「はっ……はっ……」
鳥もまだ寝ているような早朝、澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込みながら河川敷を走っていく。川のせせらぎと河川敷沿いに植えられた葉桜が風に揺れる音が心地よい。
初の2400m……距離延長となるダービーへ向けロードワークに出る時間を早くしてしばらくが経過していた。時間を早くしたのはその分ロードワークの距離も延ばしたからだ。
「はっ……ふぅ……」
折り返し地点となる橋に辿りついたので、一旦足を止め首にかけていたタオルで汗を拭って一息ついた。
橋の欄干にもたれて息が整うのを待っていると、私が来た方とは逆の道からランニングパーカーのフードを深くかぶったウマ娘が走ってきていた。
「……っ……っ……」
近づいてきた彼女はフードを深くかぶっているためその顔はうかがえず、かろうじて口元が見えるだけだった。彼女の一定の息遣いが聞こえてきたのも束の間、私の目の前を通り過ぎて走り去っていった。
「……速いわね」
彼女の背中を目で追って思わずそう独り言ちる。私より明らかに速いペースを保って彼女は走っていた。息を乱さず走るその姿から並のウマ娘でないことは一目でわかった。
ロードワークの時間を変えてから度々このウマ娘を目にしていた。いつも目にするのは学園の方に向かって走っていく姿なので、私より早い時間に出て長い距離を走って帰ってきているのだろう。
「一体誰なのかしら……?」
会話を交わしたことなどなく、顔も見えない。分かることと言えば、フードの内に見える肩にかからない程度の黒い髪とランニングパーカーの下から出ている黒い毛色の尻尾だけだった。意図的にフードで顔を隠しているのなら、もしかしたら有名なウマ娘なのかもしれない。
それから数分後、休憩を終えた私はロードワークを再開した。すでに見えなくなっていた彼女の姿を追うように同じ道を走っていく。これまでのことを頭の中で整理しながら。
クラシック第1戦、皐月賞でセイウンスカイに半バ身差の2着に敗れてから2週間あまりが経過していた。負けた後は泣くのを抑えられなくて、みっともなくみんなの前で泣いてしまった。一流にあるまじき失態だった。
こんな顔ではライブに出られるか我ながら心配したのだが、カレンモエとペティがうまくメイクで誤魔化してくれてなんとかライブをこなすことができた。特にカレンモエのメイクの技術には驚かされた。本人は親の影響と言っていたが、そこらのメイクアップアーティストよりは上のように思えた。肝心のライブのダンスは完璧に一流のウマ娘らしくこなすことができた。
あの日のことを思い出すと今でも悔しくて唇を噛んでしまう。負けてからしばらくはその時のことが夢にも出てきて何度か飛び起きていたほどだ。
しかし、その皐月賞自体は収穫があったレースだった。確かに細かいミスはあったのだが、大きくフォームを崩すことなく、自分から動いてレースをすることができた。負けたとはいえ弥生賞の差は埋めることができたし、結果的にはスペシャルウィークも抑えられることができた。セイウンスカイには負けてしまったが、あと少し距離があれば抜くことができたように思えた。だから、距離が延びるダービーでは逆転する可能性は十分にあると手ごたえをつかんでいた。
そう、次に向かうは日本ダービー……同世代の頂点を決めるレースだ。青葉賞からやってくるウマ娘以外は未経験の2400m。その距離に対応するために早朝のロードワークの量を増やしているのだ。今日も坂川の指示通りの距離とペースで走っていた。
「……はっ、はっ、はっ……」
皐月賞が終わったあとから坂川の様子が段々ピリピリしてきていることを感じていた。だからといってメニューが激化するということはなく、課題の修正と継続する基礎トレ、そしてダービーへ向けた調整を織り交ぜたものを立案してきてくれていた。彼が立てるメニューには何の不満もなく納得できるものだった。疑問に思うことを言ってもちゃんと根拠を提示して説明してくれるし、私の要望も聞いて柔軟に対応してくれる。彼の担当になって8か月ほど経つが、ここまで来たら彼の手腕を疑うことはない。言葉遣いや態度や身嗜みは別として、気づけばトレーナーとしての彼に信頼を置いている自分に気がついた。
(最初の出会いから考えたら……分からないものね)
他のトレーナーを知らないので言い切ることはできないが、坂川健幸は中央の中でも優秀なトレーナーだと私は思っている。
でも、そこでひとつ疑問が浮かんでくる。彼はおそらく優秀なトレーナーだ。なのになぜ私まで重賞ウマ娘を送り出せなかったのだろう。
契約を結んだあの日、ペティと坂川との会話にて学園内のレースで最下位のウマ娘ばかりあてがわれたと言っていたが、やはりそれが関係しているのだろうか。そもそも、なぜそんなことになっていたのだろうか。
ただの偶然?
