「中京レース場の構成についてだが……」
フェブラリーステークスの1週間後の2月末、高松宮記念が行われる中京レース場について坂川と一対一でミーティングが行われていた。
すでに部室で着替えた私はジャージ姿でノートを取っていた。
「スタンドから見たことはあると思うが芝コースは1周1600mでコンパクトなサイズだ。東京が1周2000m超、京都も外回り1周1900mぐらいで主要4場と比べたらいかに小さいかが分かるだろ。中山の内回りが大体1700m弱だから、あれをもうちょい小さくしたイメージだ」
実は私は高松宮記念が初の中京レース場になる。
中京レース場へは応援に行ったことがあるだけで、レース経験は主要4場(東京・京都・中山・阪神)しかないのだ。
だから坂川の言葉とスタンドから見た景色を元にイメージを膨らませた。
「中京の直線は大体310m。以前言ったように3、4コーナーはスパイラルカーブになっていて、3コーナーは緩いから勢いを保ったままコーナーに入りやすい一方、4コーナーはキツいから直線でバ群がばらけやすい。スピードに乗れるのは良いが、コーナーで外に振られ過ぎたら大きなロスになる。……次は高低差の話だ」
坂川は芝コースの断面図を印刷したプリントを取り出し、ペンで指し示しながら話を続けた。
「スタートは向こう正面に入ったところ、待機所のすぐ目の前だ。スタートして向こう正面を半分ぐらい進んだ残り900mの地点から、3コーナー付近の最高到達点に向けて高低差約2mで150m弱の上り坂が現れる。スプリントではこの上り坂であっても余裕で10秒台のペースになる。最高到達点を越えて3、4コーナー中間までは平坦だが、そこから直線の半ばまで400m下り坂が続き、最後にゴールまで上り坂がある……が」
「……が?」
「直線のこの上り坂は緩い。高低差0.6mで勾配率が0.6%を切ってる。はっきり言って坂と呼べるかどうか怪しいぐらいものもんだ。一方スプリンターズステークスの中山の急坂は高低差2.2mで最大勾配率2.24%だから、その緩さが分かるだろ。だからスピードに乗っていればあとはゴールまで押し切れるんだ。つまりコーナーで減速することなくスピードを保ったまま直線に入れば……あとは言うまでもねえな」
「直線で前のウマ娘たちを差し切れる……ってわけね」
「そういうことだ。当日は開催4週目。Aコースを2週使った後のBコース2週目になる。例年の傾向からして内にいる逃げ先行にも、外から差してくる差し追い込み勢のどちらにもチャンスがある。ペースによっても傾向は変わるし、そのあたりは当日のバ場状態も見なければならねえが、どちらにせよお前のやることは決まってる。中団で追走して最後の直線でブッ差す。これだけだ」
坂川はペンをしまった。
「以上のことを頭に入れとけよ。質問は?」
「さっき話に出たけど、ペースについては?」
「今回ペースについては気にしなくていい。スプリントじゃペースが分かったからって道中でポジションを好きに変えられるもんでもないしな。お前なら尚更だ」
「……分かったわ」
「ならいい。……よし、早速やるぞ。体動かしてからトレッドミルに乗れ」
「ええ」
ノートを閉じた私は柔軟などの体操をしてからトレーナー室に設置してあるトレッドミルに乗った。最初はアップも兼ねて軽く走り、その後本格的に走り始めた。
