

 

「……話したくないんだな」

「…………すみません。清島先生」

 

 彼の優しさに甘えてしまった。

 

「俺に謝らなくていい…………話したくないならそれでいい。でもな、二度と昨日のようなことはするな。いいな……!」

 

 彼の怒気が伝わってくる。

 ……本当に許されないことをしたと改めて認識させられた。

 

 あたしは小さく頷いた。

 

「ならいい。今日はもう上がれ。今週末はSDT決勝だ。……歩様、乱れてるぞ。身体のケアだけしとけよ」

 

 ……自分では取り繕っていたつもりだったけど、彼の目は誤魔化せなかったみたいだ。

 

「……はい。失礼します」

 

 あたしは清島を残して部屋を後にした。

 

 

 その後特別なことは何もなく、ダウンをしてから自宅へと帰った。

 

 

 ◇

 

 

 その日の夕方、帰宅直後のことだった。

 スマホに着信があり、発信先を確認するとサトノダイヤモンドと表示されていた。すぐに電話に出た。

 

『キタちゃん、今大丈夫?』

「うん、大丈夫。……あの、ダイヤちゃん。昨日のこと……ありがとう」

『……ううん。私こそ何も力になれなくてごめんね』

 

 そんなことはないと否定してから、電話してきた理由を尋ねた。

 

『実はね……今日の午前中、坂川さんと会ってきたんだ』

「──え? なんで……なんでっ!?」

 

 突然告げられた事実に衝撃を受ける。

 

「どういうことっ?」

『……私が呼び出して、少しの間だけ話をしたの』

 

 まだ頭が混乱している。

 

「なんでっ? ダイヤちゃんはいったい……」

『あの人がどういう人間なのか知りたかったから。……キタちゃんを傷つけて悲しませたあの人が──』

「そういうことじゃないよっ! どうしてっ!?」

『落ち着いてキタちゃん! ……黙って勝手にこんなことをしたのは悪いと思ってる。ごめんね……』

「……っ」

 

 そう言われると何も言えなかった。どういうことかはまだ分からないけれど、親友の彼女がすることなのだからあたしの為であることは間違いない。

 

「……ちゃんと説明してくれる?」

『……うん。最初から話すね』

 

 数秒の時があたしたちの間に流れる。あたしはただ彼女の言葉を待った。

 

 今日の朝にトレセンの事務を通して連絡を取り、応接室でトレーナーさんと話をしたと彼女は言った。彼と会うのはドーピングが発覚する前以来で10年ぶりだったらしい。

 キングヘイローは打撲や擦り傷こそあるものの、どこかを痛めたり大きな故障などは無かったことも聞けて、少し安心した。

 

『昨日のキタちゃんの話を聞いて、あの人のことを見定めないといけないと思った。……キタちゃんがずっと知りたくて、でも確かめられなかったことを訊くために』

「あたしが……確かめたいこと…………え……な、にを……?」

 

 

 

 あたしが知りたかったこと。それは──

 

 

 

『……なんでキタちゃんにドーピングしたのか。キタちゃんのことをどう思っているのか』

「──っ」

 

 

 

 ──トレーナーさんがあたしのことをどう思っているのか。

 

 

 

「本当に、訊いたの……?」

『うん。…………あの人は──』

「嫌……」

 

 嫌だ。

 

『キタちゃん……?』

 

 

「いやっ!!!」

 

 

 叫びが部屋に響く。

 

 ……聞きたくない。

 

 だって、それがどうしようもなく恐ろしいから。

 

「聞きたくないよ……怖いよ……」

 

 それを知るのが怖かったから、ずっとあの場所で動けないでいたのに。

 

『…………』

 

 電話の向こうにいるサトノダイヤモンドは口を噤んでいた。言葉を選んでいるような雰囲気が伝わってくる。

 

『……今のままじゃ、キタちゃんはずっと()()で苦しんでいるままだと思ったんだ。私は……そんな……そんな風に、心と体をボロボロにして苦しんでいるキタちゃんを放っておけなかった。見てられなかった。…………ごめんね。勝手なことして本当にごめん』

「……」

 

 あたしの為を思ってのこと。それは他の誰よりも理解している。

 でも恐怖心は拭えない。あたしの心の深くまで染みついているものだから。

 

『キタちゃんがどう思うか……正直言うと、私も分からないよ。でも、知らないと()()から進めないと思ったから。……これも私の勝手な考えだって──』

「……ううん。ダイヤちゃんが、あたしのこと考えてくれてるのは分かってるよ」

『……ごめんね、キタちゃん。…………話してもいい……?』

 

 ──怖い。

 

 ──怖い。

 

 ──怖い。

 

 

 でも……

 

 

『あの人に、なんでドーピングをしたのか尋ねたの。彼は──』

「…………」

 

 

 あたしは通話を切らないし、こうやって言葉を待っている。

 

 

 それが諦めなのか、停滞なのか、前を向いているのかは分からない。それとも、楽になりたいだけ……? 

