「懐かしいな」
「もう10年以上前になるんですね」
モニターには1月末に行われたクラシック級メイクデビューのレースが流れ始めた。東京1800mで、キタサンブラックが3番人気から1着で勝ったレースだ。その前年の初夏に俺は彼女の担当になり、身体作りなどを含めて約半年後に実現した初出走だった。
まだあどけなさの残るキタサンブラックがやや後方の中団でレースを運んでいた。
「初めて会ったのがアルファーグに入った4月頃で、それから3ヶ月ぐらい経って……俺がキタサンの担当になった日、覚えてるか? 確か倒れてたか怪我してたウマ娘を保健室に連れて行ってただろ」
「あはは、そうでしたね。もちろん覚えてますよ。あの日からあたしたちは始まったんですから」
「あの時は俺も緊張しててな」
「そうだったんですか?」
「ああ。面識はあったけどちゃんと会話したことも無かったしな。キタサンも俺が担当だって知らされてきょとんとしてなかったか? それ見て新人の俺なんて嫌だったんじゃないかとビビってたぞ」
「ええっ!? そんな風には見えなかった気がしますけど」
「キタサンはどう思ってたんだ? 正直なところ」
「……」
キタサンブラックは黙って考え込んでしまっているようだった。
本心ではどう思ってたのか怖くないと言えば嘘になるが、ここで避けてしまっては今日こうしている意味がない。
「遠慮する必要はないぞ。正直に言ってくれ」
「…………あの、後からでもいいですか?」
「後から?」
「はい。誤解の無いようにちゃんと伝えたいので」
「? 分かった」
何か含みがあるような言動だった。彼女がそう言うならまた後からだ。
「『誰かに勇気や元気をあげられるウマ娘になりたい』ってお前が言ったのが耳に残っててな。ずっと忘れられなかった。その願いを絶対に叶えてやるんだって……大袈裟に聞こえるかもしれないが、それがあの頃の俺の全てだった」
「……トレーナーさんのノートにもそう書いてあったのを見ました」
確かにノートにはデータ以外に日々思ったことも書いていた。当の彼女にそれを読まれたと思うと、今でも無性に恥ずかしくなる。
……そういえばなぜ彼女は清島に渡したあのノートを読んだのだろうか。その辺の経緯を聞いていないことに気がついた。
「俺の書いてたノート、どういう経緯でキタサンは読んだんだ?」
「先生に渡されました。あたしは目を通すべきだって」
「先生に!?」
そんなこと一言も清島から聞いていない。
「いつ頃の話だ?」
「クラシック級の有馬の直後です」
「そんなに早かったのか? てっきりここ数年のことだと……」
「……ノートを読んだことで悩んだこともたくさんありました。でもこうしてあたしが今トレーナーさんと一緒にいられるんですから、あの時期にあたしにノートを読ませるって先生の判断は正しかったんだと思います。本当に先生には感謝しています。……あ、レース終わっちゃいましたね」
モニターではキタサンブラックが差し切って1着でゴールして動画が終わった。
彼女は次の動画を再生すべくタブレットを再び操作し始めた。
改めて話をメイクデビューへと戻した。
「このメイクデビューも身体の成長の影響で年明けまで伸ばしたんだったな」
「トレーナーさん、最初は9月とか10月っておっしゃってましたもんね」
「メイクデビュー延びるって伝えるの地味に緊張してなあ。キタサンに見捨てられないかビビってた」
「そんなわけないじゃないですか。ふふっ、トレーナーさん、心の中じゃ結構怖がりさんだったんですね」
「新人だったし仕方ないだろ。今でも色んなことにビビってばっかだ。その後、キタサンが『努力が足りない』って謝ってきたのはちょっと驚いたけどな。んなわけねえのに」
モニターにレースが流れ始める。次のレースは2月の東京2000m、クラシック級1勝クラスだ。人気薄の9番人気から番手で押し切って3バ身差で完勝した。
画面の中は2月だが先程の話を続けていた。
「んで年明け初詣して、それで急にお前の家に連れていかれて。両親や弟子の人たちは元気か?」
「…………」
「どうしたんだ?」
「ええっと…………あの、別れた日のことが……。トレーナーさん、その……あたしの家で殴られたり、怖がられたと…………恨まれてないですか?」
表情を曇らせるキタサンブラックは、どうやら彼女の家の前であったことを気にしているらしかった。あの日はドーピングがバレて彼女につらい思いをさせ、弟子に殴られ、父親が憤怒していた。
