底辺キング   作:シェーク両面粒高

21 / 132
途中で回想入るのでこんなサブタイトルになりました。
冒頭の時系列は現在です。


第19話/追憶3 それぞれの……

『さあ最後の直線っ! 先頭はキタサンブラック! キタサンブラックですっ!』

 

 元日夕方のトレーナー室、俺のチーム4人が見ているテレビでは、今年のWDT最終レースとなった阪神3200mのレースが大詰めを迎えていた。

 阪神レース場の内回りを回ってきたDTLの精鋭ウマ娘たちが最後の直線へ向いた。4コーナーで逃げウマ娘を擦り潰し、番手から先頭に立ったのはキタサンブラック。

 

『キタサンブラックが3バ身リード! それを追って外からビワハヤヒデとナリタブライアンが差を詰める! その後ろ故障明けのライスシャワーは伸びがないか! メジロマックイーンも少し苦しいッ!』

 

 内ラチ沿いに走りリードを広げるキタサンブラック。後続のウマ娘たち全員がそれを捉えようと追い込んできている。現在2番手のビワハヤヒデとナリタブライアンが競うようにキタサンブラックのすぐ外からその末脚で迫っていた。

 

「うおお、熱い、熱いです!」

「すごい気迫ね……」

 

 眼鏡の奥の黒い瞳を輝かせているペティと、固唾を飲んでレースの行方を見守るキングヘイロー。

 

 レースは残り200mを切っていた。キタサンブラックは2番手集団のビワハヤヒデとナリタブライアンから2バ身のリードを保っている。キタサンブラックは黒い髪を振り乱しながら必死に走り、押し切り態勢に入っていた。

 

『キタサンブラックリードは1バ身半! 差は縮まるが粘る粘るキタサンブラック! 抜かせない、抜かせないぞキタサンブラック!』

 

 最後の直線の攻防を見ていると、デスクの下で握られた拳に思わずぐっと力が入った。

 キタサンブラックの逃げや先行から粘りこむスタイルはいつものことであるものの、やはり見ている方からするとハラハラするものだ。

 しかし、その勝負根性で抜かせないこともよく知っている。

 

『これが王者の走りだっ!! 今、キタサンブラックがゴールインッ!』

 

 キタサンブラックが1バ身リードしたままゴールラインを駆けていった。

 

『頂点に立ったのはキタサンブラックです! SDTに続きエクステンデッド部門連覇! 2着争いビワハヤヒデとナリタブライアンは写真判定です!』

 

 テレビではゴールして息を整えたキタサンブラックが大歓声のスタンドへ笑顔で手を振っている。トゥインクルシリーズ時代のあどけなさの残る少女から立派な大人の女性となった彼女は柔らかく微笑んでいた。

 しかしながら、その笑顔はあの頃と全く変わっていなかった。

 

 

「……ふぅ……」

 

 キタサンブラックが勝利したことと無事に走り切ってくれたことに安心した俺は小さく安堵のため息をついた。

 

「キタサンブラック、長距離ならまさに敵なしですねえ」

 

 ペティがしみじみと感心するようにそう言った。

 

「王者の走り、ね……確かに凄みを感じる走りだったわ」

 

 キングヘイローはゴールする瞬間の実況の言葉を噛みしめていた。

 

「…………」

 

 カレンモエは黙ってテレビの画面をじっと見ていた。

 

 三者三様の反応を見せた3人は余韻に浸りながら今日のWDTについて話し始めた。

 

 

 

 会話も段々と落ち着いてきて、もうすぐ解散かと考えながらその様子を静かに眺めていると、ペティが何か閃いたように急にこちらを向いた。

 

「トレーナーさん、この後ヒマですか?」

「ああ? 何かあんのか?」

「せっかく元日にチームが勢揃いしてるんですから、このあとみんなで初詣に行きましょうよ!」

「初詣か……まあ、いいぞ」

「やった!」

 

 今日はキングヘイローとカレンモエも午前中にメニューを終えている。俺はこの後学術雑誌(ジャーナル)を読むか、カレンモエが出走する乙訓特別に出そうなウマ娘でも調べる予定だったが、特に急ぎの仕事でもなかったのでペティの提案を受け入れた。

 

