「……ふぅ」
控室の鏡に映る自分の姿を見て大きく息をついた。鏡の向こうの自分は翠の勝負服に身を包んでおり、強張った面持ちでこちらを見返していた。
その鏡の端に視線を移す。そこには見切れるようにスーツ姿の男が映りこんでいた。
「なんだ、いっちょ前に緊張してんのか?」
坂川はポケットに手を突っ込んで、とてもレース前とは思えない、からかうような口調で話しかけてきた。普段からスーツを着ていないせいなのかは分からないが、微妙に着崩れているのが気になる。
「そんなわけないでしょう? 記念すべきキングのデビュー戦なのよ。昂ぶりはすれど緊張なんてするはずないじゃない」
「それなら別にいいけどな」
そこまで緊張はしていない……と思う。それよりもいよいよ始まる自分のデビュー戦に期待を抑えらない気持ちが多くを占めている。自分専用の勝負服を着て走る日をどれだけ待ち望んでいたか、坂川には想像がつかないだろう。この勝負服で走って結果を残し、母親に認めさせる……まずはそのスタートラインを目指して今までやってきたのだ。
まあ、こんなに早くデビューが来るとは予想していなかったのだけれど。
「どうした? そんなに睨みつけて。俺の顔になんかついてるか? 髭は朝剃ったんだがな」
緊張感の欠片もない坂川は顎や口の周りを手で触りながら鏡をのぞき込んでいた。
「……」
4日前の水曜日、このトレーナーと契約を結んだその初日に突然デビュー戦が決まった。あれからなぜ今日デビューなのか訊いてもその理由は答えてくれなかった。
トレーニングだって、その日と翌日だけ軽く流しただけで、金曜日は京都へ移動、昨日は京都レース場の施設の確認や軽いランニングやストレッチ程度でレースへの準備はまともにできなかった。坂川はトレーニングの時も遠巻きに見ているだけで、走りのアドバイスなんて一つも無かった。
今更になってしまうが、この人は実は何も考えていないんじゃないかと疑ってしまい、本当にこのトレーナーで良かったのかと初日にして思ってしまうこともあった。
「……なにもないわよ」
「お、そうか?」
坂川に恨めしい視線を送っていたが、視線を外して改めて鏡の前で自分の勝負服の着こなしを確認した。
……うん、完璧に着こなしている。ズレている箇所もないし、ボタンの留め忘れもない。自分の肌に吸いつくような生地の感触は心地よささえ感じられた。レースで走ったら乱れてしまうとはいえ、それまでの身嗜みを完璧にしていなければ、一流を目指すキングヘイローとして自分が許せない。
「それより俺の指示、ちゃんと頭に入ってるな?」
「ええ、問題ないわ」
今日のレースにあたって坂川から1つだけ指示があり、その内容自体はさして難しい指示ではないのでこなせる自信はあった。
「それならいい──」
そこで坂川の声を遮って、控室のスピーカーからアナウンスが流れた。
『2R、ジュニア級メイクデビューに出走予定のウマ娘はパドックへ向かってください』
「時間だな……キングヘイロー」
「なにかしら?」
扉へ向かった私に坂川が真剣な顔で声をかけてきた。
「気楽に走れとは言わねえ。思いっきり頑張ってこい! お前の走りを、その力を見せつけてこい!」
「……ふふっ」
ここまでずっとヘラヘラしていたと思ったが、レース直前になったらこのトレーナーは
ベタではあるが、なかなか士気が上がることを言ってくれる。
流石はいちトレーナーといったところなのかしら?
