底辺キング   作:シェーク両面粒高

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時系列的には第78話の後あたりです


追想13 新月の夜

 WDTから数日後に運動器専門の施設を訪れると、珍しく診察室ではなく個室のカウンセリングルームに通された。

 そこで待ち受けていたのはいつも診てもらっている女医師だった。

 

「もう限界ね」

「……そんなに悪いんですか?」

「あなたが一番よく分かってるでしょ」

 

 WDTのレース後、メディア対応を終えたあたしはすぐにここへ向かい精密検査を受けていた。今日はその結果を聞きに訪れたのだった。

 女医師は精密検査で撮影した身体の画像をタブレットに表示して説明を始めた。

 

「全身ボロボロなのは前からだけど、特に腰椎の部分が酷いわ。腰椎のズレは大きくなってるし、椎間板の変性もさらに悪化してる。ほらここも、ここも、ここも真っ黒。本来は白いのよこれ。脊髄や神経を圧迫したり触ったりしてる箇所がいくつもある。……WDTの最後に脚が動かなくなったのは間違いなくその影響。痺れと痛み、全然引いてないでしょう?」

「…………」

 

 未だに強い痺れと痛みが残る脚の大腿部を軽く撫でる。

 確かにいつもなら段々引いてくるのだが、今回はほとんど引いていない。下肢全体の表在感覚が薄く、気を抜くと脚がどこにあるか分からなくなるぐらいに深部感覚も鈍麻している。

 

 マヤノトップガンを凌いで勝利した数日前のWDTのレースにおいて、最後の直線の途中から下肢の感覚が脱失するとともに、脚に力が入らず回らなくなった。下肢の感覚は分からないのに、痛みだけはまるで脳をねじり切るぐらいに強烈だった。

 それでも歯が砕けそうになるほど食いしばりながら走って、なんとか1着を死守したのだった。

 

「股関節、膝関節、足関節のダメージも大きいし、靭帯の損傷もさらに重度に。筋腱は筋腱で屈腱炎に一歩手前どころか半歩手前。脊椎も下肢もどこもかしこも酷いもんだわ。いくらウマ娘でも走れてたのが不思議なぐらいよ」

「……痺れと痛みには慣れてますから」

「そういう問題じゃないのよ。構造的な問題なの。写真はプリントして渡すから、帰ったら清島さんに渡しておいて」

 

 女医師はタブレットを自分の元へ引き寄せて印刷の操作をしたあと、一旦部屋を出てプリントアウトされた身体の画像を持ってきた。

 

「それで、次のレースは走っても大丈夫ですか?」

 

 あたしがそう言うと、彼女は真正面からあたしと目を合わせた。

 

「次が最後。それ以上は医師として許可できない」

 

 彼女ははっきりとそう告げた。

 

 あらかじめ決まっていたことだった。清島か女医師がレース出走を止めたら、あたしはそれに従うと。その取り決めがあったから、2人は今まであたしの無理を聞いてここまで付き合ってくれていた。

 

 あたしは彼女の言葉の意味を淡々と受け止めていた。自分でも驚くほど心の中は凪いでいて冷静にいられた。

 

 ──やっと終わる。

 

 ──もう終わってしまう。

 

 あたしの気持ちはどっちだろう。

 

 ……そんなこと、改めて自分に確かめるまでもない。

 

「誤解の無いように言っとくけど、次も全力で走っていいって意味じゃないわ」

「それはどういう……?」

「引退レースとして()()()()走る機会は与えてもいいって意味よ。勝ちを狙う全力での走りは許可できない」

「…………そうですか」

「本音を言えば今すぐ現役引退して欲しいぐらいなのよ。最大限譲歩して引退レースの許可を出したと思ってちょうだい」

 

 

 

 どうやら本当の意味でのあたしのレースはもう終わりみたいだった。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 何も思わなかった。特に感慨深くもなかった。いつかこの瞬間が来ると分かっていたから。

 

 

 

 多くのものを得た。多くのものを多くの人々を与えることができた。間違いなく、良いことはたくさんあった。幸せだった。

 

 

 

 

 

 でも、(こいねが)っていたものは得らないまま終焉を迎えた。

 

 

 

 

 自分の中から何かが抜け落ちていく。

 

 

 

 少しずつ、けれど急速に抜け落ちていく。

 

 

 

 

「清島さんも交えてまた今度3人で詳しく話をしましょう。今は何も考えられないかもしれないけれど、時間をかければきっと受け入れられるわ」

「……はい」

 

 

 

 全部抜けて、空っぽになって。

 

 

 

 心の中にあった誰かの存在が薄れていって。

 

 

 

 ──トレーナーさん……

 