既にモニターに映されたレースは終わっていた。
「俺がやったことは何があっても許されない。お前を含め皆を裏切って傷つけたのは俺だ。あれぐらい当然のことだし、あの程度で済んで良かった方だ。誰も恨んじゃいねえよ」
「……でも、あたしもできたことが──」
「キタサン」
彼女の言葉を遮った。
「その話はまた後だ。俺がしたことについても全部話す。今はレース追いながらゆっくり道のりを辿っていこう」
「トレーナーさん…………はいっ。次はスプリングステークスですね」
クラシック級3月に行われる中山1800mGⅡスプリングステークス。彼女はここも勝利し3戦3勝無敗で皐月賞へ向かうことになる。彼女としても俺としても初めての重賞制覇だった。
「せっかく勝ったのにあまりスタンドが盛り上がってなくて、すごくショックで不安になったの覚えています。あたしが勝っても盛り上げられないし主役にもなれないんじゃないかって」
「確か5番人気だったか。このレース、
「でもあの後、トレーナーさんに一生懸命励ましてもらってすごく元気になったんですよっ」
「そういうことまで覚えてんのか。なんか恥ずかしいな……」
「もちろんですっ! 忘れるわけありません!」
一字一句思い出せるなんてことは無いが、俺はあの時結構恥ずかしいセリフを吐いていた。俺は注目してるとか、お前の走りは好きだとか……本当に青すぎる頃の坂川健幸だ。
「それにトレーナーさんの言ってくれたことは正しかったって、ここまで来たあたし自身が一番理解してますから」
「この頃と比べたら想像できないぐらいの人気になれたな。走りも歌もライブのパフォーマンスも……そしてキタサンの人となりが今の人気に繋がったんだ。本当に凄いよ、キタサンは」
「……ありがとうございますっ」
笑顔がこぼれたキタサンは間違いなくあの頃と同じ笑顔をしていた。
月日が経っても何も変わらないものがここにあった。
クビ差リアルスティールを凌いで勝利したスプリングステークスの再生が終わり、次はGⅠ皐月賞だ。
『外からドゥラメンテ!!! 外からなんと、ドゥラメンテ!!! これほどまでに強いのか!!!』
キタサンブラックはドゥラメンテとリアルスティールに続いて3着に入った。
「いいレースしてんだがなあ。如何せんドゥラメンテが強すぎたな」
「当時の走力ならハナ取り切って完璧にペースコントロールできれば2着あったかなって感じですね。でもそんなペースコントロースする力はこの頃のあたしにはないですし3着が精一杯でしたね。皐月賞のこのドゥラちゃんに勝つイメージは今でもできません」
「そういやドゥラメンテとは今も仲が良かったんだったな。記事かなんかで見たぞ」
「はい! 親友です! 会う頻度だけでいえば仕事で飛び回ってるダイヤちゃんよりドゥラちゃんの方が多いですね」
大歓声を一身に受けるドゥラメンテがモニターに映っていた。
「……レース後にキタサンが泣いてるのを見て、絶対にダービーは勝たせてやるんだって思って、それで……」
続いて日本ダービーも──
『先頭はドゥラメンテだ! 1バ身半リード!』
『二冠達成ドゥラメンテゴールイン!!! 難なく直線抜け出しました! 阻むものは誰もいません! しかも勝ち時計はダービーレコード!』
──ドゥラメンテの圧勝だった。
一方でキタサンブラックは14着に沈んだ。トゥインクルシリーズにおいて彼女が掲示板を外したのはこれとシニア級2年の宝塚記念のみだった。
彼女の表情は一転して曇っていた。
「……思い描いた結果じゃなくて現実を認められませんでした。周りのことなんて目に入らなくて、それこそトレーナーさんがどういう気持ちでいるかも考えずに自分のために泣いてばかりで。能力も内面も本当に未熟でした。……すみませんでした」
「なんでお前が謝るんだ。10代の子どもだったんだから普通のことだろ」
「でもあのノートで……ダービーの後からトレーナーさんの記述量が格段に増えてました。あたしを勝たせたいって気持ちもたくさん書いてありました。……あたしがトレーナーさんを追い込んだんです」
「…………」
話は飛び、彼女の話題はあの事件へと向かっているようだった。
何を言うか悩む。確かにダービーでの敗北後のキタサンブラックの様子が俺を凶行へ至らせた原因の一つではある。
でも
慎重に言葉を選びつつ口を開こうして──
(……本当にこれでいいのか?)
