追い上げてきた謎のウマ娘は私に併走したまま話しかけてきた。
「キングヘイローさん、だよね」
「はっ、はっ……ええ、っ、そうよ」
今走っているペースは間違いなく速いのに、息を切らしかけている私と違って、彼女は息が全く切れていない。まるで立ち止まって世間話でもしているかのように、彼女の口調は穏やかだった。
どれだけ強靭な心肺機能をしているのか。薄気味悪ささえ感じてしまうほどだ。
これ以上、このペースで走りながら話すのは限界だった。ペースを大きく緩めると、それに謎のウマ娘もつき従った。
「おーっほっほっほ! 知っていて当然よね、キングは一流のウマ娘だもの! キングのことを知っていた殊勝なあなたには名乗る権利をあげるわ!」
話しかけてきた理由。何か用があるのか、ただ見かけたからなのか。それも気になるが、まずは相手が誰か知ることが先決だった。
「ダービー14着。日本一を決める最高の舞台で、よくあんな拙い走りができたね?」
「っ!?」
足を止める。
すると彼女は立ち止まった私の数歩先でこちらを振り返った。深くかぶられているフードの下から見えるのは、感情の読めない口元だけ。
口調こそ明るいが、内容も含め私に対する友好的な色は感じられない。
直感的に感じるのは、強い敵意のようなもの。
「……気に入らないわね。キングは名乗らない礼儀知らずと話す気なんてないわ。誰なの、あなた」
「あたしの正体が知りたいんだ? ……そっか、なら」
彼女は妙案を思いついたかのように手を叩いた。
「勝負、しない? もしキングヘイローさんが勝ったらあたしの正体と──」
彼女の口元が笑みを浮かべた。
「──あたしと坂川健幸の関係について。あたしとあの人の間に昔あったこと、教えてあげるよ」
「……は?」
あまりにも唐突過ぎて耳を疑った。
出てきたのは
「……あなたはトレーナーの昔の担当ウマ娘なの?」
「どうだろうね? キングヘイローさんが勝ったら、全部教えてあげるよ」
どうやら勝負とやらに勝たないと1ミリも教えてくれる気はないらしい。
「勝負内容は、あたしとキングヘイローさんとで走って、あなたが一度でも1バ身リードできれば勝ち。どう?」
「距離……ゴールは? どこまでに私は抜けばいいの?」
「
「…………」
どうやら彼女は私を完全に下に見ているらしい。
こっちを完全に嘗め腐っている勝負内容だ。何もリミットを設けないということはつまり、私の敗北条件は──
「私が諦めたら、私の負けってことね」
「そうなるね」
「嘗められたものね。それで、あなたが勝ったら?」
「何もいらないよ」
「……どれだけ私を……!」
そう。このキングヘイローに対して、諦めることを敗北条件に設定した。しかも彼女が勝利した場合の報酬はない。
このウマ娘は只者じゃない。でも、あからさまに見下されて黙って引くほど、キングのプライドは安くなかった。それに坂川と彼女の関係性だって気になる。
彼女は何か思うところがあって私に喧嘩を売ってきた。じゃないと向けられるこの敵意と状況に説明がつかない。
「いいわ。やってやろうじゃないっ!」
「うん。じゃあ、やろっか」
そのウマ娘が背を向ける。
「先に走って。キングヘイローさんをあたしが追い抜いてからスタートね」
「ええ。いいわよ……っ!」
思い切りダッシュして、立ち止まった彼女を通り過ぎる。スタートで差を広げて、追い抜かす彼女のスタミナを削るつもりだったが──
「──よしっ、これでスタートだよ!」
「なっ!?」
彼女は一瞬にして私の前方に躍り出た。その背中が1バ身、2バ身と離れていく。
「ついて来れる?」
「……っ!!!」
安っぽい挑発。それに乗せられ、彼女を追っていく。
◇
トレセン学園の校門に着いた私は足を止めて肩で息をしていた。
