アドマイヤベガのトレーナーはグラスの中の氷に目を落としていた。
「……そうか。退学させちまったか」
「1年目、ホープフルが終わって新年に入るまで俺のチームはアヤベしかいませんでした。新年の振り分けで4人ウマ娘が入ってきて、そのあとスカウトとかで入ってきたウマ娘もいて、それで……」
先程の彼の言葉から察するに、その中の複数人が未勝利戦で勝てなかったのだ。
「今、お前んとこに何人担当いるんだ?」
「アヤベ合わせて9人です」
「……多いな」
2年目のトレーナーが一人で捌くには骨が折れる人数だ。メディア対応に追われトレーニングや勉強に割ける時間が絶対的に減少しているだろうし、かなり厳しい状況だと容易に想像できる。
「逆スカウトみたいな感じで、たくさんのウマ娘が俺のチームに入りたいって言ってくれて……これでも大半は断ったんですけど……」
輝かしい実績に加えてこの容姿と人当たりの良さ、ウマ娘に人気が出ない方がおかしいだろう。
「まだ勝ててない奴もその中にいるんだな」
「……」
彼は力無く頷いた。
無言の間が続いたあと、彼はまたバーボンのダブルを頼んだ。
「それがお前の焦りの大元か」
「……今日の発表会の後に質問してたのも、基礎的なスピードが足りないウマ娘がいて、それを強化するトレーニング理論について詳しく聞いていたんです」
「あんなに必死だったのはそういうことか。あの発表、事例検討に近かったしな」
「彼女たちのこともあります。そして……さっき言ったアヤベもです」
運ばれてきたバーボンに口をつけてから、彼は下を向いたままアドマイヤベガとのことをぽつぽつと語り始めた。話題がこうやって突然戻るあたり、彼も酔いが回っているのだろう。
「彼女は生い立ちというか……詳しくは言えないですけど、生まれに関して抱えているものにずっと悩まされていました。ダービーの後からその悩みが深刻になって、苦しんでいて…………脚を壊しそうなほど自分を追い込むようになったんです。夏合宿、菊花賞、そしてつい最近までそれは続きました。……俺は彼女を止められなかった」
何かに悩んでいたアドマイヤベガと聞くと、彼女を初めてコースで目にした日のことを思い出される。時折足を止めて、夜空を見上げて物思いに耽っている姿は今でも鮮明に覚えている。
「今レースに出てねえのは故障したからか」
「いえ、幸いにも故障まではいってないんです。故障に至る前に、アヤベは彼女の友人である同期のウマ娘たちの支えと、自分自身の力で乗り越えていきました。…………俺は何もできませんでした。止めないといけないのに、何も出来なくて、何をするのにも遅くて、挙句の果てに彼女は倒れて──」
彼はまたバーボンを一気に飲み干した。間髪入れずに次も同じものを頼んでいた。
いくら酒が強いと言っても飲み過ぎだ。
「様子がおかしいのはずっと分かってたんです! 全然眠れてないみたいで、顔色も悪くて、思いつめた表情を浮かべることが多くなっていました。ダービーまではレースに対する熱とか、楽しむ心……レースに前向きになっていたのに、それが段々失われて……。京都新聞杯は勝てましたけど、菊花賞は明らかに精彩を欠いたレースになって──」
ナリタトップロードが勝った菊花賞、アドマイヤベガは6着に負けた。確かに道中ずっと引っかかり気味で彼女はレースを運んでいた。後方に位置していたのにスローペースであったことと、4コーナー勝負所のバ群のごちゃつきもあり力を全く出せていなかった。
「菊花賞からしばらくして、無理な追い込みが祟ってアヤベは倒れました。脚に異常は見つからなかったんですけど、気持ちが切れて抜け殻みたいになってしまいました」
「それを救ってくれたのがアドマイヤベガの同期で、あとは自分の力で乗り越えていった、か。それで、お前は何もできなかったって話に繋がると」
「…………はい。完全に言い訳ですけどアヤベだけに注力するわけもいかなくて、他のウマ娘たちもちゃんと見てあげなくちゃいけなくて……何もかもが中途半端で、うまくいかなくて……」
彼のグラスを持っていない方の手が震えるほど強く握られていた。
