天崎に指定された場所は大企業のビルや一流のホテルが並び立つ摩天楼のお膝元だった。人の熱量や賑やかさのある繁華街と比べ冷たくて無機質な印象を受け、どこか落ち着かない心地で彼女を待っていた。
腕を組んで目を瞑ってしばらく待っていると、こちらに向かってくる足音と声が聞こえてきた。
「待った?」
「そこそこな」
「えー……まだ11時になってないじゃん。坂川くんが早く来すぎなんだよ~」
まるで仲の良い友人みたいに、天崎は俺をからかうようにそう言った。
「で、どこで飲むんだ?」
「ちょっと行ったとこのホテルに入ってるバー。夜景がきれいでお気に入りなの。じゃあ、行こっか?」
歩き出す天崎に続きその後をついていく。頭の中では彼女が何を考えて俺を誘ったか考えながら。
「もうっ、坂川くん! せっかく2人なんだから並んでお喋りしながら歩こうよ。そんなことしてたらウマ娘にモテないよ?」
「…………」
「無視しないでよ~。ふふっ、でもその反応は……坂川くん、やっぱウマ娘にモテてないんだ? 淋しいんだ~」
「しょうもねえ……」
俺の横に並んできた天崎は俺に身を寄せて、俺の右腕に触れてくる。
「ねえ、ならさ──」
彼女は背伸びをして、俺の耳もとで甘く囁きかけた。
「──飲んだあと、いっしょにホテルに泊まる? 相手してあげよっか?」
「っ!」
右腕に絡みついてきた天崎の腕を振り払った。
こいつはそういうことを平気で言う女なのだ。俺の誤解などではない。
「よくも自分が心底嫌ってる人間にそんなことが言えるな。気持ちわりぃ……」
「えー、別に嫌っている人ともできるよ。ま、実を言うと坂川くんとなんていくら金を貰って頭を下げられたって、こっちからお断りだけどねー。坂川くんが本気にしてないようで良かった。そういうとこ、好きだよ?」
本音がどこにあるか分からない彼女の軽薄な言葉を聞いていると、酒も飲んでないのに頭が痛くなってくる。思わず顔をしかめるほどに。
「お前、昔より大分イカれたな」
「失礼だなー。その言い方じゃ最初からイカれてたみたいじゃん。最初の2年……新人寮にいるときはまともな普通の女の子だったよ……ウマ娘を思いやる優しい女の子だった。そんな私をこんなになるまで壊したのは坂川くんでしょ?」
それは誤解でしかない。俺は天崎に何もしてない。俺達2人は良くも悪くもただの同期だっただけだ。でも彼女は俺にこう言ってくるのだ。
お前が私を壊したんだ、と。
その言葉の真意を俺は知らない。
「……何回も言うが、俺はお前に何もしてねえだろ」
「直接的にはね。でも、きっかけは100%坂川くんだよ。その張本人にイカれたとか言われたんじゃ、ひよりちゃんもやるせないよね」
「……んとに、お前がなんでウマ娘に好かれるのか未だに分からねえ」
「あの娘たちの前では『ちょっとドジだけど一生懸命なトレーナーさん』としてちゃんとしてるからね。あとはそうだね……主人公補正ってやつかも?」
「主人公だあ? はっ、お前が主人公の話なんてろくでもねえだろうな」
「酷い!? ……でもまあ、それは否定しないよ」
俺から背けた天崎の表情がほんの僅かに陰る。やっと、彼女の本音が垣間見えた気がした。
「やっぱり積もる話はたくさんありそうだね……さ、着いたよ」
天崎が足を止めた建物は、五つ星がつけられたことで有名な超一流ホテルだった。
◇
エレベーターでかなりの上階まで上がり、入り口の重厚な扉をくぐってバーへ足を踏み入れる。一面がガラス張りにされ東京を全て見渡せられそうな夜景を背に、厳かな内装が2人を迎えた。絢爛豪華なんてものじゃない、荘厳ささえ思えるようなバーだった。……普通なら、俺みたいな一般人には一生縁のない場所だろう。天崎にドレスコードで来いと言われていた時点で、高級バーだと大方予想はついていた。
天崎が出迎えた正装の店員に一言かけると、その店員が先導してバーの奥の方へ案内してくれた。その様子だけでも天崎が常連だとうかがえた。
