底辺キング   作:シェーク両面粒高

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第34話 日本ダービー/前

 ダービー当日の控室、2人しかいない部屋の中は緊張感に包まれていた。パドックに呼ばれる時間が刻一刻と迫っていた。

 

 私は既に勝負服に着替えていた。鏡を見て着こなしやヘアースタイルの乱れがないかチェックし終えると、坂川から声がかけられた。

 

「軽く身体を動かしながらでいいから聞け。作戦の最終確認だ。返事もしなくていい」

 

 アップを済ませた体を冷やさないように軽く四肢を動かしながら坂川の言葉を待った。

 

「作戦は『逃げ』。変更はない。他に逃げようとしてくるウマ娘はいるだろうが、1枠2番の内枠のアドバンテージを生かせば必ずハナに立てる。かっ飛ばす玉砕逃げ以外には絶対に先頭を譲るな。そして重要なのはセイウンスカイより前の位置をとることだ」

 

 これまで散々聞いたレースプランについて、普段より力の入った坂川の言葉を耳に入れながら整理する。

 

「他に行くウマ娘がいないなら、セイウンスカイはハナに立とうとするだろう。だが、皐月賞で番手に控えて勝ったアイツは無理に競ってまでハナには立たないと予想する。未経験の2400mではリスクが高すぎるからな。お前の話から察せるセイウンスカイの人物像と、アイツの担当トレーナーである横水のクレバーさを考えれば控える選択肢を取る可能性が高い。もし仮に無理やりハナに立とうとするなら、それはそれでいい。最初の直線で体力を削ぐように競ってから奴に先頭を譲ってやれ。それが出来るトレーニングは積んできたんだ、自信を持っていけ」

 

 弥生と皐月どちらもセイウンスカイの後塵を拝している私に対して、彼が練った作戦がそれだった。上がり3ハロンは弥生賞で同タイム、皐月賞で私の方がコンマ1秒速いだけと、末脚に差がないと判断した彼は彼女の前にポジションを取ることを提案してきた。

 彼女より前……それは必然的に逃げとなるのだ。

 

 私もそれには納得済みだ。私の方がキレる脚を持っていると信じたかったけど、実際のタイムを示されると何も言えなかった。

 このレースは日本ダービー、プライドなんかにこだわっている場合じゃない。この大舞台にて、望むのは勝利のみ。

 

「そして、肝心な逃げた時のペースについてだが、その前に状況を整理するぞ。今のバ場コンディションは稍重。時計は例年より1秒以上かかっている。だが今日のこれまでのレースを見ていると差しも決まってるし、昨日の重バ場からは回復傾向にある。だから差を離して逃げれば差されずに勝てるって単純な話にはならねえ」

 

 昨日は雨が降っていて、芝コースは重バ場で開催されていた。今日は坂川が言った通り1Rから降雨はない。私も午前中のレースを見ていたが、バ場は段々と良くなってきているものの良バ場には程遠いように見えた。

 

「そして相手関係。目下、一番の強敵になるのはセイウンスカイとスペシャルウィークだ。セイウンスカイはポジション取りで優位に立つとして、あとは対スペシャルウィーク……現段階において、純粋なウマ娘としての能力だけならお前はスペシャルウィークに負けている」

「…………」

 

 スペシャルウィークの末脚を一番近くで体感した身として、それは理解できることではあるが、そう言葉にされると反発したくなる。実際、数日前に同じ話をされたときに反発したが、彼には「悔しいだろうが受け入れろ。勝つためだ」と一蹴されてしまった。

 でも、そこまではっきり言わなくてもいいじゃない……おばか。

 

「何度も言ってるがスローにしてよーいドンの瞬発力勝負にはするな。セイウンスカイに勝ててもスペシャルウィークには負けるぞ。だから──」

「ミドルからハイペース、よね」

 

 私が言葉を継いだことで、坂川が一瞬だけ言葉を噤んだ。

 

