高松宮記念を月末に控えた3月の上旬のある日。
トレーナー室でひとり私はタブレットである資料を読んでいた。その資料とは高松宮記念に出走が予想されるウマ娘のデータを坂川が分析したものだった。戦績などのプロフィールから実際のレースの特徴や傾向、メディアに出ている記事の内容やトレセンでの調整過程、レースごとの個別ラップタイムが載っていた。
その中で、私が一番気になったのは──
「ディヴァインライトさん……」
──ディヴァインライト。
私と同い年のウマ娘。つまり黄金世代と呼ばれている世代のウマ娘だ。
彼女は2月の阪急杯でブラックホークの2着になり、高松宮記念の出走が有力視されていた。
彼女とは同じレースを走ったことはあるが、日常生活では関わりがない。
そんな彼女をなぜ気になったのか。
……彼女の競走成績を眺めていると、彼女を他人とは思えなかったのだ。運命的な何かを感じていた。
共通点を挙げてみる。
先程の述べたように私たちは黄金世代のウマ娘だ。クラシック三冠……セイウンスカイが勝利した皐月賞とスペシャルウィークが勝利した日本ダービーに出走していた。黄金世代のクラシックを争い、私も彼女もセイウンスカイとスペシャルウィークの背中を後ろから眺めていたのだ。
さらに言うなら、坂川にスカウトされるきっかけとなったあの模擬レースでも共に走っていた。
「…………」
昨年のマイルチャンピオンシップのことを思い出す。レースの枠入り前に他の出走ウマ娘を見ていると、私と一緒にクラシック路線を走ったウマ娘が他の17人の中に誰一人としていないことにふと気がついた。
それはスプリンターズステークスでも、フェブラリーステークスでも同様だった。クラシックは中長距離のGⅠなのだから、スプリントやダートのGⅠでいないのは別に不思議なことじゃない。
けれど高松宮記念において、共に黄金世代のクラシックを走ったウマ娘が一人だけ現れた。
それがディヴァインライトだった。
経歴を見てみると、彼女は皐月賞5着、ダービー7着と走った後、7月のラジオNIKKEI賞を9着で終えてから1年以上の休養に入っている。どうやら屈腱炎を患ったようだった。
彼女は1年3ヶ月後のシニア級1年の10月に1600mの2勝クラスで復帰。そこから3戦連続1600mを走り2走目で勝利し、今年2月初めの3勝クラスで1400mに距離短縮して勝利。そして2月末のGⅢ阪急杯にて初めて1200mに挑戦し、ブラックホークの2着。そしてこの高松宮記念に駒を進めてきた。
──黄金世代のクラシックで中距離を走り、シニア級で距離短縮。
──高松宮記念が1200mの2走目。
「……似てる……」
その経歴は
もちろん異なる面もある。
私は故障とは無縁だし、重賞も3つ勝っている。対するディヴァインライトは屈腱炎になって休養し、そして重賞は2着が2回あるだけで勝てていない。彼女の主な勝鞍は3勝クラスだ。………怪我やレース結果だけで考えるなら、私より彼女の方が苦しい日々を送ってきたのかもしれない。
何より
似ているようで似ていない。それがキングヘイローとディヴァインライト。
でも、確信できることがひとつだけある。
「きっと……彼女も──」
私と同じく、自分だけの道を選んだウマ娘だ。
◇
──残り100m──
『さあ! 先頭はディヴァインライトだ!』
ディヴァインライトが半バ身リードして先頭に立っていた。
レース中、時折彼女の姿をこの目に捉えていた。
道中はバ群に囲まれた内でじっと我慢し、ロスなく完璧にコーナリングし、最後の直線でバ群を割って前に出る。
……全部、不器用な私にはできないこと。
『内からディヴァインライト!!!』
計算し尽くされた乾坤一擲のイン突き。
全てを賭して絞り出された究極の一撃。
いつの間にか、視界の景色がモノクロになりスローモーションとなっていた。
その中で、私と彼女だけが色付いて見えた。
共に走った模擬レースから始まり、黄金世代のクラシック級で中距離に挑んだ私たちが、シニア級2年の今この瞬間1200mのGⅠで勝利を争っている。
日本ダービーで別れた道が
お互い、自分だけの道を選んで、進んで、ここまで来たのだ。
──この高松宮記念で勝つには、その彼女を倒さないといけない。
「────っ!!!!!」