今の私はこのトレッドミルでフォームの修正に励んでいる。ダートから芝のフォームに戻すためだ。詳細は分からないが様々なデータが採れるらしく、彼のデータ分析の元こうして行っている。
フォーム自体の問題もあるのだけれど、その他にも実は問題を抱えていた。
「……垂直分力がデカい。縦に力を入れ過ぎだ。何度も言ってるがもっと軽く、それで後ろへの蹴り出し意識しろ」
「っ、ええっ!」
「足関節動きすぎだ気をつけろ! ……無駄な上下動が多い! ほら修正!」
「っ!」
「そう! 今の続けろ」
ダートは芝より沈み込み反発力も無い分、蹴り出す時により踏ん張って走っていたらしい。その結果、芝に戻っても必要以上に縦方向に踏ん張ってしまっているのだと坂川は言っていた。
また、矯正する過程で今言われているような動きの問題も出てきている。それらを引っくるめて解決に取り組んでいるのだ。
「降りろ。こっち来い」
坂川に呼ばれて、走っている動画とトレッドミルのデータを合わせて見せられフィードバックを行った。
……やはりデータにすると問題点が明確で分かりやすい。
「まだまだだが、予想より早く修正できてる。この調子で行くぞ」
高松宮記念までは1ヶ月を切っていた。
◇
3月に入ってしばらく経過し、高松宮記念のトレーニングも佳境を迎えていた。
高松宮記念まであと2週間。フォームの修正や蹴り出しの矯正にはある程度目途がついてきていた。
今はコースに出ていた。
相も変わらず今日もハイペース追走に取り組んでいる最中だ。
4バ身前を走るカレンモエを追ってコースを駆けていく。太陽によってターフが照らされ、彼女のかき上げる芝の欠片が光の粒子のように輝いて舞っていた。
『そのままだフォームそのまま! それで脚の回転上げろ……そうだっ! 今11秒切ってるぞ、死ぬ気でペース維持!』
「はっ、はっ! ……っ!」
耳のイヤホンから聞こえてくる坂川の指示通りに走る。フォームを崩さないように、尚且つ余力を残しながらハイペースで追走していく。カレンモエとの差は変わらず、4バ身差のまま中京を模したコーナーへと進入していく。
(膨らまないように……速度落とさないように……!)
直線から緩やかな第3コーナーへとカレンモエの背中を追って走っていく。
「……キング!」
第3コーナーに入ってすぐに、前を走るカレンモエが顔だけ一瞬こちらに向けて声を掛けてきた。
(えっ?)
顔を前へ戻したカレンモエは右手で手招きするようなジェスチャーを二度三度と行った。打ち合わせにはない行動に面食らいつつも、それが“スパートをかけろ”という意味の合図だと瞬時に理解できた。
「っ!」
脚を回す速度を上げてスパートをかけ、カレンモエとの差を縮めて3、4コーナー中間からタイトな第4コーナーへと進入していく。
「ぐぐっ……ふぐぐっ!」
とてつもない遠心力に抗っているため、ぐんと急加速できてはいないけれど、それでもじわじわと速度は上がっている。
カレンモエとの差を3バ身に詰める。しかし体は外に引っ張られ膨らんでいく。
「はあっ!」
遠心力を無理やり抑え込んで、吹き飛ぶ一歩手前で直線へと向いた。少し外によれながらも直線で思いっきりギアを上げ、最内を走るカレンモエを追う。
酸欠一歩手前で限界が近いがスピードに乗れている。2バ身、1バ身と迫っていく。
(行けるっ!)
