尊敬。
坂川健幸という人間へと抱いていたものを一言で表すのならそんなところだろうか……他にも色々あった気もするけれど。
変わってしまった
ただ、今の私になったきっかけは坂川健幸の存在があったからだ。これだけは確信を持って言える。
『ひよりちゃんすごいね~。また県大会で優勝したの?』
『期末テストの成績トップだったんだ! 頭いい~』
幼い頃から私は優れていた……運動も勉学も。
部活の大会とか模試で全国的に突出していたとか、そんなことは無かったが、自分の見える範囲の周りの人達より私は優れている方だった。それでも田舎の井の中の蛙にしかすぎないと理解していたので、奢ることはなかった。
加えて性格も良くて、人当たりがよく協調性もあり男女問わず友人も多数いた。……過去の自分のことをそう評するのはむず痒いものがあるけれど。
そう考えるなら、周りから見た今の自分は昔から変わらないのかもしれない。トップチームの一つであるシリウスのチーフトレーナーに若くして就任し結果を残し、チームのウマ娘からは慕われて信頼されている。メディア対応も真摯にこなし、外部からの受けも良い。
……もっとも中身も昔と同じとは限らないが。
トレーナーを目指した具体的な理由は特にない。坂川のようにアメリカダートティアラ路線のフリークでレースが大好きだったとか、横水のように一族の使命があるわけでもない。ウマ娘のレースに対しても、GⅠなど大きなレースがあれば友達と一緒に見てそこそこに熱中するぐらいだった。
私の関心を引いたのは、トレーナー試験が難関だということだった。当時は20歳で合格すれば快挙というレベルだった。高校生で受かったら凄いだろうなと思いつつ、現実はそんな甘くないと思いながら受験した。そのための勉強はしっかりやったが、どちらかと言うと記念受験みたいなものだった。
トレーナー試験合格に知らせを聞いたのは、普通に大学受験のために勉強をしていた最中だった。驚きで実感は湧かず、私がトレーナーになるんだとぼんやり思ったことを覚えている。
同じく合格した2人が私と同い年だと知ったのは、メディアのニュースを通じてだった。
そしてトレセン学園の門を叩いた私を待っていたのは、一人は私と同じ一般家庭出身の坂川。もう一人はトレーナー一家である名門の出の横水だった。
ぶっちゃけると2人とも第一印象はあまり良くなかった。坂川も横水も自分から喋ってくるタイプではないし、愛想も良くなかった。笑顔で話しかけても2人ともそっけなく、性格も気難しいタイプに見え、仲良くできるんだろうかと最初は不安になった。
けれど共に過ごしていくにつれて2人の人となりも分かってきた。坂川はぶっきらぼうではあるものの、気難しいなんてことはなく普通の同年代の男の子って感じだった。横水は口下手なだけで中身は不器用なかわいいお嬢様だった。彼女は名家の生まれを誇りに思っているが、それを振りかざしたり偉そうには絶対にしなかった。
ほどなくして私たちは仲良くなった。同い年なのもあって気を遣わないでお互い自然体でいられたように思う。世間では大きく取り上げられていた私たちではあるが、実態はどこにでもいそうな3人の若者だった。
横水とは同性で新人寮も部屋がすぐ隣同士なこともあってとても仲良くなった。毎日どちらかの部屋で一緒に過ごしていたし、予定のないときは2人でよく出かけた。間違いなく私たちは親友だった。
研修を受けたりそれぞれがチームに入って行く中で、私は多くの経験をすることになる。決してそれらは良い経験ばかりではなかった。
研修や試験の成績では常に坂川がトップ。僅差で横水、私は2人から少し離れて3番手……一番下だった。
身近にいる同年代の人間に負け続けるというのは私にとって初めての経験だった。しかしそれを疎ましくなんて思わなかった。私よりも常に上に立ち続ける2人の努力を近くで見て知っていたからだ。追いつくべき目標がすぐ近くにいるのは良いことだと思ったし、もっと努力しなければという気持ちになった。
私はシリウスに入り、サブトレーナーとして日々を送っていた。シリウスは紛れもなくトップチーム、さらには大所帯で多くのトレーナーとウマ娘が所属していた。
トレーナーとなってから3ヶ月ほど経過した頃に、坂川に担当ウマ娘がついた。夏になって横水、それから少し開いて秋の入り口あたりで私にも担当ウマ娘がついた。担当のウマ娘を持ったのは私が一番遅れてだった。