「アヤベのことも、退学になった娘も……俺にできることはもっとあったはずなんです! もっと……絶対に……」
彼が口をつけたグラスをテーブルに勢いよく置くと、半分ほど残ったバーボンが波紋を描いて揺れていた。
完全に酩酊している彼が吐露しているのは心の底にあった本音なのだろう。
退学させてしまったウマ娘とアドマイヤベガに対して後悔と無力感に苛まれているのだ。
「……坂川さんも、そう思ったことってありますか? もっとできることがあったはずだって、後悔したことありませんか?」
「俺か? まあ、そうだな。あるぞ」
「そうですよね……。あの……担当ウマ娘を退学させてしまったことも……?」
未勝利戦で勝てずに泣いていた担当ウマ娘たちの姿が脳裏をよぎっていった。
「お前とは比にならないぐらいの数をな。何人退学させたか数が気になるなら後からサイトで調べてみろよ」
「…………そうですか……すみません……」
「何も珍しい話じゃない。トレーナーなら普通のことだろ。天才か、それともうまくトップチームのサブにでもなれた奴か、運のいい奴か……一握りだけだ、そういう経験をしなくて済むのは」
彼は目線を下げたまま、グラスの中の琥珀色を見つめていた。
「昔、ある人にこんなことを言われた」
「……?」
「勝者の椅子は限られた数しかない。だから退学するウマ娘が出るのは避けられないし、これからも変わらない。勝ち上がれないウマ娘を担当するなんて損な役回りは、それこそ貧乏くじを引いたみたいなもんだってな」
「……言ってることは分かります。でも、退学するウマ娘を貧乏くじって表現するの…………俺は嫌いです。それに誰かに勝ち上がれないウマ娘を押しつけてるみたいで……」
そう言いたくなる気持ちも分からなくもないが、それが現実だ。
誰かが勝ち上がった分、他に割を食う奴が出てくる。担当が勝ったら他のウマ娘が……なんて考えたってどうしようもない。善し悪しの話じゃなく、トゥインクルシリーズがそういうものだと理解して納得する他ない。
「坂川さんは、その…………大丈夫ですか?」
「は? どういう意味だ」
「担当を退学させることです。正直、こんなきついものだとは思ってもいませんでした……」
彼は心臓を握るかのように服の胸元を掴んでいた。
「一番辛いのは退学になったウマ娘なのに、トレーナーが何言ってんだって話ですよね……」
彼の言葉に対して首を横に振ってそれを否定した。
ウマ娘も辛ければ、トレーナーだって辛いのだ。
「こういうのって、経験すれば次第に慣れていくものなんでしょうか……? 坂川さんはどうですか?」
「慣れる、か」
そんなことを訊いてくる彼を見ていると、また過去のことを思い出してしまった。
退学するウマ娘の泣いている姿と、誰一人勝たせられなくて足掻いていたあの日々を。
3杯目のナカに残り少ないソトを全て注いだ。グラスの中では泡が上がっては消えていった。
「……」
「……坂川さん?」
こうしていると、退学するウマ娘のことを話している現状とは少し違うが、ドーピングに至るきっかけとなった先輩との会話が自然と思い出された。
あのときの俺はキタサンブラックにGⅠを勝たせたくて焦っていた。そんな俺に彼が言った言葉を俺は今でも覚えている。
──『お前が悩んでることに対して、トレーナー15年やってきた今の俺から言えるのは、『諦めて受け入れろ』ってことだけだ』──
──『お前はキタサンが初めてのウマ娘だから、GⅠを取らせたいって気持ちは痛いほどわかる。でもな、ウマ娘を何十人も担当してくると、次第に諦めがつくようになる。……いや、諦め方が上手くなるって方が正しいな。直にお前も慣れるさ』──
彼の声が頭の中に蘇ってきたところで、ふと腑に落ちたものがあった。
(ああ……そういうことか)
目の前にいるアドマイヤベガのトレーナーは、おそらくあの時の
そして、ここにいる坂川健幸はあの時の先輩だ。
巡り巡って、俺は逆の立場になっているのだ。
だが俺は先輩じゃない。坂川健幸だ。あの時の坂川健幸でもなく、今ここにいる坂川健幸だ。
今ここにいる坂川健幸という人間は、
あの時の先輩はウマ娘を勝たせられないことを諦めて受け入れろと、そして諦め方が上手くなり、次第に慣れると言っていた。
