カレンモエと出会ってから3日目の朝。今日で夏合宿の中休みが終わるので、明日の朝までには車で片道2時間かかる合宿所まで戻らないといけない。
資料作成を昨日までに終えた俺は午前中からトレーニングコースに繰り出していた。普段の学園時の放課後には遠く及ばないものの、夕方近くよりも断然ウマ娘とトレーナーの数は多い。
夏合宿をしない理由はチームやウマ娘によって様々だ。
故障関係……もとより学園で療養中であったり、合宿中に故障して学園に戻されたりなど。
勉学や就職関係……大学受験や就活のため合宿どころかトレーニングも行わないウマ娘もいる。俺のチームの3年も毎年これで合宿にはいない。
チームの特色……サマースプリントシリーズなど夏のレースに参加するウマ娘が多いチームは学園に残ることが多い。1人や2人ならまだしも、人数が多いと避暑地である合宿所とローカルのレース場との行き来が面倒で管理も煩雑だからだ。
また、中には「合宿に意味はない」と言うトレーナーもいる。夏合宿にて成長するウマ娘が多いのは事実なのだが、客観的な根拠は示されていない。その言い分は俺も理解できないことはない。ただ、一般的に俺みたいな弱小底辺チームは合同でトレーニングしてくれる相手が必要なので、その擦り合わせや付き合いを兼ねて合宿に参加している。今年だって、郷田のチーム含めそのほか数チームと一緒に小規模の合宿施設を借りて実施している。メジロやサトノなんかは専用の合宿所を持っているし、中には海外に行くチームだっている。
だから目の前でトレーニングに勤しんでいるウマ娘たちは大半が残ったチームのウマ娘か、リハビリがてら軽く運動しているウマ娘だ。
その中で1人でトレーニングをしているウマ娘を見つける。濃い白色をしたカレンモエの芦毛とピンク色のカチューシャ式メンコは遠くからでも目につき、双眼鏡を使わなくてもすぐに分かった。
「おっ、あそこか。毎日この時間……午前中からあの時間までやってんのか」
見ればカレンモエはターフに座り込んでストレッチをしていた。今は準備運動なのだろう。
それをいつもの階段に腰を下ろして遠くから眺める。彼女は足を開いて体を倒したり、寝そべって体を捻ったりしていた。
「別段、関節可動域は狭くねえな。柔らかくもねえけど」
彼女の柔軟の様子を見て俺はそう評価した。走り方の硬さを見て関節可動域の狭さに原因があるのではないかと予測していたのだがどうやらそうではないらしい。
8月の暑さに耐えかね、シャツを襟をパタパタしながら団扇で仰ぐ。気休め程度にしかならない温い風が胸もとを撫でていた。
座位や臥位での柔軟運動を終えたカレンモエは立ち上がりコースのラチ沿いを歩き始めた。体を慣らすためのウォーキングかと思ったが、その足はコース横の倉庫へ向かっていった。倉庫に入ってしばらくすると、ヒト用のハードルをいくつか抱えて出てきた。
「アイツ、昨日の俺のアドバイスを……いや」
俺が昨日言ったそれを聞き入れてくれたのかと思ったが、そこでその考えを踏みとどまった。もしかしたら俺に言われるまでもなく、元からやっていたのかもしれない。
彼女は元の場所に戻るとハードルをまとめて下ろした。その後、立ったままスマホで何かをしていた。画面を横にして、動画でも見ているかのような様子だったが──
「カレンといえばアレかもなー」
彼女の母親、カレンチャンは現役時から始まり今でもウマスタはじめSNSでの活動を積極的に行っている。俺は実際にカレンチャンのSNSなんて見たこともないし微塵も興味はないが、娘も同じようなことをしていても不思議ではない。
あれはショートビデオでも撮っているのではないだろうか。近くにいない俺はその判別を出来るはずもないのだが。
何かを終えたのか、彼女はスマホを荷物があるところに置いて、ハードルを1メートル間隔で並べ始めた。
ハードルを並べ終えるとその前に立ち、再びスマホを手に取って画面を見ながらハードルをまたぎ始めた。
