じきに正午になろうかという1月1日、俺はトレセン学園のプールにいた。もちろん俺がプールに入っているわけではなく、ここでトレーニングをしている担当ウマ娘をプールサイドで見ているのだ。
持ち込んだ折りたたみのアウトドア用チェアに腰を下ろし、泳いでいる時間と往復回数を記録していた。
元旦ということもあり、プールにもウマ娘やトレーナーの姿はほとんどなかった。正月明けすぐのレースを控えている陣営でも、スケジュールを調整して半日ないし1日は休みにしているところが多い。
「……そろそろか」
俺の視線の先には指示通りにひたすら泳いでいるウマ娘がいた。彼女には休憩を挟ませながらも朝からずっと泳がせていたので、流石に泳ぐ速度が鈍ってきていた。
それでも彼女は懸命に泳ぎ、俺が課した往復回数をもうすぐ消化しようとしていた。
「よっと」
椅子から腰を上げプールの傍まで行き、水飛沫と共に戻ってきた彼女に対し聞こえるよう声を張った。
「スズカ、ラスト1往復!」
水飛沫が華麗にターンし折り返していく。
ヒトよりも明らかに速いそれは、向こう側で再びターンし間もなくこちらへと帰ってきた。
「……ぷはっ。はぁっ、はぁっ……終わりましたっ……」
泳ぎを終え、プールから顔を出したのは息も絶え絶えなサイレンススズカ。ゴーグルをかけ、ウマ耳用の突起が付いたスイムキャップを被っておりその中に栗色のロングヘアーを収めていた。水面の上には白いうなじをはじめほっそりとした首から肩回りのラインが見えていた。
「お疲れさん。上がって水分取れ。ほらドリンク」
「はっ……ふうっ……ありがとう、ございます」
「脚は?」
「問題ありません。痛みも全くないです」
プールから上がったスクール水着姿のサイレンススズカが水分補給をする間、彼女本人の状態と泳いだ距離や時間を照らし合わせながらどうするかを考えていた。
「んく……ぷはっ、ふぅ、はっ…………んっ……こく……」
彼女は呼吸を整えながらドリンクを少量ずつ口に含んで飲み下していた。
切り上げるか、続けさせるか……俺が下した結論は。
「スズカ、水分取って休憩終わったらまた泳げ」
「んくっ!? ……は、はい……分かりました……」
ドリンクを飲んでいた彼女は一瞬驚いた様子を見せたのちに頷いた。これまでの水泳トレーニングは今ぐらいの往復回数や時間で終わっていたため、追加があるとは思わなかったのだろう。
彼女に追加で泳ぐ距離と泳法のローテーションを伝え、しばらくすると休憩時間が終わりを告げた。
「休憩は終わりだ」
「はいっ。行きます……!」
サイレンスズカは再びプールに入った。
再び椅子へと腰を下ろした頃には、彼女が上げる白い波しぶきはすでに手前側から遠くなっていた。そんな光景を眺めていると──
「ちょっとトレーナー! あなた何考えてるのっ!」
──視界がダイアナヘイローの顔で遮られ、泳いでいるサイレンススズカが全く見えなくなった。
サイレンススズカの隣のレーンを使っていたダイアナヘイローが、こちら側に着くや否やプールサイドへと上がってきて俺に迫ってきたのだ。彼女は腰に手を置き前かがみになって俺と目線の高さを合わせてきた。整っていてくっきりとした目鼻立ちがすぐ目と鼻の先にあり、濡れた長いまつ毛の下の瞳は明らかに怒りをにじませていた。
ダイアナヘイローは4日後にレースを控えている。昨日は負荷をかけた最終追い切りだったので、本日の午前はリラックス目的でプールを使用していた。浸かったり軽く歩いたりで疲労を取ってもらうためだ。……まあ、俺の指示なんて聞かんと言わんばかりに泳いでもいたが。
しかし、泳ぐといっても身体に負担にならない程度なら構わないし、レース前のストレス緩和にもなってくれれば良いと思ったので放っておいた。彼女にとって縛りすぎはストレスを溜めてしまうと思っていたからだ。
ちなみにだが、彼女はトレセン学園に入る前の習い事で水泳もやっていたらしく、泳ぐのが抜群に上手かった。
朝からプールにいたサイレンススズカとは違い、ダイアナヘイローはルーティンのドリルと軽いランニングをさせた後にここへと来させていた。
「近えから離れろ濡れるだろうが!」
「そんなのどうだっていいわ!」
彼女から滴る水滴が俺のズボンに染みを作っていくが、そんなことはお構いなしに彼女は話を続けた。
「スズカ、あんなに疲れてそうなのになんでまた泳がせてるのよ!」
彼女がご立腹な要因が理解できた。コイツらしいと言えばコイツらしい。
「まだ行けそうだから泳がせてるだけだ」
