翌日のトレーニングコース、坂川が手動の簡易式小型ゲートを用意していた。これまでスタートの練習は何度も行ってきていたので、そのゲート自体は見慣れたものだった。
しかし、カレンモエと一緒にスタートの練習をすることは初めてだった。アップやクールダウンを除けば、今日みたいに私のトレーニングに付き合ってもらう以外カレンモエとは基本的に別のメニューをこなしているからだ。
「よーし、早速やるぞー。2人ともゲートに入れ」
坂川に声をかけられて、カレンモエと同時にゲートに入った。
これまで彼女のレースを応援しに見に行っていたので、スタートが速いことは知っている。でも、私だってこれまで十分にトレーニングを積んできたのだ。弥生賞では、少し失敗したのだけれど……教えてもらう立場とはいえ、負けるつもりはない。
「行くぞ。100mまで走り抜けろ。キングはまずモエのスタートを体感してくれ」
片足を引いて構える。私に遅れて、隣のカレンモエが片足を引いた。
彼が中央トップクラスと言ったスタート、見せてもらおうじゃない!
──ガシャン!
「──っ!」
前の脚を力いっぱい踏ん張って、前への推進力を得ながらゲートを出る。
まずは1歩目が踏み出された。手ごたえは良い。思い描いていた理想に限りなく近い。
(よし、いいかん──)
──ヒュン。
2歩目、3歩目を踏み出していく私の横で、なにかが風を切り裂く音がした気がした。
(──じ?)
その音がするや否や、カレンモエが半バ身、1バ身と私の前に抜け出していく。
脚を踏み出すごとに差が広がっていった。
「ええっ!?」
走っているのに思わず声が出てしまう。二の足で追い上げようとしても差は縮まらない。
そしてその差は縮まることなく、むしろ離されて100mを通過した。最終的に2バ身ほどの差がついた。
走り終えた私とカレンモエは、2人でまたゲートまで戻っていった。そこにはもちろん、坂川が待ち構えていた。
「おい、一発目からスタートミスったな?」
坂川にそう言われる。自分ではむしろ成功したと思うぐらいだったのだけれど、カレンモエにあれだけ差をつけられたら彼の目にそう映るのも無理はない。
「ふん、次こそは──」「うん、ちょっと力んじゃった」
私とカレンモエは同時に口を開いた。
坂川はカレンモエの方を向いていた。
「私じゃないの?」
「は? お前のスタートは別に悪くなかっただろ」
お前は何を言ってるんだと、そんな感じで坂川は私にそう言った。
ということは、失敗してあの速さだってこと!?
「モエのスタートがあんなもんだと思ってんのか? スプリントで確実に番手を取れるモエのスタートがあの程度のわけねえだろ。で、モエ、どこをミスったんだ?」
「ゲートが開いた瞬間の反応が悪かったかな……」
「分析できてるならいい。次も頼むぞ」
「うん。次は大丈夫」
坂川とカレンモエがそう言葉を交わしてから2本目が始まる。またゲートに入って、そして──
──ガシャン!
開いた瞬間、一歩目を踏み出したと思ったときには、なんとカレンモエは私より前に躍り出ていた。
(っ! 反応早すぎない!?)
そしてスタートダッシュでぐんぐんと差が開いていく。
(スタートしてからの行き脚も……こんなに速いの!?)
私のスピードが乗ってくる頃には、カレンモエは100mを過ぎていた。その差は4バ身ほど。
遅れて私も100m地点を通過した。
(これが、中央トップクラスのスタート……!)
