『モエちゃんはお母さんにそっくりだね』
いつからだろう、その言葉が煩わしく聞こえてきたのは。
幼い頃は誇らしかったはずなのに。
『モエちゃんはお母さんとは似てないね……顔はそっくりなのに』
いつからだろう、そう言われるようになったのは。
そう望んだはずなのに、なんでそれさえも煩わしく聞こえるの?
『お母さん』『母』『子ども』『娘』
────『カレンチャン』────
どうして、いつもその名前が出てくるの?
ここにいるのは、『カレンモエ』だよ……?
◇
「モエは……モエは! カレンチャンとは違うっ! 一緒にしないでっ!!! 押しつけないでっ!!!」
テーブルを挟んだ向こう側にいる男──坂川というトレーナーは腕組みをして微動だにせずにこちらを見ていた。
1週間ほど前、この夏休みの間やってきた通りにトレーニングをしていると、コース横の階段に座っている1人の男がこちらを見ていることに気がついた。
半袖の作業服を着ていたので用務員関係の人かなと思っていたけど、近くを通りがかったときに見た彼の襟にはトレーナーのバッジが光っていた。その際に声もかけられたけど、どうせ
どうせこのトレーナーもこれまで声をかけてきたトレーナーと同じ……カレンモエがカレンチャンの娘だから声をかけてきたんだ。カレンモエを見ずにカレンチャンしか見ていない……そうでしょ?
その男は次の日もいた。それも前日よりも早い時間から。
前日と同じように彼の横を通り過ぎようとすると、自分の名前を言い当て、なんでトレセン学園に残ってトレーニングをしているのか訊いてきたけど無視をした。来月の選抜レースにて優秀なトレーナーたちにスカウトされることを狙っている自分としては彼と話す必要が無かったから。
名前が分かることはそこまで不思議ではなかった。自分はカレンチャンと見た目は似ているのだから、昨日の時点で気付いていたのだろう。
しかし、無視をしたのにも関わらず彼はいきなりスカウトしてきた。応じるつもりは無かったのだけど、ここまで突拍子もないスカウトも初めてだったので、その真意を確かめてみたくなって、スカウトした理由を訊いた。
どうせ、この男もカレンチャンの名前を出すんでしょと考えてその答えを待つと、帰ってきたのは「……何でだろうな?」という予想の斜め上をいくものだった。返事をするのもバカらしくなったので無視して再び歩き出すと、彼は何を思ったのかトレーニングについてアドバイスを言い始めた。
(今の……)
ちょうど、自分で考えるトレーニングに限界を感じているところだったのでそのアドバイスは思わぬ収穫であった。これまで図書室の本やネットで調べて色々なメニューを考えていたが正直行き詰っていたのが本音だ。試してみる価値はあると思った。
そしてその翌日、出会って3日目も彼はいた。それも午前中から。
昨日聞いたハードルドリルをネットの見様見真似でやっていると、彼は直接こちらにやってきて声をかけてきた。これまでの様子とは打って変わって真面目にアドバイスをしてくれるので、それを素直に聞き入れることにした。
彼の指導の下で何日もトレーニングを取り組んでいくと、とても身体が楽に動いた。走ること自体とても気持ちいいし、タイムも良くなった。
正直すごく驚いていた。簡単に指導されるだけでこんなに違うのと。ポニースクールの指導者や教官とは違う……これが中央トレセンのトレーナーなのだと感心した。
話は戻り出会って3日目。トレーニング終わりに彼がストレッチを手伝うと言い出した。
その言葉にかなり警戒したけど、彼を試す気持ちでストレッチを手伝わせた。ポニースクールの時から指導者に身体を触られることには慣れているので別に誰が触ろうとも何とも思わない。でも、その手つきや表情から分かることがある……男性の場合は特に。緊張してこわごわと触る人、なんとも思ってない人、適当に速く終わらせたい人、そして下心のある人。
彼の手が自分の肢体に伸びてくる。その手つきや表情を彼に気付かれないように観察する。
(……この人)
彼はとても真摯で真面目だった。その手つきも表情も。
いろんな箇所を触るものの、時間は最小限でこちらに気を遣っているのが分かる。それに表情は真面目を通り越して厳しい顔をしていた。体を触って何か思うところでもあったのかな?