 

 

『──本心を教えてはくれなかった』

「……え?」

 

 彼女が言ったのは、予想していたどの言葉でもなかった。

 

「どういうこと……?」

『落ち着いて聞いてね。……あの人は、過去の自分を最悪で未熟なバカだって非難してた。自分のことしか考えていなかったとも言っていた。ドーピングでキタちゃんが傷つくと思わなかったのかって聞いたら、思わなかったんだろうって言ってた。ドーピングしたという事実が全て物語っているって』

「……っ……」

 

 胸が軋む音を立て、締め付けられるように痛くなる。受け止めるだけで精一杯で、痛くて苦しくて息が漏れた。

 

『キタちゃんっ……さっき言ったこと覚えてる? 話す彼を見ていて、それが全部本当の……本心じゃないような気がしたの。彼は淡々と話していたけど、何かを隠しているような気がした』

「……そう……」

 

 サトノ家のウマ娘として多くの人と接した経験と、天性の鋭い直感を有する彼女の人の見る目は優れていると知っている。そいういう機微に聡い彼女がそう言うのだから、何かを感じたことは確かなのだろう。

 

『それがどんなものなのかは分からないけど、少なくともキタちゃんに対する怒りとか無関心とか、そういう負の感情は感じられなかったよ。……彼は本心を全部明かしてはいないけれど』

「……?」

『キタちゃんのレース、全部見てたって』

「え…………ほんとう……?」

『うん。キタちゃんが走りやライブでたくさんの人に笑顔と元気を与えて……夢が叶って良かったって言ってたよ』

「……そう……そう、なんだ……」

 

 

 

 どういう思いをあたしに抱いていようと、彼はあたしのことを見てくれていた。

 

 

「あぁ……」

 

 

 その事実だけでいい。

 

 

 それだけであたしは救われ──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────そうやって、また嘘ばかりついて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 また、あの時の自分の声。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────救われた? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────あたしが本当に知りたいのは、トレーナーさんが()()()()()ってことでしょ? 

 

 

 

 

 

 

 

 

(……分かってる。それでも)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────それでも? 

 

 

 

 

 

 

 

 

(……これでいいんだ)

 

 

 

 

 

 

 

 ────…………

 

 

 

 

 

 

 

(トレーナーさんがあたしのことを見ていてくれたって、それを知れただけでいい。だって……)

 

 

 

 

 

 

 

 

 過去のことがあったにせよ、トレーナーさんが大切にしている担当ウマ娘であるキングヘイローをあたしは痛めつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本心までは分からないまでも、あたしのことを見てくれてそう思ってくれる人に対して、あんなこと(昨日のこと)をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 許されないことをした。

 

 

 

 

 

 

 

 そんなひどいことをした自分が、これ以上何を望めるだろうか? 

 

 

 

 

 

 

 

『今日話したのはそんなところ。……今考えると、あの人がキタちゃんを見てきて笑顔や元気を得たかってところまでは聞き出せていなかった……ごめんね。話している途中、感情的になっちゃって……』

 

 彼女もそのことに触れていた。昨日全てを話したから、彼女も理解してくれていたんだ。

 

「ううん。ありがとうダイヤちゃん。それで十分だよ。ねえ、ひとつだけ約束してほしいことがあるんだ」

『なに?』

「これ以上、トレーナーさんに関わらないであげて」

『……え?』

「トレーナーさんが自分自身の道を歩んでいるのを、邪魔しないであげて」

 

 不意に、キングヘイローに駆け寄る昨日のトレーナーさんの姿が頭をよぎった。

 

『…………』

「昨日のことに関しては全てあたしが悪い。許されない。言い訳の余地なんてない。……関係のない担当ウマ娘にあんなひどいことをしたのに、これ以上あたしのことで迷惑をかけたくない。あたしも、彼には関わらないようにするから」

 

 彼女の直感が正しいなら、トレーナーさんはあたしに対して悪く思っていなかった。なのに、あんなことをしてしまったという事実。

 ……彼があたしのことを嫌っていて無関心な方がまだ良かったかもしれない。

 