私が初めて担当を任されたのは将来重賞を勝てるかどうかのレベルのウマ娘だった。年が明けクラシック級に上がる頃には無難に勝ち上がった。未来の話をすると、結果的には重賞は取れずに彼女は引退した。
横水はシニア級のウマ娘をチーフである父から引き継いで担当していた。重賞は勝てなかったが、上位入着はしていた。
一方で坂川の担当ウマ娘であるキタサンブラックはスプリングステークスで重賞勝利し、クラシック路線のGⅠへと歩を進めた。その皐月賞でも3着に入り、いきなり同世代のトップクラスのウマ娘を担当するトレーナーになっていた。
そんなキタサンブラックを見ていて、結果を出しているのは坂川の手腕によるものだろうと考えるのは自然なことだった。
キタサンブラックは最初から優れていたウマ娘ではない。彼が担当したての時、彼女の走りの動画と計測タイムを見せてもらったが、どれも平凡そのものだった。
キタサンブラックが潜在能力を秘めていたのはもちろんだが、それを坂川が押し上げていった面は大きい。デビューをわざと遅らせて体作りをしていたことが奏功したのだろう。身体作りについても専門機関でデータを取ったりしていて、本当に私たちと同じ新人なのかと思った。
キタサンブラックのために日々努力している姿を私たち2人は目にしていた。彼は余暇時間に談話室のテレビでアメリカのダートを見ているときでも、傍らにキタサンブラックに関するファイルや論文を手元に置いて時々目を落としていた。
私たちの中でおそらく一番努力して頑張って、そして結果を出している坂川を当時の私は心から尊敬していた。それは一種の憧れのようなものだったのかもしれない。
彼が担当トレーナーだったからキタサンブラックはあそこまで成長したのだと疑わなかった。後の話になるが、清島が担当して絶対王者になった後もその思いは変わらなかった。彼女を覚醒させる土壌を作ったのは間違いなく坂川なのだと。
……なんて盲目なんだろう。まるで恋する乙女みたい。
そしてある事件が偶然にも同時期に起こってしまう。横水の父親が脳卒中で倒れてアルバリのサブトレーナーとウマ娘がチームを抜けてしまったことと、坂川がキタサンブラックにドーピングしたことだ。
新人寮にて横水が激高して坂川に詰め寄っていた。穏やかな性格の横水があそこまで怒るなんてよっぽどのことだ。殴られた痕がある坂川の処置をしてあげた後に横水へと話を聞いた。ただごとではない状況に私も混乱していたが、弱っている2人には悟られないよう気丈に振る舞った。
『何があったの?』
『……誰にも言うなよ、ひより』
横水はドーピングのことを口にした。彼女の親類がURAにいて、その人から情報を得たと。
『そんな……坂川くんが……』
『事実だ。……私だって聞いたときは耳を疑った。こんなこと信じたくはないさ』
『でもさ、何か事情があったんじゃないの? だって坂川くん、キタちゃんのことあんなに大切に──』
『坂川はキタサンブラックを騙して自ら違法薬物を与えたと証言している。彼とアルファーグのチーフも認めている』
『そんな……』
なぜ彼はドーピングなんてしたのだろうか。
『……キタちゃんのこと天皇賞秋で勝たせたかったからかな』
そうは言ったが、キタサンブラックはセントライト記念で勝っていたしドーピングに頼るほど望みが無かったわけでないはずだ。天皇賞秋で勝てなくたって、次のレースを目指せばいいだけなのに……どうしても天皇賞秋で勝たなければならかったのだろうか。
彼をドーピングへと至らせた理由が他にもあるのだろうか。考えても分かるはずはないけれど。
『……私もそう思っているが、本当のところは分からない。どちらにしても、あいつはウマ娘にドーピングをするクズだということだ』
『幸ちゃん! クズだなんて言うの良くないよ! 絶対に何か理由があったんだって!』
『どうだか。努力しているふりだけして、最初からドーピングしていたのかもしれないぞ』
『それはない。幸ちゃんだって分かるでしょ……?』
『…………』
私たちは彼が懸命に努力している姿を知っていた。キタサンブラックのことを大切に思っていることも知っていた。だからこそ彼がドーピングなんて短絡的で卑怯な手段を使ったことが理解できなかった。