 

 

「あなたの人生、まだまだこれからよ。他にやりたいことだってきっと見つかるわ……なーんて、これじゃ心理カウンセラーね。今までお疲れさま。あなたの医師でいられたことを光栄に思うわ。……この前話していた痛み止めの新薬、手に入ったから出しておくわね」

「ありがとうございます」

 

 

 

 心も体も軽くなる。全身に力が入らなくなる。

 

 

 

「……失礼します」

 

 

 

 

 あたしの中には、もう何も残っていなかった。

 

 

 

 

 ──トレーナーさん…………

 

 

 

 

 希薄されて、消えていった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 それからしばらくした後に、予定していた通り清島を交えて3人での話し合いの場が持たれ、キタサンブラック(あたし)は次のレースでの引退が決まった。

 清島がラストランを全力で走れる可能性はないのか身体機能面や過去の実例を持ち出して色々考えてくれていたようだが、女医師の強い反対によりそれは却下された。

 あたしは特に口出しすることもなく、引退を受け入れた。現役を続けるどころか、ラストランを走る気さえ起きなかった。

 

 

 引退が決まったとサトノダイヤモンドに直接会って伝えると、彼女はほっと緩んだ表情になった後に泣いてしまった。そして「ごめんね」と何度も謝られた。なぜ謝っているのか、理由は訊かなかった。あたしに訊く権利はないと思ったから。

 

 

 引退することをURAに伝えると、引退の興行や引退記念グッズ製作などの話し合いが行われるようになった。トゥインクルシリーズの開催に合わせて全国のレース場でイベントを開催する運びにもなった。もう少ししたらテレビの制作会社や雑誌の出版社や新聞社にも引退を極秘で伝える予定で、引退特集を組むための打ち合わせも入ることだろう。

 

 

 

 ◇

 

 

 引退が決まってから2ヶ月後、時は3月も下旬に差しかかっていた。4月に引退の公式発表をすることになり、レース以外での活動がにわかに忙しくなっていた頃のある日の深夜だった。

 今日は新月で月明かりのない夜空で、あたりはいつにも増して真っ暗な日だった。風もなく、気味が悪いぐらい静かだった

 

「はっ、はっ、はっ」

 

 そんな夜空の下、あたしは走っていた。()()()あたしはロードワークに出ていた。

 

「はっ、はっ、はあっ!」

 

 引退を決めた時、自分が空になったのが分かった。走る気なんてこれっぽっちも起きなかった。

 今もその気持ちは変わらない。走る気なんてもうあたしには残っていないはずなんだ。なのに──

 

「はあっ、はあっ……ふっ……!」

 

 ──下肢の痺れや痛みが軽快するとあたしはまたトレーニングに臨んでいた。

 トレセン学園で表向きに行うトレーニングは負荷を軽くしているのだが、その不足分を埋め合わせるように夜のロードワークの量や自宅でのマシンを使った筋トレの量を増やしていた。

 その結果、大きく競走能力を落とさず保てている。痺れや痛みは残っているが、この前のWDTを走る前程度には戻った。痛み止めも今は飲んでいない。

 

「っぷはっ。はあっ…………ふう、ふう……」

 

 ペースを緩めてジョグ程度のスピードに落とす。WDT後にトレーニングをしていなかったせいで低下していたスタミナも大分回復してきた。肺を行き来する澄んだ夜の空気が心地よかった。

 

「…………」

 

 なぜあたしはまだトレーニングに心血を注いでいるのだろうか……最近はそのことばかり自問自答していた。

 

 もう全力で走らなくていいのに。

 何よりあたしの中は空っぽで、走る意味なんてもうなくなったはずなのに。

 あたし自身がもう走る気をなくしているのに。

 

 

 

 

 

 ──薄れて消えたはずの彼の顔が、うたかたのように浮き上がっては消えてを繰り返す。

 

 

 

 ──しかしキタサンブラックは気づいていない。

 

 

 

 

 

 走りたくないと思っているのに頭は勝手にトレーニングプランを組み立てて、体は勝手に実行に移していた。不思議なことにそれを嫌だと思うことはなかったし、止めようとも思わなかった。

 今日も同じだ。気づけばロードワークの服装であるフード付きのランニングパーカーを着て、こうして外に出てタイムを確認しながら走っていた。

 10年以上も走っていたせいでトレーニング中毒になっていたのかな……なんて心の中で自嘲しながらジョグから元のペースに戻した。

 

 運動公園の外周を通ってから街中へ、そこから夜は人通りのほとんどない高台を目指して走っていく。キングヘイローとのことがあってから変えたランニングコースを今日もなぞっていく。