「はああああっ!」
残り50m当たりでカレンモエを交わし、そして1バ身差をつけてゴールした。
「……よしっ!」
かなりギリギリだったけれど、成功した手応えに思わず拳を握った。
ゴール地点にいた坂川が直接私へと声を掛けてきた。
「今の悪くなかったぞ。いい感じだ」
「……ふふんっ。おーっほっほっほ」
胸を張って高らかに笑いあげる。おそらく今の私はドヤ顔をしているのだと思う。
「フォームもペースも許容範囲内だ。……途中のあれ、モエと何やってたんだ?」
「何って──」
「モエがスパート掛けるタイミングを教えたの。……ペティ、タブレット貸して」
「え? あ、はい。どうぞ」
私たちの間に入ってきたのはカレンモエだった。
カレンモエはペティが撮影していたタブレットを手に坂川と2人で話し込んでいた。
「……いい?」
「ああ、問題ない。言ってやってくれ」
「うん。ありがとうトレーナーさん。……キング、ちょっといい?」
「ええ……?」
カレンモエの元へ行くと、さっきのコーナリングの動画を再生し始めた。
「さっきモエが合図したときの3コーナーからのスパート、あのタイミングで良いし、もっと大げさにやっていいと思う。前にいるウマ娘って後方にアンテナ張ってるから、ちょっと焦ってオーバーペースになるかもしれないし」
「……はい!」
カレンモエのアドバイスを頭に叩き込む。
私たち2人を後ろから覗き込むように坂川が動画を見て口を出してきた。
「スパート、もう1完歩ぐらい速い位置でもいい。お前の加速の上がり方から考えて、更にもう1完歩前ぐらいから意識を切り替えたらいい。そうしてりゃもっと早くモエのこと交わせてたと思うぞ」
「2完歩前に意識の準備……1完歩前にスパートを……分かったわ」
「それ意識して次もやってみろ。キング、次も行けるか?」
「もちろんよっ!」
「モエも付き合ってくれるか?」
「……うん。モエは大丈夫だよ」
「よし。2人とも行ってこい。モエのペースはまた無線で伝える。キングはモエのペース見ながら、さっきモエに言ってもらったこと意識して走れ」
そうして2人して送り出された。私たちは並んでスタート地点へと向かって歩いていく。
その道中でカレンモエがこちらを向いて、じっと私の顔を見てきた。
「モエさん、どうしましたか?」
「……ううん。心配いらないなって思っただけ」
「?」
「分からないこととか、何かあったらなんでも言って」
「……はいっ。ありがとうございます!」
先程のことに限らず、カレンモエにはこれまでにも多くのアドバイスを貰っている。彼女は中京レース場を走った経験もあり、レースで得た知識や感覚を余すことなく私に教えてくれている。
前を歩く
『行くぞ。構えろ』
カレンモエだけでなく、坂川やペティなどチームの皆に支えられて私はここまで来られている。
私は決して独りで走っているんじゃない。色んな人の思いや尽力を貰って走っているのだ。
(……ん?)
スタートの構えをするときに、偶然目に入ってきた校舎の陰から、誰かがこちらに視線をやっていることに気がついた。
(誰──)
『スタートッ!』
坂川の合図で意識を切り替え、再び私は走り出した。
◇
「トレーナー、この後すぐ用事があるからすぐ上がっていいかしら?」
「別に構わねえが……」
「ストレッチならちゃんと後でしておくわ」
トレーニング後、訝しむような顔をする坂川にそう言い残して私は急いでコース外へと駆けていった。コース外周にある階段を上がって校舎を見やると、すでに人影は姿を消していた。
坂川に言った用事とは、トレーニング中にずっと私をのぞき見していたその人影を追うためだった。
(いない? ……いいえ、まだ近くにいるはずよ)
トレーニングを終えるまでその人影は確かにあった。だからそう遠くまで行ってないはずだ。
(いったい何のつもりで……)
……私はその人影に心当たりがあった。だから追っているのだ。普通に考えたら、今日会わなくても後日会った時にそのことを訊けばいいのだが、
耳を澄ますと、こちらから遠ざかる足音が向こうの校舎の裏から聞こえてきた。瞬時にダッシュして音の聞こえてきた方に行き角を曲がると、緑がかった芦毛が翻って三女神像がある広場へと消えていった。
あの芦毛のウマ娘を私はよく知っている。
「待ちなさいっ!」
「……っ」
彼女の後を追っていく。広場にたどり着くと、彼女は校門の方に向かって