「いいえ! さっきのスズカ、休んでいるときも肩で息をしてたもの!」
サイレンススズカが休憩しているときはちょうど向こう側にダイアナヘイローはいたはずだが、どうやら遠目にこちらを見ていたようだ。
「口で息をしようが肩で息をしようが関係ねえ。これが今のスズカのトレーニングだ。あいつだって納得してるからやってんだろ」
「ぐぐ……」
たじろいだ仕草を見せた彼女はやっと上体を起こし、至近距離にあった顔が離れていった。やっとズボンに水滴は落ちなくなったが、すでに点々とした染みがあちこちについていた。
「……スズカは優しいから無理だって言わないだけよ」
「それは確かにそうかもな」
「なっ!? あなたねえ……!」
ダイアナヘイローの言ったことは正しい。サイレンススズカは無理なトレーニングでもおいそれと拒否することは無いだろう。だからこそ管理する側の判断が重要なのだ。
ダイアナヘイローの見立て通りサイレンススズカの疲労は溜まっている。しかし、泳ぎのスピードや呼吸の様子からしてまだ若干スタミナに余裕はあると判断したので続けさせている。
改めて言うまでもないが、スタミナをつけるためにこのプールトレーニングを以前から行っている。故障を経て彼女のスタミナは大きく落ち込んでいたからだ。今でもまだまだ低下している状態ではあるが、現状は緩やかながらも改善傾向にある。
脚への負担が少ないプールでさえも最初は故障部位の確認をしながらトレーニングを進めていた。結果として、トレーニング中や後に脚が腫れたり痛みを伴うことはこれまでほとんどなく、今ではこうやって長い時間水泳をこなすことができている。
……仮に彼女が復帰できたとして、その時のプランとして考えていることがある。そのためにはより強靭なスタミナが必要になってくるのだ。それこそ全盛期以上のスタミナが。
なので最近はプールトレーニングの頻度と強度を高めて実施している。脚が治って走れるようになってからスタミナをつけていたのでは時間がいくらあっても足りない。彼女にだって、色々な意味でタイムリミットはあるのだ。
いつの間にかダイアナヘイローは泳いでいるサイレンススズカの方を心配そうに見ていた。
「ちゃんとスズカのことは俺が見てるから安心しろ。それより、キリが良さそうだしお前はもう上がれ。レース前の大事な時期だ、分かるな?」
「……分かったわよっ。スズカのことちゃんと見ててあげてよ」
彼女は俺の元を離れ、プールの縁に近づいていった。
「スズカー! 私上がるから、無理しちゃ駄目よー! 無理なら無理ってトレーナーに言わなきゃ!」
ダイアナヘイローは手前側まで来たサイレンススズカにそう声張ってから踵を返しプールをあとにした。
「お前もどうにか勝たせてやりたいんだがな……」
最近結果が出ていないダイアナヘイローのことを思いながら、サイレンススズカの泳ぐ姿を見ていた。
◇
午後のトレーニングを終えたあと、ダイアナヘイローを除いた5人で初詣へと向かった。一昨年からの恒例行事となっており、これまでと同じくトレセン学園から車で30分ほど離れたウマ娘ゆかりの神社だ。
ダイアナヘイローも来る予定だったのだが、直前になり外せない用事が入ったとキングヘイローに連絡があったとのことだった。
参拝では例年通り、担当ウマ娘たち一人一人の顔を思い浮かべながら祈った。
露店もいつものように出ていてそこそこ賑わっていた。ウマ娘たちは参拝した帰りに露店に寄ったりおみくじを引いたりして各々楽しんでいるようだった。正月も残ってトレーニングに励んでいる彼女たちを労うために好きなものを奢ってやった。
初詣を終え、寮までウマ娘たちを送り届けた後にトレーニング室に戻った俺はモニターに今日の午後に行われていたWDTのレースを映し出した。流れてくるニュースによって結果は知っているが、トレーニングのためレース自体は見られていなかったのだ。
それぞれの距離区分で行われるレースを順に見て、遂にキタサンブラックが出走するレースとなった。今回のWDTの舞台は東京レース場で、彼女はロング部門である2500mのレースに出走していた。
トゥインクルシリーズにおいて東京2500mは目黒記念とアルゼンチン共和国杯で見られるコースだ。ダービーやジャパンカップの2400mから100m距離が伸びたことにより、スタート地点が直線の坂の下になっている。つまりゴールまでに2回坂を上る必要があるのだ。だから決して瞬発力やスピードだけの勝負にならず、勝つにはスタミナによる持久力も求められる。