湧き上がってくる物珍しさから店や他の客を見回したい欲を押さえつけながら天崎のあとに続いていった。案内された先はガラス張りのすぐ外の夜景がよく見える場所で、黒光りする丸テーブルに沿うよう半円形にソファーが並べられていた。天崎がソファーに腰を下ろした位置が2時だとするなら、俺は10時の位置に腰を下ろした。
天崎が銘柄のよく分からない──おそらく高級なワインかなにかだろう──酒をオーダーした。メニューには聞いたことも見たこともない名前の酒が並んでいたが、かろうじて知っていた銘柄のクラフトビールがあったのでそれをオーダーした。
「こういうバーとか、坂川くんはよく来る?」
「こんな高そうなとこ、来るわけねえだろ」
俺が行くのはドヤ街の飲み屋やよくて繁華街の飲み屋だ。それに飲みにだってそんな頻繁に行くわけではない。
「あはっ、そうだよね。坂川くんの給料じゃここみたいなとこ来られないもんねえ。だって、坂川くんの年収、たぶん私の週給ぐらいでしょ? もしかしたら週給もないんじゃない?」
「さあな」
「……なにその反応つまんない。もっと悔しそうにしてよ。同期の女にこんなに差をつけられてるんだからさー。女に年収負けるって惨めでしょ?」
ぶーぶーと、無邪気にしか見えないがその実邪気しかない天崎の言葉にため息をついた。俺は給料の話をされても劣等感なんて感じないし特に何も思わない……こともない。全く気にしてないと言えば嘘になるが、金のためにトレーナーをやってるわけではない。あとは単に強がりで気にしてないふりをした。
トレーナーは担当ウマ娘の活躍によってインセンティブが与えられる。GⅠはじめ重賞を勝ちまくり、DTLでも活躍するウマ娘がいる天崎の年収は数千万じゃきかない。億も軽く超えて、何億かという話になるだろう。
「俺に年収でマウントをとりたいから今日呼び出したのか?」
「こんなのただの世間話だよ。気を悪くさせたら、ごめんね……?」
ごめんねの「ご」の字も気持ちが入っていない猫なで声の謝罪を潤んだ上目遣いに繰り出す天崎。男が好きな女の仕草を完璧に理解している所作だった。本性を知らない男なら胸のひとつでも高鳴らせていたかもしれない。
「ならなんで呼び出しだんだ……」
「この前坂川くんの顔見たら話したくなったの。弥生賞勝って気分良かったし、お酒も飲みたかったしね。みんなの前じゃお酒飲めないし。いいじゃん、今日は私が奢ってあげるから。こんな遅くに来てくれてありがとね」
だからといって負けたチームのトレーナーを呼びつけるとはどうなのか。
メールの内容が本当ならここに来る前チームシリウスは祝勝会をしていたことになる。天崎もウマ娘の前では流石に飲酒できないらしい。
……カレンモエの前で泥酔した自分とは対照的だった。
「お待たせいたしました」
いつの間にかウェイターが酒を持ってきていた。俺の前にビールの入ったグラスが、天崎の前に白ワインが入ったワイングラスが置かれた。
「じゃ、スぺちゃんの弥生賞勝利に乾杯!」
「…………」
「あっ、もうっ! 乾杯ぐらいしようよー」
「そんな乾杯、するわけねえだろうが」
天崎が差し出したグラスを無視してビールに口をつけた。エールビールらしい華やいだ風味が口いっぱいに広がった。
「ね? 言った通りだったでしょ。スぺちゃんがみんなぶっ潰してあげるって」
「……強かったな。スペシャルウィーク」
そこを否定する気はない。コーナーにてキングヘイローを抑え込んだレース巧者ぶりといい、他のウマ娘を圧倒したあの末脚といい、あれを強いと言わずになんと言うのか。
「キングへイロー、大したことなかったね。不調だったの?」
逆にそう言われて頭に血が上りそうになったが、それを沈めて答えた。
「体調は悪くなかった」
「ふーん、ならあんなもんだったってことだね。もっとキレる脚だと思ったのに。それとも距離? どっちにしても、これじゃあ皐月賞はセイウンスカイとの一騎打ちかな?」
「皐月までそんな簡単にいくと思うなよ」
「へえ、自信あるの? あんなに道中かかって力んでたし、見たところ問題だらけだけどねあの娘」
「……たぶん、今年の皐月の中山2000は実力の話だけじゃねえからな」
「ん? どういうこと? ……ああ、そういうこと。あれはねえ……」