俺は──
「慣れねえよ」
「……え?」
「慣れない。退学するウマ娘を何人経験しようがずっと悔しくて辛いままだ。なんも変わんねえよ、一番最初に退学させたウマ娘も、一番最近に退学させたウマ娘も。後悔ばっかりで最悪な気分だ。もっとできたことがあるだろ、あの時こうすればなんて、しょっちゅう思ってるぞ」
「…………」
「ま、あくまで俺の場合はだけどな」
予想していた答えと違ったのか、彼の表情には少しの驚きが見えていた。
「慣れないなら、どうやって乗り越えて──」
「乗り越える……どうなんだろうな。俺は乗り越えられてねえと思うぞ」
「へ? どういう……」
「ずっと悔しくて辛いままだって言っただろ? ただまあ、経験積んでその悔しさや辛さを次への糧にすることは出来てるとは思う。それを乗り越えるって言うのかどうかは分からん。……今はたまたま未勝利のウマ娘はウチにいねえけど、どうせまた入って来るだろうし。そん時はまたみっともなく足掻くだけだ」
後悔と無力感に苛まれる現状は変わらないが、経験を積んでそれを糧にできるようになったというのが俺の回答だった。よくよく考えると何の回答にもなってはいない気がする。
「…………そういう風に」
「ん?」
「俺も折り合える日が来るんでしょうか……」
「さあな。さっきも言ったがあくまで俺の場合なだけであって、今話したのが正しいとかそんな話じゃねえぞ。トレーナーが100人いれば100通りの考え方や対処があるだろうしな。例えば、担当を退学させんのが嫌なら未勝利レベルのウマ娘を担当しなくて済むようなトップトレーナーになるってのも立派な対処法だ」
「……なんか、坂川さんって言い方が意地悪ですよね」
「否定はしない。綺麗ごとだけじゃやっていけねえんだよ。“天才”でもない限りはな」
彼が天才かどうかは分からない。でも、おそらく俺も彼も凡人なのだ。あの時の先輩と俺と同じように。
「お前なりの答えが見つかるまで、お前なりに無理せずやっていくんだ」
「俺なりの答え……」
「ああ。忠告しとくが、自分を追い詰めたって碌なことにならねえぞ」
かつての自分がそうだった。
「分かってはいるんですけど……」
「ならせめて表に出るほど体調崩すなよ。担当してる奴らだって気づいてると思うぞ。ガキだと思っていても、意外とあいつらはトレーナーのことよく見てるもんだ」
「……はい。分かりました」
残っているホッピーを飲み干す。ナカの割合が多く薄くて度数の高いこの味が俺は好きだった。
「……話したらちょっと楽になった気がします」
「なら良かったわ」
「……ありがとうございます」
料理に手を付けながら彼の表情を伺うと、確かにさっきよりも気の抜けた表情をしていた。酒が入っているのもあるが、彼の言うように少しは楽になったのだと思う。ちょっとでも肩の荷が下りてくれたのなら、今日無理に誘った甲斐がある。
彼は残っていたバーボンを飲み下すと、店員をまた呼んでいた。
「流石にやめとけよ。後から来るぞ。本当に大丈夫か?」
「度数の弱いやつにしますから。チェイサーも頼むので」
グレープフルーツサワーとチェイサー……水も頼んでいた。
その後しばらくお互いの近況を話しながら料理と酒を口に運んでいった。
アドマイヤベガはじめ担当しているウマ娘トレーニングや走りについても相談されたので、出来る限りで話を聞いてアドバイスをした。
◇
それから更に1時間以上は経過しただろうか。
テーブルに突っ伏している男が目の前にいた。
「……うぅ……」
アドマイヤベガのトレーナーは見事に酔いつぶれていた。少し前にトイレに行って帰って来てからこうして突っ伏してしまっているのだ。
バーボンのダブル連発がテキメンに効いていた。グロッキーになってないあたり酒には強いのだろうがザルには遠かったようだ。
「言わんこっちゃねえな。おい、水飲んどけよ」
「………………はぃ……」
彼は顔を上げて水の入ったグラスに口をつける。その両目は焦点があまり定まっていない。
入っている水を全て飲み干すと、再びテーブルに突っ伏した。
「…………ぅん……すぅ……」
