「…………ふぅ」
アップを終えた私は控え室にて勝負服に着替え、鏡に映る自分を見つめていた。
鏡の向こうのキングヘイローと目を合わせた。強い意思が宿る瞳が私を射抜いていた。
気合は入っているが必要以上に気負ってはいないように見えた。後ろにいるチームの皆がセットを手伝ってくれて、勝負服や髪に全く乱れなく完璧に整っている。どこからどう見ても一流のウマ娘、キングヘイローだった。
控え室には坂川を除くチームの皆がいた。
「キングなら絶対に勝てるわ」
「ありがとう。ダイアナさん」
後ろを振り返った先にいるダイアナヘイローにそう返す。レースの時、彼女は直接的に鼓舞する言葉をかけてくれる。
「キングさん。今日も走るのを楽しんできてね」
「スズカさん……はい」
サイレンススズカから優しい眼差しを向けられる。その視線は私を見守ってくれているようで、この緊張感の中でも落ち着いていられた。
「気張ってくださいよキング。追走とコーナーリング、ですよ。スプリンターズステークスみたいに失敗したらただじゃ置きませんからねー」
ペティは軽口を叩く。
「もちろんやってやるわよっ。その言い回し……」
「?」
「ペティさん、あなたトレーナーに似てきたんじゃない?」
「なっ!? 失礼ですね!」
控室にささやかな笑いが起こる。肩の力が良い意味で抜けた気がする。
最後に声を掛けてきたのはカレンモエだった。
「キング。自分らしい走りを。これまでの自分を信じればきっと大丈夫だから」
「……はい」
カレンモエの吸い込まれそうなほど青い瞳に見つめられた。どんな言葉よりも、その瞳が彼女が私へとかけてくれる想いを伝えてくれた。
チームに入ってからずっと私のことを見てくれていて、力になって支えてくれていた先輩の想いを。
レースを走るたびに思う。私がここに立てているのは私だけの力だけじゃないってことを──
──そんなことを思っていると、控室の扉がやや乱暴に開かれた。
「よし、いい傾向だ。内外の差はそこまで大きいわけじゃねえが内の芝は荒れてきてる。8Rの小牧特別も9Rの熱田特別も外差しは決まってる。ただちょっと寒いのと直線の向かい風が強え……あ? どうした?」
レース前の控室の雰囲気なんて知るかと言わんばかりに入ってきて早口で喋る坂川を皆で見つめた。
彼はバ場傾向を見るために直前のレースを見に行っていたのだ。いつものことだ。
坂川はチームの皆の間を割って私の目の前までやって来た。
「おい、今言ったこと頭に入れたか? 外差しは決まる。寒いのはその身で感じてるだろうが、直線で向かい風が強い」
「ちゃんと聞いてるわよ」
「ならいい。……やることは変わらねえ。最低でも中団で追走して、コーナリングを耐えて、お前の末脚で差し切る」
「……ええ」
彼の言う通り、私のやることは変わらない。
……もうしばらくしたらパドックに呼ばれる。そろそろレース前最後の準備をしないと。
「トレーナー、他のウマ娘の情報と展開予測をお願い」
「ああ。まずは──」
体を冷やさないように四肢を動かしながら坂川の話を聞く。これまでのミーティングで散々した話を簡潔にまとめたものを聞かされたあと、バ場状態を考慮した内容を坂川が話し始めた。
「高松宮記念と同条件の芝1200mでやった1勝クラスの小牧特別、2ハロン目と3ハロン目どちらとも10秒台が出てる。発表は良バ場で、木曜からここまで一時的に雨が降ったりして渋ってたバ場だが、昨日よりは回復してるみてえだ。つってもパンパンの良バ場じゃねえからある程度時計はかかりそうだし、パワーが必要なのは頭に入れろよ」
「分かったわ。さっき言ってた風は?」
「直線で向かい風が強いってことを頭に入れておくだけでいい。他のウマ娘を風よけに……なんて考えるなよ。確かに風は強えが、お前は自分の走りをしろ。向かい風上等だ、切り裂いてやれ」
いつもの坂川の強い言葉だった。担当ウマ娘になった当初は品が無いし上から目線で気に入らなかったが、これはこれで良いなと思う自分になってしまった。
坂川の話も終わって数分もしないうちに控室のスピーカーからアナウンスが流れた。
『11R、高松宮記念に出走するウマ娘はパドックへお集まりください。繰り返します──』
激励して送り出してくれるチームの皆の声を背にもらって、パドックへと私は向かった。
◇