そのハードルまたぎは遠目から見てもかなりぎこちなかった。
「ありゃハードルドリルやったことねえな」
一目でカレンモエがハードルドリル初経験だということが分かった。スマホを見ているのは何かサイトか動画でも見ながらやっているのだろう、彼女は時々止まってスマホを注視していた。
……あんな方法じゃ、せっかくやっても効果は出ない。
「いっちょやるかあ」
そう言って決意を固めた俺は、腰を上げ早足で階段を降りていった。
「ちょっと待て」
カレンモエがスマホを片手にぎこちなくハードル跨ぎをしているところに俺は声をかけた。
彼女はスマホから顔を上げて俺の方を見た。
「……なに?」
「ハードルドリル初めてなんだろ? 教えてやるよ……高さがまず合ってねえな」
ハードルを見ると明らかにその高さが高かった。カレンモエの足の長さを見てそれの高さを合わせてやった。
「高さはこれくらいだ。残りのやつもこの高さに合わせよう」
「……」
カレンモエは返事をしなかったが、俺と2人でハードルの高さを調整し始めた。
「こんなもんだな。よし、前からハードル跨いでみろ」
「……うん」
俺の言う通りにハードルをゆっくりまたぎ始めたカレンモエ。その足の使い方を見て俺はすぐに口を出した。
「踵が浮いてるぞ。足裏べったり地面につけてつま先は前に向けたまま。躯幹は回旋させるなよ」
「こう……?」
「ああ、それでいい。骨盤もあんま動かすな背筋は真っすぐで……そう、膝は高い位置でな。それで続けてみろ」
カレンモエは俺が指摘した箇所を修正してハードルを跨ぎ続けた。数回往復した後、異なるやり方を彼女に伝える。後ろから、膝を伸ばして横に足を上げながら、横から、ステップしながら……などなど、ハードルドリルの基本的なメニューを彼女に教える。もちろん、それぞれの注意点も一緒に。
彼女は飲み込みも覚えも早く、スムーズにトレーニングは進んだ。
「よし、ハードルドリルはこんなもんだ。股関節周りの良い運動になるから、ちゃんと頭に入れとけよ」
カレンモエは俺が教えたとおりにハードルドリルを一通りこなした。
昨日の態度から反発されることも予想していたが、反発されるどころか従順に俺の言うことを聞き入れて実践していた。
そのことについて変に突っ込むのも野暮なので、この流れに乗ることにした。
「次は? なにするんだ?」
「……じゃあ──」
と、カレンモエは次に行いたいトレーニングについて話し始めた。
俺は勿論、それについての指導をしてやることにした。
◇
それから1日中、俺はカレンモエに付きっきりで指導した。
「もう夕方だ、今日はこんなところにしといたらどうだ?」
「……分かったよ」
あっという間に日は傾き始め、下りてきた太陽は赤みを帯びていた。
「どうだ? 同じトレーニングでもちゃんとやると違うだろ?」
「それは……うん」
これまでカレンモエは自己流でトレーニングを行っていた。その内容自体は教本やネットから引っ張ってきているのだろうが、自分が実践するとなると話は別だ。気づかない修正点というのは必ず出てくるものだ。
「じゃあ、ストレッチして上がろう」
俺の言葉を受けてカレンモエはターフに座り込み、ストレッチを始めた。足を開いたり体を捻ったりしている彼女を見て、ストレッチを手伝ってやろうと俺は彼女に近寄った。
「ストレッチ、ちょっと手伝ってやるよ……触っても大丈夫か?」
「……大丈夫だよ」
「よし、じゃあ寝そべってくれ」
「うん……こう?」
「そう、まずは腰を伸ばすか。足を上げて顔のところまで持ってこい……後転するみたいにな」
仰向けに寝た状態で、頭から肩のあたりまでを地面につけたまま、両膝と顔がくっつくような姿勢を取らせた。上から見るとカレンモエの背中から臀部、大腿が丸見えになる体勢だ。俺は彼女の躯幹の角度を調節したり、脚を上から抑えた。