速度が戻る。モノクロの景色が色付く。
『内からディヴァインライト! 外からキングヘイロー!』
大外から私は3人を追う。
脚は完全にレッドゾーンを振り切って回っている。
『さあ大外からっ! 大外からやはりキングヘイロー飛んできたっ!!!』
「はああああああああっ!!!!!!」
──残り50m──
ディヴァインライトを差し返そうと詰めるアグネスワールドと、追っているブラックホークが並びかけていた。
そんな2人を、並ぶ間もなく捉えて、交わす。
スプリンターズステークスで捉えられなかった2人を交わす。
『キングヘイロー飛んできたっ!!!』
──残り30m──
──あと1人。
ゴールは目前。
クビ差抜け出して先頭を駆けるディヴァインライト。
『キングヘイローかっ!!!???』
──残り20m──
「ああああああああああっ!!!!!」
ディヴァインライトに並ぶ。
ただ前を向いて、目の前の栄光に向かって走る。
フラッシュバックする敗北の日々。
何度も何度もすり抜けて届かなかったものに、ついに手がかかる。
『キングヘイローが────』
──残り10m──
ディヴァインライトを交わした。
交わした先に、ゴールがあった。
──嗚呼、やっぱり。あなたとは運命的な何かを感じるわ。
『撫で切ったッ!!!!!!』
高松宮記念のゴール板を、私は先頭で駆け抜けた。
『キングヘイローッ!!! キングヘイローがまとめて撫で切ったッ!!!』
私がGⅠを勝った。
『恐ろしい末脚!!! ついにGⅠに手が届いたッ!!!!!』
ただ小さく拳を握る。
その手に、確かに掴めたものがあった。
◇
キングヘイローが直線を向いたとき、コーナリングのロスでポジションが下がっていた。
位置取り的に差し切れるかは微妙……いや、はっきり言って苦しい位置だった。
『大外からやはりキングヘイロー飛んできたっ!!!』
力いっぱい足を踏み鳴らしながら、隣にいるウマ娘たちと一緒になって叫んでいた。
彼女の姿を追うのに夢中で、自分が何を叫んでいるのか分からなかった。
大外一気で、一完歩ごとに前へと迫るキングヘイローが目の前までやってくる。
そして──
『キングヘイローが撫で切ったッ!!!!!!』
──キングヘイローが差し切って、1着でゴールを過ぎていった。
翠の勝負服が中京のターフに翻っていた。
「────」
言葉を失っていた。
何が起こったのか分からず、呆然としていた。
大歓声を背中に浴びた。隣にいるチームのウマ娘たちが飛び跳ねながら抱き合っていた。
ゴール直後のキングヘイローは叫ぶこともなく派手なガッツポーズをとることもなかった。彼女は右手で小さく拳を握ったあと、脚を止めて肩で息をしながら空を見上げていた。
「────」
頭の中で、今までのことが走馬灯のように駆け巡っていた。
キングヘイローと契約してから歩んできた2年半のことが次々と色褪せない情景として浮かんできた。
その走馬灯はキングヘイローとの日々で終わりではなかった。
キングヘイローとの日々の情景が終わると、どうしてか他のウマ娘とのことも思い出していた。
それはカレンモエであったり、サイレンススズカであったり、ダイアナヘイローであったり、青鹿毛のウマ娘だったり。そして栗毛のウマ娘であったり……勝たせられず退学していった多くのウマ娘たちのことも。
記憶が過去へと遡っていって、最後に浮かんできたのはキタサンブラックとの──
「……なんて顔してるのよ」
いつの間にか、汗と芝と泥に汚れていたキングヘイローがスタンドの柵を挟んですぐ目の前にいた。その瞳は潤んでいて、俺に向かって優しく微笑んでいた。
彼女に指さされた自分の顔へ手をやると、指先に濡れた何かが触れた。
どうやら俺は涙を流しているようだった。ずっとそれは流れ出ていて、止まる気配がなかった。
……俺は今、どんな表情をしているのだろうか。
「おめでとう……っ……良かった…………良かったなあ、キング……」
思ったより俺の声は震えていた。
気の利いた言葉なんて思いつかない。月並みで、なんてひねりの無い言葉だろうか。
ただ、キングヘイローが努力してきた日々が、苦しんで悩みながら歩んできた日々が報われて良かったと思った。
「……ええ。ありがとう、トレーナー」
