「話は分かった。後日、時間を作ってサイレンススズカと会話の場を持とう」
「ありがとね。ドゥラちゃん」
カフェテラスで待ち合わせしたドゥラメンテにサイレンススズカのことを話した。
ドゥラメンテはトゥインクルシリーズを故障で引退したが、懸命のリハビリによりDTLで全力で走れるまでに戻り、そしてアタシとレースを走った。
そんな経験のある彼女だから、復帰を目指すサイレンススズカの良き相談相手になると思ったのだ。あたしも故障はたくさんしたけれど、走れなかった時期はなく常に走り続けていたから、厳密に言えば少し境遇が違っていた。
「しかし、まさか君があのトレーナーと今でも繋がっていたなんてな」
「……うん。長い間連絡は取ってなかったんだけど、最近あるきっかけでまた話すようになって」
彼女にはドーピングの話は明かしていなかった。彼女が知ってるのは表向きの理由だけで、彼があたしの担当じゃなくなった本当の理由や、アルファーグから離れた経緯とかは知っていない。
「彼女について相談受けるうちに、ドゥラちゃんが適任かなって思ったんだ」
「…………」
「? どうしたの?」
ドゥラメンテはサングラス越しにじっとあたしを見てきた。
「……変わったな」
「変わった? なにが?」
「君が、だ」
「あたし?」
あたしの何が変わったって言うんだろう?
「こう……
「……そう?」
「いいように言えば強者、君臨する絶対王者のあるべき姿、というものが背後に見えていた。だか悪く言えば余裕が無いようにも見えた」
あんまりそういう自覚は無いけど…………思い当たることと言えばトレーナーさんとまた元の関係に戻れたからだろうか。高松宮記念の一件や、あたしの家で色々話し合ったこともあった。前よりも確かに心の底から笑えることが多くなったと思う。
「パートナーでもできたのか?」
「…………?」
彼女にいきなりの言葉に理解するまで数秒を要した。
ぱ、パートナーって……!
頭に思い浮かんでいた顔はもちろん──
──って、そうじゃなくて!
「ど、どういうことっ!? そんなんじゃ──」
「違うのか? 彼氏か婚約相手でもできたと思っていたんだが」
彼女は終始いつもの涼しい顔で言い放っていた。
「男ができて変わるというのは何もおかしいことじゃない。君がそんなに変わったのなら、それぐらいのことがあったのかと思ったんだが。違うのか?」
「ち、ちが…………」
いや、まだそういう関係にはなってはいないんだけど…………でも、彼女言うことも全く的が外れてはいないとは思う。
「…………わなくも、ないような……ちがう、こともないような…………まだ、ちがうというか……」
「ああ、なら気になる男でもできたのか」
「………………」
恥ずかしくて、肩をすくめて下を向いてしまった。顔がなんかちょっと熱い。
「なぜそんなに恥ずかしがる? 人それぞれで歩みは違えど、お互いこんな歳になったんだから何も恥ずかしがることはないだろう。当たり前のことだ」
「そうだけど…………」
ちなみにドゥラメンテはすでにあるアスリートの男性と籍を入れている既婚者だ。
「だが少し安心したよ。日本のレース史で燦然と輝く君にもそういう感情を持つ相手がいたんだな。レースにしか興味が無いんだと思っていた」
「ドゥラちゃんっ、もう……」
彼女はあんまり笑ってないけど、少し得意げになっていた。
「相手が誰かは、また今度聞くとしようか」
彼女はスマホを確認してから立ち上がった。このあと仕事が入っていると彼女は言っていた。
「サイレンススズカのアポを取るには君に連絡すればいいか?」
「うん。できれば平日でお願い! 土日はトレーナーさんからトゥインクルシリーズの全レースの批評を書くよう言われてて忙しそうだから」
「わかった。なるべく早く連絡をする。…………おっと、そうだ。君は夏のSDTで引退するんだったな」
「うん、そうだけど」
約2ヶ月後のSDTがあたしの競技者としての引退レースになる。それは公にしているし、ドゥラメンテにも公にする前に伝えていた。
「最後はどうするんだ。怪我の状態が芳しくない、なんて話も耳するが──」
「勝つよ」
彼女の目を真っすぐ見返して言い切る。
支えてくれる人たちのために。
応援してくれる人たちのために。
最後にレースとライブを見に来てくれるトレーナーさんのために。
「絶対に勝つ。何があっても」
「…………ああ、そうか。そうだな。君は“
彼女はそう言い残してテラスを去っていった。
◇
──「現状、復帰しても芝のレースを走らせる気はない」──
そう坂川から言われたとき、正直納得できなかったというのが私の本音になる。
ダイアナヘイローを指導した一件を通じて、『“景色”に出会うなら、そのときの私はターフで走っているサイレンススズカがいい』と改めて自分の気持ちを確認した。
