セイウンスカイはスタンドの観客に一人紛れ、キングヘイローが頂へとたどり着いた瞬間を見届けた。
──胸の高鳴りが身体中に響いていた。
「……っ……」
熱い。
河川敷で胸を小突かれたときとは比べ物にならないぐらい熱い。
胸の奥が燃え盛るようだ。
心臓の鼓動に心も体もどうにかなってしまいそうだった。
「……キングさあ……利子、付けすぎだよ。返さなきゃなんないじゃん……」
踵を返して、スタンドを後にした。
──ターフへ焦がれる気持ちに、再び火が灯っていた。
◇
チームシリウスの面々を見回して、沈痛な面持ちを作った。
「……みんな、ワールドちゃんのとこに行こっか」
(……負けた。よりにもよってキングヘイローに……)
腸の煮えくり返るような思いをしていた私はシリウスのメンバーを引き連れて、歓声や拍手で沸くスタンドを移動していた。アグネスワールドを迎えに地下バ道へ行くためだ。
(ディヴァインライトは直線で追ってきたときにちょっと内へ斜行して進路塞いでやれば終わってたけど、キングヘイローを抑えるのは……不得意のコーナーでもう少し押し上げられてたら勝てた? いや、あの展開じゃ……ハナ取りきれたら違った? メジロダーリングのせいで逃げられないし一人分延々と外を回されることになったし……あのウマ娘ほんと邪魔だったな)
敗因について思い巡らせながら、アグネスワールドを心配する天崎ひよりを演出していた。
『ああ、坂川トレーナーも涙ですねえ──』
(……くだらな)
ターフビジョンには泣いている坂川が映し出されているらしい。見る気は全く起きない。
そんな彼の姿を見てか、彼を称えるように観客席からは自然発生的に拍手がパラパラと湧いていた。
その道中で、ある人物と彼女はすれ違った。
「……えっ!?」
「……ん?」
偶然にも横水とばったり会い、そして驚いた。
なぜ驚いたか。横水が拍手をしていたからだ。
──幸ちゃんが坂川くんに……?
坂川のことをあれだけ嫌っている横水が、彼に向けて拍手をしているという目を疑うような状況に、驚きのあまり足が止まってしまった。
「どうしたんですか? ……あ! セイちゃんの──」
「……スぺちゃん、皆。先にワールドちゃん迎えに行ってて。すぐ行くから」
「え……あっ! そうですよね、キングちゃんのトレーナーさんも……分かりました。先に行きますね」
なにかを察したスペシャルウィークが他のシリウスのウマ娘に声を掛けて、その場を去っていった。
彼女は私たち3人が同期だということを知っている。それに関して
横水はまだ拍手を続けていた。ゆっくりとした拍手だった。
彼女の視線はモニターではなく、その目で最前列の方にいる坂川の姿を捉えているのだろう。
「……幸ちゃん」
「なんだ?」
「ブラックホーク負けたよね?
目と声で訴える。
──あれだけ嫌っている坂川くんに拍手してるの?
──ドーピングをした坂川くんを許せないんじゃないの?