翌日、地方へ行くための荷物の運び出しを手伝った。気取られないようにいつもの通りに接した。ドーピングについて訊こうと思ったけれど、結局聞けずじまいだった。
それから半年が経過し、新人寮を出ることになった。
その頃には私たち3人の関係も大きく変わった。横水はウマ娘2人以外誰もいなくなったチームアルバリの立て直しで奔走しており、会う機会がほとんどなかった。偶然会った時に少し話すぐらいだった。彼女は以前よりも雰囲気が鋭くなっていた。あんなことがあったのだから無理もないと思った。
坂川は4月には地方から中央に帰って来ていたが会うことはなかった。ドーピングは公表されず、URAがもみ消したんだと分かった。ドーピングした理由を訊いてみたい気持ちもあったけれど、彼に対し得体の知れなさから来る恐怖心を感じていたから、結局行動には移さなかった。
何より私自身が忙しくなった。……いや違う。それだけじゃなく、余裕が無くなったのだ。他人を気にかけるような余裕が。
シリウスは基本的にチーフを通じてウマ娘が入ってくる。その入ってきたウマ娘がサブトレーナーへそれぞれ振り分けられる。
新入りで一番キャリアが浅い私にあてがわれるのは期待値が低いウマ娘だった。つまり、入ってきたウマ娘の中で遅いウマ娘が私の担当だったのだ。
それで何が起こったか……先輩サブトレーナーに比べて私は成績を出せなかった。先輩たちが重賞を勝ったりGⅠを勝つ一方で、私は重賞を勝たせることはできなかった。苦しい日々がずっと続いていた。
だが納得もしていた。成績を出せないのは自分のせいだからと考えていたから。
優秀で期待されるウマ娘なら、経験豊富で実績のある優秀なトレーナーに任せるのは自然なことだ。スポーツで重要な場面はエースに任せたり、一般的な企業において重要なプロジェクトは優秀な社員に任せたりするのと同じだ。チーフ含め悪気なんてなく、ごく自然なことだ。
自分の実力が足りないからこうなっている。ただそれだけ。
上手くいかないときに思い出すのは…………以前身近にいた坂川とキタサンブラックのことだった。彼みたいにちゃんと努力して実力を身につければ、良い結果はいつか出るのだと信じていた。
……あの時の私にとって坂川は心の支えだった。だからこそ後の私の変化に至るのだが。
それからも私は必死に努力を続けた。私を信じてついてきてくれるウマ娘たちのために。
けれど結果を残せない日々が続いた。
するとシリウスの外からこんな声が聞こえてきた。
『シリウスの、ほらあの女、10代で入ってきたからどれだけ凄いのかと思ったが大したことないみたいだぜ』
『どうもあの3人の中じゃ一番成績悪かったらしいね』
『本当に才能のある奴ならすでに一つや二つ重賞勝っててもおかしくないのにな』
『URAが話題作りのために合格させたとか? 坂川や横水とたまたま同い年だったからセット売りするための付け合わせで』
『良い子ちゃんぶって気持ち悪いよねホント』
『見た目は良いから面接した職員に体でも使ったんじゃない?』
『枕? やってそ〜』
そんな陰口を叩かれていた。
人目のないところで泣くことが増えていった。
シリウスの人たちは優しかったから、余計に惨めになった。
心も体もボロボロになりかけていた、そんなある日のことだった。
『今日からこの娘の担当の引継ぎをお願いします』
『よろしくお願いします』
チーフに紹介されたのは、シリウスの先輩サブトレーナーが担当していたジュニア級のウマ娘だった。そのサブが突如退職することになり、偶然私にお鉢が回ってきたのだ。担当していたと言ってもシリウスに入ってきて1ヶ月も経っていないので、ほぼイチからの育成となった。
彼女はその年にシリウスに入ってきたウマ娘の中で一番期待されているウマ娘だった。
『あのウマ娘は良いものを持っています。焦らなくていいですから、できることをきちんとやっていきましょう』
彼女がいないところでチーフからそのように言われた。私が苦しんでいるのを彼も分かっていたようで、自信をつけさせるために有望なウマ娘を割り当てたのだろう。
先輩サブの引継ぎでは、特に気性に問題のない普通のウマ娘だと言っていた。
──それが私が変わる引き金になるなんて知らずに。
翌日から早速トレーニングを開始することになったのだが、メニューを言い渡す私に彼女は堂々とこう言ってのけた。