柔らかい表情のキングヘイローを見ていると、表現として合っているのかは分からないが、愛おしく感じた。
涙は出ているが、キングヘイローの姿が見えないなんてことは無かった。はっきりと彼女の姿が俺の瞳に映っていた。
「すごいっ! すごいわキング! 私の目に狂いは無かったわ! 流石は私のキングよっ!」
「やったやったやりましたねっ! 今日は何回でも一流のウマ娘って呼んであげますっ!」
「ダイアナさんも、ペティさんまで……ちょっと、もう……ありがとう。モエさんと、スズカさんも」
テンションが上がりきったダイアナヘイローとペティが柵を飛び越えてキングヘイローに抱き着き揉みくちゃにしていた。手荒い祝福を受けたキングヘイローはくすぐったそうに笑っていた。
カレンモエとサイレンススズカは柵を飛び越えることは無いものの、彼女たちにしては興奮した様子でキングヘイローに祝福の言葉を掛けていた。
ダイアナヘイローとペティにもっと喜んだらどうかと言われたキングヘイローだが、彼女は背後をチラッと見やった。
彼女の向いた方には2着に敗れてターフで泣き崩れ、座り込んで動けないディヴァインライトがいた。
彼女は同じチームの先輩であるストーミーサンディに肩を貸されて立ち上がらせられ何とか歩き出すも、涙と嗚咽は止まらず、足元もおぼつかないようだった。
「……ここでは、必要以上に喜ばなくてもいいわ」
彼女はぽつりとそうこぼした。
「ねえ、トレーナー」
「……っ……なんだ……」
「私、あなたに言いたいことがあるの」
キングヘイローは俺を真正面から見据えていた。
◇
坂川はずっと涙を流し続けていた。
彼のこんな姿を見るのは初めてだったからちょっと驚いた。私やチームメイトが勝った時は笑って喜んでいるのがいつものことだったから。
そんな彼を見ていると微笑ましいというか……じんわりと心が温かくなった。
──私は彼に伝えなければならないことがある。
「私、あなたに言いたいことがあるの」
「なんだ……?」
「一流のウマ娘についてよ」
「ああ……地下バ道でも言ってたな……」
「あなたに初めて問い詰められたのは、菊花賞の前だったわね」
ずっと探していた一流のウマ娘。
私はそれを見つけた。
そしてすでに私は一流のウマ娘に成っている。
「ずっと考えてきたわ。私にとっての一流のウマ娘は何かって。最初はクラシック三冠を取るとか、GⅠをいくつも勝つとか、勝利というのが一流の証明になる……そんなことを漠然と思っていた。でも、思い通りにならない現実に直面して、お母さまやあなたに一流のウマ娘とは何か訊かれて、分からなくなっていることに気づいた。私の一流のウマ娘がこんなにあやふやで頼りないものだとは思わなかったわ」
こうして口にしていて思う。負けたから、こうやって分からなくなったのだろうかと。
……否定できないどころか、その通りだ。もし仮にクラシック三冠を勝って、GⅠをいくつも勝ったキングヘイローなら、また違う“一流”へと至っているだろう。
決してその“一流”は間違いなどではなく、単に違うと言うだけ。“一流”を定義する者の数だけ、その答えはあるのだ。
今ここにいる私は……負け続けて、勝てなくて、色んな可能性を模索しながら自分だけの道を選んで進んできたキングヘイローだ。
そんな私だからこそ、この答えに至った。そして“一流”を見つけ出した。
「一流のウマ娘とは何か。それを探しながら走ってきたわ。走ることで私だけの一流を探して、そして証明するって。……あなたも、菊花賞の後に私がお母さまに言ったのを聞いていたわよね」
「…………ああ」
「私は……キングは一流のウマ娘に成ったわ。でもそれは、今日の高松宮記念で勝ったからでも、GⅠを勝ったからでもない。地下バ道であなたに言った通り、レースに出る前のあの時点で私はすでに一流のウマ娘だった」
「すでに……?」
「ええ。……ねえ、トレーナー。あの時みたいに、私に訊いて」
坂川は一字一句違わずにその問いを口にした。
「……お前にとって一流のウマ娘ってのはなんだ……?」
「私にとっての一流のウマ娘とは、何があっても諦めずに立ち向かっていくウマ娘のことよ」
──走ってきた自分と、出会ってきた人達を見て、出した私の答え。