「私を誰だと思ってるの? トォーーーーゼンでしょ!? 言われなくても私の一流の走りを観客に見せつけてあげるわよ! 今日、日本中にキングヘイローの名前を覚えさせてやるんだから!」
啖呵を切って、胸を張って控室を出ていった。
いよいよ始まるのだ。キングヘイローの……私のレースが。
一流のウマ娘であると証明するために。そしてそれを皆に……お母さまに認めさせるために。
◇
俺はパドックでキングヘイローの様子を見たあと立ち見のスタンドへ戻り、最前列のゴール付近に陣取っていたジャージ姿のカレンモエと制服姿のペティを見つけ出した。カレンモエは黙って真っ直ぐにターフへ目をやっており、ペティは何かブツブツ言いながら新聞を開いていた。
「ここにいたか」
「トレーナーさん、お疲れ様です。キングの様子はどうでしたか?」
ウマ娘専門のスポーツ新聞から目を離したペティが俺にそう尋ねてきた。新聞を折りたたんで片手で持ったペティの横に俺は陣取り、ターフとスタンドを区切る柵にもたれかかった。
「気合い十分、大丈夫そうだ。パドックでも堂々としたもんだったぞ。おっほっほって笑ってたしな」
「キングってパドックでもそんな感じなんですね……大物というか何というか」
もう間もなくキングヘイローの出番がやってくる。地下バ道でも見送ろうかと思ったが、パドックでの様子を見て必要ないと判断した。
「そういえばトレーナーさん、昨日ミーティングの時キングに『逃げるな』って言ってましたよね。あれはどうして?」
「ああ、あれか」
ペティが言っているのは、昨日ミーティングしたときに皆の前で話していたことについてだ。
このレースにあたって、俺はキングヘイローに1つだけ、『逃げだけはするな』と指示をした。
「メイクデビューの逃げはその後のレースに響くことが多いんだよ」
「響く?」
「控えたウマ娘と比べて、ジュニア級でその後の成績が落ちるウマ娘が多いんだよ。これはデータでも出てるから興味があんなら調べとけ」
ペティにその調査データが載っていた
「あとは折り合いのための教育だな。これからのこと考えると戦法の幅は多いに越したことはねえ」
「教育、ですか」
「キングヘイローのレースは映像で見たが、セイウンスカイに押し出された9月の選抜レース以外は逃げてねえし、大丈夫だと思うがな」
折り合いについてはメイクデビューから意識しておく必要があると俺は考えている。メイクデビューで逃げてしまうと、次のレースで控えようとしても折り合いを欠くことがままあるのだ。折り合いの修正というのはウマ娘にとってもトレーナーにとっても大変骨の折れる仕事である。
学園のレースではキングヘイローは中団で進めることが多かった。まあ、バ群の中での走り方には問題はあるのだが……
何を隠そう、今日デビュー戦を決めたのはキングヘイローの問題点を早く明らかにするためである。あの模擬レースだけでも、フォームやペース読みなどの修正が必要な箇所が出てきたのだ。まだ他にあるかもしれないし、トレーニングだけでは表出してこないものがあるので、それを洗い出すために急遽デビューを決めたというわけだ。キングヘイローはクラシックを狙っているのだから、皐月賞に間に合わせるためにも修正する時間はあるに越したことはない。
仮に問題なくうまくいって勝てるのならそれはそれで結果オーライであるが──
「まあ、なるようにしかならねえな」
あとは、レースを待つだけだ。
◇
ペティと話しているうちに2Rに出走するウマ娘たちが地下バ道から出てきた。メイクデビューとあってどのウマ娘も勝負服を着ている。ゲートまで走っているウマ娘たちの中には、翠色の勝負服に身を包んだキングヘイローの姿もあった。
「キングは勝てると思いますか? 2番人気ですけど」
電光掲示板を見ているペティにつられて前方に目を移す。キングヘイローは1番人気のトレアンサンブルとはそこまで差のない2番人気だった。
実力では1番人気でもおかしくないのだが、火曜日に模擬レースを走ったばかりであったり、そもそもトレーナー契約を結んだのがここ数日のことであったりと不安要素が多いので嫌われた……と、俺の見たネットニュースに載っていた。