「…………」
それに重賞とは縁のなかったトレーナーなのに、私の重賞では焦っていたり緊張したりしている素振りなんて一切彼はしていなかった。まるで、
彼は以前アルファーグというトレセン学園屈指のチームにサブトレーナーとして所属していたことは知っていたので、その時に経験でもあったのだろうか。それとも、彼の元来の性格が図太いだけなのかもしれないけれど。
「……私、トレーナーのこと、あまり知らなかったのね……」
坂川健幸について、私はあまりにも知らなさすぎる。そんなことに今やっと気がついた。
いつの間にかトレセン学園が見えるところまで来ていた。そして間もなくゴール地点であるトレセン学園の校門前に到着した。
「はあ、はあ、はあ、ふう……よしっ!」
息を整えて手首に巻いたスマートウオッチで時間を確認する。坂川の指定した通りのペースで走り切ることができていた。
クールダウンがてら歩きながら達成感を手にする。最初はなかなかペース通りに走れなかったので、この達成感もひとしおだった。
「この調子で……ダービーは、必ず……!」
三冠にはなれなかったがいつまで悔やんでも仕方がない。ダービーウマ娘になって世代の頂点に立ち、私が一流のウマ娘であると証明──
「……一流」
そこまで考えついたところで思わず足が止まってしまったが、考えを振り払うように頭を左右に振って再び歩き出した。一流とはなにかを考えるのを置いておこうと決めたのだ。カレンモエの言っていた通り、進んでいった先に答えが見つかることを信じよう。
今はダービーに集中するだけだ。
◇
同日、放課後。
「トレーナーさん、ちょっといいですか?」
「なんだー?」
トレーニングコースへ向かう前にトレーナー室にて道具やら機器やらを準備していると、同じように準備しているペティから声をかけられた。キングヘイローとカレンモエはここに顔を出したあと部室へ着替えに行っていた。
機器が見つからないとかトレーニングのこととか他愛もない話だろうと思っていた。
「トレーナーさんって、担当がダービーに出るのは初めてなんですか?」
「俺のこと調べたんじゃなかったのか? ダービーどころか、俺の担当が初めてGⅠに挑戦したのがキングのホープフルだぞ」
予想通りただの世間話だったようだが、その次にペティの口から予想だにしない名前が発せられた。
「キタサンブラックは違うんですか?」
「……お前」
緩い頭を切り替えて考えを巡らす。ペティはどういう意味で訊いているのかを。
昔の情報を漁れば、俺がアルファーグ時代にキタサンブラックのインタビューに答えているものにたどり着くことはできるだろう。しかしどこまで詳細に知っているかは分からない。
当たり障りなく答えることにする。場が流れてくれればいいが。
「確かに当時キタサンブラックのトレーニングをちょっと見ていたことはあるがな。アイツのトレーナーは清島先生だ。サブの立場でちょっとトレーニングを見ていただけでダービーに挑戦したって言うのなら、俺はアルファーグ時代に経験してることになるな」
「ちょっと見ていた、ですか」
「……ああ」
本当はちょっとどころではない。セントライトのあとに
そこに食いつかれてペティに対しての疑念が大きくなってくる。彼女は何を知っているのだろうか?