「……ああ。状況によっても変わるが、基本路線はハイペース。それでスペシャルウィーク含めた後続の脚を削ってやれ。そして、意識しておくポイントは途中で息をいれることだ。1000mを通過して、向こう正面から3、4コーナーの間に絶対にペースを緩めて息を入れろ。でないとお前が潰れるぞ。あと、バ場を頭に入れたペースで走るように。良バ場想定のペースにはするな」

 

 スタートダッシュでハナを取り、ハイペースで逃げた上で息を入れ、最後の直線に残った全てを注ぎ込んで逃げ切る。それが日本ダービーでのキングヘイローの作戦だ。

 逃げとしては王道の戦略だが、一度も逃げたことがない私が逃げることで、他のウマ娘たちは必ず後手に回りこちらが主導権を握れる……と、坂川は言っていた。

 

「以上だ。頭は整理できたか?」

「ええ」

 

 今は最終確認だけなので大雑把な内容だが、これまでのミーティングで細かいところまで詰めていた。具体的なラップや様々なレース展開を想定し、来る日も来る日も実践を意識したトレーニングを繰り返していた。肉体労働か頭脳労働か分からなくなるほど、身体と頭の両者をフルに使ってヘトヘトになった日々が思い出された。

 だけど、全てはダービーを勝つためだと思えば苦にはならなかった。

 

「今日のお前は仕上がっている。うまくレースを運べれば絶対に勝てる」

「珍しいわね。あなたがそんなことを言うなんて」

「……なんだと」

 

 不機嫌そうな顔をした坂川に対して、思ったことをそのまま言ってやった。

 

「普段のあなたなら、『絶対に勝てる』なんて言わないと思うのだけれど」

「大一番だからな。こう言えばお前の気持ちもアガるんじゃねえかと思ってな。それに勝てるってのは冗談じゃねえぞ、本当にそう思ってる」

「……ふふっ。悪くないわ、それ」

 

 彼はレースや走りに関しては真摯だ。駄目なところは容赦なく指摘し、良いところは評価する人間だと知っている。だからこそ、彼が『勝てる』と言ったことは嘘じゃないって分かるのだ。

 

『9R、東京優駿に出走するウマ娘はパドックへお集まりください。繰り返します──』

 

 そう流れた控え室のアナウンスを聞いた私は、体を動かしてズレた黒の手袋(グローブ)とニーソックスを直してから彼と向き合った。

 

「ダービーは私が勝つわ。キングヘイローが世代の頂点だと証明してみせる。そして、お母さまに今度こそ私を認めさせるわ」

「……ああ、お前ならできる。行ってこい」

「ええ! キングが1着で駆け抜ける瞬間をその眼にしっかり焼きつけなさい! おーっほっほっほ!」

 

 高笑いしたのちにドレッサーに置いたままにしてある自分のスマホを一瞥してから、私は控室を出てパドックに向かった。

 

 

 ◇

 

 

「……あら、あなた……」

 

 パドックを終え地下バ道へ入ったところで、そこに坂川の姿があった。

 

「ここまで見送りに来たの?」

「ああ」

 

 彼が直接地下バ道まで来るのは初めてのことだった。

 控室で啖呵を切って出ていたのが少し恥ずかしいじゃない……と、それは置いておいて、何か用があるのだろうか。

 

「珍しいわね。何かあったの?」

「…………」

「?」

 

 坂川は宙に目を逸らして黙り込み、考え込むようにしてから口を開いた。

 

「いや、別に何もねえぞ」

「なによそれ」

「まあ、強いて言うならだ。お前、自分の手見てみろ」

「手……?」

 

 彼にそう言われて、自分の手のひらを見る。

 

「……え」

 

 すると、その手は小刻みに震えていたのだ。それを収めようと思って力を入れたり、手を握ったり開いたりしても震えは止まらなかった。

 

「緊張してんのか?」

「……そんなつもりはないのだけれど」

 

 心臓の音がうるさく高鳴っていることもない。頭がボーっとすることもない。だから緊張しているとは思っていない。

 では、この収まらない手の震えは一体なんなのだろうか。

 