そんな思いを込めて。
「そうだな……」
……元親友の仲だったから、それぐらいの意思疎通はできたようだ。
「ああ、許せないさ。一生許すことは無いだろう。だがな」
「……?」
「拍手ぐらいは、してやってもいいと思ったんだ」
……どういう風の吹き回しなのか。
私が知らないだけで、2人の間に何かあったのだろうか。
横水が目を細めて拍手をしているのが本当に理解できなかった。
思わず彼女の視線の先を追ってしまった。その先には、チームのウマ娘に囲まれて人目を憚らずに泣いている坂川がいた。
(……こんなに泣く人だったんだ。坂川くん)
清島のウマ娘に負けた時のような不快感と怒りは不思議と訪れなかった。表現しがたい……もやもやとした気持ちになっていた。
泣いている坂川とその姿を見つめる横水。そこに10年前の2人の面影を見た気がして──
「…………っ」
──一刻も早くこの場を離れたくなった。
「……じゃあね。幸ちゃん」
立ち去ろうと歩き出すと──
「お前はそう思わなかったか。なあ、
「──────」
足が止まる。
あまりに久方ぶりに聞いたその呼び名は、とても自然で、親しみがこもっていた。
「…………ぁ……」
のどから何か言葉が出かかっている。
その言葉が何か全く分からない。
「…………」
だが、その言葉が出てしまったら何かが崩れてしまうことだけは分かった。
「…………」
言葉を飲み込んで、速足で歩を進め地下バ道を目指した。
◇
“ひより”と呼んだのは無意識的だった。だが、自然と昔の呼び名が口から出たのはここに私と天崎と坂川の3人がいたからだろう。
“ひより”と呼んで一瞬足を止めた天崎が去ったのを見送ったあと、思わずつぶやいていた。
「……お互い、面倒くさい女になったな」
道が別たれてからしばらく経つが、天崎の本質的なものは理解しているつもりだ。
壊れた部分もあるだろう。だが、どこかに元の形のまま保てているものもあるのだ。全部が全部変わってしまうことなんてそうそうない。
人間というのは何かしら過去のものを捨てられずに引きずりながら生きているのだ。
拍手をやめて視線を戻すと、涙をぼろぼろと流して泣いている坂川が遠目に見えた。
キングヘイローが勝つその瞬間まで拍手をする気は微塵も無かった。天崎と同じようにすぐ踵を返すつもりだった。
「……」
高松宮記念は坂川のウマ娘であるキングヘイローが勝利した。ブラックホークは良いレースをしたが、あと一歩届かなかった。
今日のレースにおいてはキングヘイローがブラックホークを完全に上回っていた。マイネルラヴを挟んでいたが実質的にこちらをマークして、大外回っての3コーナーからスパートをかけたことにより、あの直線の末脚へと集約させていた。完敗だった。
才能はありながらも難しいところが多いキングヘイローを坂川がGⅠまで持っていった。菊花賞で掲示板に入るウマ娘をスプリントへ転向させ、よくここまで仕上げたものだと感心していた。
「流石だな」
……もちろん自分の担当が負けて悔しい思いはある。天崎に言った通り、彼の過ちは今でも許せない。それでも──
「……どれだけ泣いてるんだ、全く。そんなに涙もろいやつだったのか?」
──今この瞬間だけは彼を祝福していたかった。素直な自分の気持ちだった。
◇
モニターには、坂川と話し終えたあとウイナーズサークルで“高松宮記念”と書かれた優勝レイをかけて写真撮影に応じる自分の娘が映し出されていた。
本当に得意げな顔をしていて……ものすごく調子に乗っている顔。昔からよく目にした愛おしい表情だった。
「……」
しかし、昔の面影が重なるその顔に、成し遂げた者だけができる表情が浮かんでいた。
「…………」
私の知らない、娘の表情。
──あなたは、こんな顔をするようになったのね。
「…………そう」
深く息をついて、椅子に身を沈ませる。
「…………」
手元にあるスマホを撫でる。
「……私は、何を言うべきなのかしらね」
親だからといって、子に何を言ったら正解なのか分かるものではない。
あの子の道はここで終わりではない。
確かに蹄跡を刻み、これから先も歩みを進めてゆくあの子に、親としてかけるべき言葉は……。
いや、親と子という関係だけでなく、私がかけたい言葉を……。
……そもそも自分から電話をかけるべきなのか、あちらから電話が来るのを待つのか。
そんなことすら悩んでる自分を客観的に俯瞰して、不意に笑みがこぼれた。
何をするべきか分かったのだ。
「…………ふふっ、バカね……」
確かに言うべきこともあるだろう。
しかし、それだけではない。
大切なのは、ちゃんと聞いてあげること。
それがグッバイヘイローとしての、あの子の親としての役目だ。
◇
表彰式を見届けた俺たちはウイナーズサークルから戻って来るキングヘイローを地下バ道で待っていた。地下バ道へと着いたときにはすでに高松宮記念に出ていたウマ娘たちは捌けおり、誰もいなかった。