(とりあえずは……少しは、信用してもいいかも)
そう思ってこれから少しの間トレーニングを見て欲しいと頼むと彼は引き受けてくれた。その会話の途中でまたスカウトされかけたけど、彼のウマ娘になる気は無かった。
彼をいいように利用するのは悪いとは思ってる。でも、自分の目標は来月の選抜レースで優秀なトレーナーたちの目に留まることだ。そのトレーナーの中で『カレンチャン』ではなく『カレンモエ』の走りを見てくれる人を見つけ出す……そのためにここまで頑張ってきたんだから。
彼とのトレーニングは順調に進んだ。トレーニング量を減らされたことに不満はあったけど、そうしないと指導してくれないと言うのだから納得した。なにか考えがあってのことだろうし。
そして今日のトレーニング中、名も知らないウマ娘が話しかけてきた。これまで何度も何度も聞いてきたことを話す初対面の先輩ウマ娘。どうしてこうもみんな同じことを言うのと、内心苛立ちながら彼女と話していた。幸い、坂川と彼女のトレーナーが来たおかげで彼女との会話は早々に打ち切ることができた。
トレーニングを切り上げスポーツ医学の勉強をすると言い出した坂川。彼の言う通りトレーニングに身が入っていないことは自分でも分かっていたので、納得して座学へと頭を切り替えた。
それで時は現在へと至る。執拗にカレンチャンの名前を出す彼に煮えくり返った自分がそこにいた。
坂川は相変わらず腕を組んでこちらを観察するように見ていたが、その姿勢のまま口を開いた。
「母親のカレンチャンと同じが嫌だから、選抜レースで中距離を選ぶのか?」
「……比べられるのが、嫌なだけだよ」
カレンチャンと比較されること自体が嫌なのだ。母と同じだということが嫌なわけではない。
「お前、カレンチャンと仲はいいのか?」
意図が分からないことを訊いてくる坂川。もうここまで来たら隠すこともないので答えてあげた。
「ママとは仲は悪くないと思う。電話もするし」
「そうか。今日のあのウマ娘との話からして嫌ってんのかと思った」
「ママが好きなものがモエも好きとは限らないでしょ。ママはSNSするけどモエはしない。モエはSNS好きじゃない」
母は自分が生まれる前、それこそトレセン学園に入る前からSNSを利用し多くのフォロワーを得ていたと聞いている。その勢いは今も衰えず、年を経るごとにフォロワーが増えている現状だ。娘の自分が言うのもなんだが、カレンチャンは今でもすごく綺麗だし、アップする写真もセンスがあると思う。
でも、自分はSNSをやろうとは思わなかった。自分のことをスマホで撮ってネットにアップするというのは、自分を見せびらかしているようでどうしても性に合わなかった。幼い頃からずっと、母と違って目立つことや注目されることは苦手だった。
母も別にSNSを強要してこなかった。まあ、母のSNSには昔から自分がよく登場してはいたのだけれど……
「なるほどな。カレンチャンと比較されること……それに、比較してくる奴らも嫌いってとこか。比較されたくないから、短距離を選ばず中距離を選ぶってことだな?」
「……」
「合宿に行かないで1人でトレセン学園でトレーニングしてんのも、そんな奴らと接するのが嫌だって……そんなとこか」
「……」
口をつぐんで彼から目を逸らす。その通りなのだけど、こう言葉にされると素直に肯定したくなくなった。
合宿になると、普段関わりのない人達と接することが多くなる。今日の先輩との会話のように、あんなやりとりが何度も行われることは容易に想像できた。
「何と言うかまあ……」
坂川は頭の後ろで手を組んで椅子にもたれながらそう言った。
「アホだなあ、お前」
「……っ!?」
まるで出来の悪い生徒に呆れるかのような口調とその内容に対し、驚きとワンテンポ遅れて怒りがやってきた。
「なにを──!」
「しゃーねえ。これから授業だ。まずは母ちゃんと比べられるのが嫌だから中距離を選んだってことだが……」
彼は再び腕を組んでこちらを見た。
その見下すような態度が本当に気に食わない。
「負けた時のことを考えてんのか?」
「え……?」
「その様子じゃそこまで考えてねえな」
予想しないところを突かれた。思考が追いつく前に彼が話を続けた。
「中距離で勝てれば確かに比較する声は少なくなるかもな。でもな、負けたら今よりもっと言われれるぞ。『カレンチャンの娘なのに中距離なんて』って絶対に言われまくるだろうな。お前、それに気づいてんのか?」
「……」
「勝ち続ければ別だが、中央ってのはひとつ勝つだけでも簡単なことじゃねえ。適性も考えず、そんな適当な理由で選んで勝てるのは選ばれた一握りのウマ娘だけだ」
この男が言っていることを理解する前にある言葉が気に障った。
彼は今なんて言った? 自分が中距離を選んだ理由を『適当な理由』だと言ったの?