キタサンブラックは今年も圧倒的1番人気で出走していた。
スタートしてすぐハナに立った彼女は逃げでレースを運んでいった。そのまま道中は大きな動きもなく、後続を付き従えて直線に入ってきた。
『さあ! 決着をつけよう直線コース! キタサンブラックが先頭3バ身のリード! ダンスインザダークとフサイチコンコルドが並ぶようにして追ってくるっ!』
400mのハロン棒を通過し、実況が言うように最近DTLに移籍したウマ娘たちがキタサンブラックを狙って末脚を発揮している。
3バ身あったリードが2バ身半、2バ身と差が縮まっていく。残り300mを切り、後続のウマ娘たちは確実に距離を詰めてきている。
キタサンブラックも懸命に走っているが、明らかに脚が鈍ってきていた。それでも抜かせまいと必死に前へと足を出している。
『残り200! キタサンブラック粘る! まだ粘る! しかしダンスインザダークとフサイチコンコルド迫るッ! そして大外から何か1人突っ込んでくる──』
大外バ場の真ん中から他とは明らかに違う末脚で迫ってくるウマ娘がいた。明るい毛色をした髪と尻尾、そしてモスグリーン色のジャケットを靡かせて追ってくるのは──
『トップガン来た! トップガン来た! トップガン来た! 大外からマヤノトップガンッ! さあ差し切るか!』
道中最後方にいたマヤノトップガンがぐんぐんとキタサンブラックとの差を縮めていく。
残り100mを切り、マヤノトップガンがフサイチコンコルドとダンスインザダークの2人と並んで、そして交わした。彼女とキタサンブラックの差は1バ身半もなかった。
『外はマヤノトップガンッ!!! 内はキタサンブラックッ!!!』
残り50m。
差は1バ身を切り、一完歩ごとに迫るマヤノトップガン。勢いは完全にマヤノトップガンが凌駕している。対するキタサンブラックの脚の回転は重い。
「……っ」
差は半バ身。
それでもキタサンブラックはゴールへ向けて走る。マヤノトップガンはバ場の真ん中を駆け抜けていく。
『捉えるかッ!? 外からマヤノトップガン! キタサンブラック! マヤノトップガン!』
ゴールラインにたどり着いたところでマヤノトップガンがキタサンブラックをついに捉え、2人が並んだところがゴールだった。
『2人並んだ!!! キタサンブラックと並びましたが、わずかにマヤノトップガンが捉えたかっ!? 3着争いはフサイチコンコルドとダンスインザダーク! マヤノトップガンがキタサンブラックを絶対王者の座から引きずり降ろしたかっ!? ……写真判定です!』
ゴールした瞬間、観客の爆発的な歓声が上がっていた。
「………………」
実況の言うように2人は並んでゴールした。ゴール後の勢いは完全にマヤノトップガンで、ゴールラインから5mの位置では完全にマヤノトップガンが交わしていた。
スロー映像が流されるが、それでも2人は並んでゴールしているように見えた。
しばらくしてから決勝写真撮影カメラで撮影された縦線の入った写真が表示されると──
──数センチだけ、キタサンブラックが前に出ていた。
『なんとキタサンブラックが残しています!!! キタサンブラック1着!!!!! 絶対王朝はまだ終わりません!!! マヤノトップガンは惜しくも2着です!』
「……ふぅ」
知っていた通りキタサンブラックが勝利したとはいえ、レース映像を見たら本当に勝ったのか疑いたくなるような接戦だった。途中完全に脚が上がっていたように見えたが、最後は完全に勝負根性でマヤノトップガンの追撃を抑えていた。
……本当にすごいウマ娘だ。この歳になって今でも──
──違和感を覚えた。
「……キタサン……?」
テレビに映るキタサンブラックはウイニングランをしていた。
……左脚を庇いながら。
トレーナーでさえ気をつけて集中して見ないと分からないほどの庇い方ではないだろうか。
左脚着地時の左下肢の使い方がおかしい。痛みで防御性収縮でもあるのか、または感覚障害もあるのだろうか。また、地面についている時間が右脚よりほんの僅かに短い。
──『身体もボロボロで、もうとっくに限界を迎えてるんですっ!』──
──『キタちゃんがどんな思いで今も走り続けているのか、あなたは知っていますか!?』──
以前、涙ながらに訴えかけてきたサトノダイヤモンドの言葉が脳裏を掠めた。
そのあと時間を置いて、ウイニングライブもこなしていた。
左脚は庇ったままだった。
「…………」
スマホを手に取り、ある人物へメールを送った。
“時間が空けば電話をください”