寝息が聞こえてくる。……非常に面倒くさいことになってきた。
「おい寝るなって」
「おきてます……おきてますよ…………すぅ……すぅ……」
「どうすっかな……待つしかねえか」
今日はド平日なので店の閉店時間は大分早いらしい。このまま水を飲まし続けて回復を待つことにしたが、閉店時間が来たら出ていかなければならない。眠いなら眠らせてやりたいがそうもいかない。誘った手前、介抱もしてやらないといけない。
突っ伏した彼を時々呼びかけて起こし水を飲ませながら、俺は一人でちびちびとやっていた。トイレに行きたそうにしたら一緒に扉の前まで誘導した。
気になって彼が飲んでいたバーボンのダブルを飲んでみたが、まあやはり度数が強い。よくこれを何回も飲めたもんだと感心した。やはり肉体的にも精神的にも疲れが溜まっていたのだろうか。今のこれも酒と疲れで眠たいのだろう。
それからまたしばらく。
ラストオーダーの注文も届き、そろそろ閉店時間が迫っていたが、彼は変わらず机に突っ伏していた。肩を貸せば外も歩けそうなので退店は問題ないが、店を出た後どうするかを考えていた。どこか違う居酒屋探して酔いが醒めるのを待つか、それともトレーナー寮に帰るか。
そんなことを考えていると、彼の方からスマホの軽快な着信音が聞こえた。どうやら電話のようだ。
「おい。電話みたいたぞ」
「ん……はい……」
むくっと起きた彼はスマホを取り出してテーブルの上に置いて、スピーカーにして電話に出た。スマホはなぜかわざわざテーブルの中心に置かれていた。
『もしもし』
スマホから聞こえてきたのは女の声だった。
「……アヤベ」
(アドマイヤベガかよ)
電話をかけてきたのは今日散々話題に上がったアドマイヤベガだった。そう言われると確かに去年の夏合宿の時やテレビでインタビューで聞いた声と合致している。こんな時間に一体何の用なのだろう。
彼はテーブルに置いた腕を枕にしてスマホをとろんとした目で見つめていた。
『ええ。……あなた、どこにいるの? トレーナー室にも寮にもいないようだけど』
「……ちょっと……外へ食事に行ってるんだ……」
『……そう。会って少し話したいことがあって──』
「空いたお皿お下げしまーす」
急に扉を開けて女性店員が入ってきた。
『──え』
「……あ」
何故か彼は店員が入ってきた瞬間にスマホの通話終了ボタンを押した。
「失礼しまーす」
店員は空になった皿やグラスをテキパキと重ねて持って出ていった。
「なんで切ったんだ」
彼は女性の声がした瞬間に通話を切った。相手はただの担当ウマ娘なのだから気にするのもおかしい話だが、誤解されるというか勘繰られてもおかしくないだろう。それにこういう話は思春期の女にとって大好物だ。もっとも、アドマイヤベガがそういうウマ娘かどうか知らないが。
「いや、なんか…………」
彼はまたうつらうつらとし始めたなか、またもスマホの着信音が鳴り響いた。半分寝ているような状態で彼は通話ボタンを押して電話に出た。
「……ごめんな。いきなり切ったりして……」
『えっと……その…………』
アドマイヤベガは言葉を継げず黙ってしまった。一方でトレーナーはまた舟を漕いでいて、ゆっくりとテーブルに乗せている自身の腕へと頭を預けた。
『ごめんなさい。配慮が……ええっと……邪魔をして……』
……いい具合に勘違いしてそうな感じだった。
「………………すぅ……」
そんなことは露知らず、彼は静かな寝息を立てて寝始めた。
『……あの…………トレーナーさん……?』
……駄目だ。起こすにしてもどうしても俺が介入するしかない。
意を決して間に入ることにした。
「ちょっといいか」
『っ!? あなたは……?』
「坂川健幸だ。去年夏合宿で会っただろ。キングヘイローのトレーナーだ、覚えてるか?」
アドマイヤベガは思い出しているような数秒の間のあと、覚えていると言ってくれた。
彼女に今日ここまでの経緯を説明した。2人で繁華街まで飲みに行って、彼が酒を飲み過ぎて潰れてしまったこと。先程の女性の声は店員の声で、なぜか彼がそのタイミングで電話を切ってしまったことを話した。