『そんなトレーニングやってられないわー。気分じゃないから今日は帰るね』
『……え?』
事前の引継ぎでは考えられない発言だった。
どうやら彼女は皮を被っていたらしい。先輩サブが怖い人だったので本性を隠していたが、こっちが素だと。
『しんどいの嫌なんだよね。あたし最強だからGⅠなんてすぐに取れると思うんだ。適当に走って、GⅠを一個取れればそれでいいよ。レースなんてつまらないから嫌いだし、GⅠ勝ったら後はレースもトレーニングも適当に流すからよろ』
『……そんなGⅠは甘くないよ。そんな姿勢じゃ1勝するのだって──』
『だからさあ、あたしは最強なの! 天才なの! 本気で走ったら負けたことなんて一度もないの! トレセンとか雑魚ばっか。GⅠなんて余裕だし。なんなら無敗でやってあげる』
『…………』
お互い全くの平行線のまま担当になった。
トレーニングでも彼女は自分のしたいようにやっていた。私の他の担当がきついトレーニングをやっていても、『んなダルいメニューマジでやるわけないじゃん』と突っぱねて適当に走っていた。チーフに相談して注意してもらってもその時限りで、トレーニングを見るのが私だけになるとすぐに手を抜いていた。
……しかし、計測するタイムは並外れていた。私の他の担当ウマ娘を凌駕していた。
結局彼女は私の言うことなんてほとんど聞かず、大した負荷をかけたトレーニングもせずにジュニア級のレースへと向かっていた。
結果は──
『“────”! 先行して押し切り、メイクデビュー大差で勝ちました!』
『逃げて難なく勝利! “────”は2戦2勝としました!』
『“────”!!! 中団から差し切り重賞制覇!!!』
『圧勝だっ!!! なんと殿から直線一気でリードは広がるばかり! 突き抜けて勝ったのは“────”です!!! 4戦4勝無敗で阪神ジュベナイルフィリーズを制し、ジュニア級女王となりGⅠタイトルを得ました!!!!!』
──彼女は宣言通り、無敗でGⅠを取ってみせた。
完璧なウマ娘だった。どんな展開でも瞬時に最善の立ち回りを見つけ出す頭脳、恐ろしいまでに正確な体内時計、逃げから追い込みまでどの作戦もとれる自在性、圧倒的な身体能力から繰り出される豪脚。
私はGⅠトレーナーになった。坂川や横水を差し置いて。
『…………』
何が起こったのか分からなかった。華麗に勝利する彼女を私は呆然とただ見ていた。
私は彼女に対して何もしていない。何もできていない。なのにGⅠを勝てた──
──なぜ?
『勝利した今のお気持ちはどうですか?』
レース後のそんなインタビューに対し彼女は──
『嬉しいです! 私のことを支えてくれた天崎トレーナーに感謝の思いを伝えたいです! 私が勝てたのはトレーナーのおかげですから!』
──横にいる私に目をやって、そんなことを言っていた。
『天崎トレーナーも初めてのGⅠ勝利おめでとうございます! 今のお気持ちは?』
『あ……はい……』
『? どうされました』
『ああ、いや………嬉しい、です……』
『ははっ。嬉しすぎて言葉が出ないといった感じでしょうか』
私の中にある大切ななにかに大きな亀裂が入った。
その後、彼女は1勝もできずに卒業していった。できずというより、勝つ気がなかった。レースに出ても実力の半分も出さずに走っていた。レース直前でバックレることも多々あった。
堂々とトレーニングをサボって来なくなった。男が出来て遊び回っていた。彼女の気性難は周りに知れ渡っていたが、当人はどうでもよくなっていたようで取り繕わなくなった。私も、他の担当ウマ娘のことを考えて無理にトレーニングに出ろと言わなくなった。見かねてチーフが担当を変わってくれたが、もう彼女はチーフの言うことさえ聞かなかった。
思い悩むようになった。トレーナーの実力とは何なのか。トレーナーとして何をするのが正解なのか。
なぜ碌にトレーニングをしていない彼女がGⅠを勝って、私の元で一生懸命努力している他のウマ娘がGⅠを勝てないのか。
欠伸が出るほど簡単な問いだ。
──才能の違い。
それ以外に何があるのか。
けれど私は自分をしっかりと
それが粉々になって砕け散ったのは、坂川の担当ウマ娘が全員1勝もできずに退学したことを知ったときだった。
彼ほどのトレーナーが誰一人として勝たせられない事実。
その理由は?