「キングもいいでしょう? トレセン学園の近くのあの神社、行きましょうよ」

「私は構わないけど、混雑しているところは嫌よ。キングに人混みはふさわしくないわ」

「なんとワガママな……あの神社は混んでるんですよねえ。どうしますか」

 

 ペティの言う通り、その神社は毎年のように混んでいる。その神社がウマ娘ゆかりの神社なこともあって、トレセン学園の関係者やウマ娘が参りに行っているのだ。

 うんうんと悩んでいるペティに助け舟を出してやった。

 

「トレセン学園から離れるが、ウマ娘ゆかりの小さい神社があるぞ。あそこなら有名じゃねえから人もいねえだろ」

「そこ、電車とかバスで行けるとこです?」

「近くに電車とバスは通ってねえな……しゃあねえ、車出してやるよ」

「ほんとですか? 太っ腹ですねえトレーナーさん。モエさんも行きますよね?」

 

 ペティに話を振られたカレンモエは伏し目がちに視線を下に向けたあと、それに返答した。

 

「……モエはいいや。3人で行ってきて」

「え、何か予定あるんですか?」

「うん……モエ、もう行くね」

 

 カレンモエはそう言うと立ち上がってトレーナー室出入り口へ向かっていった。

 ……俺の予想なら、多分()()()()()()なのだろうと思う。彼女が引き戸に手をかけようとした瞬間に、俺は彼女の背に声をかけた。

 

「モエ、テジタルブラは着けとけよ。記録用のタブレットも持っていけ」

「……! …………うん」

 

 カレンモエはこちらに背を向けたまま振り返らずに返事をして、棚に置いてあったタブレットを手にした。

 

「無理だけはすんな」

「分かってるよ……」

 

 カレンモエは引き戸を静かに開けてトレーナー室から出ていった。

 

 カレンモエが返事をしたことで彼女の動向は確定した。彼女はこのあと自主トレに向かうつもりなのだ。

 引き止めるべきか迷ったのが正直なところだった。もし俺の声に反応せず、デジタルブラを着けないというのなら強引にでも引き止めていたと思う。

 しかし、彼女は俺の言葉に返事をした。ここは彼女を信じるとしよう。

 

 もしこれでもオーバーワークになってしまうなら──

 

「…………」

 

 そうなったなら、相応の対応をしないといけない。まあ、どっちにしろ明日から調整だ。

 

 

 宙を見ながらそう考えていると、気づけばキングヘイローとペティがこちらを見ていた。ペティは勿論だが、今の会話を聞いた以上、キングヘイローもカレンモエの現状についてある程度は察しているだろう。

 これからどうするのか、2人はそんな声が聞こえてきそうな顔をしていた。

 

「モエ自身に任せる」

「それでいいの? 初詣もいいけれど、あなたはモエさんといるべきじゃない?」

 

 確かにキングヘイローの言ったそれは御尤(ごもっと)もだ。だが今日はカレンモエ本人に任せたのだ。これで俺が残ったのではカレンモエを信頼してないと言っているようなものだ。

 

「心配してないって言うと嘘にはなるが……俺はモエを信じる」

「……モエさんのこと、信用してるのね」

「まあ、もう1年以上の付き合いになるしな。……ほれ、車持ってくるから校門前に集合な。戸締りするから出ろ」

 

 俺はそう言ってキングヘイローとペティと共にトレーナー室を出て、そこで2人と別れた。俺は車のキーを取りにトレーナー寮の自室へ向かった。

 

 ◇

 

 坂川と別れたわたしはキングヘイローと共に外套を取りに寮へ向かっていた。

 

「モエさん、大丈夫かしら……やっぱり、心配だわ。ねえペティさんも──」

「…………」

「ペティさん?」

 

 キングヘイローが何かを言っているが、その内容が頭に入ってきていない。わたしは下を向きながら、先程のことを思い返していたからだ。

 

「ペティさん、どうかしたの?」

「……あ、いや、何でもないですよ。すいません、何ですか?」

「モエさんのことよ」

「トレーナーさんがああ言ってるんだからわたしたちも信じましょうよ。大丈夫ですよ、きっと」

「そうだといいのだけれど……」

 

 キングヘイローが頬に手をやりながら憂うようにそう言った。

 カレンモエとカレンモエを心配するキングヘイローには申し訳ないのだが、今のわたしは別のことで頭がいっぱいになっていた。

 