……そう、ターフだ。やっぱり、私はターフを……芝の上を走りたい。これまでそうしてきたように。
風になびく葉擦れの音。
青く芳しい匂い。
足元から立ち上る草いきれ。
靴底に感じる硬さと柔らかさ。
蹴り上げられて舞い上がる緑。
五感で感じるターフの上で、私だけの蹄鉄の音や先頭で受ける風、ターフの先に広がる水平線……あの“景色”を見たい。この気持ちに嘘はつけない。
でも同時に、彼がダートでの復帰を目指すというのも理解はできている。脚の負担を考えて復帰戦をダートにするのは理にかなっている。バ場ごとに脚へ与えるダメージの差やリスク、故障における様々なことをこれまでの勉強で学んできたのだ。
……天皇賞秋のことは今でもはっきりと記憶に刻まれている。脚が折れた時の感触だって、昨日のことのように思い出せる。全てが真っ暗になるあの瞬間は、もう二度と経験したくない。
坂川は復帰戦はダートだと言ってはいたけど、彼の話す内容的に芝を走らせたくはないのだと思う。
分からなくもない。でも納得もできない。そんな相反する気持ちを抱えながら、日々のトレーニングに励んでいた。フォームをダート用に変えるのも、内心かなり複雑な気持ちだった。
彼はキタサンブラックから得た海外の資料を元に、新たなアップやマッサージに加え、メニューや走り方ひとつひとつに関して新しいものを導入してくれた。そしてトレーナー室にあるトレッドミルや筋電計もこれまで通りに用いて負担をかけないダート用のフォームを作り上げていった。
ある程度フォームが固まり、再現性を高めるためにコースへ出て15-15で走る日々。走った後に脚が腫れたり熱を持ったりすることもあるけれど、以前のように走れていた。こんな日はもう来ないって思った時もあったけど、走れているという事実は毎日自分に元気や力をくれていた。
……一方で、やっぱりダートを走ることになるというのがずっと心につかえていた。
そんな日々を送っていた6月、キングヘイローの安田記念3着やダイアナヘイローが1年ぶりの勝利を挙げた後のことだった。坂川からある人物を会って話をしてみてはどうかと言われて、特に断る理由も無かった私はそれを承諾した。
そしてその場は数日後すぐにセッティングされた。私しかいないトレーナー室に入ってきたのは既に競技者として引退したドゥラメンテだった。トゥインクルシリーズでは皐月とダービーの二冠を取ったウマ娘だ。
「今日はよろしく」
「はい。こちらこそよろしくお願いします……」
テーブルを挟んで客人用のソファにお互い向き合う。坂川からは、彼女も故障をしたウマ娘だから色々話してみたらいいと言われていた。彼が何を考えてそうしているかは分からない。でも、私のためになることだとは思うのだけれど……
「…………」
「…………」
お互い黙ってしまっていた。
せっかく来ていただいたのに、このままでは失礼だと思い、何か言おうと言葉を探し──
「君のトレーナーとキタサンブラックから、君と話をしてほしいと依頼を受けた」
──ていたが、先に口を開いたのはドゥラメンテだった。
「は、はい。よろしくお願いします……」
「ああ。お互い怪我をした者同士、きっと共通の話題もあるだろう。何か、困っていることはないか? 些細なことでもいい」
「………………」
「……確かにいきなり言えと言われても難しいな。サイレンススズカ。君はなぜ現役を続けているんだ? 教えてほしい」
私が走る理由。そんなの決まり切っているが……彼女にうまく説明できるだろうか。
「……私は“景色”を──」
そうして以前坂川にしたように景色についてドゥラメンテに説明した。自分でも分かるほど抽象的な話になったけど、なんとか言葉に落とし込んた。
彼女は表情を変えず私の話を聞き、なんとか理解してもらえたようだった。
「なるほど。その景色を見たい、と言うのが君の走る目的なんだな」
「……はい」
「その目標に向かって順調に来ているか?」
「分かってはいましたけど、でも時間はやはりかかるなと。……順調、だとは思います。けど……」
「どうした?」
段階を踏んできたことで、すんなりと言葉にすることができた。
「…………脚のことを考えて、トレーナーさんからダートを走るよう言われているんです。復帰戦は絶対に、とはおっしゃられてたんですが……これから先も芝は走らせない、という考えを持たれているように思えて……」
「君はダートを走りたくはないのか」
「そんなことはありません。ただ、あの“景色”を見られるのはターフの上なので……」
「そうなのか」
ここで初めて彼女に訊いてみたいことができた。
「あの、ドゥラメンテさんも復帰戦はダートだったんですか?」