──思いとどまった。とどまることができた。
(それは独りよがりなんじゃないのか?)
彼女の話を聞かずに俺は自分だけの意見を押し通そうとしていた。しかし、それはするべきではない。
確かに間違った考えや偏った考えは訂正したり修正する必要はある。
何のために今日2人で会って話をしているのか……“話し合う”のだ。押し付け合うのでは決してない。
大事なのは彼女の気持ちを理解することだ。知ることだ。彼女が俺に対してどう思ってくれていたのか、もう分っているはずだ。
キタサンブラックはずっと俺のことを想ってくれていた、と。
「トレーナーさんは全部自分のせいだと考えられてるんだと思います。でも……あたしも……あたしにだって責任はあったんです。あの頃のあたしが子どもだったとか未熟だったとかそんなの関係ありません。あたしがトレーナーさんの気持ち、全部ちゃんと分かってればあんなことにはならなかったんです」
「キタサン……」
あのノートを読んで当時の俺が何を考えていたのか彼女は知っているからこその言葉だった。
「天皇賞秋と菊花賞のどちらを選ぶのかだって、ちゃんとあたしから話をするべきでした。当時のあたしでも、トレーナーさんはGⅠを勝たせるためにレース選択やメニューの作成を頑張られていたのは知っていました。でもなぜそうしてくれているかの気持ちまで汲み取ることが──」
「一旦ストップだ。キタサン」
「っ!? トレーナーさん……」
捲し立てるように喋っていたキタサンブラックを止めた。
「ありがとう。そこまで想ってくれていたのは俺も嬉しい。でもな、やっぱりあんなことをしたのは俺なんだよ。お前に隠してドーピングをしたのも、逆上してお前に手を出したのも。たぶん色々な要因があるんだ。もしキタサンが今言ってるようなことをしてくれてたとしても、どうなっていたか分からない。何かのきっかけで思い留まれたかもしれないが…………もう確かめようがない。この事実はもう消せないし、変えられない。お前を大きく傷つけてしまったことも、だ」
「…………」
「当時について俺の話を聞いてほしい。俺が話さなきゃならない。……とりあえずレースに戻ろう。セントライト記念からだ」
彼女は向こうを向いて目元をハンカチで拭いているようだった。
「……はいっ。分かりました」
9月に行われた中山2200mのGⅡセントライト記念が流れ始めた。
「当時話はしたしノートを読んだなら知ってると思うが、ダービーを負けた理由は距離適性にあると俺は疑わなかった。セントライト記念に勝ったから天皇賞秋を選んで……俺はもっと前から話しておくべきだったし、お前の話を聞くべきだった。トレーニングの成果が上がらず勝手に焦って追い込まれ、皐月賞で善戦してダービー大敗したウマ娘を調べて根拠のない数字遊びに危機感を覚えていた。今がピークで、GⅠを勝たせられずにキタサンは終わってしまうってな。笑っちまうかもしれないが、本気でそう考えていたんだ」
「そんなっ、笑うなんて…………トレーナーさんはあたしのことを真剣に考えてくれたんです。何もおかしくありません。そんなこと、言わないでください……」
「……分かった。すまん。……俺はキタサンの敗北だけは受け入れられなかった。何があっても受け止めて一緒に道を歩むのがトレーナーの役割なのに、勝利だけに執着していた。それであの日、先輩に会った」
遂にここまで来た。こうやって俺たちが話すうえで絶対に避けられず、避けてはいけない話題だ。
ドーピングについて話す時が来た。
6番人気から勝利したセントライト記念が流れ終わった。
「先輩がアメリカに発つ前日だった。偶然学園に来ていた先輩が悩んでいる俺を見つけて、夜に2人で飲みに出た。その場でクスリを差し出され、俺は受け取った。拒否することだってできたのに」
「……あたしに使うため、ですか」
「使うと決めたのは学園へ帰って夜通し考えてからだ。……まあ同じことだな。あの秋がGⅠを勝つ最後のチャンスだと思い込み、自分で自分を追い込んで追い詰めて、手を出してしまった」
「…………」
キタサンはじっとこちらを見ている。
分かっている。ここは全て俺が言葉を紡がないといけない。
「綺麗ごとを言うつもりはないし、言い訳をするつもりもない。ただ正直に話させてくれ」
