日本ダービー当日、俺はパドックでのお披露目を終えたキタサンブラックを地下バ道の入り口で待っていた。
「あれ、トレーナーさん?」
「おう」
俺の姿を見つけたキタサンブラックは目を丸くしていた。それもそうだろう、普段の俺はパドックを見終えるとすぐスタンドに戻っていたのだ。確かに地下バ道まで降りて行って見送るなんてことは初めてだった。
「トレーナーさん、どうされたんですか? 地下バ道まで来られるなんて……何かあったんですか?」
「いや。特に何もないんだが……」
明確な理由があったわけではない。作戦は予定通りで変更はないし、伝えるべきことはもう何もない。
ただ、気づけば足が地下バ道に向かっていたのだ。
「せっかくのダービーだし、見送ろうかと思って」
「そうなんですか。ありがとうございます! 心強いですっ!」
大一番の前ではあるが、こう見る限りキタサンブラックはリラックスできている様子だった。自身に派手さがなくて悩んだりと、普段の印象とは裏腹にナイーブな面もあるのだが、今日の彼女は自信に満ちているように見える。
彼女と肩を並べて東京レース場の長い地下バ道を歩いていく。周りには俺たちと同じようにトレーナーやチームメイトと共に歩んでいくウマ娘たちが何人もいた。
その道すがら、彼女に激励の言葉をかけてやる。
「ここまで出来ることは全部やった。厳しいトレーニングにも耐えたキタサンなら、必ず勝てる。俺は信じてるよ」
「……はいっ!」
皐月賞から今日のダービーまで、彼女にはハードなトレーニングを課してきた。清島や先輩の助言を受け内容を精査しつつ、故障しないギリギリのラインで毎日のメニューを組んでいた。
皐月賞のあとしばらくは敗北によるショックで何も手がつかない様子だった彼女だが、色んな人の励ましによって、敗北をうまくバネにしてトレーニングに取り組めていた。俺のメニューに、彼女は全力で応えてくれた。
何も不安はない。彼女が全力を出せば必ず結果はついてくると俺は確信していた。
「よしっ! キタサン、行ってこい! スタンドを、観客を、アルファーグの皆を……俺を、そしてお前も、笑顔にしてきてくれ!」
「はいっ!!! 行ってきます!!!」
立ち止まった俺を置いて、キタサンブラックは地下バ道の先に見える光へ進んでいく。彼女の姿が見えなくなるまで見送ろうとその背中を見つめる。
そして光の中へ消えていく直前、彼女はこちらを振り向いて、俺に向かって笑顔で手を小さく振った。
「……頑張れ」
前を向いて本バ場に出ていった彼女の姿を見送って、そう小さく呟いた俺は急いでスタンドへ駆け出していった。
──俺と彼女が思い描いた希望にあふれる青写真がただの絵空事と化したのは、ほんのすぐ後のことだった。
◇
『先頭はドゥラメンテだ! 1バ身半リード!』
バ群から突き抜けたのは、赤と黒の勝負服に長髪を靡かせたウマ娘だった。まだ記憶に新しい皐月賞が脳裏に蘇ったのは俺だけではないだろう。
逆にキタサンブラックはバ群の中へ沈んでいた。
見ているこの光景が現実だと受け入れられない。たちの悪い夢としか思えない。
「そん、な……」
呆然とする俺の目の前をドゥラメンテが駆け抜けていった。巻き起こった風が、俺の髪を撫でた気がした。
地鳴りのような歓声が俺の背後から湧き上がった。
『二冠達成ドゥラメンテゴールイン!!! 難なく直線抜け出しました! 阻むものは誰もいません! しかも勝ち時計はダービーレコード!』
皐月賞史上最高のレーティングに続いて、ダービーでのレコードタイムを叩き出したドゥラメンテ。完勝だった。
実況がレコードのことを言った瞬間、歓声が更に大きくなった。
キタサンブラックが走ったこれまでのレースで、間違いなく一番の歓声が上がっている。振り返ってスタンドの観客たちを見ると、みな興奮冷めやらぬ様子でターフに目をやっていた。
確かにスタンドの観客は笑顔になっている。しかし、それは二冠ウマ娘ドゥラメンテに向けられたものであって、14着に敗れたキタサンブラックに向けられるものではなかった。
彼女が一番に望んだものだったのに。
「なんで……だ……」