「重要なのは何を成したかじゃないわ。どう在るか、よ。どんな困難があろうとも、自分の道を探して、選んで……諦めずに努力を続けるこの在り方こそが、私の一流のウマ娘」
何度敗北したとしても、勝利を目指して努力し続け、レースに挑む。
屈服されられたとしても、その度に地を這いずり回って再び立ち上がる。
故障をして、痛い思いをして、再び走れるようになるか分からない状況であっても挫けずにいる。
どれだけ涙を流して、血が滲むほど固く手を握りしめたとしても、首を下げずに前を向き、進んでいく。
その在り方、その過程こそ、私が見つけ出した一流のウマ娘なのだ。
何かを成すだけが一流の証明ではない。
チームメイトや、ライバルであり良き友人である同世代のウマ娘たち、怪我に立ち向かってレースに挑もうとするサイレンススズカやオフサイドトラップ。彼女たちの走りを見て、あるいは共に走ってきた。
レースに出走する、レースに勝利する。そのために送る日々の姿勢や努力に意味や価値はあるのだと思わされた。何より私が、そんな彼女たちを見てきて感銘を受けた。幾度もの敗北や怪我を乗り越えて走ることに、掛け替えのないほどの素晴らしいものがあったのだ。
「だから、すでに私は一流のウマ娘に成っている」
「どれだけ敗北を重ねても、勝利を目指してレースを走り続けてきたわ」
最初は一流を証明するために、諦めず、首を下げないと決意してこの世界に入ってきた。
今はそれが逆の様になっていた。
諦めず、首を下げないことこそが一流なのだ。
「順調とは言い難いこの2年半の間、それでも自分だけの道を探して、選んで必死にここまで駆け抜けてきた」
三冠ウマ娘を目指した中長距離のクラシック三冠全てで敗北。勝てない日々が続いた。
様々な可能性を探り、マイルやスプリントの道を選んで今ここにいる。
「この道のりを歩んできたキングヘイローを、私は誇りに思っているわ」
「そして、この道のりこそが一流の証」
「高松宮記念で至った21戦全てが────」
「あなたと契約を結んでからの日々全てが────」
「その在り方、過程こそが────」
「────私が一流のウマ娘である証明なのよ!」
高らかに言い切った。
これが、
「……それがお前の見つけた一流のウマ娘か」
「そうよっ!」
「……見つかって、良かったな」
坂川の溢れていた涙はもう止まっているようだった。震えていた声も今は落ち着いていた。
「……なら」
「なによ?」
彼はいつもの調子に戻ったみたいで。
「
「……なっ! あなたねえ……!!!」
雰囲気を台無しにする、そんな軽口を叩いた。
確かにそうかもしれないと思わせるから腹立たしい。坂川らしいと言えば、坂川らしい。
「空気を読みなさないよっ! おばか! へっぽこ!」
──だってカッコ付かないじゃない! こんなことを言えるのは今みたいな特別なタイミングだし……それに、決める時は決めるのも、一流なのよ!
……まあ、坂川健幸とキングヘイローの関係性というのは、昔から変わらず、過去も今も未来もこんな感じなのだろう。
気づけば周りからは注目されているようで、私たちは近くにいる観客からの視線を集めているようだった。GⅠを勝った私を一目見ようと後ろの方から他の観客が詰めてきているのも見える。
ターフビジョンにも私たちの姿が映っており、バ場の遠くからメディアのカメラマンたちがこっちへ向かっていた。また私をウィナーズサークルに誘導しようとするURAの職員もこちらへ向かってきていた。
……あまり時間は残されていない。
今でなければ坂川に言えないことが、もうひとつだけあった。
「……もうひとつ、あなたに言うべきことがあるわ」
◇
「……もうひとつ、あなたに言うべきことがあるわ」
キングヘイローが真剣な表情で俺を見つめる。瞳に宿る意志は強く、何かを俺に訴えかけているようだった。
「私が一流を見つけられたのは私だけの力じゃない。私が今まで出会ってきた人達、チームメイト……」
彼女は周りにいるチームメイトを見回して、そして俺に再び視線が定められた。
「何より……トレーナー、あなたのおかげよ」
「…………俺の……?」
バ場へ送り出す前の地下バ道でそのことを彼女は言っていた。その真意までは分からなかったが……