「俺はただ──」
「──キタサンを勝たせてやりたかった。夢を叶えさせてあげたかった」
「……それだけだったんだ……」
「キタサンが勝てない未来が許容できなかった俺はクスリに手を出した。バレなければいい、キタサンが勝てるならそれでいい、俺だけが手を汚して罪の意識に苛まれ、罪悪感に押しつぶされればいいんだと思っていた」
「知ったらキタサンがどれだけ傷つくとか……そもそも知る知らないを別にして、俺の行為自体が全てキタサンを裏切っていることに気がつかなかった」
「次の日の昼……病院に運ばれた日だな。クスリを渡して飲んでもらった。……渡す時、心臓が爆発しそうだった。本当にこれでいいのか逡巡したが、結局お前にクスリを渡した」
「そして放課後のトレーニングで、計測された数値が異常に良かった。当時のキタサンじゃ出しちゃいけないタイムだった。そこで初めて俺は頭が冷えて、何やってんだ、ドーピングなんて許されないことだって思い直した。だが、気が動転して頭が混乱していた」
「それでトレーニング後に菊花賞に行きたいって言われて…………」
「…………死に物狂いで頑張って、苦しんで悩んで、距離適性も踏まえて出した答えが天皇賞秋なのに、なぜ俺に従ってくれないんだと怒りが湧いてきた。この天皇賞秋がGⅠを勝つ最後のチャンスかもしれないのに」
「ドーピングに手を染めたのも全部キタサンのためなのに。ずっと一緒にいてずっとお前のことを考えている俺より、友人との約束が優先されるのかって思い違いをして……最終的には約束なんて下らないとさえ思っていた」
「キタサンのために全てを捧げている俺のことをなんで分かってくれないんだって、そう思ったんだ…………」
「……俺は、キタサンに俺のことを分かってほしかった…………」
今思い出しても情けない。
幼稚な感情に振り回された結果がこれだ。
「……頭に血が上ってお前に手を出した。キタサンは俺を庇って病院へ運ばれて、そこの血液検査で医師たちに知られてURAに話が行った。俺と先生はURAの取り調べを受けた」
「俺はどんな処分も受け入れる気でいたが、URAはドーピングをもみ消す選択をした。アルファーグで注目されてた俺たちを直接的に処分したら世間にバレるリスクがあるから、口裏を合わせてチームに所属したまま勉強しに地方を回ることになった。……キタサンに会わないようにするために。お前の父親もそう強く望んでいた。その辺は知っているか?」
キタサンブラックは小さく頷いた。
「……そうか。俺もお前に会わせる顔なんてなかった。そして地方から帰ってきたタイミングでチームを脱退して独立する……ここまでがURAの描いたシナリオだ。現にその通りになった。結果的にドーピングはもみ消されたんだから、狙いはうまくいったんだろう」
「2回目の取り調べの最中、そこでキタサンの父親から連絡が入って……キタサンが俺と話したいって聞いて、すぐに家へと向かった」
黙しているキタサンブラックの前で、彼女の家へ行った時のことを……暗い記憶を掘り起こしていく。
高松宮記念の後に言ったことも思い起こしながら言葉を作っていく。
「取り調べ中にある人から『キタサンの身を案じられる人間ならあんなことはしないだろう』と言われて、家へ向かう車の中と門の前で待たされる間ずっとその言葉の意味を考えていた」
「俺は自分が分からなくなっていた。坂川健幸という人間の本質と本性はどういうものか。俺は本当にキタサンを大切に思っていたのか……つまり、キタサンに対して本当はどう思っていたのか」
「ずっとキタサンが大切だった。俺にとって掛け替えのない存在だった。それは間違っていなかった。だが、あの時の俺はそう思っている人間があんなことはしないと考えてしまった」
「……分からなくなった俺は、事実から本当の気持ちを導き出そうとした」
「ドーピングが事実として在ったのなら、俺はキタサンを心の底では大切に思ってないという結論に至った。俺は自分の頑張りや努力を無下にされて逆恨みするような浅ましい人間で、キタサンなんて大切に思っていなかった。坂川健幸はそういう人間だからクスリに手を出したんだと」