「……あら、今日はあなただけ?」
「ああ」
パドックでのお披露目を終え、地下バ道で私を待っていたのは坂川だけだった。
場所取りのためにチーム全員が毎回地下バ道にいるわけじゃないので(なんなら坂川がいないことも普通にある)、別に何か思うところがあるという訳じゃなく、単純にそう思っただけだった。
ひんやりとした地下バ道を、いつものように肩を並べてコースへつながる出口へと歩いていく。どちらが後ろに下がるのでも、前に出るのでもない。ぴったり並んで歩いていく。
「キングに気の利いた言葉を贈る権利をあなたにあげるわ」
「気の利いたことか…………よっと!」
坂川はノーモーションで自身の手を私の素肌が露出している背中に向かって振るってきた。これまで何度もやってきたように私の背中を叩こうとしているのだろう。
しかし──
「──甘いわ、トレーナー」
「なっ?」
彼の手を私は華麗にひらりと躱した。なんとなくやってきそうな感じがしていたのだ。
「何度も同じ手を食らうキングではないわ!」
「チッ」
「さあ、今度こそ気の利いた一言をいただこうかしら」
坂川は空ぶった自身の手を見て渋い顔をしたあと、頭をポリポリと掻いてから口を開いた。
「まあなんだ、頑張ってこいよ」
「過去イチで締まらないわね……」
「今日は背中を張って気合を入れてやろうと思ってたんだ。お前が避けるからだろ。……ああ、そうだ。これならどうだ」
「?」
「俺が毎月、担当ウマ娘の親に情報を送ってるのは知ってるだろ?」
「ええ。……でも、それが? お母さまの連絡先を教えていないのだから私には関係ないでしょう?」
私は母のアドレスや電話番号を教えていない。だから私の情報は送られていないのだ。
「実はな、グッバイヘイローが運営してる会社のHPの問合せフォームに毎月お前の情報を送ってたんだ」
「……はあっ!?」
大事なレース直前に明かされる衝撃の真実に気の抜けるような素っ頓狂な声を上げてしまった。声は地下バ道に響き、同じく高松宮記念に出る他のウマ娘やそのチームの面々の視線がチラチラと向けられていた。
「なんで今更……トレーナー、あなたまさか最初からお母さまと──」
「情報送ってたがあっちからのレスポンスは一切ない。だから母ちゃんが見てるかどうか分からん。スパムメールとして処理されてるかもな」
坂川はそう言うが、彼女なら100%目を通しているとの確信があった。グッバイヘイローとはそういう女だ。
「…………それを隠してたのは今は置いておくわ。で、それをなぜ言おうと思ったの?」
「先月送ったメールにな、宮記念は大勝負だからしっかり見てろよって書いたんだよ。普段はこんな大見得切るようなこと書かねえんだけどな」
「……大勝負、ね」
「お気に召したか?」
「いいわね、それ」
そのフレーズを聞いて胸が躍った。誰であれ、大きいことなんて滅多に口にしない坂川が
──鼓動が高鳴る。
「だからまあ、気合入れろよ。これで惨敗するようじゃ俺もお前もカッコがつかねえからな」
「おーっほっほっほ! ……中々やるじゃない。いいわ、この大勝負、お母さまに見せつけてやるわよ!」
段々と気持ちが高ぶってきた。十二分に力が湧いてきている。
地下バ道の出口が迫ってきた。薄光りの先から、既に出ていたウマ娘たちを迎える歓声が聞こえてくる。
坂川の足が止まり、私が一歩、二歩と前へと進んでいく。
私は前を向いたまま、坂川へと話しかける。
「トレーナー。あなたの問い、今のキングなら答えられるわ」
「は? 何の話だ?」
「『お前にとって一流のウマ娘ってのはなんだ!?』って以前言っていたでしょう?」
一流のウマ娘。
私が、キングヘイローというウマ娘がずっと追い求めていたもの。
「その答えを、私はすでに持っている。……そして、すでに私は一流のウマ娘に成っている」
「あなたのおかげよ、トレーナー。見つけられたのは、あなたのおかげ」
「……は?」
「行ってくるわ」
困惑しているであろう坂川にそう言い残して、私は中京レース場へと足を踏み出した。
歓声が渦巻く曇り空の下、私は中京レース場のターフに出た。本バ場入場し、すでに出ていた他のウマ娘に続いて返し馬をこなしていると、各ウマ娘を紹介している実況の声が聞こえてきた。
『日本のスプリント王の座へ。フランスGⅠウマ娘。3枠5番アグネスワールド』