現実を直視できない俺はそう言うしかできなかった。俺の視線の先には、肩で息をしながら膝に手をついてうなだれているキタサンブラックの姿があった。
実況が賞賛を続ける言葉を背にウイニングランをしているドゥラメンテ。
一方、足取り重く本バ場から引き揚げていくのは敗北したウマ娘たち。
「……坂川」
「先生……っ!」
「あっ、おい!」
声をかけてきた清島を振り切るようにして俺は走り出した。キタサンブラックに会うために。
それに、結果を残せなかった俺が彼に会わせられる顔なんてあるはずない。
◇
「はあっ、はあっ……あ……」
地下バ道から控室の並ぶ関係者専用通路に繋がる場所にて、キタサンブラックを見つけた。
駆け寄っていくと、俺に気づいた彼女は顔を上げて俺の方を見た。
「キタサン……!」
「トレーナー、さん……?」
「……っ」
呆然自失では足りない……目に
「……お疲れ。とりあえず、控室に戻ろう」
「は、い……」
キタサンブラックを先導して一緒に控室に戻った。椅子に座らせた彼女にドリンクを渡したが、彼女はそれに口をつけることなく手に持ったまま俯いていた。
俺は椅子に座って、一言も発さない彼女と向かい合った。
しかし、かける言葉が見つからない。
沈黙だけが2人の間に流れていた。
「…………なあ、キタサン」
「……」
彼女は黙って俯いている。
「……ケガとかはないか?」
結局、当たり障りないことしか言えない自分に心の中で歯噛みをした。
「大丈夫です……」
「……なら良かった」
また沈黙が訪れそうになったが、それを嫌った俺は話を続けた。どうせ、黙って考えていても答えは出ないように思えたから……臆病で、後ろ向きな自分が嫌になる。
「キタサン、あのな──」
そこで、俺の言葉は途切れた。
「──あ」
ぽたっ、と。
下を向いた彼女の顔から流れ落ちた、光るなにかが床に落ちたのを見たからだった。
「キタサン……!」
思わず彼女の両肩に手をやって体を起こさせた。すると、顔を上げた彼女を目が合った。
「……っ」
彼女の表情からは感情が消えているのに、虚空を映している緋色の瞳からは大粒の涙が止めどなく流れていた。
◇
その後すぐに清島や先輩、チームメイトなどのアルファーグの面々が控室にやってきた。加えて、父親やその弟子たち、そして一つ下で昔なじみのサトノダイヤモンドまでもやってきていた。
文字通り、絶望したように無表情で涙を流していたキタサンブラックだったが、次第に顔もくしゃくしゃになってきて
俺は関係者専用エリアの廊下に置かれている長椅子に座っていた。膝に置いた拳を握りしめ、奥歯が砕けそうなほど噛みしめていた。頭の中にあるのはもちろん、キタサンブラックのダービーについてだ。
惨敗の原因は一体なんだったのか。
「……なんでだ」
この負け方は尋常ではない。皐月まで無敗、負けた皐月も3着。ここまで大崩れするのは初めてのこと。
熱に浮かされたように熱くなっている頭を冷ましながら、敗因を洗い出していった。
調子? ……調整はうまくいっていた。客観的に見ても絶好調だった。今年5戦目になるが疲労には最大限の注意を払ってトレーニングメニューも組んでいた。調子や疲労のせいだとは考えにくい。
実力不足? ……正攻法の戦い方で皐月賞3着のウマ娘だぞ? 展開が向いて棚ぼたで取った3着ではないし、それに一度はリアルスティールにも勝っているんだ。何より、彼女に地力があるのは俺がよく知っている。
バ場が合わない? ……相手関係があるので単純な比較はできないが、東京レース場のメイクデビュー1800mと1勝クラス2000mでは勝利している。東京が苦手ということはないだろう。
そうして考えられる要因を1つ1つ潰していった。
「……なら考えられるのは2つ。1つはレース展開」
キタサンブラックは逃げウマ娘の後を2番手で追走した。逃げウマ娘の前半1000m通過は58.8秒で確かに速いペースではあった。しかし、1000m通過後から4Fは12秒中盤のラップでペースが緩んでいた。なのでハイペース一辺倒のレースという訳でもない。前半が淀みなく流れた分、後半でのスタミナが持たなかったのだろうか?
