キタサンブラックを担当するようになってからおおよそ3ヶ月経過して、季節は秋を迎えていた。
トレーニングコースにてキタサンブラックを待っていると、こちらにやってくる人影があった。チーフトレーナーである清島だった。
「お疲れ様です、先生」
「おう。どうだ、調子は」
ここでいう調子とはもちろん俺の事ではなく、キタサンブラックについてだろう。
「キタサンブラックの体調や状態には問題ありません。故障もなく順調そのものです。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「俺が担当してからさらに身長が伸びたようで、それに筋肉系が追いついていません。夏合宿での筋力強化は予定通りうまくいったのですが……」
「筋肉の強化より骨格系の成長が勝っているってことだな?」
「はい」
清島に言った通り、筋肉系が体に追いつかないほどにキタサンブラックの身体の成長は著しかった。
「ってことはだ、メイクデビューはどう考えてんだ。そろそろデビューだって先月あたりにキタサンブラックが言って喜んでたって聞いたぞ」
「メイクデビュー……」
目下、俺の悩みどころはそれだ。夏合宿の前は今月……9月か10月あたりにデビューしようと彼女に話していた。仮に何も問題がないのなら、その予定でいたのだが──
「今のお前の考えでいいから聞かせてくれ」
「タイムや同期のウマ娘との模擬レースの結果から、今月や来月にデビューしても勝てる可能性は高いと考えています。しかし、骨格系の成長に伴いフォームの変化が予測されますし、こんなアンバランスな状態では故障するリスクを否定できません。正直、もう少し時間が欲しいです。なのでメイクデビューはもう少しあと……12月か、年明け1月ぐらいを考えています」
「それ、キタサンブラックには話したのか?」
……痛いところを突かれた。
「いえ、まだ話していません」
「そういうことは早く話しとけよ。メイクデビューってのは全てのウマ娘にとって特別なもんだ。前にも言ったが、あれだけの身体能力をしたウマ娘も中身はただの女の子だ。トレーナーとウマ娘に限らねえが、信頼できる関係を築くことは何より大事だからな。言うべきことは迅速に、隠し事は一切なし、だ」
「……分かりました」
「何度も言ってるが、キタサンブラックはお前に全て任せる。しっかり2人で話し合え」
「……はいっ」
「おう。じゃあ今日も頼むぞ」
清島はそう言ってその場を離れていった。
「話し合え、か」
その場に1人で残った俺はそう独り言を言った。
以前メイクデビューの話をしたとき、キタサンブラックは飛び跳ねる様に喜んでいたのを覚えている。その彼女に水を差してしまうことに申し訳なさを感じながらも、清島に言われた通り話をしないといけないと感じていた。
今日の練習メニューを確認しようとファイルを開いて目を通しているところに、またしても俺に話しかける声があった。
「よう!」
「先輩。お疲れ様です」
話しかけてきたのはアルファーグの先輩サブトレーナーだった。このチームでは古株のサブトレーナーだ。この先輩は俺がキタサンブラックの担当が決まった時にその場にいた人でもある。年齢は聞いたことがないが、見た目からしてアラフォーといったところだろうか、渋い髭を生やした細身の男性だった。
先輩は生理学や薬学についてかなりの見識を持っている。トレーナーの職に就きながら大学に通い、その分野の博士課程もクリアしたという間違いなく優秀な人物だ。
「さっきの話、聞こえてたぞ」
「ああ、いやお恥ずかしいです」
照れ隠しに後頭部へ手をやった俺に、先輩は笑顔で返してくれた。
「まだまだお前は1年目だぞ。これから色々学んでいきゃいいさ」
「はい。ありがとうございます」
「さっきの話だけどな、チーフの言った通り、ウマ娘には何でも包み隠さず話した方がいいぞ。これは俺の経験談でもある」
「先輩も、昔何かあったんですか」