モエのことを何も知らないくせに!
「あんまり中央を
「……結局、あなたもカレンチャンと同じ短距離を走れって言いたいんだ……!」
「はあ? いつ俺がカレンチャンと同じ距離を走れって言ったんだ? 俺はあえて中距離を走る理由を訊いただけだ。例外もあるが、ウマ娘ってのは血縁関係と距離適性が似ることが多い。……安易に距離適性を決めつけるのは絶対に駄目だが、カレンチャンの娘ならまずはスプリントを選ぶのが普通だろ。1回走って合わないなら距離を変えたらいいんだよ」
「だからっ! カレンチャンを押しつけるのはやめてって、言ってる……!」
「……重症だな、こりゃ。話にならん」
「もういいよ。無駄な話ばかりするなら帰る。明日からトレーニングも見てくれなくていい……さよなら」
もう二度と会うことはないという意味の「さよなら」を言って、閉じたノートとペンケースを持ち席を立った。
「ちょっと待ってくれ」
自分が立ち上がったのを見るや否や坂川は呼び止めた。
ここまで言われて、待つと思っているの?
「なに? もう話すことは無いよ」
「俺はまだ話があるんだ。今日はこれから暇だろ? もうちょっと付き合ってくれよ」
「……」
「怒らせたんなら謝る。すまねえな。ああいう言い方しかできねえんだ」
……本当だろうか? アホだと言ったり最後は話にならないとか言ったり、わざと怒らせているようにしか思えないけど。
「……話ってなに? へんなこと言ったら、帰るから」
「分かった。ありがとうな」
再び席に腰を下ろす。謝った坂川に免じてその話を聞くことにした。
しかし、これが最後通告。彼に言った通り、気に障るようなことを言うなら帰るつもりだ。
彼がしたい話……だいたい予想はつく。この様子だと、スポーツ医学の座学なんてする気はないのだろう。なら──
「んな警戒すんなよ。スカウトするとかそんなんじゃねえからよ」
「……え? スカウト、しないの?」
自分の胸中を察したかのように坂川はそう言った。スカウトしたいのだという予想は一瞬にして外れた。
「しねえよ。お前だって俺みたいなトレーナーは嫌だろうが。と言うか既にこっちは2回も断られてるしな。今更なんの期待もしてねえ。だから楽に聞いてくれ」
彼は組んでいる腕を解き、居住まいを正して話し始めた。
「お前は、他人が自分とカレンチャンを比較してくるのが受け入れられないんだろ?」
「…………」
またその話……席を立ってしまおうかと思い、足に力を入れて立ち上がる前に坂川は言葉を続けた。
「受け入れられない物事は大きく2つに分けられるんだ。それが何かわかるか?」
「…………?」
急に言われたその話に足の力が無意識に抜けた。何が言いたいのかも分からないし見当もつかないけど、興味が全く湧かないと言われたら嘘になる。
黙って彼の次の言葉を待った。
「その2つってのは、自分でどうにかできる事と、自分でどうにかできない事だ」
自分でどうにかできる事と、できない事。その言葉の意味を考えている間に坂川の話が進む。
「これをお前に当てはめる……他人がお前とカレンチャンを比較することはどっちだ?」
「…………」
それを考えてみる。
答えがまだ出ていない状況で視線をめぐらすうちに坂川と目が合うと、彼は口を開いた。
「それは自分じゃどうにもできない事なんだ」
「……」
「お前が俺に言ってるみたいに喚いたって、誰も何も変わらねえ。それとも比較してくる全員に『カレンチャンと比較するな!』とでも言うつもりか? ありえねえだろ」
「……っ!」
これまで鳴りを潜めていた坂川の言葉が再び挑発じみたものに変わる。それに抵抗感を感じるが、続きを聞いてみたい自分もいた。
「じゃあどうにもできない事はどうすればいいのか。それはな、そのまま受け入れるしかねえんだよ。だってどうすることもできないんだぜ? それ以外に何か方法があるか?」
「……」