彼女が校門を出て左へと曲がっていく。その数秒後に全力疾走で校門へたどり着いて左を向くと──
「やあキング。偶然だね。そんなに急いでどうしたの?」
制服姿のセイウンスカイが校門横のレンガの壁に背をついてもたれていた。
「はっ、はあっ……観念したのね」
「ん~? どういうこと?」
「あなたねえ~!」
この期に及んでとぼけるセイウンスカイを睨みつける。彼女はいつもの様子を崩さない。
私のトレーニングをずっと見ていたのは彼女だ。間違いない。
「はあ」
「ため息なんてついてたら幸せが逃げちゃうよ~」
「……まあ、いいわ。スカイさん、少し歩かない?」
「デートのお誘いかな? やだなあ──」
「デートでいいわ。……そうね、デートだから手を繋がないと」
「へ? ……ちょっとキング?」
「いいから来なさい!」
セイウンスカイの手を取って強引に歩かせる。彼女は最初の数歩こそ抵抗したものの、諦めたようにしぶしぶと歩き始めた。彼女の歩くペースが私と同じくらいになった頃を見計らって手を離した。彼女はもう逃げなかった。
すれ違う人を避けながら当てもなく歩道を行く。彼女は私の1mほど後ろをついてきている。間隔は一定で、それ以上縮むことも離れることもなかった。
傾いてきた太陽は、今は薄雲に隠れてしまっている。
それでも冬の時期より日が長くなっていて、私たちを照らすには十分な明るさだ。
しばらく歩いて河川敷にたどり着く。
河川敷ではサッカーをしている子供たちがいた。かけっこで競っている幼いウマ娘たちがいた。
草野球に興じている大人たちがいた。グランドゴルフの練習をしている老人たちがいた。
そんな河川敷の光景にどこか惹かれ、私は自然と足を止めた。セイウンスカイも合わせて足を止めていた。私たちの距離は変わらないまま一定だった。
「なぜ私のトレーニングを見ていたの?」
校門からここまで私たちの間に横たわっていた静寂を破った。
「ん~? そうだねえ……ブラックホーク先輩のために偵察していたスパイのセイちゃん! ……とかかも?」
間違いなく嘘だ。ここまで付き合ってきた仲だ、それぐらい分かる。
それを私が嘘だと分かることを、セイウンスカイもまた分かっている。分かって言っている。
「スカイさん」
「次はなに~? 散歩するならさあ、早く行こ──」
「脚の屈腱炎は?」
「──」
セイウンスカイの言葉が途切れる。
私は再び歩を進める。数歩遅れて彼女も歩き始めた。
私と彼女の間はさっきよりも離れていた。
答えは返ってこない。
「こうして歩く程度なら痛くない?」
「…………まあね」
声のトーンがやや硬くなった。誤魔化すだけのふわふわした雰囲気は鳴りを潜めた。
「良かったわ。痛かったら負ぶってあげるからいつでも言いなさい」
「……いらないよ」
屈腱炎について彼女と話すのは初めてだった。彼女の屈腱炎はかなりの重度で復帰まで長い時間がかかるとメディアから情報が出ていた。少なくとも1年の休養は必要だと。
……最悪、引退の可能性もあると。
彼女が私から逃げなかったのは、物理的に逃げられなかったからだ。彼女は普通に走れたのなら、私が追いつく間もなく姿を消していただろう。校門に向かってゆっくり歩いていたように、おそらくあれが今の彼女の限界なのだ。
「怪我人を追い回すなんて、ひっどいなあキングは~」
よよ……と、芝居ががったように言うセイウンスカイ。
「こそこそとしているのが悪いのよ。正々堂々と逃げずに姿を見せたらどうなの?」
「見つかるつもりは無かったんだけどな~」
「あれだけずっと見られていたら気づくわよ。芦毛って結構目立つし。……ねえスカイさん、なぜ見ていたの?」
歩みを止めず、前を向いたまま2回目を問う。
ペースの変わらない足音が背後から聞こえてくる一方で、返答はなかった。
「……」
彼女は口を閉ざしていたが、観念して拗ねたようにポツリとこぼした。
「…………分かんない」
「……そう」
嘘偽りのない、切実な答えだった。
再び訪れた沈黙と共に私たちは河川敷上の道路を歩く。河川敷からは川の薄いざわめきの下地に人々の楽しそうな声が乗り、空からはカラスの鳴き声が降って来ていた。
「最近はどうしてるの? トレーニングは?」
「何にもしてない。モラトリアムを満喫するようにトレーナーさんから言われててさ。釣りしたり、お店巡りしたり、逆に何にもしないでいたり。今日も今日とてこうやってテキトーにのんびりしてるんだよ。……でも、それももう終わりかな」