「なあ、キング。返し馬、第1コーナーの方から周っていけ」

「へ? それ、大丈夫なの?」

 

 ダービーのゲートは地下バ道からコースに出ると左手にある。普通なら、本バ場入場したウマ娘たちはスタンドの前にあるホームストレートを逆方向に進んでゲートに向かっていくのだ。

 坂川はそれとは逆……つまり、今から走る左回りのコースをなぞるように走れと言っているのだ。

 

「問題ない。緊張……してるのかどうかは知らねえが、バ場の確認がてらちょっと走って気を落ち着けろ」

「……考えておくわ」

「…………はあ~、おい。しゃきっとしろ!」

 

 ぱちっ、と乾いた音と衝撃が私の背中から聞こえてきた。彼は私の背中を平手打ちしたのだ。しかも、わざわざ素肌の出ている肩甲骨の間あたりを狙って。

 メイクデビュー勝利後に叩かれたときみたいだった。

 

「いたっ! ちょっと! なにするの!」

「んな湿気たツラしてるからだアホ! 泣いても笑っても、一生に一度の舞台なんだからよ、んなガチガチじゃもったいねえだろ?」

 

 そんな顔を私はしていたのだろうか。鏡のないこの状況では、確認しようもないけれど。

 

「弥生賞の振り返りの時に言ったな。今までお前が頑張ってきたから、今この場所に立ててるんだ……ダービーでもそれは変わらん。これまでの自分を無駄にするなよ。お前の全部を今日、このダービーにぶつけてこい!」

 

 彼はそうしてもう一度私の背中を平手打ちした。

 

「いっ!? もうっ!! 2回も叩かないでくれるかしら!!!」

「そんだけ大声が出せれば上出来だ……ほら、今度こそ行ってこい!」

 

 手荒に送り出した彼はそこで足を止めた。

 並んでいた2人の肩は、今は1つだけ。でも、不安なんてこれっぽっちも感じない。

 

「言われなくても行ってくるわよっ! あなたはさっさとスタンドに戻ってなさい!」

 

 手の震えはもう収まっていた。

 

 

 ◇

 

 

 スタンドにいる超満員の観客の僅かな間を縫うようにして元の場所へ戻った。

 

「あ、トレーナーさん……」

「なんだ、どうした?」

 

 ペティとカレンモエがいる観客席の最前列へ戻るとペティが不安そうに俺を一瞥してからターフに目を戻した。

 それにつられて俺も目をやると、すでにウマ娘たちはゲート前に待機していた。キングヘイローのそばにはセイウンスカイがおり、何か話かけられているようだった。

 

「キング、1人だけ遠回りでゲートに向かってったんですけど……」

「俺が言ったんだ。リラックスさせるためと、渋ったバ場の確認のためにな」

「なんだ、そうだったんですか……キング、舞い上がっちゃって間違えたのかなと思ったので」

 

 キングヘイローは地下バ道で俺がアドバイスした通りに順回りでゲートへ向かったようだった。大観衆のスタンドの前を通らないで済むので、1人で走ることでうまく気を落ち着けられたらいいのだが。

 待ち構えていた地下バ道でキングヘイローの手が震えていた時は内心少し焦ったが、本バ場に向かうときはその震えもなくなっていたので安堵していた。

 

 ひとつ息を大きく吸って吐き、ターフにいる翠をじっと見る。

 視界の端に吹奏楽器に口をつけようとしている演奏隊を捉えた。

 

「……さあ」

 

 ファンファーレが鳴り響き、あちこちで湧き上がった歓声が誘爆するかのように広がっていった。

 

 収まる気配のない歓声の中、ゲートに各ウマ娘が入っていく。キングヘイローもすんなりとゲートに入った。

 全ウマ娘ゲートイン完了。あとはゲートが開くのを待つだけ。

 

『──スタートしました!』

 

 実況の声と開かれるゲート。

 18人のウマ娘たちが一斉にスタートした。

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