 闇に紛れてあたしは淡々と走っていた。暗闇の中を走っていると、自分が闇と同化したように感じる。自分の存在が闇へ溶けて沈んでいく。

 

 高台への上り坂を駆けていく。

 

 あたしだけがここにいて、呼吸音と足音だけが響く世界。他にはなにも──

 

 

 

 

 ──薄れて消えたはずの彼の顔が、うたかたのように浮き上がっては消えてを繰り返す。

 

 

 

 ──静謐な暗い夜だった。他に何もなかったから、キタサンブラックは自分に向き合うしかなかった。だから気づいてしまった。

 

 

 

 

「…………トレーナーさん……」

 

 

 

 あたしは坂の途中で足を止めていた。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 もうどうしようもない。

 

 

 

 私にできることはない。

 

 

 

 これで終わりなんだ。

 

 

 

 分かっていたことじゃないか。

 

 

 

「…………っ……」

 

 

 

 トレーナーさんの顔を振り払おうとしてまた走り出すが、自覚してしまったらもう無理だった。

 

 

 

 今日行われた高松宮記念の共同記者会見をテレビで偶然目にしてしまったからだろうか。

 

 

 

「はっ、はっ……っ……うっ……」

 

 

 

 

 あたしの中のトレーナーさんは薄れて消えたと思っていた。

 

 

 

 

 そんなことはやっぱり嘘で。

 

 

 

 

 あたしはここでも自分に嘘をついて誤魔化していただけだ。

 

 

 

 

「……トレーナーさん……っ……」

 

 

 

 

 気づいてしまったら歯止めが効かなかった。

 

 

 

 止めどなくトレーナーさんのことが頭に浮かんできた。

 

 

 

 パーカーの下の瞳に滲むものを袖で拭いながら走っていく。

 

 

 

 下から来るなにかから逃れるように、坂を上っていく。

 

 

 

 

「あたし……あたし……っ……もう……っ……」

 

 

 

 

 拭い切れなくて、頬を伝って流れ落ちていくものがいくつもあった。

 

 

 

 

 

 高台にたどり着いた。あたしの周囲は真っ暗だけれど、前方に見える高台の中心部には外灯によってぼんやりと照らされている場所があった。

 

 止まることなく走り続けるが、何かの音が耳に入ってきた。

 

「……?」

 

 ちょうど反対側の道からこちらに高台へと向かってくる足音が聞こえていた。その足音はすぐ近くにあった。近づく速度的におそらくウマ娘だった。

 

 

「……」

 

 

 足音が迫ってくる。涙を拭ってフードを深くかぶる。

 

 

 40m、30m、20m、10m……私はちょうど外灯の下に出た。何の偶然か、正面から来たウマ娘も外灯の下に出たようだった。

 

 

 

「……え……?」

 

 

 

 すれ違うはずだったウマ娘からそんな声が聞こえてきた。彼女は足を止めてこちらを見ていた。

 

 

 顔を伏せてやり過ごそうとしたけれど、思いもしない反応にあたしも足を止めた。

 

 

 

 

 そこにいたのは──

 

 

 

 

 

 

「キタサン……ブラック……?」

 

 

 

 

 

 

 ──トレーナーさんのウマ娘であるキングヘイローだった。

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

 突然のことで言葉が出てこず、思わず下を向く。

 

 彼女も同じ状況なのか、呼吸を整えながら目を見開いて私を見ていた。

 

 

 

 後ろめたい気持ちが胸いっぱいに広がっていく。

 

 

 

「……っ」

 

 

 少し冷静になった頭で、キタサンブラックがキングヘイローに言わなければならないことを探して、それを見つけた。

 あたしは走り始め、立ち尽くしている彼女とすれ違いざまにそれを口にした。

 

 

「あの時は、ごめんなさい──」

 

 

 ──コースで彼女を痛めつけたことに関しての謝罪だった。

 言うべきことはもっと他にもあったようにも思うけれど、この状況ではそれぐらいしか思いつかなかった。

 

 

 あたしは彼女から離れていく。外灯の光から外れ、再び闇の中へと──

 

 

「待ちなさいっ!!!」

 

「っ!?」

 

 

 背後からのキングヘイローの一喝するような声に足を止める。

 

 

 足を止めて振り向くと、外灯の下にいるキングヘイローは真正面からあたしを睨んでいた。

 暗闇の中にいるあたしに向かって彼女は指を差し、高らかにこう言い放った。

 

 

 

 

「まだ勝負は終わってないわよっ!!!!!」

 

 

 

 

「……え……?」

 

 

 

 あたしたち2人しかいない高台に、キングヘイローの明瞭な声が響いた。

 

 

 

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