「トレーナーさんすっかり元通りですね」
「当たり前だろ。いい大人がずっと泣いててどうすんだ」
ペティの軽口にそう返した。
あれだけ流れていたものも今は引っ込んでいた。これだけ泣いたのは今までの人生で記憶になかった。一生分の涙を流した気がする。
……今思い出しても発狂しそうなほどに恥ずかしい。
「結構長い間泣いてましたけどね。泣き顔の写真、撮ってれば良かったです」
「……おっさんの泣き顔なんて撮って何が楽しいんだ」
「でも、メディアのカメラマン達が写真撮ってましたから、明日の新聞とかネットニュースに載るんじゃないですか」
「…………」
「いい歳した男の嬉し泣きって需要あると思いますよ」
「何のフォローにもなってねえ……」
寒気がした。
こんな歳になって泣く姿を衆目に晒されるだけでも最悪なのに、それが全国に発信されるなんて考えたくもなかった。叶うならキングの姿だけ載せていてほしい。
その時、ズボンのポケットから振動がした。
「……?」
スマホを取り出して確認すると、LANEでメッセージが送られてきたようだった。
「……お」
その相手は過去に担当していた青鹿毛のウマ娘だった。俺に最初の1勝をくれたあのウマ娘だ。
「どうしたんです?」
「いや、昔の知り合いから連絡が来てな」
「GⅠ勝ちましたからねえ。やっぱお祝いのメッセージとか来るんじゃないですか? 父さんもGⅠ勝った日は電話とかたくさんかかってきてましたよ」
「そんなもんか……」
まだ俺がGⅠトレーナーになったのだという実感はない。何だかふわふわした気分だ。
そんなことを思いながらLANEを確認すると──
[GⅠ勝利おめでとうございます! テレビで見てました]
[キングヘイローさん、凄い走りでした! トレーナーさんが凄いトレーナーだって証明してくれましたね! あれだけ泣いてたトレーナーさんにはびっくりしちゃったけど……少し羨ましかったです]
やはり泣いている姿がテレビに流れていたのかとばつの悪さを感じたが、卒業してから何年も経つのに俺のことを見てくれていて、こうしてメッセージを送ってくれるのは本当に指導者冥利に尽きる。
画面をタップし簡単なお礼の文章を打ち込んで送信した。後から時間ができた時に今どうしてるか話でも聞こう。こうして思ったが、やはり教え子のその後は気になるものなのだ。
スマホをしまおうとすると、再びLANEの着信音がした。
青鹿毛のウマ娘と同じように過去に担当したウマ娘から連絡が来ていて、それが立て続けに2つ、3つと続いていく。担当ウマ娘に限らず、昔の知り合いからも何人かメッセージが来ていた。
「スマホ鳴りっぱなしですね」
「こんなに来るとはな……」
驚きが半分、嬉しさが半分と言った気持ちでメッセージを確認していく。その中に、俺が中央に戻って1年目で担当したウマ娘からもLANEが来ていた。ダービーを勝ちたいと言っていたウマ娘だった。
……未だに彼女の親との面談は覚えている。あの面談はだいぶ堪えたことを思い出し、少し苦い気持ちになった。
[GⅠ勝利おめでとうございます]
「……」
そんな一言だけのメッセージだった。
彼女にも色々思うところはあるだろう。おそらく俺に対しては複雑な思いを抱いているはずだ。それでもこうやって一言でもメッセージを送ってくれる。本当にありがたいことだと思う。
まだキングヘイローの姿が見えないので、出来る範囲での返信を順に行っていた。
そして、あるウマ娘からのメッセージが画像付きで送られていた。
[トレーナーさんGⅠおめでとうございますっ! レース、トレーニング中断してスマホで見てました。キングヘイローさん、流石は私たちの後輩ですねっ!]
あるウマ娘とはカレンモエの同期、未勝利戦で勝てず金沢トレセンへと行った栗毛のウマ娘だった。
添付されている画像を見ると、トレーニングの休憩中と思われる自撮りが載っていた。
[金沢のチームメイトです。今撮りました! みんなと一緒に私も頑張ってますからっ!]
一番手前でピースしている栗毛のウマ娘の奥に、各々地面に座り込んだりドリンクを飲んだりしているウマ娘たち3人がカメラの方を見ていた。一番奥には俺が話をつけた女性トレーナーもいた。
「……ほら、モエ」
「? ……あ……ふふっ」
カレンモエにその画像を見せてやると、彼女は柔らかく微笑んでいた。
「今でもたまに連絡取ってるよ」
「そうなのか?」
「うん。お互いレースに出た時は連絡し合ってる。金沢でも頑張ってるみたい」
違う道を歩んだとしても、こうして友人関係が続いているのは担当トレーナーとして、こう……じんと来るものがある。
金沢に行った栗毛の彼女のレース結果は俺も追っている。まだ勝ててはいないが、2着や3着は何度もあり、勝利まであと一歩というところだった。
カレンモエからスマホを戻し文章を打ち込んでいるときに再びメッセージが送られてきた。
[私はまだまだ走り続けます! 絶対に勝ってみせますから!]