その言葉だけで天崎は俺が何について言っているか理解したらしい。あまり認めたくはないが、コイツはコイツで優秀なトレーナーだ。そうでないとシリウスのチーフなんて務まらないし、ここまで結果を出せないだろう。
天崎は飲み干したグラスをテーブルに置いて、ウェイターを呼びつけ次の注文をした。ウェイターが去るとソファーに身を沈め頬杖をついて煌びやかな夜景に目を移していた。
「弥生賞勝ったのは良かったんだけど、グラスワンダー出てこないから張り合いがないなー。皐月も間に合うか分かんないらしいし」
グラスワンダーは年明けからフォームの崩れがあり、トレーニングに取り組んでいるものの調子が上がらないとのことで出走を回避していた。
──グラスワンダーの骨折が判明するのは、この1週間後のことである。
天崎はウェイターが運んできた赤ワインの入ったグラスを手に取り、夜景に向けてワインを透かすように眺めた。その口元には笑みが浮かんでいた。
「今度こそ、アルファーグを……清島をぶっ潰せると思ってたのに」
天崎はグラスに口をつけ、赤ワインを一気に飲み干した。空になったグラスを見つめ、それをそっとテーブルのコースターへ置いた。
「……そこは変わらねえな。先生のこと、まだ敵視してんのか」
「当たり前でしょ。あのオッサンがいなかったら、私はもっと、もっと……」
何年か前に話したときにも同じようなことを彼女は言っていた。
天崎……チームシリウスは中央でも最上位に位置するチームだ。だが、未だにリーディングになったことはない。いつもその上にチームアルファーグの清島義郎がいたからだ。
「ま、坂川くん倒したからちょっとは気が晴れたけどね。実質アルファーグみたいなもんでしょ、坂川くん」
「意味わからん。今じゃ関係ねえだろ」
「でも弟子みたいなもんじゃん。だから坂川くんも敵だよ。ほんと、目障り」
俺がアルファーグの人間だったこと、天崎が壊れてしまったきっかけであること……それらが合わさって、彼女は俺にも敵愾心を抱いているらしい。だから今日会ったとき、俺を心底嫌っているという言葉に対し、彼女は否定しなかったのだ。
「WDTでキタサンブラックにはやられたからさ、最悪だったよ。清島と坂川くんの2人にやられたようなもんだからね」
元旦のWDTにはシリウスからナリタブライアンとメジロマックイーンが出走していた。ナリタブライアンがビワハヤヒデとハナ差の3着に敗れ、メジロマックイーンは着外に沈んでいた。
「……キタサンブラックは先生のウマ娘だ。俺には何の関係もない」
「何言ってるの? セントライトまでは間違いなく坂川くんのウマ娘でしょ。あれを清島だけのウマ娘って言うのは無理がないかな? ま、あの娘に
……この言動から察せられるように、俺とキタサンブラックに何があったか天崎は全て知っている。
「ブライアンちゃんもマックイーンちゃんも駄目だねあれ。特にマックイーンちゃん、完全にピークアウトしてる。まあまだ決勝には出られるし、賞金咥えて帰ってきてくれるから
賞金を咥える、使ってやってる……か。
「本当に相変わらずだな。ウマ娘をことをなんだと思ってんだ」
「うん? ウマ娘なんて、私にとって金と名声を得るための道具だとしか思ってないって前から言ってたでしょ。忘れちゃった?」
「……」
天崎はあっけらかんとそう言い切った。ウマ娘は利用するモノでしかないと。それが当然であると。なにかおかしいことはあるかと。
ちょうど髪をかき上げたその左手首には数百万は下らないスイス製のレディース用高級腕時計が光り、指には鮮やかな宝石がついた指輪が存在感を放っている。首には白銀のネックレス、耳に宝飾のついたイヤリング……など、どれもこれも相当の値段がするであろうアクセサリーを身につけていた。
「でもそれの何が悪いの? さっきマックイーンちゃんのこと悪く言ったけど、あの娘には海外の大学病院と提携して先端医療のケアだってしてあげてる。シリウスのウマ娘を勝たせるためなら手は一切抜かないし、いくらだって金を注ぎこんでる。それに私はウマ娘たちの前ではうまくやってるし、それで彼女たちは結果残せてんじゃん。こんな私を痛いほど信頼しちゃってさ。私の本性がどうとか、ウマ娘たちには関係ないよね」