「そりゃあもう、両手足の指じゃ数えられないほどあるさ!」
それはさすがに多すぎではないだろうか、と心の中でツッコミを入れた。
「俺の失敗談は聞きたかったらいくらでも言ってやるが、それで分かったのはウマ娘の信用を失えば二度と戻らないってことだ」
「二度と、ですか……」
「一度でもやらかしたら、亀裂は埋められないまま終わることがほとんどだったよ。だってウマ娘たちは基本的に3年しか学園にいないんだからな。それにトレーナーを変える権利だって持っている。まだ10代のお前に言っても分からんかもしれねえが、時間が過ぎるのは滅茶苦茶早えぞ。1年、2年なんてあっという間だ」
「そうですか……」
「ま、今回みたいな話ならまだ伝えやすいし気楽に行け気楽に。キタサンブラックは気のいいウマ娘だからな、お前の言うことなら分かってくれるさ」
「……分かりました!」
「頑張れよ~。ほらっ! これやるよ」
先輩はズボンのポケットから取り出した何かを俺に投げつけてきた。反射的にそれをキャッチすると、俺の手のひらには包装された2錠の白い錠剤があった。
「何ですかこれ?」
「ただのビタミン剤だよ。成分的に不安やストレスに効果あるかもってな~。あ、いらねえなら捨ててくれていいぞ」
「いえ、ありがとうございます」
「そうか? じゃあな、坂川」
餞別にビタミン剤を渡してくるなんて変わった人だと思いつつ、色んな人に気にかけてもらっているこの現状に改めて感謝しながら、今日俺はキタサンブラックにメイクデビューについて伝えようと決心した。
ベンチに座ってカバンからあるノートを取り出した。
そのノートはキタサンブラックを担当し始めてから作ったノートで、キタサンブラックについてその日のトレーニング内容と評価から些細な普段の様子、加えて俺が思ったり考えたりしたこと、そして今みたいに指導されたことなどが書き連ねてある。
もう何冊目か分からなくなったそのノートへ先生と先輩のアドバイスを記入しながら、彼女が来るのを待った。
◇
「トレーナーさん! 今日もトレーニング、よろしくお願いします!」
それから間もなくしてトレーニングコースに姿を現したキタサンブラックは、いつものように俺に頭を下げて挨拶した。
「キタサン、メイクデビューのことなんだけどな」
「メイクデビュー!? ~~~~っ! やっと、やっとですね! あたしの想いをみんなに届けて笑顔に……。いつになるんですか!?」
キタサンブラックは両の拳を握りながら目を輝かせて俺にそう訊いてきた。
その様子に一瞬身が引けたが、俺は覚悟を決めて口を開いた。
「そのデビューなんだが、先延ばしにすることにした。早くてもデビューは12月以降だ」
「──へ?」
俺の言葉を聞いて、表情が固まるキタサンブラック。
当たり前だ。清島が言ったとおり、トゥインクルシリーズにデビューすることは全てのウマ娘にとって特別なことだ。トレセン学園の入学式よりも栄誉ある日とまで言われることもある。
それを分析不足のまま無責任に伝えた俺が悪いのだ。
「ど、どうしてですか? だってトレーナーさん、合宿の時にこの調子なら10月にはデビューできるって……」
「すまない。説明させてくれないか」
「はい……」
キタサンブラックはすっかり意気消沈して、耳も尻尾も垂れてしまっていた。
ここは誠心誠意、あるがままを話すしかない。
「夏合宿の始まる前と終わった後にさ、施設に行って筋力測定したの覚えてるだろ」
「はい……」
夏合宿の前後において、俺は外部のスポーツ研究施設に話をつけて、専門的な機器を使ってキタサンブラックの筋力測定をしていた。
「でもそのとき筋肉はついたって、トレーナーさんが──」
「俺が言った通り、筋力は強化できていたんだ。目標値も達成してた。合宿のトレーニング、頑張ったな」
「なら、なんで」
「……お前、身長伸びたよな。縦に伸びるだけじゃない……肩幅とかも広くなったんだ、この数か月で。最近、服が小さく感じたことはないか?」