『……でも、彼は本心をおそらくまだ隠している。それが良いものか、悪いものかは分からないけど…………聞き出したいなら私がまた──』

「もういいんだ。会って聞き出すなんて絶対にやめて。……お願い、ダイヤちゃん」

『…………なら、キタちゃんはこれから──』

「今は目の前に迫ったSDTを頑張るよ。レースのことは……SDTが終わってから考えるよ。体のこと、心配かけてごめんね。本当に無理はしないから」

『………………約束だよ』

「約束する。……ありがとう」

『ううん。私は何も力に…………。SDTを見に阪神には行くから。またね』

「ありがとう。またね」

 

 そうして通話を切った。

 

「…………」

 

 部屋には静寂が戻った。

 

 

 

 そして聞こえてくる声がまた──

 

 

 

 

 

 ────そうやって、また自分に嘘をつくんだね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────なにも変わってないね。やることなすこと、今までと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────どうせすぐ誤魔化せなくなるよ。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 阪神レース場、ロング部門2400mで行われるSDT決勝当日。

 あたしは今まさにそのレースを走っていた。

 

 スタートして逃げるミホノブルボンの2番手につけ、彼女の2バ身後ろを単独で追走していた。あたしの後方にはバ群が密集して追ってきていた。

 ミホノブルボンは正確なラップを刻んで走っている。おおよそのラップタイムにあたりをつけ、バ場状態と照らし合わせて仕掛けるタイミングを計る。もちろんミホノブルボン自身の走りも見て、後ろを走っているナリタブライアンの位置にも気を配りながら。

 ……背中にプレッシャーを感じる。後続のウマ娘全員があたしを標的にしている。

 

 レースは既に後半。阪神外回りの第3コーナーへと入りコーナリングをしていく。

 ミホノブルボンが第4コーナーに差し掛かったところで僅かにピッチを上げたのを見逃さなかった。

 

(……ここっ!)

 

 加速しペースを上げる。ミホノブルボンとの差を縮め、外から彼女に被せるように進出していく。

 あたしに合わせて後続のバ群が動いて迫ってくる。後続のバ群がぎゅっと凝縮した一団となって、前を走るあたしたち2人を追ってきた。あたしと後続はもう2バ身差もない。

 

 ミホノブルボンまで半バ身差まで詰め寄ると、最後の直線が見えてきた。

 

『第4コーナーを通過し直線へ向きました! ミホノブルボン粘る粘る! キタサンブラックは捉えることができるか!? そしてナリタブライアンが外に持ち出して上がってきたぞっ!!!』

 

 直線を向き、スパートをかける。最高速まで一気に速度を上げ、ミホノブルボンを捉えにかかった。

 

 残り300mあたりで内で抵抗するミホノブルボンを交わして半バ身ほど前に出て先頭に立た。

 

『やっぱり強いのかキタサンブラック!? WDTに続いて、またも仁川は祭りになるのか!? 外からナリタブライアンも物凄い脚で突っ込んでくるぞ!』

 

 後ろを確認するまでもなく、後続から一人だけ違う脚で追い込んでくるナリタブライアンの気配を感じる。

 だが、このままいけば先頭のまま押し切れる──

 

 ──突如、下肢全体に鋭い痛みが走った。

 

(っ!? 脚が……!)

 

 鋭い痛みは治まらず、むしろどんどん強くなる。痺れもやってきて、脚全体の感覚が薄く遠くなっていく。着地している感覚が無い。どこに脚があるのか、どういう動きをしているのか分からなくなる。腰から下が無くなってしまったかのように感じた。

 ワンテンポ遅れて脚の回転が落ちていく。ストライドも小さくなる。結果、速度が目に見えて落ちてきた。

 

『なんとミホノブルボン再加速!!! まだスタミナを残していたのかっ!!!』

 

 内で抵抗していたミホノブルボンが再度加速して差し返してくる。

 バ場の中央、横位置的には3人分ぐらい離れた位置に、後方から来たナリタブライアンが末脚を発揮して迫ってきている。

 

(レース中にこれだけの痛みと痺れなんて……)

 

 これまでも大なり小なり痛みや痺れはあったにせよ、精神力で抑え込めばなんとかなっていた。

 レース中にここまでひどくなるのは初めてだった。脚が鈍るほどの痛みと痺れは経験したことが無かった。

 ……いや、それだけじゃない。神経に関連していることだから、下肢の筋を動かす神経にも影響が出てているんだろう。だから脚が思うように動かないのだ。

 キングヘイローと走って無理をしたことが、ここに来て影響していることは明らかだった。

 

 残り200m。

 ミホノブルボンにクビ差リードを許した。

 

『ナリタブライアンが前に迫ってくる! 前に迫ってくる! 先頭とは3バ身!』

 

 ナリタブライアンの勢いはあたしを凌駕している。あと数秒のうちにあたしは交わされるだろう。

 