「私はあなたの担当ウマ娘として、ずっとあなたの姿を見てきた。私のために努力してくれてきた姿はもちろん、モエさんやダイアナさん、スズカさんのために頑張ってくれるトレーナーを知っているわ」
「……俺はトレーナーなんだ。それぐらい当たり前のことだろ」
「いいえ。……あなたは私が知らない……私たちの前に担当してきたウマ娘に対しても
「…………」
──キングヘイローが何を言いたいのか、分かるような気がして、分からない。
俺はただ彼女の言葉を待った。
「
彼女……キタサンブラックのことを言ってるのだろう。
確かにあの経験をしたから考え方が変わった部分があるだろうし、何より担当ウマ娘に真摯に向き合えるようになったとは思う。
……しかし、それを良い変化だと認めてしまったら、キタサンブラックへのドーピングを肯定することになる。あの過ちがあったから、今の俺は成長できたなんて思えるわけがない。
俺は自分自身のことを許せる日は来ないだろう。
「……あなたは勘違いしてそうだから、この際はっきり言っておくわ」
「勘違いだと……?」
「あなたが自分自身を許せないことと、あなたがここまで努力して私たちに寄り添ってくれたことは全く別の話よ」
「────」
言葉を失った。
思考も真っ白になった。
今まで俺の中には無かった考え方だったからだ。
「あなたは自分が足りないとも言っていたわね。それも間違っているわ。頑固で現実主義なあなたは私たちを勝たせられないからとか、成績を残せていないから足りないんだと言っていたのでしょうけど、それもキングが否定してあげる。キングの定義する一流とはね、何を成したかではなく、どう在るかなの。結果ではなく、過程なのよ。……まあ、足りないと思って努力し続けるからこそ坂川健幸、なのかもしれないけれど」
「それでも、あなたは足りていたの。私が出会う前から……最初から一流として、トレーナーとして足りていた。そして今も一流で在り続けている。だからね、ペティさんが言ってたことは正しいのよ」
「へ!? わたしですか?」
いきなり話を振られたペティが素っ頓狂な声を上げて目を丸くしていた。
「そうよ。ペティさん、担当になる前にトレーナーに言ってたじゃない。一流のトレーナーって。私の言う意味とは違うけれど」
「…………あ! キングが盗み聞きしてたあれですか?」
「盗み聞きなんて人聞きが悪いこと言わないの!」
2年半前の記憶が蘇ってくる。
始め会った時のペティは、俺のことを調べて俺のことを一流のトレーナーだと言っていた。
「確かに言いましたけど……あの時今来たとこだとか言ってませんでしたっけ?」
「…………コホン。話を戻すわよ」
「誤魔化しましたね」
「うるさいわね! ……ねえ、トレーナー。あなたは最初、自分のことを底辺だとか、弱小だとか言っていたけれど、それは間違ってる。あの時すでに、あなたは一流だったのよ!」
気を取り直したように再び俺に向き合うキングヘイロー。
──その姿が滲んで見えてきてるのはなぜだろう。
「今、話したのはキングの……
キングヘイローが“私たち”と言う度に、これまで担当してきたウマ娘たちが思い浮かんできていた。
俺の担当になった日のこと。
何でもない日々のこと。
レースに負けた、あるいは勝ったときのこと。
俺の元を去っていった日のこと。
トレーナーになってからここまで、担当ウマ娘全員が俺の胸に刻まれている。
ふいに左手が暖かい感触に包まれた。
柔らかい笑みを浮かべたカレンモエが、俺の左手を両手で包み込むように握っていた。
カレンモエを目を合わせる。彼女は小さく頷いてから、言葉を紡いだ。
「“大切”なんだよ、トレーナーさん。……坂川健幸さんがモエたちことを大切に想ってくれるように、モエたちもあなたのことを大切に想ってる。だから、一緒にいたいって思えるの」
「モエ……」
「ありがとう。ずっと、モエたちのために頑張ってくれて」
「……っ……」
また自分の声が震えてきた。
視界が滲んで、見えなくなるものが増えてくる。
だが今この瞬間、沢山のものが見えていた。
あまり見えなくなったカレンモエの顔を見る。過去のことを打ち明けた日の夜に彼女から向けられていた想いも今なら分かる。
俺は自分を最低のトレーナーだと思っていた。
俺が一生自分を許すことはない。ドーピングしたという事実は変えられようがない。