「…………」

「……さっきから様子が変よ。どうかしたの? 体調が悪いのなら無理に──」

「いえ、体調が悪いわけではないんです。ただ、少し考え事ですよ」

 

 思い返しているのは先程の──WDTでキタサンブラックが走っているときの坂川の反応のこと。他のWDTの4レースでは見せなかったその表情と様子をわたしは覚えている。

 キタサンブラックのレース中から彼は緊張でもしているかのように強張った表情をしていた。それにゴールした時、彼は確かに小さく息を吐いた。まるで、緊張感から解放されて安心したとでも言うかのように。

 

 わたしは彼のそれを見逃さなかったのだ。と言うか、見逃さないようにしていた。()()()()()()()()()()()()()()()W()D()T()()()()()()のだ。

 

「やっぱり……でも」

 

 不意に出てしまった言葉に、キングヘイローがますます怪訝そうな顔をする。

 

「何がやっぱりなの? でも?」

 

 流石にここまで来てしまうとキングヘイローも訝しんでくる。そろそろ頭も話題も切り替えないといけない。

 

「あー、ごめんなさい。キング、本当に何でもないんです」

「……何でも相談に乗るわよ? 悩みがあるなら誰かに話すのが一番いいのよ」

「そうですね……もし何かあればお願いするかもです。ささ、初詣ですよ! 行きましょう行きましょう!」

 

 わたしはキングヘイローと初詣の話をしながら薄暗くて寒さの厳しい廊下を歩いていった。

 

 

 ◇

 

 

 2人を乗せて車を30分ほど走らせると目的の神社に着いた。俺の予想通り参拝客は多いものの、待つ必要はないほどで立ち止まることなく本殿までたどり着くことができた。

 

「ほれ、お前ら先にいけよ」

「分かりました! キング、先に行きますね」

「はいはい」

 

 キングヘイローにそう声をかけたペティは鈴をしゃりんしゃりんと鳴らしてから賽銭箱に小銭を放った。コトン、カラカラ、カシャンと小銭が転がる音が終わると、ペティは礼をしてから拍手をして拝んだ。

 

「──」

 

 何かをお願いしてるのか祈っているのか分からないが、ペティがそうして固まること数秒後、それは終わり再度頭を下げた彼女はこちらへ振り向いた。

 

「終わりましたよ」

「私の番ね」

 

 そうしてキングヘイローもペティと同じように参拝する。迷いなく参拝する流れるような所作を見ていると、さすがに育ちの良さというものを感じた。

 

「何をお願いしたんだ?」

 

 キングヘイローを待っている間、ペティにそう訊いた。

 

「言う訳ないじゃないですか。恋する乙女の秘密ですよ。禁則事項です」

「お前が恋する乙女だあ?」

「なんですか。わたしも今を生きる立派な女の子なんですよ。もしかしてバカにしてますか?」

「してねえけどよ……」

 

 そう言われてコイツ等がまだ10代中盤の子どもであることに再度気付かされる。『恋する乙女の秘密』……やはりペティも思春期のガキ、意外と気になる男でもいるのかもしれない。10年前よりトレーナーの合格者数が増加傾向である最近では20前半から中盤の若々しいイケメントレーナーも多くなっているし、学園外の高校生や大学生と付き合っている話だってよく耳に入ってくる。スタッフ研修生だから、そういう色恋沙汰よりデータや数字の方に興奮するようなウマ娘かと思っていたが──

 

「……何かものすごく失礼なこと考えてませんか?」

「んなわけねえだろう」

「終わったわよ。はい、トレーナーの番……何を話しているの」

 

 いつの間にかキングヘイローが参拝を終えていた。

 

「トレーナーさんが私のお願いした内容を無理矢理聞き出そうとしていたんですよ」

「トレーナー……そんなみっともないことは止めなさいよ……」

 

 キングヘイローは呆れるようにそう言った。

 

「何が無理矢理だ!」

「いいえ無理矢理でした。まるでわたしの秘密を暴きたいが如く距離を詰めてきて──」

「勝手に言ってろ。チッ……」

 

 捏造し始めたペティに舌打ちした俺は2人の横を通り過ぎて参拝に向かった。

 