「……終わり?」
「私、引退するよ。トゥインクルシリーズ」
何でもないことのように、彼女は言った。まるで明日の天気を答えるような気軽さだった。
「……もう、決まったことなの?」
「手続きとかはまだ。トレーナーさんにも言ってないよ。と言うか、今決めた。なんだろ……今日のキングを見てたらさ……」
そう思ったんだ──と、彼女は続けた。
「…………」
彼女がそう決める可能性を考えなかったわけではない。
シニア級1年下半期の重度の屈腱炎。引退を考えない方が不自然だろう。
セイウンスカイは訥々と語り始めた。
「つまんなくなったんだ」
「“壁”はずっとずっと高くなってさ。追いつけなくなってさ」
「その上屈腱炎になったし。走れないし」
「スぺちゃんやエルも引退してDTLに行っちゃったし」
「下からはアドマイヤベガとかテイエムオペラオーとかが出てきてるし」
「超えるべき“壁”は越えられないまま無くなって、そしたらまた次の“壁”が立ちはだかりそうだし」
「……セイちゃん、もう十分やったんじゃない?」
「そう考えちゃったらさあ……」
「飽きちゃったなあ、って」
「つまんないなあ、って」
話の途中、トレセンの赤いジャージを着たウマ娘たちが何人も私たちを追い抜いて行き、あるいはすれ違った。彼女らの起こす風が頬を乱暴に撫で、髪を揺らしていった。
私を見て決めたと話していたが、それは最後の一押しだけであっただけで、彼女はずっと進退について考えていたのだろう。彼女の言葉からそれぐらいは伺えた。
「引退するなら進路は用意してくれるってトレーナーさんも言ってるし、それもいいと思った。いつかは皆、走ることから離れるんだから」
「……DTLは?」
「DTLは別にいいかなあ。ワクワクしないんだよね~。走るなら………………うん。別にいいや。もう引退でいいんだ」
“走るなら”の後、彼女が何を飲み込んだのだろうか。
「スカイさん……」
足を止めて体ごと振り返り彼女と向き合った。その分さっきよりも距離が縮まった。
そして彼女の表情を見た。
(ああ────)
その表情を見て私は──
「キングはどう思う? 私が引退するって聞いて」
「……あなたが決めたことでしょう。走るか走らないか、どうこう言う権利はキングにはないわ」
「…………」
「黙ってどうしたのよ」
両手を頭の後ろに回していたセイウンスカイはきょとんとしていた。
「……いや、キングなら──」
「引き留めると思ったかしら? 『弱音を吐かず、諦めずに走りなさいっ!』とでも言うと思った? そうね、昔の私ならそうだったかもしれないわ。……でも今の私は違うの」
セイウンスカイに背を向けてまた歩き出す。縮まった距離のまま、私たちの散歩は続いてく。
「私は故障したことがない。だからスカイさんの気持ちは分らないけれど、走り続けることの苦しさや辛さは知っているつもりよ」
「……」
「付け加えるわけじゃないけれど、怪我に抗う他のウマ娘たちを私は知っている。実際に彼女たちと話をして、彼女たちの気持ちや考えを知ったわ。大怪我や数度の屈腱炎に負けず、立ち上がって走ろうとする彼女たちの姿を見た」
脳裏に浮かんできたのは去年の天皇賞秋の2人……サイレンススズカとオフサイドトラップだ。
「故障にめげず苦難に立ち向かうのはとてつもなく辛いものだと知った。それを知った私が、どうして他人に走ることを強要できるかしら?」
セイウンスカイからは何も反応は無い。ただ私の後を付いてくる足音が聞こえるだけ。
「スカイさん、あなたはどうして走っているの?」
「…………それは」
「
「……よく覚えてるね、そんな昔のこと」
「あなたは今でもまだそう思っているのでしょう。その感覚をまた味わいたいと諦められないでいる」
「……何を根拠に──」
「『引退でいいんだ』と言った時のスカイさんの表情よ。言葉では納得してた風だけれど、顔は全くそう言ってなかったわよ」
「…………」
引退することを口にしたとき、その口調は穏やかで納得しているようであった。だがその表情は逆だった。何かをこらえているようでいて、それでいてひどく辛そうであった。
目の前に広がる景色にはセイウンスカイを含めた河川敷が色鮮やかに広がっていた。まるで俯瞰で見渡しているかのようだった。
あの菊花賞の前……走る理由を見失っていた私は、この河川敷がこんなに広いものだと感じていただろうか。
夜だったから見えなかった?