 

 おそらく、あたしは負ける。

 

 

 そう思い至ると、胸にすっと落ちるものがあった。

 

(…………)

 

 いい加減、限界が来ていたのは分かっていた。いつかは訪れる瞬間が今来ただけ。

 これまでたくさんの人に笑顔や元気をあげることができていた。あたしは十分に満たされていた。

 

(もう……いいのかな……)

 

 こんな無理をしなくてもいいのかと思うと、少し安堵した気持ちになった。

 これでサトノダイヤモンドも安心して──

 

 

 ──彼女の顔が浮かんできたその瞬間だった。

 

 

 トレーナーさんについて彼女が伝えてくれたことが頭の中に蘇ってくる。

 

 

“トレーナーさんはあたしのレースを見ていてくれた”

 

 

(トレーナーさんが…………見てくれている…………)

 

 

 おそらく、今も。

 

 

 ずっと不安だった。これだけ頑張って走っていても、トレーナーさんはあたしのレースなんて見てないんじゃないかって。

 ……これまでのことも、キングヘイローとのことがあったとしても、彼が本心ではどういう思いであたしの走りを見ているか分からないとしても。

 

 

 どこかで、トレーナーさんがあたしのレースを見てくれている。

 

 

 それだけでいい。

 

 

 あたしには、それだけでいい。

 

 

(痛みがなんだ、痺れがなんだ……!)

 

 

 彼が見てくれているかもしれないと分かっているレースで、負ける訳にはいかない! 

 

 

(それぐらい、ねじ伏せてみろ! キタサンブラック(あたし)ッ!!!)

 

「ぐっ!! あ、ああぁぁぁぁ!!!」

 

 

 残り100m。

 全てを絞り出して脚へエネルギーを集め、駆けていく。痛みと痺れを逆手に取って脚の位置と回転を知覚する手段とし、プラス視覚と今まで走ってきた経験で補っていく。

 

 下肢が感電したかのような強烈な痛みで目の前に火花が散る。脳が焼けきれるほどに痛みが強くなる。

 全て精神力でねじ伏せた。

 

 速度が回復していくのが分かる。再びミホノブルボンに迫っていく。

 

『キタサンブラック!? キタサンブラック差し返す! 差し返されたミホノブルボンを差し返すっ!!!』

 

 ミホノブルボンを差し返して競り落とし、アタマ差だけリードを奪う。

 

 残り50m。

 

 ミホノブルボンと半バ身差をつける。

 ナリタブライアンは末脚で一完歩ごとに差を詰めてくる。

 

『差し返したキタサンブラックっ! 粘るミホノブルボンっ! なんという激戦だ! 外から追い詰めるナリタブライアンっ! 勝つのは──』

 

 すぐ真横までナリタブライアンが迫ってきたところがゴールだった。

 

『キタサンブラック抜け出したっ! 1着でゴールインっ!!! ナリタブライアンはクビ差の2着! 3着は半バ身遅れてミホノブルボンとなっております!』

 

 走り終えてペースを緩めて、膝に手をついて息をつく。

 そんなあたしに対して、一気に沸き上がったスタンドからの歓声が浴びせられた。

 

『絶対王者の牙城、未だに崩れず! このロング部門でも優勝はキタサンブラックですっ!!!』

 

「はっ、はっ、……ぐぅ……があっ……」

 

 息を整えて顔を上げる。たくさんの観客の喜んでいる顔が目に入ってくる。

 

 

 同時に、その光景に既知感(デジャヴ)を感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 ────ほら、すぐ誤魔化せなくなるって言ったでしょ? 

 

 

 

 

 

 

 

 今日もトレーナーさんはどこにもいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこかで見ていてくれているかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 でも、どこを探してもその姿はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこにもあなたの笑顔はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの頃からの違和感はずっと残ったまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────結局、あたしがほしいのは()()()()()()だもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 脚の状態を確かめながらウイニングランに臨んでいた。

 

 確かに痛みと痺れは酷いが、走っている時と比べると引いてきている。股関節や膝関節、足関節にもこれまで以上の痛みはなく、故障はしていないようだった。腰を含めた脊椎の痛みは酷いものの許容範囲内。

 休養しケアをすれば何ら問題はないレベルだ。

 

 ……あたしはまだ走れる

 

「ごめんね、ダイヤちゃん……」

 

 関係者席にいる彼女に向けてそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 まだあたしのレースは続いていく。

 

 

 

 

 

 この葛藤を抱えたまま。

 

 

 

 

 

 

 あたしが終わるまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 訪れるはずのない未来を(こいねが)いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回より本編に戻ります
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