「そもそもだ。カレンチャンはスプリンターズステークスと高松宮記念を勝った名スプリンターだぞ? 日本の短距離路線の頂点を極めたウマ娘の1人だ。しかもSNSであれだけブームを巻き起こしていた。それに娘がいて、トレセン学園に入学して、あまつさえ顔がそっくりときた。これで比較するなと言う方がおかしいんだよ。見た目が瓜二つなのは、まあ不運ではある。毛色でも違えばここまで言われることは無かっただろうがな」
坂川は息をついてから話を続ける。
「あのな、母親と比較されたくなけりゃトレセン学園になんか入らなきゃ良かったんだ。母親と比較されるのが嫌ならそもそもレースを選ばないって選択肢があっただろうが。自分の意志でお前は今ここに立ってんだろう? なら、受け入れるしかねえんだ」
坂川が言うそれを黙って聞き、その内容を一つ一つ噛み砕いていく。
カレンチャンは名スプリンターで短距離路線の頂点を極めたこと──それを否定する気はない。
カレンチャンの娘だから比較されるのは仕方ないということ──それは自分ではどうしようもない事で、彼に受け入れるしかないと言われても、それは受け入れられない。
トレセン学園に入らない、レースを選ばない──ウマ娘にそれを言うの? ウマ娘ならレースを選ぶのは当然のことで、ポニースクールに通っていた自分がトレセン学園に入ることに何もおかしいことはない。そもそも、自分は走ることが楽し──
(──あ、れ?)
今、なにかとてつもない
(なに……これ? モエは今、走ることを──)
「どうした?」
その違和感の正体を確かめるために心の中を探っていると、気づけば坂川が軽く顔をしかめながらそう訊いてきた。どこか心配しているような声のトーンだった。
「……なにもないよ」
「話、続けてもいいか? ……嫌だったら、今すぐ出て行ってもらって構わない」
「……続けて」
彼は首を小さく縦に振った。
「しかしだ、どうにかできる事とどうにかできない事は完全に隔たってるわけでもない。それが変わることだってある。例えばお前が中長距離のGⅠを取れば、カレンチャンを押しつけられることは少なくなるだろうな。でも、それは達成できればの話だ。お前はデビューもまだでスタートラインにすら立っていない。現状、それは自分じゃどうにかできない事なんだよ」
「……」
例え話までされて、ここまで言われれば否が応でも理解できる。これまで必死に抗っていた現実に、彼は正面から受け入れろと言っている。
カレンチャンと比較されるのは仕方のないことで、それを今の自分はどうすることもできなくて、だから受け入れるしかないって、そういうことだよね……
じゃあ……じゃあ、モエはこれからも我慢しないといけないの? これまでもずっと、ずっと我慢してきたんだよ……?
もう……もう嫌だよ……『カレンチャン』じゃなくて、『カレンモエ』だけを見てほしいよ……
「じゃあ、モエはどうすればいいの……どうすることもできないのは分かったけど、でも受け入れることもできないよ……」
俯いて喉から絞り出したその声は自分でも驚くほどに弱々しかった。
顔を上げて坂川と目を合わす。彼のその表情から感情は読み取れない。眉をひそめているのは変わらないけど、語りかけるように彼は話し始めた。
「そんな難しい事じゃないんだけどな。てか、単純なことだ」
「え……?」
「今までの話を整理すると、周りの奴らがカレンチャンと比較することはどうすることもできない物事で、それは受け入れるしかない。でも、お前は受け入れられない。だから苛ついてる。そうだろ?」
ただ坂川をじっと見た。
彼はそこで一息入れて、問いに対する答えを言い放った。
「それはそれでいいんじゃねえか? 受け入れられなくて、苛ついてもよ」
「……は?」
思考が止まる。
なにそれ? 解決どころか答えになってないよ。
「今、何の答えにもなってないって思ったろ?」
「……」
図星だったのでどこか居心地が悪くなったが、開き直って彼の言葉を待った。
「ちゃんと説明する……これは俺の推察にしか過ぎんが、お前が苛ついてることは2つある。カレンチャンと比較されること自体と、比較する奴ら。これがまず1つ。これは分かるな?」
それは分かる……というか、2つ? それだけじゃないの?