「他のメンツのレース映像は確認したが、実力的に勝機は十分にある。でもレースでは何が起こるか分からねえからな。断言はできん」
「なるほど……三冠ウマ娘になると言ったその手並み拝見といったところでしょうかね」
観客席の騒がしさが少しずつ増してきているなか、ターフビジョンにウマ娘たちがゲート前で待機する姿が映し出されている。それに合わせて実況の声も聞こえてきた。
『15人、1600mで行われますジュニア級メイクデビュー。何と言っても注目は、人気を集めている2人のウマ娘でしょう! まずは1番人気、トレアンサンブル!』
実況に合わせて白と紫を基調とした勝負服を着たウマ娘、トレアンサンブルに映像が寄った。彼女は深呼吸をしながらゲートを見つめていた。
『そして2番人気、キングヘイローです!』
映像が切り替わりキングヘイローが映される。キングヘイローはキョロキョロ辺りを見回してカメラを見つけ出したと思うと、カメラ目線でこれ見よがしに髪の毛を払ってポーズを決めていた。顔はドヤ顔以外の何物でもない。
「なにやってんだアイツ……」
パドックならまだいいのだが、レース前だというのに
『2人にはある共通点があります。それは2人とも良血のウマ娘だということです!』
そのアナウンスが流れた途端、キングヘイローの表情が曇った。そしてすぐにカメラが切り替わり、俯瞰のカメラでウマ娘全員を映し出していた。
『トレアンサンブルは日本で活躍したあのダイナアクトレスの娘。対してキングヘイローはアメリカGⅠ7勝のグッバイヘイローの娘です! 非常に注目のメイクデビューと言えるのではないでしょうか? 解説の────』
実況と解説がテンポよく掛け合っている。
実況が言った通り、1番人気トレアンサンブルの母親は日本のマイル路線で大活躍したダイナアクトレスだ。グッバイヘイローを母親にもつキングヘイローとは似たような境遇になるのかもしれない。
実況と解説の掛け合いや煽りによって、観客席も次第に熱を帯びてきているように感じる。さっきよりも背後のざわつきが大きくなってきた。
『さあ、枠入りが始まりました!』
画面の向こうのウマ娘たちが続々とゲートに入っていく。キングヘイローは6枠10番にすんなりと収まり、最後に大外8枠15番へ黄色の勝負服を着たウマ娘が入った。
『ゲートイン完了……』
騒がしかった観客席が一瞬にして静まる……そして──
『──スタートしました!』
ゲートが開き、一斉にウマ娘たちが飛び出した。キングヘイローも出遅れることなくスタートを切った。出足は良い。
『揃ったスタート! ハナを主張したのはケンベル、その後に同じ6枠のキングヘイローとテイエムラシアンが続きます』
第3コーナーに向けたバックストレッチをウマ娘たちは駆けていく。
キングヘイローは2番手を追走。相変わらず頭は高いが力んでいるようには見えず、すんなりと番手につけている。
『縦に長くなってきたバ群は早くも第3コーナーに入っていきます! どのウマ娘も大きな動きはありません!』
スピードについていけないウマ娘が早くもスピードダウンして隊列が広がってきているが、個々の順位自体は大きく変わっていない。
中団から後方のウマ娘たちが上がる構えを見せているなか、キングヘイローは変わらずに2番手でコーナーに入っていった。隣にいたテイエムラシアンに競られることもなく、スムーズな走りができているように見える。ここまでは順調だ。
しかし問題はここからだ。手元のストップウオッチで通過タイムを測っているが、ペース的には平均からややスロー気味。2番手の位置取りは良いが、果たしてキングヘイローの脚は残っているのか。
『第4コーナーから直線に入ってきた! さあ、抜け出してきたのは──』
バ群の中から絶好の手ごたえで上がってきたウマ娘が1人。そのウマ娘は
『キングヘイローが楽な手ごたえで上がってきたっ!!』
──キングヘイローだ。2番手からケンベルを交わして最後の直線で先頭に立った。力強くターフを蹴ってゴールを目指すその脚色は衰えていない。
『後続も追い込んでくる! キングヘイローは後続の14人を抑えることができるのか!? おっとぉ!? 1番人気のトレアンサンブルは伸びが苦しいか!』