彼の担当ウマ娘の選抜レースの結果を調べた。
『なんだ、そっか』
当たり前のことについて、ようやく理解が及んだ。
淀んでいたものが綺麗に澄み渡っていく。胸がすく。
『そうだよね。うん』
路傍の石ころはいくら磨いたって宝石にはならない。
路傍に宝石の原石なんて落ちてはいない。
必要なのは宝石の原石を手に入れること。
『……あははっ』
“天崎ひより”が定まった瞬間だった。
それからの私の考えはシンプルで明確になった。
トレーナーとしてウマ娘を育てる手腕とか実力とか、不確かで意味のないものだけを追い求めるのは止めた。それは単なる手段であって目的ではない。……そう、ウマ娘とは手段でしかない。ならば道具と同じなのだ。
道具に肩入れしたり愛着なんて必要ない。感情なんて余計なノイズは思考を曇らせ正しい判断の邪魔になるだけだ。ウマ娘なんてフラットな視点で物扱いするぐらいがちょうど良い。
壊れたら捨てて、新しいものを用意すればいい。折れたバットを使う野球選手はいない。破れたスパイクを履くサッカー選手はいない。壊れたり古くなったら捨てて新しくより良いものを用意する。それと同じことだ。
単純に勝てるトレーナーが優れたトレーナーだ。賞金を一番稼ぐトレーナーが一番優れている。勝利こそが全てで、敗北に価値はない。一般社会において
優れたトレーナーを目指すためにしなければならないことは?
才能のあるウマ娘を担当する。
才能あるウマ娘を担当するには?
方法は色々ある。だが地道にスカウトしていたのでは無理がある。
そこで思い至ったのが既に名声があるシリウスのチーフトレーナーになるということ。それが私にとって一番の近道だ。
チーフになるために何でもやった。
私は定年予定のチーフと他のサブを篭絡し、チーフが定年退職した後、晴れてチームシリウスのチーフトレーナーに就いた。
シリウスが元々持っていた伝手を広げ、国内に留まらず海外からも有望なウマ娘を引っ張ってくるようにした。才能のあるウマ娘のスカウトはトレーナーとして何よりも最重要の仕事なのだ。
高校スポーツで有名校が選手をスカウトするのと同じことだ。
才能あるウマ娘を育てるには?