いいや、私は見ようとしていなかったのだ。あの時の私は自分自身の内だけ見ていたから。
今の私は──
「私は強要できない。あなたに走ることを強要しない。けれどね──」
「キング……?」
これまで保たれていた彼女との距離を詰める。
やっと夕日が薄雲から出てきて、私たちを赤く包み込む。
──『キングは走る理由、見失ってるだけなんでしょ。なら今だけ、優し~~~~いセイちゃんがキングに走る理由をあげるよ。貸しひとつだからね?』──
「──借りは返さないと気が済まないの。……ふんっ」
「……っえ?」
彼女の胸を右手でこつんと小突き、顔に人差し指を突きつけた。
「今月末の高松宮記念、中京レース場に来る権利をあげる。私の走りを見てなさい。それで借りを返すわ。……失礼するわね、スカイさん」
「ちょっ!? キング?」
「キングは早急にストレッチしないといけないの。スカイさんはゆっくりと歩いて戻ってきなさいね。おーっほっほっほ!」
私は来た道を戻って駆けだした。
柄にもないことを言って恥ずかしかったから。
もちろんセイウンスカイは追ってこない。追ってこられない。
(……これで良かったのかしら)
走りながらそう思ってしまう。
走りに向き合うのは辛いことだ。良いことももちろんあるけれど、決して良いことばかりではない。
でも、走る意味を見出した人たちを知っている。何より私自身が走ることに意味を見出している。
セイウンスカイも彼女なりの意味を見出していて、それはまだ満たされていないんだろう。だから彼女はあんな顔をしたのだ。あんな顔をされたら引退を勧めるなんて絶対にできなかった。
セイウンスカイはおそらく何にも納得できていない。ならばまだ走ることに向き合うべきではないだろうか。満たされるのか、満たされないのか、それは分からないけれど……見えてくるものはあるのだと信じている。
私なりに手を差し伸べたつもりだけれど……あんなことを言い放ってしまった手前、高松宮記念で無様な走りはできない。
「…………」
今ではもうセイウンスカイと違う道を歩んではいるけれど、願うなら彼女にも走っていてほしいと個人的には思う。
こんなこと当人には言えないけれど……やっぱり淋しいのだ、見知ったウマ娘が走るのを辞めていくのは。
「……ふぅ」
校門にたどり着いた私は脚を緩め、学園を見上げてから中に入った。
デジタルブラを着けているので、ストレッチせず走ったことは坂川にバレているだろう。
小言でも言われるかしら……と思いつつ、部室を目指した。
◇
「…………置いてかれちゃった」
キングヘイローが去ってから、彼女に小突かれた胸に手を添える。
……胸が熱く感じるのは、気のせいだろうか。
「……利子もたっぷり付けないと、チャラにしないからね」
そう呟いて茜色の河川敷を戻っていった。
引退はまだ保留にしとこうと、そう思いながら。