全く追いつける気がしない。まざまざと差を見せつけられた結果となった。
「どうだ、体感したか? 言ったろ? モエのスタートは速いってよ」
戻ってきた私を坂川が出迎える。彼が得意げな顔をしているのを見てなぜか悔しい気持ちになった。
カレンモエは表情を変えず、それを横で聞いていた。坂川に褒められて嬉しいのか、当然だと思っているのかも分からない。
「確かに、モエさんの走りは速いわね……今のところは追いつける気がしないわ。でも、できることはある。どこを直せばいいのかしら?」
追いつけなくとも、近づくことはできるのでないか。そう考えて坂川に訊くと、
「モエにつきっきりで教えてもらえって言っただろ。てなわけで、俺はトレーナー室に帰るわ」
「ええ!?」
「たまにはペティにも何か教えてやろうかと思ってな。おい、ペティ」
「なんですか?」
少し離れたところでタブレットを弄っていたペティがこちらにやって来た。
「トレーナー室に戻るぞ。なにか座学で教えて欲しいことはあるか?」
「へ? トレーニングはどうするんです?」
「2人でだけやってもらう。キング、ゲート使うときはあっちにいるマコに言ってくれ。話はしてある」
坂川が指さしたところには郷田のチームがトレーニングを行っていた。
「トレーナーさんはトレーニング見なくていいんですか?」
「スタートの感覚的な話をモエにしてもらおうと思ってな。今日はいいだろ」
「まあ、トレーナーさんがそう言うなら……じゃあ、統計学教えて欲しいです! ちょっと難しくて」
「どこまで授業でやったんだ?」
「今は回帰分析やってます」
「回帰か……マルチコとかめんどくせえよなあ」
「まるちこ?」
「……まだ重回帰はやってねえのか。ま、基礎的なとこから教えてやるよ。ソフトで解析するだけじゃ何にもならねえからな。解析の意味を知らねえと」
「はい! お願いします!」
「ちょ、ちょっとトレーナー!?」
そんな会話をしながら、目を輝かせたペティは早くもコース外へと向かって歩き始めていた。
一方、坂川はカレンモエに手招きして呼び寄せていた。
「モエ、ちょっと来い」
「……ん」
カレンモエは小さく頷き返してから坂川の元へ行った。
近くに来たカレンモエに坂川は何か耳打ちをした。そして口元を彼女の耳から離し、バシッと彼女の背中を軽く叩いた。
「頼んだぞ、先輩」
「……もうっ……」
カレンモエはペティの後を追っていく坂川の背中をじっと見ていた。その背中が小さくなると、カレンモエは彼から目線を切り、こちらに振り向いて私の目の前までやってきた。
「…………スタートの練習、する?」
「え、ええ。お願いします」
そう言えば、カレンモエとこうして1対1で向き合うというのは初めてのことだった。
◇
郷田マコを呼んでカレンモエと一緒に何本かスタートの練習をした。結果は……言うまでもないだろう。
絶好のスタートを切ったと思っても、常にその遥か先にカレンモエがいた。坂川がいたときにした彼女の一本目のスタートがどれだけ失敗したスタートだったのか、今なら分かってしまう。
「マコさん、ありがとう」
「もういいッスか? 分かったッス! 私あっちにいるから、また何かあったら言ってね!」
カレンモエに声をかけられたマコは再び郷田のチームの元へ戻っていった。
「じゃあ、キング。モエがゲート開くから、今度は1人でスタートやってみて」
「……分かりました」
指示通りに1人でゲートに入った。ゲート内でカレンモエの視線を感じながら片足を引いて構え、ゲートが開くのを待つ。
──ガシャン!
