『スタートしました!』
目の前のゲートが開き、前方へのターフが一気に目に入ってきた。瞬時に反応して脚を踏み出す。
一歩目はそんなに早くなく、周りのウマ娘たちより早いスタートとは言い難かったが、二の足はついて順調に加速して抜け出していく。
(よしっ! このまま──)
逃げの戦法をとる私にとってスタートのミスは絶対に許されないことだった。一先ず第一関門は突破。今一番前にいるのは
『お!? キングヘイロー果敢に行きましてハナを切るか? ミヤシロブルボン、そしてその外をついてセイウンスカイ! なにが行くんだ!? 誰が行くんだ!?』
ひと際大きくなったスタンドの大歓声を浴びながらホームストレッチを駆けていく。聞こえてくる実況の言う通り、私の外から何人ものウマ娘が迫ってきた。目だけ動かしてその外の方を見ると、ちょうど白い勝負服を着た芦毛のウマ娘が1人抜け出してきたところだった。
セイウンスカイが私よりも少し前に出ただろうか。彼女は抜け出したと同時に内へ切れ込んで私の方にやって来た。そのまま私を交わして先頭に立とうとしたのだろう。
しかし、
『各ウマ娘第1コーナーへと入っていきます。なんと先頭に立ったのはキングヘイローだ!』
前に誰もいないコーナーを回っている。右斜め後ろにいるセイウンスカイの存在感を感じる。
(スカイさんは!? 抜いてくるかしら!? ……いや、これは)
彼女の足音と雰囲気にアンテナを張りながら第2コーナーへ入っていく。どうやらこちらに迫ってくる様子はない。
となると、セイウンスカイは控えたことになる。
(本当に控えたわ……ならこれで、私のやるべきことはただ一つね)
私のやるべきこと──ペース配分をして、このまま先頭で2400mを逃げ切ること!
セイウンスカイを含めた17人を従えて私は走っていく。後ろからターフを踏みしめる蹄鉄の音がこれでもかと聞こえていた。この音全てが私を狙い、私を倒そうと私の背中を見ているのだろう。これまでとは比べ物にならないプレッシャーが背中に圧し掛かってくる。決して逃げだからだけじゃない……これは東京優駿、日本ダービー。全てのウマ娘が焦がれる正真正銘頂点を決めるレースなのだ。
第2コーナーが終わろうとしている。後ろとの間隔は変わらない。捲って来るウマ娘もいない。後ろの細かい隊列は分からないが、私が先頭であるのと後ろにセイウンスカイがいることだけは分かる。さっきの返し馬で1周回ったおかげで、稍重のバ場に戸惑わずに走れている。
『さあ向こう流しに入ってきます。なんと先頭はキングヘイロー! そしてセイウンスカイは抑える作戦にでました!』
緩やかな下り坂を下って向こう正面に入ると視界が開ける。その先には第3コーナーが見える。あそこに向かってペース配分をしながら走っていくのだが──
(──あれ?)
──そこで、何か違和感を感じた。
体の不調ではない。痛みがあるわけでもない。でも、ターフを踏む足がいやに軽い……いや、軽すぎる。
そして気付けば足だけでなく、体の中心からどこかふわふわとした感触が体全体に広がっていった。足も体も頭の中もぼんやりと宙に浮かんでいるように感じる。
これは一体何なのだろう。それに──
(こんなに、遠かったかしら……?)
東スポ杯で走っているから東京レース場の経験はある。しかし、理由は分からないけどその直線がとてもとても遠くに見えた。まるで地平線の向こうまで続いているかのように──
(──あ、れ……?)
今私に何が起こっているの?
分からない。
分からない。
分からない。
分からない。
でも、走るしかない。
体も頭も真っ白に塗りつぶされるような感覚とともに、私はバックストレッチを進んでいった────
◇
最初の1000m地点を過ぎて向こう正面に入ったキングヘイローを見ながら、1ハロンのラップを取っている手もとのストップウオッチに目を落とす。
「60.6……!」
60.6秒。
ダービー前に行われた7Rと8Rの芝2000mでの1000m通過タイムはそれぞれ62.6秒と61.7秒だった。稍重のバ場と2400m、それを考慮に入れると確かに速い。しかしまだ大丈夫だ、ここから息を入れてペース配分すれば逃げ切れる。このペース程度で潰れるようなウマ娘ではないことは今までのトレーニングで俺が一番よく知っている。
ここでペースを落として
「──は?」
ずっと目に捉えていた翠は先頭で向こう正面を走っている。隊列や状況には先程と何の変わりもない。
──ただ、次第に頭が更に高くなり手足の振りがぐちゃぐちゃになってきていた……
最初は故障かと思ったが、どこかかばう様子もないしスピードは落ちていないので違うだろう。それにまだ2000mにも全然達していないのでスタミナ切れなんてこともないだろう。
なら一体……
「トレーナーさん、あれ……」
「…………あぁ……」
ペティとカレンモエが不安そうな目をターフビジョンへ向けている。ずっと一緒にやって来た仲間だ、ここまでフォームを崩していれば彼女らだってそのことぐらいは分かる。
なぜこんなことになっているか理解が及ばない。フォームを安定させるためにそれこそ担当した当初から気を遣っていたのだ。トレーニングは着実に実を結んでいた。事実、フォームが安定したことによって皐月賞の好走に繋がったのだ。
今日のダービーで、フォームを乱す要因があったのだろうか? それは一体何だ?