昔の俺は独りよがりで、自分のことしか見えていなかった。取り返しのつかない失敗をして、多くの人を傷つけた。
それでも今の俺なら、彼女たちが俺のことをこうして想ってくれていることに気づけたのだ。
自分自身をちゃんと理解するべきだと思う。許されないことをした自分も、担当ウマ娘のために奮闘してきた自分も、どっちも俺だということを。
彼女たちの言う通り、俺のこれまでを認めてくれるというのなら、もがいて足掻いて苦しみながらも頑張ってきた自分を認めてやるべきなんだと思う。
今は、彼女たちが想ってくれる自分のことを尊重したいと思えるようになった。
こんなにも俺のことを大切に想ってくれている。
それは何物にも代えがたい、尊いものだ。
そんな尊いものを俺に向けてくれているのだ。
「……トレーナー」
キングヘイローは彼女自身の左胸に右手を当てていた。
「あなたに敬意と賞賛を。ずっと一流で在ったあなたに。一流で在り続けたあなたの姿を見てきたからこそ、私は一流に至ることができた」
「私に一流を教えてくれて、ありがとう」
「今日の勝利は……2人で勝つって言ってたけれど、私たちみんなの勝利だと思うわ。私たちと、もちろんトレーナーのものよ。だから──」
「──トレーナーも、おめでとう。一流のトレーナーであるあなたに少しでも報いることができたなら、一流の担当ウマ娘としてこれ以上のことは無いわ」
「初めてのGⅠ勝利、おめでとう。トレーナー」
春を告げるような、キングヘイローの優しい声。
「トレーナーさん、おめでとう」
カレンモエの包み込むような柔らかい声。
熱いものがこみあげてきて、溢れて、流れていく。
「おめでとうございます! ……ふふっ、泣きすぎですよトレーナーさん!」
「……トレーナーさんもおめでとうございます」
「ええっと……トレーナーも、おめでとう」
ペティが、サイレンススズカが、ダイアナヘイローが祝福してくれて。
全てが滲んで何も見えなくなって。
でも、はっきり見えるものはあって。
頭の中では、トレーナーとして歩んできた道のりがまた駆け巡っていて。
「……ぐっ……っ……ありっ、がっ…………」
嗚咽でうまく声が出ない。
それでも振り絞って、言葉という形にしようとする。
大切なことを気づかせてくれて、そして俺のことをこんなにも想ってくれた彼女たちに──
「──みんな、ありがとう……っ」
──俺なりの、目一杯の感謝を。
◇
私たちは2人でレースを見ていた。
『ああ、坂川トレーナーも涙ですねえ』
『分かりますねえ。これだけの素材……12回目ですからねGⅠ。そして坂川トレーナーも……トレーナーになって10年以上経ちますかね。2人揃っての初のGⅠ勝利、喜びもひとしおなんでしょう』
「…………」
隣にいるキタサンブラックはレースが始まってから今までずっと無言だった。
スタンドの高い位置にある関係者専用の個室から、坂川とキングヘイローの様子が見えていた。カメラもやっと近くに行けたようで、彼女たちの姿が鮮明にターフビジョンに映し出された。
キタサンブラックがゆっくりと立ち上がった。
「帰る?」
「…………ううん。あたし、行かなきゃ」
「行かなきゃって……もしかして……!?」
反射的に私も立ち上がった。
言葉にせずともわかる。彼女は坂川の元へ行く気だと。
歩き出そうとする彼女の腕を掴んだ。
「ダイヤちゃんっ! ……離して……大丈夫だから」
「でもっ」
「お願い……一人で行かせて……これで、最後だから…………」
「……っ……」
「それに……」
「……?」
「…………ううん、何でもない…………ここで待ってて。お願い……」
歩み始める彼女の腕から私の手指が解けていった。
親友として、ここまで言われたら裏切るわけにはいかなかった。
キタサンブラックは個室から出ていった。
◇
高松宮記念の数日前、夜のトレーニングコースにて。
「約束通り、あなたにはキングの言うことを聞いてもらうわっ!!! キタサンブラック、あなたには────」
「────トレーナーに会いに来る権利をあげるっ!!! ……いいえっ、会いに来なさいっ!!!」
あと数話で本編は完結となります。
本編完結後はアフターストーリーやサイドストーリー的なものを投稿予定です。
もうしばらくお付き合いくださいませ。