 2人に倣って参拝する。こうやって祈ることに効果があるのかどうかは別にして、せっかく来たのだから何かをお願いしようと思った。

 キングヘイローとカレンモエのトレーナーとして、彼女たちに大きいところを取らせてやれるようにだとか、故障せず安全にレース人生を送って欲しいだとか、そんな月並みなことを願っていた。……ペティのことも、良い研究が出来て成果があがりますようにとお願いした。

 

(こんなもんか……参って祈るなんて何年ぶり……あ……)

 

 初詣で参拝するなんていつぶりだろうかと考えていると、不意にあの顔が心に浮かんできた。

 

 以前……いや、トレーナーになってから初めて初詣に行った時のことが止め()なく浮かんできた。それを止めることはできなかった。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

「何をお願いしたんだ?」

 

 参拝を終えたキタサンブラックがこちらにやって来た。

 

「レースで勝てるようにってお願いしました! もうすぐメイクデビューですから!」

「そっか」

 

 彼女が言う通りメイクデビューを今月末に予定していた。骨格系の成長に筋肉系がやっと追いついたのだ。

 

「ここまで頑張って身体を作ってきたんだ。お前は勝てるよ。俺が保証する」

「そこまでトレーナーさんに言われると……えへへ、ありがとうございますっ!」

 

 キタサンブラックは頬をかいて照れくさそうにしていた。

 

 改めて説明すると、彼女は元々優れていた身体をしていたにも関わらず、俺が担当してからも身体が成長していた。しかし、成長する身体に筋肉が追い付いていなかったので、完璧な状態へ仕上がるまでデビューを見送っていたのだ。

 厳しいトレーニングを経てフォームが完成し、やっと身体が仕上がったと判断できたのが年末あたりだったのだ。

 

「トレーナーさんこそ、何をお願いしたんですか?」

 

 俺はキタサンブラックに促され、先に参拝を終えていた。

 秘密にしておこうかと思ったが、彼女は自身のことを話してくれたので俺も言うことにした。

 

「……キタサンが怪我無く無事に走り続られるようにって、GⅠを取れるようにって……あと、お前がみんなを笑顔にできるようにってお願いしたよ」

 

 そこまで言ってから恥ずかしさを感じてきた。そして思い返せばキタサンブラックの事しかお願いしてないことに気付いた。

 外気は冷たいのに顔に熱さを感じてしまう。顔、赤くなってないといいが……と考えながら彼女を見ると、目を真ん丸にして頬を赤く染めている彼女の顔が目に入った。

 

「いや~照れちゃいますね~……あたしのこと、いっぱいお願いしていただいてありがとうございます、トレーナーさんっ!」

「……おう」

「トレーナーさん、顔が赤……いや、なんでもないですっ! ……えへへ」

 

 顔を真っ赤にした俺とキタサンブラック。目を合わせてお互い恥ずかしそうにはにかんだ後、2人で参道を戻っていった。

 

「それにしても、よくこの神社知ってたな」

「小さいころからここの神社通ってたので! 家族やお弟子さんともよくお参りに行ってました。なんせウマ娘の神様を祀っている神社ですから!」

「そうなのか。今日は車も出してもらってるし、ありがとうな」

 

 2人で初詣に行こうと話になると、キタサンブラックが実家に電話して彼女の父の弟子に車を出してもらうことになったのだ。俺はまだ車どころか運転免許も持ってなかったので、その言葉に甘えることにした。

 そしてやって来たのがこの神社。ウマ娘を祀った神社がこんな場所にあるなんて俺は全く知らなかった。

 

 神社を出て駐車場に行き、鎮座している黒塗りのセダンに2人で乗り込んだ。運転席には弟子が座って待っていた。

 

「お嬢とトレーナーさん、良い参拝にはなりましたかい?」

「ええ。車を出していただいてありがとうございます」

「いやいや、お2人のためなら何でもやりますよ! それで、この後は学園に戻ればいいんですよね?」

「はい、お願いしま──」

「いいや!」

 

 と、そこで俺の声を遮るキタサンブラックの声があった。

 

「行きましょう! あたしの家へ!」

「え?」

「2人で新年の誓いを立てに行きましょう!」

「ど、どういうことだ……?」

 

 いきなりの話に頭がついていかない。

 