「キタサンブラックはダービーで負けてましたよね」
「そうだな、14着だった。あそこから菊花賞勝ってその後GⅠを勝ちまくるんだから、さすがは清島先生だ」
平静を装って、できるだけ他人事のように話す。と言っても、今話したことは紛れもない事実だ。
そうしているうちにタイミングよく準備が整ったのでこっちから話を切り上げることにした。
「よし、俺は先にコースに行っとくぞ。お前も早く来いよ。鍵はデスクの上に置いとくから戸締りだけしといてくれ」
「はーい」
ペティの返事を背中に受けて俺は先にトレーナー室を出ていった。
廊下を歩く道すがら、先程のペティについて考える。
「……考えすぎか……?」
ペティの真意は分からない。ただ調べて知って気になったからキタサンブラックについて訊いただけなのかもしれない。今でも活躍する彼女についてただ興味を持ったとかそんなところかもしれない。
何にせよこちらから探りを入れるわけにもいかないので、このまま何もしないのがベターだろう。彼女が何かを知っていて、追及してくるならまた対応を考えないといけない。
俺のことなんてどうでもいいが、あの話が漏れてキタサンブラックに迷惑がかかることだけは避けなくてはいけない。
それよりもキングヘイローのダービーだ……彼女にGⅠを取らせてやると約束したのだ、今度こそ勝たせなければいけない。彼女のあんな顔を見るのはもう御免だ。
それと──
『キタサンブラックはダービーで負けてましたよね』
「……」
キングヘイローとキタサンブラックには何の関係もない。しかし、キングヘイローのここまでを見ているとどうしてもキタサンブラックと重ねて見てしまう自分がいる。
今でも自分は未熟だと思う。でもこの10年で知識も経験も積んできたのだ。10年前、最低最悪なことをしたクソガキの自分よりは成長したはずだ。
「……やるしかねえんだ」
1分1秒も惜しい。足早にトレーニングコースへ向かった。
◇
坂川の背中を見送ったトレーナー室にて、彼の足音が遠ざかるのを確認してから準備する手を止めた。彼が出ていった扉に目をやると、自然と口をついて出る言葉があった。
「──うそつき」
呟いたそれは虚空へ消えていった。
「……」
おもむろに白衣のポケットからスマホを取り出し、画像や写真を管理しているアプリを開く。そして10年ほど前の日付を選んで、一覧に表示された画像から目的のものを開く。
それは自分が10年前に撮影したものだった。スマホを変えるたびにデータを移していて、今のスマホにもその写真が入っている。幼い頃の自分が撮ったそれは傾いていてブレている、お世辞にも上手に撮影できたものではなかった。
「……知ってるんですから。
スマホには、若い短髪の男と黒髪のウマ娘の2人がこちらを向いて仲睦まじく笑っている写真が映っていた。
◇
『おにいさん、おねえさん。しゃしんとりますよ!』
『え? なんで撮るんだ?』
『しゃしんとるのすきなんです!』
『ふふっ、可愛く撮ってね! ほらトレーナーさんっ』
『……分かったよ』
『わらってください! はい、ちーずっ!』
『とうさん。おにいさんとおねえさん、とってもやさしかったよ!』
『坂川とキタサンか。父さん自慢のおにいさんとおねえさんだ。きっと2人は大物になるぞ』
『うん! わたし、とうさんのあるふぁーぐにはいったらおにいさんのうまむすめになって、おねえさんみたいなうまむすめになるっ!』
◇
時は流れ、日本ダービーの出走表が出た木曜日になっていた。キングヘイローは1枠2番に入った。
これまでやるべきことは全てやった。トレーニングはもちろん、調整も完璧だ。キングヘイローは絶好調を維持している。俺が今まで担当したウマ娘の全てのレースの中で5本の指に入るぐらい彼女は仕上がっている。
あとは本番の作戦を確認するだけだった。ひりつく空気がトレーナー室を包んでいる。
「枠は悪くない。ミスさえなければ内でロスなく回せる」
俺の言葉を真剣な顔で聞く3人。すでに大まかな作戦は伝えてある。その作戦のためのトレーニングを今日まで取り組んできたのだ……他の陣営にそれを気づかれないよう、うまく偽装しながら。
「前から言っている通りの作戦で行く。変更はない」
俺が立てた作戦、それは──
「『逃げ』で行くぞ。分かったな、キング」
「ええ、覚悟は決めているわ! 2400、逃げ切ってみせるわよ!」
──果たしてどのような結果をもたらすのだろうか。勝利か、それとも──
日本ダービーまで、あと3日。