トレーナーがいないジュニア級のウマ娘は他人に体を触られることに慣れていない奴が多い。ましてや俺は男なので細心の注意を払って体を触る。セクハラだ痴漢だ変態だと言われたらたまったものではない。だから先程体を触るとあらかじめ言ったのだ。蹴られたりでもしたら文字通り命が危ない。
そんな心配を少ししていたのだが──
「…………」
カレンモエは抵抗を示すことなく、俺のされるがままに身を預けてくれていた。
「じゃ、次行くぞ」
「うん」
ブルマから伸びる白い肌の太ももに触れると、しっとりと汗ばんでいるのが掌に伝わってきた。
その後も直接的に体や脚を触って抑えたりしたが、彼女はその態度を崩さないでいた。チラッと確認した表情も何も変わらない。こうも反応しないウマ娘も珍しいなと思いながらストレッチを続けた。こちらとしてはやりやすくて助かる。もしかしたら学園へ来る前に養成所やポニースクールにでも通っていたのかもしれない。
……そこでふと、キタサンブラックを担当して間もないころ、彼女のストレッチの手伝いをしたことを思い出した。
触られ慣れてない彼女と触り慣れてない俺がぎこちなくやるストレッチを見て、『お前ら2人とも顔が真っ赤っかじゃねえかよ』って先生にからかわれたっけな……
(……なに思い出してんだ俺は)
10年近く前のことに思いを馳せそうになったが、気を取り直してカレンモエを触る手に集中した。
その中で、彼女の関節可動域や筋肉の具合などを確かめていたのは言うまでもない。
というか、そのためにストレッチに手を貸したまである。
(なるほどな……)
直に触れたことによって、カレンモエの関節や筋腱の状態から多くの情報が得られた。
これを基にして彼女へのアドバイスを考える。明日以降数日のものと長期的なビジョンを含めたものを頭の中で組み立てる。
明日で合宿所に戻るので、今日で彼女のトレーニングを見るのは終わりだ。それどころか、スカウトに取り合ってもらえなかった以上、もう彼女と関わることも無いかもしれないので、最後に彼女の手助けになればと考えたのだ。
それで模擬レースや選抜レースで良い結果を残し、力のあるトレーナーにスカウトされたらそれ以上のことはないだろう。
「ほらよ、これで終わりだ」
「……ありがとう」
ストレッチを終えお互いに立ち上がると、意図せず向き合う形になった。カレンモエは伏し目がちの目で俺を真っすぐに見ていた。
「…………」
じっと俺を見ている彼女へアドバイスを口にしようとすると──
「これから──」「あのっ……!」
──俺とカレンモエが同時に口を開き、声が重なった。
「「…………」」
声が重なった次はお互いに無言の時間が続く。はあ~、と息をひとつついた俺は彼女の話を先に聞くことにした。
「そっちが先に言ってくれ。なんだ?」
カレンモエは顔を俯け視線を下に落とし胸の前で自身の両手を重ねてぎゅっと握ると、意を決したように顔を上げた。
「明日からも……トレーニング、見てほしい……」
「ああ!?」
思いもしなかった言葉に驚きのあまり俺は声を荒げてしまった。
(何を言ってんだコイツは……)
まさかこんなことを言われるとは予想だにしていなかった。カレンモエは俺のスカウトを断ったのだ。それなのにトレーニングを見て欲しいと言っている……
しかも、『明日
(いや、待てよ)
もしかして俺のチームに入りたいということか。『これからもモエのトレーニングを見て! (意訳)』ってことなのだろうか。俺の指導を受けて彼女は感銘を受けたのかもしれない。
そんな回答が脳内で弾き出された俺は、また待つことができなかった。
「それは、俺のチームに入ってくれるってことか?」
「? え……? あ……違うよ」
「はあ!?」
またしても声を荒げてしまった。
つまりなんだ、担当ウマ娘になる気はないが、トレーニングは見てくれって言っているのか? そんな都合の良いトレーナーがいるとコイツは思っているのか?