「いいや、芝だ。DTLでキタサンブラックに挑むためには芝で行われる予選に出る必要があったからだ。トゥインクルシリーズみたいにオープンクラスで試す、なんてことはできなかったからな。……そうか、ダートを走る、というのが君の悩みなんだな。それでは景色を見られないからだと」
頷いて肯定の意を示した。
すると彼女は初めて私から視線を外した。そして何かを考え込んでいるようだった。さっきと同じ真面目そうな表情なのに、どこか悩んでいるように見えたのは気のせいだろうか。
「…………なあ、サイレンススズカ。私の話を聞いてくれるか。ドゥラメンテという…………使命を果たせなかったウマ娘のことを」
「え……?」
彼女が自分自身を卑下するような言葉に驚く間もないまま、彼女の話が始まった。
「私はある目的を抱いてレースの世界に身を置いていた。この一族の“血”が流れるドゥラメンテがレース界で“最強”のウマ娘だと証明する、これこそが私の走る目的だった。使命で、生まれてきた意味だった」
「それは叶わなかった。皐月とダービーは獲れたが、ジャパンカップや有馬記念、そして凱旋門に挑戦できないまま、私のトゥインクルシリーズは終わった」
「だが、私はそれで終わる気はなかった。周りの声もありトゥインクルシリーズの道は閉ざされたが、DTLがあった。そこで私の友人が…………私の代わりに最強であり続けると宣言し、実際にその通りに勝利を積み重ね“最強”となったキタサンブラックが、私を待ってくれていると言ってくれた。有言実行した彼女を倒すために、私は復帰に全力を注いだ」
「思い通りにいかないことの方が多かった。いくら研鑽を重ねても、皐月やダービーを勝ったときには戻らなかった。もどかしかった。焦燥感に追われることも多かった。でも極限まで鍛え直して、私はターフへと戻った」
「知っているかもしれないが、しかし私はキタサンブラックに及ばなかった。結局、トゥインクルシリーズでも、DTLでも、私が“最強”だった時期は一度も無かった。“最強”にはなれなかったんだ、私は」
「……そんな」
自分のこととはいえ、そんな言い方をするのは可哀そうに思えた。
「そしてDTLも引退が決まった。使命は果たせなかった。その時、私は──」
「──実は、それほど落胆していなかった。満足していたんだ。そうやって実際に負ける前までは、私はたぶん怒り狂うだろうなと思っていたが、そうはならなかった」
「……え?」
「やりきった、という感触はあったんだ。だからか、負けたが清々しい気持ちだった。加えてトゥインクルシリーズのときに、友人でライバルであるウマ娘たちと共に競うことに意味を見出せたことも影響しているのだろう。キタサンブラックと再び走り競えたことが嬉しかった」
同期のウマ娘と競って走れることがどれだけ幸せか、私もその気持ちは分かる。去年のキングヘイローとの安田記念のあと、彼女にそんな話をしたことを思い出した。
「確かに使命を果たせなかったことを申し訳なく思うし、悔しさは今でも残っている。だが、一族の者も、私たち一族に期待してくれる人たちも、みな使命を果たせなかった私を労ってくれた」
……ここまでやってきた彼女を責める人なんて、いるわけがない。
「私の経験から君に伝えたいことがある。どんな形になろうと、やりきったのなら後悔はしないということだ。それともう一つ」
「悩んでも大丈夫なんだ。思い通りにならなくても大丈夫なんだ。それを知っていてほしい。失敗しても、叶わなくても、必ず良い場所へと着地できる。新しい価値を見つけられる」
「…………!」
その言葉が胸に強く響いた。
「ただ、なんであれ妥協するべきではない。ダートのこともだ。もし君が納得できないなら、一度トレーナーに話を聞いてみるべきだ。君は、そうしていないのだろう?」
「トレーナーさんに……?」
「君のトレーナーは優秀でウマ娘のことを親身に考えてくれる人だと、キタサンブラックから話は聞いている」
……ダートを走れと言われてショックを受けてから、坂川に詳しい話を聞こうとしなかった自分に気づいた。
納得した風で話を終わらせるんじゃなく、彼女の言う通りにもっと話をするべきではなかっただろうか。
「表情が変わった」
「え?」
「やるべきことが分かった顔をしている。それでいい」
ドゥラメンテにそう指摘された。そんなに表情が豊かな方ではないのだけれど……
「……トレーナーさんに話をしてみようと思います」
彼女との話を通じて、そんな決心が固まった。
◇
坂川のPCにある無数のファイルの一つに、『サイレンススズカ復帰レース案』と題されたテキストファイルがあった。そこにはこう記されていた。
『正月明け中山1800ダート ポルックスステークス(OP) ほぼ確定』
『ただし、バ場がわずかでも渋れば回避』