絶好の手ごたえのキングヘイローとは対照的にトレアンサンブルは中団から抜け出せないでいる。表情も苦しそうで、もういっぱいいっぱいといった走りだ。あれではもう届かないだろう。
ターフビジョンから目線をターフに移す。右方から目の前のゴールへ向かってくるウマ娘たちの姿が大きくなってきた。キングヘイローが14人を従えて懸命に走っている。
『残り100! ユウキレインボーとタニノハレム、そしてその外からアドマイヤディオスが突っ込んでくるっ! キングヘイロー粘れるか!?』
「……」
僅かではあるが躯幹が左右にぶれている。このままでは真っ直ぐに走れず斜行してしまう可能性がある。
しかし、キングヘイローの脚は衰えていない。真っ直ぐに走ろうと必死に前を向いている。
『しかしっ! キングヘイローは先頭を譲らない!』
「行け……!」
口をついて出た言葉には、自分でも驚くほどの力が入っていた。
そして、その時はやってきた。
キングヘイローが先頭でゴールラインを駆け抜ける。
『キングヘイローが今1着でゴールインッ!! デビュー戦を見事勝利で飾りました!』
観客の歓声とともに、真剣な表情のキングヘイローがゴールラインを捉えて目の前を通り過ぎていった。
「勝ち、やがった……」
「おお……おおー!」
驚いている俺とペティがそれぞれ口を開いた。
走り終えて息を整えたキングヘイローは、涼しい顔で歓声の上がるターフへ向かって手を振っている。
「キングやりましたね!」
「あ、ああ……」
ピョンピョンと跳ねていた興奮気味のペティはズレた眼鏡を指で押さえて直していた。
「……」
カレンモエは、ぱち、ぱちと間の開いた拍手をターフへ送っていた。
「口だけじゃなかったんですね。しっかりと勝ちきるとは正直キングを嘗めてました、反省です……あ、キングこっち来ますよ!」
キングヘイローは時折かけられる声にお礼を言って、あちこちに手を振りながらこちらに向かってきた。
得意げに胸を張るキングヘイローが俺たちの前に仁王立ちになった。
「おーっほっほっほ! その
「キング、良い走りでしたよ! よく粘りましたね!」
「…………おめでとう」
ペティとカレンモエが各々に声をかける。
「ええ、ええ! 2人ともありがとう。トレーナーは、何かないのかしら?」
「……キングヘイロー、もうちょっとこっち来い」
「? なにかしら?」
キングヘイローと柵を挟んで至近距離で向かい合う。汗で濡れた鹿毛、上気して薄く赤みを帯びた顔、キックバックで受けた芝や土が付いた勝負服とその肢体が目に入ってくる。
「ちょっと横向け」
「ええ……?」
そして──
「よくやった!」
──バシッ!! っと俺の想いをすべて込めて、その背中を平手で叩いた。
「っっ!! ちょっと、痛いじゃない! いくらウマ娘が丈夫でも、痛いものは痛いのよ!」
「はっはっは! やるじゃねえか! よくやったな!」
「もうっ……ふんっ、今日のところは許してあげるわ。寛大なキングに感謝するのね!」
担当ウマ娘が……キングヘイローが勝った嬉しさが今になって湧き上がって胸の中を満たしている。
勝てたこと自体への嬉しさに加え、これでキングヘイローは勝ち上がりになるので、これで2年で退学になることはない。そのことに一安心している自分もいた。
「どこか痛むところや違和感があるところはないか?」
「何も問題はないわ。何なら3Rに出たっていいのよ?」
歩様も乱れていないし、本人がそう言うのならある程度信じていいだろう。
しかし、後々問題が出てくる場合があるので注意を払っておく必要はある。
「ウイナーズサークルから引き揚げたらインタビューがあるだろうから控室で待っとけ。俺も今すぐ行く」
「分かったわ」
そうしてキングヘイローと一旦別れた。彼女は観客に応えながらウイナーズサークルへ向かっていった。
俺は身を翻しながら、控え室を目指して速足でスタンドを駆けていった。
(コイツなら、クラシックだって夢じゃねえぞ……!)
その胸に、これからの確かな期待を抱きながら。
ダイナムヒロインちゃんが好きです……(告白)
拙作は全て実名でウマ娘を出してるので、ダイナアクトレスとさせていただきました