「あの場が俺とキタサンが言葉を交わす最後の機会だと思った。嘘をついて騙してきたんだから、最後だけはお前に正直でいたかった。だから『お前なんて大切じゃない』と伝えた」
未だに泣き叫ぶキタサンブラックが目に焼き付いている。苦い気持ちが胸に広がる。
「……泣き崩れるキタサンを見て、何で俺がキタサンを泣かせてるんだと自分を非難していた。こんなに悲しませるために、俺はキタサンのトレーナーになったんじゃないのに」
「帰りの車の中で先生に『お前がキタサンを大切に思ってないわけねえだろう』と言われた。…………大切じゃないと思っていたのか、それとも本当は違うのか分からないまま時が流れていった。そして多くの人やウマ娘に出会い、様々な経験をした」
「……その経験の中で自分を見つめ直すことができた。キタサンを想う気持ちと、俺の頑張りと努力を分かってほしい気持ちは両立するもので、全く別のものだと理解できた」
「キタサンを想う気持ちはずっとあった。だからずっとキタサンのことを見ていた。出会ってから今この瞬間も、キタサンは俺にとって掛け替えのない大切な存在だ。それにやっと気づくことができた」
「だから分かったんだ。あの時の俺は、何よりも大切なキタサンを他の誰でもない自分が傷つけて汚したことを認めたくなかったんだって……」
「……改めて、謝らせてほしい。謝って済む話じゃないのは分かってるが、俺にはこれしかできない」
少し陰った表情をしているキタサンブラックと真っ直ぐに目を合わせてから、大きく頭を下げた。
「ドーピングも、暴力も、偽りの想いを伝えてしまったことも…………キタサン、本当にすまなかった」
俺は頭を下げたままでいた。
そのままでいるしかなかった。
彼女は移動し俺に近づいてきた。すぐ目の前にいるようだ。
「……トレーナーさん……顔、上げてください」
しばらく間があって、彼女からそう声を掛けられた。
顔を上げるのを逡巡する。
彼女はどんな表情をしているだろうか。
恐怖心を抱きながら頭を持ち上げた瞬間──
「……っ」
──俺の頭はキタサンブラックの胸に抱き寄せられていた。
「キタサン……?」
「話してくれて、ありがとうございます」
俺とキタサンブラックは高松宮記念の後と逆の構図になっていた。
静かで優しい声が頭上から降ってくる。
「……あたし、トレーナーさんのことが怖かったんです」
「ドーピングとかぶたれたのもそうですけど、何よりお前なんか大切じゃないって言われて、ものすごく悲しくなりました。信じてたのはあたしだけで、トレーナーさんに騙されてたんだって…………泣いてばかりいました」
「恐怖は拭えなくて、頑張ってトレーナーさんのこと忘れようとしてました。でも他の人の言うことを聞いたり、トレーニングやレースに臨んでいると、何度も何度もトレーナーさんを思い出しそうになりました。何より、あたしの中にトレーナーさんがいました。……あたしの身体も走りもトレーナーさんが作り上げてくれたものだったからです」
「ノートを読んで、トレーナーさんの本心を知りました。ノートにはあたしが思っていた通りの優しいトレーナーさんがいました」
「……けど、ノートはドーピングする前のことしか書いてありませんでした。その後はあたしをどう思っているのか分かりませんでした」
「大切じゃないって言われたように心変わりされたと、そう思ったら…………すごく悲しかったです。でも──」
顔を上げる。
目と鼻の先にキタサンブラックの顔がある。
目尻に涙を浮かべながらも、穏やかに微笑んでくれていた。
「──ずっとあたしのこと想ってくれて……見てくれたって聞いて、ほんとうに嬉しかったんです。ありがとうございます。それだけであたしは幸せです」
キタサンブラックの優しい部分に触れ、暖かい気持ちになる。
「あたしもトレーナーさんも色んなことがあって……でも、今こうして一緒にいられるなら、良かったんだって思います」
「トレーナーさん、今度はあたしの話を聞いてくれませんか?」
キタサンブラックが離れ、ソファーへと座り直した。
最初に座った位置より彼女が近くにいた。今はお互いの肩が触れ合いそうで触れ合わない距離だ。
「ああ……分かった……」
「ちょうど次は菊花賞ですね」
俺たちは再び追憶と追想を辿り始めた。