他に私が苛ついていることって──
「そして2つ目……お前は多分、それをどうにもできない自分に対して苛ついてんだよ。どうだ?」
「────」
それを聞いた瞬間、何も言葉が見つからなかった。
その通りかもしれないと、気づかされた自分がいた。
「……まあ、そんな感じだろうとは思ってた。何も変えられない無力な自分に苛つくから、この夏休みのハードなトレーニングに繋がってたんじゃねえか、ってな」
それを否定することは、今の自分にはできなかった。
「カレンチャンと比較されるのを受け入れられなくて、苛つくのは仕方ねえ。でもな、他人に加えて自分に対しても苛ついてたら疲れちまうんだよ。だからよ、そこを我慢するというか……いや、その時が来るまで自分のことは放っときゃいいんだ」
「……どういうこと?」
「比較されることやそれを言ってくる他人に苛ついたっていい、煩わしく思ったっていい、腹を立ててもいい。でも、自分にその原因を求めて追い詰めるのはやめろって言ってんだ。そうしたって現状は何も解決しねえからな」
カレンチャンと比べられることについて怒ってもいい。でも、自分に怒るのはやめろ……と、彼は言っている。
「俺は30年近く生きてきたが、大半の悩みはな、あるきっかけや時間の積み重ねが解決してくれるもんなんだよ。お前のそれがいつになるとか、どんな形になるかは俺にも分からん。もしかしたら遠くない未来で案外あっさりと解決できるかもしれねえ。比較されても何も思わねえようになるとか、受け入れて納得できるようになるとかな。腹を立てて怒って、憎んだその先に見えてくるモンだってある。だから苛つくことが駄目だと俺は思わん。……ま、どんな形でもよ、折り合いをつけられる日がいつか絶対にやってくる。それまで色々放っとけ。そう考えればよ、受け入れられなくて苛ついたとしても心に余裕ができると思うんだよ」
これまでに自分の中に存在しなかったなにかが、静かに心に入り込んできていた。
「まあ俺なりに言うとだ。誰に何を言われても、『まーたカレンチャンって言ってるよコイツ』ってぐらいに軽く思っときゃいい。そこで苛つくのはストップ、今の自分に苛つくのは無し。だって、いつか解決できる日が必ずやって来るんだから。要はな、心の持ちようなんだよ」
入り込んできていたそれが、ゆっくりと心に広がっている。
「だから、受け入れられなくたって、別にいいんだよ。お前はお前……カレンチャンとは違う、カレンモエなんだからな」
「……! あ……」
──『カレンモエなんだからな』──
心を満たした暖かいそれは今は全身に広がっていた。それをとても心地よく感じる。
受け入れられない……そう思うことを彼は肯定してくれた。そして、それに対する……彼に言わせれば、『心の持ちよう』も教えてくれた。
でも、彼の言葉を思い返すと──
「なんか、すごく投げやりのような……」
「ちゃんと分かってんじゃねえか。どうせ自分には何もできねえんだから、あとは未来に全てお任せってな」
「なんだか、夏休みの宿題を後回しにする子みたい」
「あ~、確かにそんな感じなのかもな」
「ふふっ、なにそれ……あ」
彼が納得する姿がどこか可笑しくて、不意に笑ってしまった。人前ではほとんど笑わないのに、あまりにも自然に笑ってしまったことに自分で驚いてしまっている。
「お、やっと笑ってくれたか。ちょっとは心、
「……」
恥ずかしくて仏頂面をしてそっぽを向いた。
「少し話は変わるが、今みたいにもっと肩肘張らずによ、気負わずに走ってくれ。正直見てらんねえんだよ、走ってるときのお前。全身から出てるんだよ……『苦しいよ』『楽しくないよ』ってな。気づいたのは後からだが、初日からそれが気になったんだ」
「……あ、れ?」
「ん? どうした」
ちょっと前、会話の中で感じたズレと違和感……それを思い出すとともに、泡となって解けていった。
そうだ、自分はもともと走るのが好きだったんだ。だから速く走りたいと思ってトレセン学園に入学したのだ。何の変哲もない、ウマ娘としてはありふれた理由。
カレンチャンなんて関係ない、『カレンモエ』という1人のウマ娘としての意思。