「今日、実家の新年会があってみんなが集まっているんです! みんなにトレーナーさんのこと紹介したいですし……いいですよね?」

「え……あ、ああ」

「よしっ! 車出して!」

「へいっ! お嬢の頼みとあらば!」

 

 キタサンブラックの勢いに押された俺は生返事をしてしまい、気づけば車は彼女の実家にたどり着いていた。

 

 

 

 その後は……キタサンブラックの父親と会い、弟子たちに言われるがままに彼女と2人でデュエットして歌を歌ったり、新年会に参加してたくさん飲み食いしたりと、大騒ぎしたことを覚えている。最初は彼女の父の存在感というか威圧感に一歩引いてしまって緊張していたが、次第に打ち解けられていたように思う。彼の弟子たちも俺によくしてくれていた。果てには父と弟子みんなが熱唱して、最後に「娘を(お嬢を)よろしくお願いします!!!」と頭を下げられて、新年会は締められた。

 

 活気があるというか、人情味があるというか……キタサンブラックの周りの人たちの暖かさを感じた1日になった。

 

 

 ◇

 

 

「何をお願いしたんですか?」

「結構長くお祈りしていたわね?」

「お前らが教えねえんだから、俺も教えん」

「トレーナーさんの事だから、きっとわたしたちの事でしょうけどね。『キング、モエ、2人ともGⅠ取れるように!』とか絶対にお願いしてますよ」

「……」

 

 からかうように言ったペティの内容が図星だっただけに二重で腹が立った。

 少しやり返してやろう。

 

「ペティがイケメンの彼氏を捕まえれるようにって祈っといた」

「はあ? そんなくだらないことを祈ったんですか? ウマ娘の神様も可哀想です」

「なっ!? お前さっき……チッ、嘘つきやがったな」

「あんな頭の悪そうな話、信じる方が悪いですよ」

 

 全く動じなかったペティを尻目に先程よりも人が少なくなってきた参道を戻り始めた。数歩遅れてキングとペティが付いてきていた。

 

 空を見上げると、空はもう夕闇へと移り変わっていた。

 

 

 ◇

 

 

 走る、走る、走る────

 

 すっかり暗くなり照明が点いたトレーニングコースにて坂路を走る芦毛のウマ娘が1人。

 

「はあっ……はあっ……まだ、まだ」

 

 坂路を上り終えた彼女は、置いてあったタブレットを拾い、次はウッドチップコースにて走ろうと足を向けていた。

 

(こんなことじゃ……このままじゃ、ダメ)

 

 いくら走っても足りない。足りないのだ。

 

(もっともっと……じゃないと)

 

 頭に浮かぶのは1人の男性の顔。あの人と過ごしてもう1年以上も経つのに、自分は彼に何も返せていない。それどころか2勝クラスで躓いてしまっていた。

 

 キングヘイローのデビュー戦と同日の2勝クラスで3着に終わってしまった自分。それから破竹の3連勝を決めて重賞を取ったキングヘイローと比べると、情けないにもほどがある。

 GⅠどころか重賞に出走することさえできていない自分に腹が立って仕方がなかった。

 

 そして坂川以外にもう1人、頭に浮かんでいる人物の顔があった。それは自分によく似た────いや、()()()()()()()()()()()のだ。短距離界を席巻した、自分の実の──

 

「……」

 

 彼女を頭の片隅に追いやった。彼女と自分は違うのだから。

 

 誰もいない無人のウッドチップコースにたどり着き、走る準備を整える。

 

「モエは……トレーナーさんに──」

 

 それを口にした瞬間、今日の昼間、彼に言われた言葉が頭をよぎった

 

『……無理だけはすんな』

 

「あっ……」

 

 自分のトレーニング量が増えていることに彼は気付いているだろう。デジタルブラで記録しているのだから当然だ。

 

 ウッドチップを踏みしめたまま、心の中で鬩ぎ合いが起きていた。

 ……やがて、彼の言葉がその鬩ぎ合いに勝利した。

 

「…………今日は、これで」

 

 走らずにウッドチップコースから出ようと、学園の方に足を向けた。

 

 彼は私を止めなかったということは、自分を信用してくれているということ。それを……彼を裏切ることはできない。

 

 トレーニングコースをあとにするカレンモエ。

 冬の冷たい夜風が彼女の芦毛の髪をなびかせていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。