『GⅠの称号よ今度こそ。7枠13番キングヘイロー』
『シャトルを破ったあの脚をもう一度。8枠15番マイネルラヴ』
『大きな歓声に包まれます! 最強スプリンターへ死角なし! 8枠16番ブラックホーク』
実況の言う通り、私の後にブラックホークが本バ場入場すると観客席がより沸いていた。
パドックに向かう前に知らされた人気順は、1番人気がブラックホーク、2番人気僅差でアグネスワールド、少し離れて3番人気マイネルラヴ、そこからまた離れて4番人気
各ウマ娘の紹介が終わると、実況と解説との会話が耳に届いてきた。
『いよいよ春のGⅠシリーズのスタートです。寒の戻りで底冷えのする中京レース場です。どのウマ娘が春を呼ぶんでしょうか。17人が揃いました高松宮記念です。さて、久々にと言うか、スプリンターのメンバーが揃いましたね』
『ええ。ホントにね、マサラッキがいたら言うこと無かったでしょうね。それでも中々のメンバーですね』
『ブラックホーク、アグネスワールドの2強ないしマイネルラヴを加えた3強対決とする風潮もありますが』
『3人に加え、伏兵ウマ娘も揃いましたね。ディヴァインライト、キングヘイロー、タイキダイヤ、ブロードアピールと──』
私は今日も伏兵扱い……いつも通りか、と思っていると、解説が意外なことを言い出した。
『──さんはキングヘイローに非常に評価してますね』
『ええ。外枠ですし、内のウマ娘を見ながらレースできますしね。短距離適性もあると思っていますから──』
(ふふん。この解説分かってるじゃない!)
解説は正直に私を評価してくれていた。気分がいい。
返し馬を終えた私は待機所で身体を動かしながらファンファーレを待つ。周りにはスプリンターズステークスで一緒に走って知った顔がいくつもあった。
元より事前に全てのウマ娘については研究してある。各ウマ娘の特徴を思い出すと同時に、レースでやるべきことを心の中で反芻しているところで、一人の鹿毛のウマ娘が目の前を通り過ぎた。
彼女はベースカラーの黒に黄色をアクセントとして取り入れている中東風の民族衣装をモチーフとした勝負服を着ていた。絢爛な飾りや刺繍が施されているが決して派手過ぎず、慎ましさや落ち着いた雰囲気があった。
「…………」
私を意に介さず通り過ぎていった彼女を自然と目で追っていた。
彼女の姿に視線が吸い寄せられていた。
……
『さあ、これから鳴り響く、中京のファンファーレです』
気づけばスターターが台上に登って旗を振っていた。その旗は強風に煽られて真横に激しくはためいていた。
風が強く、勝負服の肌が露出している部分に風が当たり体温を奪おうとしてくる。手足を素早く動かし、身体が冷めないように細心の注意を払う。
暑さに比べたら寒いのは苦手じゃない。体調は良い。大丈夫だ。
「……よし!」
ファンファーレが鳴り終わり、URAの職員によって奇数番のゲート入りを促される。
私は7枠13番……奇数番だった。スタートに集中するために頭の中を一旦白紙にし、気持ちを落ち着けながらゲートへの向かった。
13番ゲートの前で立ち止まり、目を瞑って大きく深呼吸をひとつ。
「すぅ…………ふぅ……」
目を開くと、私と同じようにゲートの前で立ち止まっているウマ娘が左側にいた。彼女は先程私が目で追っていたウマ娘で、4枠7番のゲートの前にいた。
そして私より先にゲートへ入っていった。
遅れて私もゲートへ入ると、続々と他のウマ娘もゲートへ入ってくる。ゲート入りを嫌がるウマ娘はいないようだった。
『さあ寒風を吹き飛ばせ! 春一番GⅠシリーズの────』
全員がゲートに収まり構える。訪れる一瞬の静寂。
脚ではなく、体の中心をぼんやりと意識する。
『────スタートですッ!!!』
金属音と共にゲートが開き、中京のターフへの道が視界に広がった。
6ハロンの電撃戦、スプリンターズステークスと双璧を成す中央最速のGⅠ高松宮記念が始まりを告げた。
◇
高松宮記念の発走を見守るウマ娘がいた。
緑ががった芦毛のウマ娘は中京レース場の観客に一人紛れていた。
高松宮記念に出走しているウマ娘の母親は現地ではなく、いつものように自室のモニターで見ていた。
DTLで頂点に立つウマ娘は関係者専用席で親友であるサトノダイヤモンドと共にいた。
三者三様思いは違えど、キングヘイローというウマ娘を見ていた。