そんな当たり前だったことを、自分は忘れていたんだ。
思い出させてくれたのは、目の前の
「……ううん。何でもないよ」
「そうか? まあ正直言うとだな、お前のその不満たらたらで走ってる姿を見て気になったから声をかけたんだよ」
「え? モエがカレンモエだから声をかけたんじゃないの?」
「カレンモエかもしれねえと思ったのは2日目の明るいときに顔を見てからだ。そういやカレンチャンの娘が入学したとか聞いたのを思い出してな。ジュニア級のウマ娘は知り合いに詳しい奴がいるから、情報をそいつに頼ってんのが仇になった。確証は無かったし、外れたら格好つかんかったが、名前が分かって良かったよ。お前名前とか教えてくれなさそうだったしなあ。そこだけは見た目が似てたことに感謝しなきゃな」
「…………」
てっきり、最初からカレンモエだと知っていて声をかけたんだと思っていた。
つまり、自分がカレンチャンの娘でなくてもよかったってこと。それはただ、『カレンモエ』という1人のウマ娘である自分を見てくれてたってこと……?
「…………」
この
「よし、話は以上だ。授業は終わり。ちょっとは心、楽になったら良かったんだがな」
坂川は席を立ってデスクへ向かい、デスクの椅子に座った。
「明日からは俺はもうトレセンには──って、もうトレーニングも見なくていいって話だったな」
「え? ……あ!」
そういえば、カレンチャンのことを執拗に言われて一度帰ろうとしたときにそんなことを言った気がする。
「俺、明日からはずっとチームにつかなかきゃいけねえから、もう夏休みはトレセンに来れないんだよ。選抜までの練習メニューでも組んでやろうかと思ったんだが──」
「……いる!」
「は?」
「それ、欲しい。選抜レースまでの練習メニュー、作って欲しい」
「……分かったよ。ちょっと待ってろよ。と、その間に」
坂川はパソコンを操作して、隅にあるプリンターで何かを印刷した。何枚もあるそれを纏めてファイリングして渡してきた。
「ちょっと時間かかるから、ほれ。これやるから読んどけ」
「これは?」
「栄養学……食事について俺がまとめたもんだ。俺のチームのウマ娘にはみんな渡してるんだが……特別だぞ? これやるから、読んで時間つぶしてろ」
ファイリングされたそれに目を通す。そこには基本的な栄養素の解説や、その栄養素を含む代表的な食材や料理がまとめてあったり、身体づくりの目的に応じた栄養の採り方が記してある。食堂のメニューもまとめてあり、どのメニューを食べればどんな栄養素が採れるかも分かる。
栄養学の知識がない自分にとっても、とても分かりやすく書いてあった。
それに関心しながら目を通していると、ほどなくしてまたプリンターが動き出した。
手もとにあるものと同じようにファイリングしたものをテーブルに乗せ、彼はさっきまで長く話していた席に再び座った。
「ほら、できたぞ」
「ありがとう……」
「と、その前にだ」
自分が手に取ろうとしたファイルを取り上げるように、坂川は自身の元へそれを引き寄せた。
「……渡してくれないの?」
「またちょっと話をするぞ。選抜レースへ向けてだ」
彼はファイルをテーブルの脇へ除けた。
「選抜レース、1200mを走って欲しい。理由は説明するから聞いてくれ」
「……うん」
「ありがとな」
彼は真剣な顔でこっちを見つめてきた。
「さっきまで言ってたように、お前の母親がカレンチャンだからスプリントを選ぶってのもある。でもそれより、俺がお前にスプリントを選んで欲しい本当の理由は他にある」
「……それは?」
「お前自身の走り方についてだ。お前、走り方が硬いんだよ。お前のストレッチをしたついでに確認したんだが、関節可動域が狭いわけじゃない。筋肉も硬さがあるわけじゃない。トレセン学園に入ってから、身長や体重が伸びたり増えたとかは?」
「ううん、あんまり変わってない」
「となるとだ、多分身体がまだ成長しきれてないんだよ。それ由来の走りの硬さだ。お前のその走りの硬さはな、レースで全力で走ると他のウマ娘より身体にダメージを多く受けるんだよ。こんな状態で負荷のかかる中距離を走って欲しくねえ。受けるダメージによっては最悪故障することだってある。それだけはどうしても避けて欲しい」