タブレットでURAの速報サイトにて結果を見ると、逃げ~先行したウマ娘たちは下位に沈んでいる傾向ではある。しかし、ハナを切った逃げウマ娘はキタサンに先着。それにキタサンブラックのすぐ後ろを走っていた3番手のウマ娘は5着で掲示板。彼女たちが実力以上のものを発揮したとか、得意な展開だったのかもしれないが、逃げ先行が全滅というレースでもない。
これ以上は個別のラップを見て詳しく分析する必要があるが、厳しいレース展開ではあったが全く向かなかったという訳でもなさそうだ。展開だけでこれだけ惨敗してしまったとは思えない。
となると、考えられるのはもう1つの可能性。
「なら、距離適性……か?」
距離適性……それはトレーナーとウマ娘が必ず直面する課題だ。適性が広いウマ娘もいれば、適性から1ハロン違えば全く実力を発揮できないウマ娘もざらにいる。
すんなりと適性が決まるウマ娘がいる一方で、中々それを見つけ出せないウマ娘もいる。トレーニングや模擬レースでは問題なくとも、本番のレースになると全く通用しなくなるというのは珍しい話ではないからだ。
母親や親族の距離適性や筋の特性など様々な判断材料を集めてそれを模索していくのだ。レース生活が終わるまでに見つかればいいが、最後まで迷走したまま現役を終えるウマ娘だって少なくない。
キタサンブラックのことを改めて整理してみよう。
ダービーまでに走ったレースは1800mと2000mが2戦ずつで、それぞれ東京と中山で1戦ずつ。敗れたのは中山2000mの皐月賞で3着と、東京2400mのダービーで14着。
敗れたとはいえ皐月賞は善戦。一方、2ハロン伸びたダービーでは惨敗。レース結果だけから考えるのなら、キタサンブラックには2400mは長すぎる。それより短い……つまり、距離適性は2000m前後だと推察できる。
しかし、レース結果だけで判断はできない。他にも裏付けできることを考える。
まず考えたのはキタサンブラック自身のこと。
彼女は他のウマ娘よりも体格が良く体重も重い。今日ダービーに出走したウマ娘の中でも、彼女は抜きんでた体格をしていた。一般的に体格の良い筋肉質のウマ娘の方が短距離の適性があると言われている。
「いや……確か……」
あとから読もうと思って以前にダウンロードしていた学術雑誌に載っていた調査データのPDFを開く。それは体重が距離適性に関係しているのではないかという予想を検証した調査結果だった。
結果は、クラシック級まではマイルやスプリントなどの短距離ウマ娘の方が体重が軽い傾向にある一方で、シニア級2年目以降は短距離ウマ娘の方が重くなるというものだった。
筆者の考察をかみ砕いて得た自分なりの見解……体格が良く体重が重いからといって必ずしも短距離には合うとは限らない。しかし、勝ち抜いたウマ娘たちで構成されるシニア級2年以降では体重が重いウマ娘が多いと言うのが事実なら、体重が重いウマ娘は短距離路線の方が成績を残せる可能性があるということ。
これはキタサンブラックの短距離適性があることを示唆するひとつの材料になった。
それならと、次に重要なファクターについて考える。それはキタサンブラックの血統についてだ。
「確か、キタサンのおばあちゃんは……」
彼女の血統について担当したての時に調べたことを思い出し、タブレットに保存しておいたデータを見る。
母親はレースに出ていないが、祖母は中央の芝とダートで走っていた。芝1600mの京都ウマ娘ステークスと芝1200mの札幌スプリントでいずれも5着、掲示板入りを果たしている。加えて、母の姉に当たる叔母も中央の芝1200mで勝っている。
これらは短距離適性への裏付けとしては十分なものだろう。キタサンの現状を見るに、スプリントの適性はなさそうだが、短い方が合っている可能性は十分にある。
「…………」
頭の中で段々と答えが固まりつつあった。
◇
「うえ、もうこんな時間かよ……俺は先に上がるわ」
「はい、お疲れ様です」
「……あんま根詰め過ぎんなよ坂川。ちゃんと寝てんのか?」