「……だめ?」
小首をかしげ不安の色が見える彼女の瞳が俺を捉えていた。
(…………)
最初からアドバイスする気でいたし、担当ウマ娘になってくれないからと助けを求めるウマ娘を突き放すのもトレーナーとして……いや、坂川健幸という一人の人間してどうなのかと思うところである。
言っておくが、夏合宿そっちのけでカレンモエの面倒をみるのは論外だ。8月末に勝ち上がりをかけた未勝利戦に出る俺のチームの担当ウマ娘が3人もいる。学園に残れるのかどうか、一番重要な時期だと言っても過言ではない。だから必然的に夏合宿のトレーニング後にトレセン学園へ顔を出すということになる。
そうなると、高速道路を使って片道2時間の合宿所との往復になる。夏合宿のトレーニングは朝早くに始まり、昼過ぎか遅くても夕方になるまでには終わるので時間的にこなせないこともない。
しかし、そこで金の話が上がってくる……毎日往復4時間分のガソリン代と高速代はもちろん自腹だ。俺みたいな底辺トレーナーはもらえる給料も相応に低い……完全なる実力主義であるトレーナー業は給与形態も完全なる実力主義なのである。端的に言ってそんなに余裕のある経済状況ではないのだ。トレーナー室にて薄めたインスタントコーヒーを100均のマグで飲みカップラーメンを啜る俺にとって、その交通費はとてつもなく重い。
──が、もう俺の答えは決まっていた。どうやら俺は都合の良いトレーナーらしい。
「しょうがねえな。分かったよ」
「いいの……?」
「お前が頼んできたんだろうが。俺のチームは夏合宿しててな、帰ってきてからになるからトレーニング見るのは早くても夕方だぞ。それでもいいのか?」
「うん……お願いします」
カレンモエは小さく頭を下げた。
「ただし、俺の言うことには従ってもらうぞ。反対するようならこの関係も終わりだ……お前も、自分の意に沿わないトレーニングなんてやりたくないだろ」
「…………分かったよ」
少しの間逡巡する様子を見せたカレンモエであったが、納得したように返事をした。
「それなら明日のトレーニングについて1つ指示だ。午前中はオフにして昼過ぎ……いや、14時ぐらいからスタートしろ。いいな?」
「え? なんで……?」
「反対するならって言ったぞ俺は。どうだ、聞けるか? 言っとくが、お前の状態を見ればトレーニングしてたかどうかなんてすぐに分かるぞ」
「…………」
カレンモエは黙り込んだ。その表情を見ると、その形のいい眉根に皺が寄っていた。
さて、コイツはどう出るか。
「……言う通りに、する」
「分かった。じゃあ今から明日のメニュー書いてやるから少し待ってろ」
ポケットに入れていたメモ帳を取り出してペンを走らせる。考え自体は纏まっていたので、右手のペンは淀みなく動いた。
書き終えたそれを破いてカレンモエに渡した。受け取ったカレンモエはそれをじぃっと見ていた。
「ちゃんとその通りにやれよ、カレンモエ」
「……いらない」
「ん?」
いらない?
何のことか聞き返す前に、カレンモエが口を開いた。
「“カレン”はいらない。モエ、でいいよ」
決意するかのように放たれたカレンモエのその言葉はとても印象に残るものだった。
「俺は坂川健幸だ。じゃあな、モエ」
「……え? さっき、そっちも何か言おうとしてなかった……?」
「……なんでもねえよ」
もう言う必要は無くなったのだ。
別れを告げた俺はその場を去った。
階段を上る途中で立ち止まってコースを振り返ると、出した道具を片付けているカレンモエの姿があった。
午前中をオフした理由だが、今までのハードトレーニングの影響か筋自体が熱を持って硬さやつっぱり感を持っていたからだ。ストレッチをしているのに筋緊張がうまくとれていなかった。彼女の表情や様子から痛みがあるのかどうかは読み取れなかったが、あれなら強い筋肉痛もあるはずである。もし関節痛でもあろうものなら即刻トレーニングは中止させていた。
しかも今は真夏でこの暑さの中、朝から暗くなるまでトレーニングをしているのだ。あんな身体的に疲労がたまりまくった状態でトレーニングをしても効果がないばかりか体調を崩してしまうことは想像に難くない。現に彼女のフォームはお世辞にも整っているとは言い難い。それに熱中症で倒れる可能性だってあるだろう。
この短期間……夏休みが終わるまでになるだろうが、練習したがりの彼女にブレーキのかけ方を教えなければならない。
「……ハードな夏休みになりそうだな」
そう独り言ちた俺は再び階段を上り始めた。