「…………」
鼻の奥がツンとしてくる。あれだけ泣いたのに、また泣きそうだった。
そして最後に──
[ていうか、トレーナーさんモエちゃんと手つないでましたよね!? めっちゃ映像に映ってましたよ! そこまで関係進んでたんですね!]
──そんなメッセージが来て、出てきそうなものが一瞬にして全て引っ込んだ。
「………………」
冷汗がだらだらと流れている気がする。確かにキングヘイローと話しているときにカレンモエに手を握られていたが、あれはそういう意味ではない。しかし、メディアに撮られて流れているならあることないこと言われるかもしれない。母親のカレンチャンも何か言ってくるだろうか。
……いや、GⅠを勝った時にウマ娘と抱き合ってる男性トレーナーはそこまで珍しくないから大丈夫か?
「…………」
「……? どうしたの……?」
思わずカレンモエを見るが、いつものフラットな表情をしていた。
……まあ、なるようにしかならないか。
「何でもない」
「?」
「……あ、キングが来たわよっ!」
ダイアナヘイローの声により顔を上げると、キングヘイローの姿が小さく見えていた。
その姿は段々大きくなり、すぐに俺たちの前までやって来た。
「おーっほっほっほ! 待たせたわね!」
「身体は問題ないか?」
「ええ。特に異常は感じないわ」
「だがあのレースの後だ。ちょっと身体動かしてみろ」
俺の指示通りに身体を動かしてもらい、その後筋や関節の触診などを行った。
「……大丈夫みてえだな」
「そう言ったでしょう?」
「ならいいんだ。……改めて、よくやったっ!」
「なっ!? いたっ!?」
彼女の背後に回って身体を確認し終えた俺は、レース前に躱された張り手を背中にお見舞いしてやった。
キングヘイローとダイアナヘイローは俺を睨む。
ペティは「またやってるんですか」とも言いたげな表情。
カレンモエはフラットな表情を崩さず。
サイレンススズカはちょっと苦笑い。
「あなたねえ……!」
「キングになんてこそするのよっ!」
「避けられっぱなしなのもどうかと思ってな」
「あなたは本当に、メイクデビューの時からずっと背中叩いて……!」
睨んでくる2人を置いて、控室のある通路を目指して歩き出した。遅れてその2人を含めチームの面々も俺の後に続いてきた。
途中で12Rに出走するウマ娘やトレーナーたちとすれ違った。
「キング、この後のスケジュール伝えるから聞いとけよ。控室に戻って服とか髪整えたら俺と一緒にメディアのインタビューだ。インタビュー終わったらライブ衣装に着替えてライブ。インタビューの」
地下バ道から控室へ続く人影のない通路に入ったときだった。
俺たちを待ち受けるかのように、進行方向にウマ娘が一人立っていることに気がついた。
「場所、だが────」
目の前の光景が信じられず、足が止まった。
「──────」
なぜなら、そこにいたのはキタサンブラックだったからだ。
「…………」
彼女は俯いており、前髪によってその表情はうかがえなかった。
「あ、の…………」
キタサンブラックは下を向いたまま口を開いた。
どうすればいいのか分からない俺は、ただ彼女の言葉を待った。
「トレーナー、さん…………」
「……あの時は、キングヘイローさんに…………すみませんでした…………あと……」
「GⅠ勝利……おめで、とう…………ございますっ…………っ……」
「……っ……さようならっ……」
彼女はそう告げると踵を返し、この場を立ち去ろうと──
──背中が遠ざかるのを見て、考えるより先に口が動いていた。
──このまま彼女を行かせてしまってはいけないと、本能が訴えかけてきた。
「待ってくれ!」
キタサンブラックの肩がピクっと震え、動きが止まった。
「…………キタサン」
彼女の背中に声をかける。
こうやって彼女は俺の前に姿を現してくれた。
今しかない、と思った。
「聞いてほしいことがある。頼む……聞いてくれないか」
歪んだ考えじゃなくて、ちゃんと本当のことを話すんだ。
出会った時から今までの、キタサンブラックへの想いを。