天崎がシリウスのウマ娘のために努力し注力していることは事実ではあるのだろう。だから、一概に彼女の言うことを否定できないでいた。
彼女の心の内がどうであれ、その手腕でシリウスが結果を出しているのは疑うべくもないことだ。そもそもこのトレセン学園……いや、社会においては結果を出すことこそが重要なのだ。社会に出て現実を知った者なら誰だってそう言うのではないだろうか。
「私は清島を倒すためならなんだってやるよ。メジロ家とパイプ作ったり、全国の養成所やポニースクールを回ってシリウスに入れてもらう話だってつけてるんだから」
「……そこまでする必要があるのか?」
「ある。そうしないと私はリーディングに……清島を倒せない……倒せないんだよ……」
天崎はそう言い切った。これまでの口調とは打って変わって、静かに語るように口を開いた。
「私のトレーナーとしての実力は私自身が一番よく知ってる。私には才能がない。だから他の誰よりも才能をもったウマ娘が必要なの」
「……そんなことはねえだろ、お前だって──」
「ううん、私は劣ってるよ。そりゃ普通のトレーナーよりは優れてると思うけど。坂川くんや幸ちゃん、清島と比べたらどうしても劣ってる。それぐらいは分かっちゃう。それこそ新人のときから、ずっと……」
天崎は自嘲気味に笑って俺から目を逸らした。
「だから、私は壊れちゃったんだよ」
その先にある夜景を眺める彼女の横顔がとても寂しそうに見えた。
「……んー、やめやめ! お酒回っちゃったかなあ、こんなこと話すなんて」
天崎はまたウェイターを呼びつけてオーダーした。
「あんま飲みすぎんなよ」
「これで最後にするから。坂川くんは?」
「……今のと同じやつを」
「かしこまりました」
ウェイターが去ったタイミングで俺は席を立った。
「トイレ行ってくる」
「奥の方にあるよ」
「分かった」
天崎は夜景から目を離さないまま静かに佇んでいた。
こちらは見ていないようだった。
「ちょっと、すいません」
「いかがされましたか?」
天崎から死角になった場所にて、近くにいたウェイターに声をかけた。
◇
トイレから戻り、今度は他愛もない話をしながら俺は先にビールを飲み干した。
「俺、帰っていいか」
「えー……うん。いいよ。今日は付き合ってくれてありがと」
「人を脅しといてよく言えるなそのセリフ」
「え? ……ああ、あれか。どうせ坂川くん、キタサンブラックのこと誰にも言ってないんでしょ? だって話が広まったらあの娘に迷惑掛かるもんね?」
「……」
「でも今日楽しかったよ。素で話せるの坂川くんと幸ちゃんしかいないからさ」
「お前、横水とは飲みに行ってんのか?」
「飲むどころかほぼ絶縁状態だよ。私みたいなの、幸ちゃんが好いてるわけないじゃん」
「まあ、だろうな」
「ま、そんなだからさ、誰かと気兼ねなく普通に話せるのって本当に久しぶりだったの。……じゃあね、坂川くん。また飲もうよ」
「勘弁してくれ」
そう言い残して俺はバーを去った。
──10年前、寮で笑い合っていた3人組はもう過去のものとなっていた。
◇
天崎はウェイターをまたまた呼びつけた。といっても、今度は会計をするためだった。
「ご必要ありませんよ」
「え?」
「先にお帰りになられた方から頂戴しております」
「え、ええ? 私が奢るって言ったのに……あの低年収……」
ウェイターを帰して、薄暗い天井を見上げながらポツリと独り呟く。
「坂川くんは変わらな……いや、変わっちゃったのは私と幸ちゃん、か……」
◇
ホテルを出て俺はタクシーを捕まえて乗り込んでいた。ドアと窓ガラスの境目の段差に肘を乗せて流れる風景を見ていた。
気合を入れて持ってきていた財布はずいぶんと軽くなってしまった。
「高すぎだろ。酒を数杯飲んだだけだぞ。テーブルチャージってのもあるんだよな確か。……はあ、明日からまたインスタント生活だな」
「お客さん、どうかしましたか?」
「……いえ、なんでもないです」
タクシーは深夜の東京を快調に飛ばしていった。