ゲートが開いた音と同時にスタートを切る。さっきまでと同じように100mまで走ってまたゲートまで戻ってきた。
カレンモエに今のスタートについて尋ねた。
「モエさん、どうでしたか?」
「ん……最初の数歩、膝が伸びてる。膝から下が先にいっちゃってブレーキになってる。もっと膝曲げる感じの方がいいよ。あと、体が起きるのが早いかな。スタートから少しは体前に倒したままだよ。やってみて」
「は、はい!」
言われたことを頭の中で反芻して再びゲートに入る。同じようにスタートして100m走り終え、カレンモエの元へ行った。
「体を倒そうとしすぎかも。腰が引けちゃって体が曲がってる。体と後ろの脚が真っすぐ一直線になるってイメージ、かな」
「分かりました……一直線、体と脚……」
「……あとキング、スタートの時なんだけど、どこに意識を持っていってる?」
「意識ですか? えーっと……」
そういえば坂川が感覚的な話をしてもらうと言っていた。さっきまでは技術的な話だったので、これが感覚的な話だということなのだろうか。
「前に出している足裏ですね。ゲートが開いた瞬間、思いっきり踏ん張るように」
「…………」
私がそう言うと、カレンモエはじっと私の足を見て何かを考え込んだのち、口を開いた。
「あんまり、それ良くないかも……モエの場合はだけど」
「足裏は駄目なんでしょうか?」
「人によって違うのかもしれないけど、モエは体か股関節……身体の中心に意識を持っていってる。あんまり足とか末端の方に意識いっちゃうとうまくスタート切れないし、力が入りすぎてリラックスできないよ」
「……なるほど、ですね」
「うん。一回それでやってみて」
ゲートに入って片足を引いて構える。躯幹と股関節のあたりにぼんやりと意識をもっていき、ゲートを開くのを待つ。
──ガシャン!
「──!」
(良いんじゃない!?)
そう意識してスタートした結果、ゲートが開いた瞬間の反応がこれまでで一番良いことに自分で気がついた。戻ってきてカレンモエにさっきのスタートについて訊くと、その感覚は間違っていないようだった。
「今の、良かったよ。反応早かった」
「ありがとうございます、モエさん!」
「……でも」
「え?」
褒められて浮かれたのも一瞬のことであった。
「さっき言ってた膝の曲がりとか体の前傾はちょっと……失敗だったね」
「わ、分かりました! 次は修正してみせます!」
どうやら感覚的なものに意識を向けすぎて、技術的なことがおざなりになっていたようだ。気を取り直して次のスタートに取り組むことにした。
「でも、あまりスタートの反応だけに気を取られすぎてもだめだよ。二の足がつかなかったら結局スタート遅くなるから。だからスタート後の数歩をバランス良く、ね?」
「はいっ!」
そうしてカレンモエとのスタート練習は続いていった。
◇
日が沈みかけ、他のチームのウマ娘たちが少なくなってきている中、まだトレーニングは続いていた。
「はあ……はあ……また、駄目ね……なんで……っ!」
感覚的・技術的に関わらず、何かを意識するとその他のものがおざなりになってしまうのが現状だった。認めたくないけれど、自分の要領の悪さを痛感していた。歯がゆい気持ちで胸はいっぱいになっていた。
そんな私を見かねたようにカレンモエは声をかけてきた。
「……キング、今日はもうやめよう……かな。疲れてない?」
「いえ、まだまだ私は大丈夫です!」
私はもっともっと練習したい。できないのなら、できるまでやるしかないのだから。
「……キング、なんか焦ってる感じする」
「当然です! だって皐月賞まで1ヶ月と少ししかないんです!」
「……ん……」
皐月賞まであと1ヶ月強……スペシャルウィークとセイウンスカイとの差を埋めるためには1日も無駄にできない。悠長に妥協している時間なんて残されていないのだ。
「……やっぱり……今日はやめるよ」
「私はまだできます!」
「だめ」
「っ……」
「今日はもう終わり……ね?」
カレンモエは持ってきていたドリンクなどの荷物を手にした。彼女の言葉通り、今日のトレーニングはこれで終わりなのだろう。
焦る気持ちばかりが先行してしまう。彼女を説得するか、カレンモエを帰らせたあとに1人でトレーニングしようかと考えていると、
「……ねえ、キング」
「……?」
カレンモエはスマホを取り出して、その待ち受け画面を私に見せてきた。そこには現在の時刻が表示されていた。
……彼女のスマホの待ち受けが坂川と彼女のツーショットなのは気にしないようにした。
「もうこんな時間、だから……」
「ええ……?」
遅いからもうトレーニングは止めろということだろうか。
「これから……学園の食堂、行かない? ごはん、一緒に食べよう?」
「え……」
予想の斜め上の答えが返ってきていた。