そんなこと、これまでトレセン学園の教官にも言われたことはなかった。彼は1週間ほど見ただけで、ここまで分かることがあるんだと感心した。
「今年の夏休みみたいなハードワークも出来りゃやめて欲しい。お前の身体診たとき、すげえ疲労溜まってたんだぞ。だからトレーニング量減らしたんだ。だから途中から走るの楽になっただろ?」
「うん……タイムも良くなったし」
「それぐらいトレーニングでも受けるダメージがデカいんだよ。身体が成長を始めるまで絶対に焦らないでくれ。ゆっくり、ゆっくりでいいんだ。……本音を言えばな、ダメージの大きい選抜レースに出るのもやめて欲しいぐらいなんだよ。でもお前が選抜レースに出たいなら仕方ねえ。トレーナーだって見つけねえといけねえし、それは分かる。だからだ」
そこで彼は脇に退けていたファイルを開いてこちらに向けて差し出した。そこには日による練習メニューが記されている。
「この1週間、どれだけ負荷をかければどれだけ疲労溜まるかを分析したうえで、それを踏まえて疲労を最小限に抑えたメニューにした。もちろんスプリントを走ることを想定したもんだ。酷い負荷がかかるトレーニングはほとんど入れてねえ。調整重視で選抜レースの日に最大限のパフォーマンスを発揮できるように考えた。追加のトレーニングは絶対にやるなよ。逆に動きにくいと思ったんなら、減らすのは全然かまわん」
彼はファイルを閉じて、テーブルの中央にそれを置いた。
「もしお前が選抜レースで1200mを走るってんならこれを渡す。もしそれでも中距離目指すってんなら……これは渡せん。どうする?」
「…………」
自分の胸に両手を重ねて目を伏せた。胸の中で彼の言葉を繰り返す。
彼はちゃんと『カレンモエ』を見てくれていた。それは自分がずっとずっと欲しかったもの。
──ああ、こんなにも胸が暖かい。
答えは決まっていた。
「分かったよ。選抜レースは1200mにする」
「おお、そうか! ならこれ渡しとくぞ。頑張れよ」
「うん……ありがとう」
「良いトレーナーが見つかるといいな」
その言葉に胸がちくりとした。
「トレーナーか……そうだ、トレーナー探しか。1つ言っておくことがある」
「……え?」
一瞬こっちの考えてることが知られたかと思ったけど、そうじゃないみたい。
「選抜レース、結果が良ければトレーナーが何人も群がってくるだろうが、誰か決められないときはお前のデビュー時期について訊いとけ」
「う、うん」
「選抜レースでお前の走りの硬さを見抜けない奴は論外だ。それに気づけた奴は絶対にデビューは遅れるって言ってくる。すぐ来月にでもデビューしようとか言う奴は……悪い事は言わん、やめとけ」
「うん……そうする」
「もし良さそうなトレーナーがいなかったら……そうだな、俺が──」
「……!」
その言葉に期待をしたのだが、その期待はすぐに消え去った。
「──昔世話になってた先生のチームに口きいてやるよ。名前聞いたら驚くぞ、誰でも知ってるトップチームだから……おい、どうした?」
「べつに」
またそっぽを向いていると、彼は不思議そうにそう言った。
素直になればいいのかもしれないけど、なんか今日この場で言うのは、負けた気がするから。
「ま、そういうことだ」
坂川は立ち上がって手を組んで伸びをした。
「ほれ、帰った帰った。俺、すぐに合宿所に行かなきゃなんねえんだ」
「うん」
彼にもらった栄養学と練習メニューのファイルを持って自分も立ち上がった。
「ありがとう、
「おう、じゃあなモエ。達者でな」
トレーナー室の扉に手をかけながら振り向いた。
すぐにまた会うことになるだろうから、トレーナー室を出ていくときも寂しさは感じなかった。
「うん。さよなら」
一度目の「さよなら」とは違う意味のさよならを告げて、トレーナー室から去った。
◇
そして来る9月の選抜レース────
『抜け出したのはカレンモエだ! 一気に先頭に立つっ! 残り200!』
2番手から加速して、最後の直線で逃げていたウマ娘を交わした。
(このまま……!)