「ありがとうございます。大丈夫です」
「答えになってねえ……じゃあな」
先輩は荷物の入ったバッグを背負ってサブトレーナー室を出ていった。夜も更けたこの部屋に残されたのは、パソコンと向かい合っていた俺1人だけだった。
外部からは何の音も入って来ない、時が止まったかのように静かな部屋で、俺がキーボードを叩く音だけが響いている。
「……」
ダービーの敗北から数日が経過していた。負けたあの日から、俺はキタサンブラックの敗因の分析と次走についてのプラン立てに注力していた。
トレーニングに関わるとき以外、空いている時間は全てそれに当てていた。言葉通り、寝る間も惜しんで。
そうして導かれた結論は、やはりキタサンブラックに2400は長すぎたというものだった。彼女の距離適性外だったからこそあのダービーで惨敗に終わったのだ。
GⅠを勝たせてやりたい。皆に勇気や元気をあげられるウマ娘になりたいという彼女の夢を叶えさせたい。
もう二度と彼女にあんな顔はさせたくない。俺が一番見たいのは満開の桜のように笑う彼女なのだ。
「キタサンが勝てる、レースを……」
そのためにはレース選びが重要なのは言うまでもない。
だから、この選択になるのはごく自然なことだった。その考えが口をついて出た。
「菊花賞はパスだ」
俺はキタサンブラックを菊花賞には出さない。
彼女はもっと短い距離……実績のある2000mかそれ以下が距離適性なのだ。秋のレースで2000m前後のGⅠと言えば──
「天皇賞秋か、マイルチャンピオンシップだ。12月は香港にしよう」
この秋は、キタサンブラックには天皇賞秋かマイルチャンピオンシップを目指してもらうことにする。もし好成績なら年末の2000mの香港カップか1600mの香港マイルに登録する。ここらで海外遠征を経験するのも悪くはないだろう。招待が来なければ来年の大阪杯あたりを目指してプランの組み直しだ。
3000mの菊花賞と2500mの有馬記念は論外だ。走ったってまた惨敗するだけ、結果は目に見えている。負ける戦いに出走させるバカなトレーナーが一体どこにいるのか。
負けて泣いているキタサンブラックの姿なんて、もう二度と見たくない。
秋初戦は叩きでセントライト記念。善戦なら秋天、これでも大負けするようなら距離を一気に短縮してマイルチャンピオンシップだ。
しかしまだ確定ではないからキタサンには言えない。最後まで見極めて判断したうえで、秋天かマイルチャンピオンシップかを彼女に伝えよう。
「……コーヒーでも飲むか」
とりあえず思考が纏まり一段落したので、コーヒーを飲んで一服しようと思い立った俺はデスクに置いてあったマグカップを手に取り簡易キッチンへ向かった。
その道すがら、手からマグが滑り落ちる感覚──
「──あっ!」
手が滑ったのか手が緩んだのか分からないが、俺はマグを取り落としてしまった。パリンと乾いた音がして、白色のマグが割れてしまった。
「やっちまったか……いつっ!」
片付けようと割れている破片に手を伸ばすと、指に鋭い痛みが走った。どうやら尖ったところに触ってしまったようで、その痛んだ箇所を見ると指の腹から血が溢れるように流れていた。そこそこ深く切ってしまったらしい。寝不足が祟ってボーっとしていたのだろうか。
「何やってんだ俺は……」
割れたマグの破片は一旦置いておいて、指にティッシュを当てて血が止まるのを待った。
「…………」
しかし、血は流れ続けて中々止まらなかった。
「……痛え」
静謐に満たされたこの世界で、血だけが流れ続けていた。
当てているティッシュが赤く、赤く染まっていった。
割れてしまったマグはもう元に戻らない。
流れ出る血は止まらない。
体重に関して調査したデータはJRAの競走馬総合研究所HPの『サラブレッドのスポーツ科学』を参考にさせていただきました。
(https://company.jra.jp/equinst/magazine/pdf/79.pdf)
2024年2月18日、ドゥラメンテの風貌について微修正。