何か、重大なことを見落としている気がする。
緊張? それもあるだろうがそうじゃない気がする。これまでも緊張は少なからずしていただろう。もっと大きなことだ。もっと単純に、これまでの6戦と決定的に違うことは何だ──
「──!」
そこまで思い至って、何かが頭の中で繋がる音がした。
今までのレースでは、目標となるウマ娘を決めてマークする作戦で走ってきたのだ。
だが──
「まさか……」
──原因はそれなのか!?
懸命に走っているキングヘイローの
「──キング!」
気づけば、欄干に手をやって身を乗り出すように俺は叫んでいた。
向こう正面にいる
届いたって、なんの意味もないのに。
全ては手遅れだった。
◇
ただ、無心に走っていた。ペース配分が上手くいったかどうか、今の私には判断がつかない。
(いつの間に最終コーナー……!?)
気づけば、私は最終コーナーを回っていて先頭で最後の直線を迎えていた。走りに集中しすぎて、周りの風景が目に入っていなかったのだろうか?
でもそんなの関係ない。あとは全力で走り切るだけなのだから。
(それでも証明してみせる……!)
最後の直線に入り、回す脚に力を入れてスパートをかける。ここからは出し惜しみなし、先頭でゴール板を捉えるだけ!
(キングである証明を────え)
そう心で決意した瞬間だった。
私のすぐ外を、芦毛のウマ娘が悠々と交わしていった。
『逃げますキングヘイロー! しかしっ、その外セイウンスカイがこれを捉えたか!?』
私を抜かしてぐんぐんと前に進んでいくセイウンスカイ。そしてそれに続く他のウマ娘たち。ここまで私の前には誰もいなかったのに、続々と後続のウマ娘たちが前へ躍り出てきている。
私は最内で、取り残されるように後退していく。
(────え? なに、これ……?)
そう思わずにはいられない。何が起こっているのか、脳が理解を拒んでいる。
『セイウンスカイがここでっ、満を持して先頭に立った! キングヘイローは下がっていく!』
分かりたくない。
分かりたくない。
分かりたくない。
分かりたくない。
分かりたく、ない……
「──ッ! くはッ……あぐっ、はっ、はあっ、はあっ……!」
そこでやっと、自分が息が苦しいことに気がついた。のどが喘ぐように酸素を求めている。
泥沼を走っているかのように脚が重く、そして鈍い。あれだけふわふわ軽かった脚が、今はまるで鉛になったみたいに感じる。
『400を切って坂を上がってくる! そしてその外から、間を割ってスペシャルウィークがやってきたっ! 間を割ってスペシャルウィーク!』
他のウマ娘の間からやっと見えた先頭の方では、猛烈な勢いのスペシャルウィークが先頭に抜け出していた。
『セイウンスカイとスペシャルウィークが、並ばない! 並ばない! あっという間に交わした! あっという間に交わしたっ!』
翼が生えたかのような末脚で、スペシャルウィークは私たちを置き去りにしていく。まるでここから空へ飛び立つかのように、その背中が小さくなっていく。
(あ、あぁ……そんな──)
──視界が滲む。汗が目に入ったのかしら。
なんて、どこまで白々しいのだろう。これは汗ではないと、私自身が一番よく分かっているのに。
『さあ、抜け出したスペシャルウィーク! これはセーフティリードか!? 断然強い!』
目は閉じない。決して頭は下げない。前だけを見る。前だけを見ると、独走状態に入ったスペシャルウィークと私を追いこしていく何人ものウマ娘たちが嫌でも目に入ってくる。それに、それらを見る視界の端から大粒の何かが目から流れていくのだ。
レースは終わっていない。レース中にこんなになるなんて、本当に不格好。
また、あの模擬レースを思い出したから?
スペシャルウィークに負けて悔しいから?
ダービーでこんな情けない走りをしてしまったから?
坂川やカレンモエ、ペティの期待に応えられなかったから?
自分の力が足りないと分かってしまったから?
母に言われてきたことが頭の中でフラッシュバックしたから?
「ううっ……くっ……私、は……!」
思わず前へと手を伸ばす。
でも、伸ばした手はただ空を切るだけ。
『先頭はっ! スペシャルウィーク、ゴールインッ!!! 夢を掴んだスペシャルウィーク!!!』
「ぁ……」
だって、そこにはなにもないのだから。
『ついにダービーウマ娘の夢を掴み取りました! このガッツポーズ、このガッツポーズです!』
私はまた、なにも掴めないまま。
◇
スタンドの最上部……関係者しか入れない専用の観客席を立つ1人のウマ娘がいた。
「キタちゃん? もういいの?」
それを呼び止めるのは額にひし形の流星があるウマ娘だった。彼女は今立ったウマ娘の隣に座ってレースを観戦していた。
呼び止められたその言葉に対し、キタちゃんと呼ばれたウマ娘は小さく頷いた。
「そう。なら、私も行こうかな」
呼び止めた方のウマ娘も立ち上がり、先に行ったウマ娘のあとを追っていった。