「う……確かに、そうですけど」
キタサンブラックはジャージの裾を下に引っ張った。自分で今言って気付いたが、丈が以前よりも短くなっているような気がする。
「あのあと、その施設の運動器専門のドクターに相談して、今のお前の体格にはまだ筋肉量が不足してるって結論になったんだ。骨格の成長に伴ってフォームを作り直す必要があるかもしれないし、それにこの状態で全力でレースを走ったらどうしても故障のリスクが付きまとうんだ。フォームの見極めと修正にも時間を使いたいし、出来るだけ故障のリスクは低くしたい。お前の頑張りが足りないとか、今のままじゃレースに勝てないって訳じゃないことは分かっていて欲しい」
「……」
眉を下げて、俯いたキタサンブラックはそれで黙りこくってしまった。
彼女との間に沈黙の時間が流れる。永遠にも思えるその間、どんなことを言われるか俺は想い巡らしていた。
『嘘つき』『無責任』『新人トレーナーなんて信用できない』『トレーナーを変えてデビューします』────考えれば考えるほど、想像は悪い方へと向かっていた。
現状デビューして勝てる実力があるのに、それを延ばせと言っているのだ。まず勝ち上がることが重要なトゥインクルシリーズ、デビューを遅らせることはそれだけ未勝利戦に挑める回数が減るということだ。退学になったら元も子もない。
それにデビューが遅いと、レース後の状態によっては全てのウマ娘の憧れであるクラシック路線かティアラ路線に間に合わない可能性だって高くなる。キタサンブラックが落胆するのも無理はない。
「トレーナーさん」
「……ん」
心の中で身構えて、彼女の言葉を待つ。
「デビュー、したかったです。ダイヤちゃんにも、友達にも、父さんにも、お弟子さんたちにも……みんなに来月までにはデビューするからって既に言っちゃってたんです」
「……すまない」
俺は彼女に頭を下げ、そのままの姿勢で次に彼女が口を開くのを待った。
「トレーナーさん……」
「……」
その後に続く言葉に俺は見当もつかない。
そして顔を上げた彼女が言ったのは──
「すみませんでしたっ!!!」
「……んん?」
キタサンブラックの口から飛び出てきたのは、予想だにしないことだった。
なぜ彼女は謝っているんだ?
彼女の言葉に脳内が翻弄されている状態で頭を上げると、真剣な彼女の顔がそこにあった。
「なんで謝るんだ?」
「なんでって……なんでですか?」
「ええ……?」
致命的に話がかみ合っていない。
埒が明かないので彼女の話を聞くと、デビューできなかったのは自分のせいだと言い出したのだ。
「トレーナーさんは夏合宿頑張ったって言ってくれましたけど、あたしの努力が足りなかったんです!」
「いや、俺の見通しが甘かったからお前をぬか喜びさせたんだ」
「違います! あたしがもっとトレーニングして筋肉をつけてれば、トレーナーさんの予定通りデビューできていたはずです!」
俺の分析が足りていないのに、デビューの時期に関して彼女に伝えてしまった無責任な俺の言動が全ての元凶だ。彼女に落ち度なんて一切ない。
俺はそれについて謝っているのだ。
無責任な言動を謝っている俺と、自身の実力不足を謝っているキタサンブラック、両者がかみ合うはずもない。
「まだまだ下積みしないとですね……」
「いやいや、お前は十分すぎるほど頑張ってたんだって! ……聞いてるか?」
「こうしちゃいられない! トレーナーさんっ、あたし外周走ってきます!」
「おい、ちょっと──」
方向転換して駆けだしたキタサンブラックの背中があっという間に小さくなる。
「昨日と同じメニューでいいからなー! 無理はすんなよー!」
「はーーいっ!」
遠ざかるキタサンブラックからの声を聞いた俺は息をひとつついて、その背中を見送った。
そのわだかまりは小さなものであったが、それが解けたキタサンブラックと俺。
文字通り二人三脚の俺と彼女との日々はこうして過ぎていった。