あとは後ろを抑えるだけ!
『後続が広がって追い込んでくるが、カレンモエまで届くかどうか!』
(抜かせない……絶対!)
番手を走りながら溜めた脚を解放する。
他のウマ娘たちがすぐ後ろ……いや、もう横に見えるところまで来ている。
(負けたくない……! 勝ちたい……!)
「──────っっ!!!」
(動いて……動いてっ! モエの脚っ!)
他のウマ娘に目もくれず、前だけを見据えながらゴールラインを駆け抜けた。
──前には、誰もいなかった。
『カレンモエ! カレンモエだゴールインっ!!! 半バ身差凌ぎきりました、1着カレンモエです! 2着以下は横一線!』
「はあっ……はあっ……」
息も絶え絶えのまま、真っ青な秋空を見上げる。
(やった……やったっ!)
これまでずっと目標にしていた選抜レースで1着を取ることができた。心の中でガッツポーズをして、満たされる嬉しさを噛みしめていた。
呼吸を落ち着けてコースから引き上げると、そこには多くのトレーナーが既に待ち受けていた。
「カレンモエさん、ちょっといいかしら?」「ぜひ俺のチームに入ってくれ!」「話をしよう」「と、通して~。チームシリウスです! カレンモエちゃん、私のチームはどうかな?」「僕と一緒にGⅠを目指さないか!」「ほら伯父さんスカウト行くっスよ!」「おい、押すなあ! ぐぐぐ、なんだあこの人混みは……マコ、頼む……」「ちょっと、伯父さん大丈夫っスか!?」
「…………」
こんなにたくさん集まってくれたトレーナーたちには申し訳ないのだけれど、もう自分の心は決まっている。
(……いなくなってる)
観客席を見回すと、レース前にはいた彼の姿が消えていた。
「……あの、ごめんなさい……」
群がってくるトレーナーたちに頭を下げて、半ば逃げるようにその場から離れた。
目指す場所はただひとつだった。
◇
制服に着替え、トレーナー棟までやって来た。今、自分は彼のトレーナー室の扉の前に立っていた。
ノックをすると、中から「どうぞ」と彼の返事が返ってきた。引き戸を引いて、トレーナー室の中に入った。
「失礼します」
「……は? モエ? お前……」
デスクの椅子に座っていた彼は驚いたような表情から、何かを悟ったかのような表情に変わった。
「あんだけトレーナーいても、いいトレーナーいなかったのかよ……しゃーねえな、清島先生に口きいてやるよ」
彼はこの期に及んで勘違いしているみたいだった。
ちょっと、鈍いんじゃないかな……?
「トレーナーさんがいい」
「はあ?」
「……あなたが、いい。モエのトレーナーになって欲しい」
「…………」
彼は口を開けたまま数秒固まっていたが、椅子から立ち上がって自分の目の前までやってきた。
「お前、2回も俺のスカウト断ったじゃねえか」
「……ごめんね?」
「なんで謝るんだよ……選抜レースで1着になったんだぞ、トレーナーなんて選り取り見取りだったろうに……俺で、いいんだな」
「うん。あなたがいい」
……2回も言わせないで欲しい。ちょっと……いや、けっこう恥ずかしいよ……
「分かった。モエ、これからよろ──」
「──ちょっと、待って」
「はあ? なんだよ?」
「大事なこと、訊くの忘れてた」
「大事なことだあ?」
「……モエのデビュー、いつになる?」
それはトレーナーを選ぶときに、彼に訊いておくようにアドバイスされたこと。
「お前それ…………デビューは遅くなる。今年は無理かもな。ゆっくり、やっていくぞ」
「……うんっ!」
「坂川健幸だ、これからよろしくな。モエ」
「モエの方こそ、よろしくお願いします……!」
◇
これは彼と出会ってから契約を結ぶまでのお話。
彼は自分の全てを変えてくれて、『カレンモエ』を見てくれた
──ほんとうに、“夢”のような出会いだったって、今でも思う。
そんなことを、彼の顔を見ながら思い出していた。
由来:冠名+夢(ハワイ語)