それを話している間も彼はすやすやと寝息を立てて寝ていた。
「お前のトレーナーは気持ちよさそうにもう寝てる。安心しろ俺が介抱──」
『私が迎えに行きます』
「は?」
『夜間外出の許可は取ってあります。場所を教えてください』
「別に気にしなくていい。夜も遅いし、俺がちゃんと──」
『お願いします』
「……なんでだ? 俺が信用ならねえのか?」
『いいえ。……トレーナーさんがそうなってるのは…………私のせいでもあると思うので』
起きる様子のない彼とスマホを交互に見やった。
何と言うか……このトレーナーにして、このウマ娘ありだなと思ってしまった。そう言われてしまったのなら仕方ない。彼女のその気持ちを無駄にしたくない。
「……分かった。こいつの寮の部屋、何号室か知ってるか?」
『知ってます』
「じゃあ学園までタクシーで行くから、トレーナー寮の部屋まで送ってやってくれ。こいつの部屋何号室か知らねえし」
さすがに迎えに来させるのは効率が悪いし、わざわざ来させる必要もない。
『分かりました。……トレーナーさんを、お願いします』
そうして通話は切られた。
「…………ちゃんとやってるよ、お前は」
眠っている彼にそう伝えてやったのち、会計を済ませてから彼に肩を貸して店の外に出た。タクシーはすぐ捕まり、学園へと直行した。彼は車の中でもずっと眠ったままだった。
◇
タクシーがトレセン学園の校門前にたどり着くと街灯の下にアドマイヤベガがいた。
「おう。すまねえな。おい、降りるぞ」
「……ううん……はい……」
「トレーナーさん……」
降ろした彼を支えるようにアドマイヤベガが寄り添った。ウマ娘なら任せておいて大丈夫だろう。
「任せていいか?」
「はい。……ありがとうございました」
「元々はそいつ連れ出したのは俺だからな。本当に礼を言われる筋合いはねえ。…………」
「……? あの、なにか……?」
担当トレーナーを支えているアドマイヤベガをじっと見てしまっていた。
初めて彼女を見た日のことを思い出す。
……もしかしたら、俺とアドマイヤベガがともに歩んだ未来だってあったのかもしれない。もしそうなら、どんな未来になっていただろうか……そんなことを考えてしまったのは、俺も酔いが回っているからだろうか。
だが、寄り添う2人を見ていると、これが一番良かったんだろうと思えることができた。
「……なあアドマイヤベガ」
「ええ……?」
「言ったって、言葉にしたって伝わるとは限らない。けどな、もし伝えたいことが、思ってることがあるなら、ちゃんと本人に言ってやれ。そうしないと伝わるものも伝わらねえぞ」
「…………」
「じゃあな。その酔っ払い頼むぞー」
俺は2人に背を向けて歩き始めた。
「アヤベ……ごめんなあ……」
「……もう……私こそ……」
そんな会話が離れた背後から聞こえてきた。
俺は寮に戻らずトレーナー室へと向かった。
部屋に入った俺はモニターを準備して、あるレースを映し出した。彼と話をしていて、どうしてか見たくなったのだ。
見たくなったのは、キタサンブラックのトゥインクルシリーズ引退レースである有馬記念だった。
ハナを切り、一度も先頭を譲ることなく1着でゴールした。実況だってそらで言えるぐらい何度も何度も見返したレースだ。特に未勝利戦で1人も勝たせられなかった時には、彼女の過去のレースを見返して元気をもらっていた。
画面の中の彼女は笑顔でウイニングランをしていた。
「…………」
このレースをリアルタイムで見た時は最初の5人を退学にしてしまった年だ。
彼女が夢を叶えた姿を見て、俺も頑張らないとと思っていたことを今でも覚えている。
その流れでウイニングライブも通して見て、最後に彼女が観客へと話しかけているシーンになった。
ステージの上で彼女は輝いていた。彼女はカメラ目線で、画面のこちら側を見つめているようだった。
『あたしの走りで、あなたに笑顔と元気を届けられましたか?』
『あたしの歌で、あなたに感謝の気持ちを伝えられましたか?』
『あたしは、あなたの夢になれましたか?』
机の上で万年筆が鈍く光っている。
「……………………」
そう言って涙を滲ませるキタサンブラックを、ただ見ていた。