もちろん以前のように勉強して自己研鑽は続けていたが、私だけでは不十分。私の下についてくれた優秀なサブの手を借りて理想的な育成計画やメニュー立案を行っている。海外の大学病院とも連携し、常に最先端の医療的サポートを受けられるようにしている。
いくらウマ娘に才能があったとしても、才能だけでは勝ち続けられない。彼女たちに努力させることも重要なのだ。
普段の生活では彼女たちに気分よく生活を送ってもらうことが大切。加えて信頼を得ることも大切。だから私は全身全霊を尽くしてウマ娘思いのトレーナーを演じている。
……無敗で阪神JFを勝ったあのウマ娘にだってもっとやりようはあったのだ。彼女の気持ちが走りに向くように誘導できなかったのはトレーナーである私の失態だ。
結果、GⅠを勝ちまくった。賞金も稼ぎまくった。
だがトップにはなれていなかった。何の因果か坂川の師匠である清島のアルファーグがずっと私の前に立ちはだかっていた。
清島を越えてトップになることで、私の今までの苦労や努力が報われると思っている。それでやっと私は優れたトレーナーになれる。
彼に勝つことを目指して、私は今も前へと進んでいる。
大切ななにかは、もう跡形もなかった。
そして今、私は──
◇
「……ん……あれ?」
意識が戻り、デスクに突っ伏していた顔を上げた。誰もいないトレーナー室を思わず見回した。
「寝ちゃってた? ふあ~あ」
欠伸をひとつしてから時計を見ると時刻は深夜を回っていた。勉強用の資料集めをしていたら眠ってしまったようだ。
……あまり覚えていないが、昔のことを夢見ていた気がする。
「らしくないなあ、私」
今まで過去を夢に見たことなんてなかった。
なぜだろうと思案して、坂川と横水の顔が自然と思い浮かんでくる。横水のウマ娘とは以前からちょくちょく戦っていたが、ここ数年は坂川の
「坂川くん……ほんと、厄介だね」
レースまで1ヶ月切った高松宮記念のことを考えてしまう。シリウスからはアグネスワールドが出走予定だ。
あのスプリンターズステークスでのキングヘイローの末脚は記憶に新しい。レース展開が噛み合った上であの末脚を発揮されたら……考えたくもない。
フェブラリーステークスは惨敗していたけれど、だからこそ嫌な感じがする。ダートを走らせた理由は分からないし考えるだけ無駄だから、高松宮記念のことに集中するべきだ。
横水のブラックホークにも煮え湯を飲まされた。絶対にリベンジしてやる。
「…………」
ふと過去の自分を思い出す。
自分は変わってしまった。そのきっかけは100%坂川のせいだと以前彼に言ったことがある。
おそらくそれは間違っていない。あのウマ娘のことをはじめ積み重なった出来事は色々あったのだが、坂川健幸という存在がいなければ、私はここまで極端に振り切れていなかったと思う。
性格や考え方もこんなに変わらないで……大人になって色んなことに納得して、それでも諦められないことがある、普通のトレーナーになっていたんじゃないだろうか。
……そんな仮定には何の意味も無いけれど。
「……はあ」
思わずため息が漏れると、気分も体もいまいち調子が良くないことに気づいた。多分ストレスが溜まっている。酒が飲みたい。
「お酒飲みたいなー……そう言えば、3人でお酒飲んだことって……無かったよね」
個別に飲んだことはあるけれど3人一緒に飲んだことは……と、そこまで思考が至って、自分が坂川や横水のことばかり考えていることに気がつく。夢に見たせいだろうか。
「未練なんてないのに。意味分かんない」
坂川と横水に未練なんてない。
2人には変わってしまった自分の本性を曝け出し、そして切り捨てたのだ。未練があって繋ぎ止めたいなら、他の人間にしているように繕うか昔の自分を演じているはずだ。
「……?」
──ならば繕っている他の人間には未練があるのだろうか?
……いや、
「……あーもうっ! やめやめ! はあ~」
よく分からないことばっかり考えていたので、思考をリセットするためにデスクに頭をコトンと預けた。頬にデスクから冷たい感触が伝わってくる。
「…………」
それでも坂川と横水の顔が頭から消えてくれない。
坂川と飲み行ったことを思い出してしまう。
サイレンススズカの件でドヤ街に連れていかれた時は驚いた。辺りは変な匂いするし、なんか道が全体的に暗くて怖いし、居酒屋の焼き鳥の盛り合わせが安すぎるし、テレビは無駄に爆音でうるさいし、はっきり言って最悪だった。
「……ふふっ……え?」
なぜか自分は笑っていた。なぜだろう。坂川なんて腹立たしい存在でしかないはずなのに。
もやもやとした気持ちになり、坂川の顔を振り払うと残ったのは横水の顔だった。
「…………」
彼女とは真の意味で絶交状態にある。
変わった自分を曝け出したあの日から、彼女との関わりは無くなった。
『……
『……もう、戻れないのか』
『…………そうか。残念だ。変わってしまったんだな』
『…………もう話すことは無い。じゃあな、
「…………幸ちゃん…………」
天崎と呼ばれたときに感じた小さい棘が刺さったような痛みが、今もまだ胸の奥に残っていた。