「はあっ! はっ、はあっ……くっ!」
「……ふぅ、あたしの勝ちだね」
息を乱している私とは対照的に、謎のウマ娘は一息で呼吸を整えた。
結果として、私は彼女に追いつけなかった。終始1バ身から3バ身ほどリードを取られ、そのままトレセン学園まで到着してしまった。
彼女の作り出すハイペースにはなんとか食らいつけた。隙を見てスパートをかけて追い抜きも図った。しかし、その度に彼女もペースを上げてきて、結局抜くことはできなかった。
走っていて感じたのは、彼女は全然本気を出していないということ。現に息だって全く上がっていない。彼女はただ私に合わせて戯れるように走っただけだ。
「あなたは……っ、いったい……」
余りにも圧倒的な差。全く底が見えない彼女の力。スペシャルウィークとの間に感じた差なんて可愛いものだった。
だからこそ気になってくる。これほどまでの実力者と
「どうする? コースでまだやる? あたしはまだまだ大丈夫だよ」
「はっ、はっ……当たり前、でしょう……! キングは諦めないのよ!」
「そうこなくっちゃ!」
坂川のこともあるが、私のプライドにかけて、おいそれと負けを認めるわけにはいかない。私はキングヘイローなのだ。
彼女の後に続いてトレーニングコースへ向かった。
彼女の言った通りコースには誰もいなかった。鉛色の空の下、完全に私と彼女の2人だけの世界が広がっていた。
ターフに足を踏み入れると、足裏に感じる柔い感触と、濡れて重くなった芝が足に纏わりついてきた。これ以上ない不良バ場だった。
実戦で不良バ場の経験はないので不安がないと言ったら嘘になるが、四の五の言ってられない。
雨はやんでいるので合羽を脱いでジャージにハーフパンツ姿になる。彼女も同じように合羽を脱いでランニングパーカー姿になり、ご丁寧にフードを被って顔を隠していた。
「さあ、やるわよ!」
「さっきと同じで、あたしが追い抜いたらスタートで」
「……ふっ!」
重い芝の感触を確かめながら、ぬかるんだ地面を抉るように走り出す。
悪くなったバ場では下からの反力は大きく減衰する。だから良バ場よりも純粋にパワーが必要になってくるのだ。
追い抜いた私を、彼女は瞬時に追いついて前に出る。これぐらいではもう驚かなくなった。
問題は次──
「……え?」
私の前に出た彼女だが、明らかにペースが上がっていない。さっきまでの走りはどこにいったのか、走りにくそうにしている彼女がいた。躯幹も左右にブレて見るからに不安定だ。
別の意味で私は驚くこととなった。
(もしかして……不良バ場が苦手なの?)
なら好都合だ。キックバックを食らうのは好きではない。ここで抜かしてしまって、早々に勝負を終わらせてしまおう!
「──はああああっ!」
声を上げて、体のスロットルを思い切り踏む。
ぐんぐんと加速して彼女の半バ身後ろまで迫った。
「っ!?」
彼女が驚いたように私の方へ振り向く。
気づいてももう遅い! スピードは私が完全に勝っている! このまま、追い抜く!
──彼女の内に潜り込み、並びかけた瞬間だった。
「……なんて、ね」
内から抜かそうとする私へ、彼女はバ体を寄せてきた。
「なっ!? くっ……!」
内ラチと彼女に挟まれ極端に狭いスペースに押し込められる。内ラチとも彼女とも、1センチでも左右にズレれば当たってしまうだろう。
結果、私のスピードは削がれ、彼女を追い抜けず肩を並べたまま走る。ここからエンジンを再び吹かして加速──
「うううっ! ……ああっ、しまっ!」
──できず、上体のバランスを崩したことで脚も乱れ、芝に脚を取られた私は前のめりに転倒してしまった。
「ぐっ!」
ターフの水分がジャージを濡らし、頬には泥がついた。
気にせずすぐに立ち上がる。擦りむいたのか、両膝にヒリヒリとした痛みを感じる。
「はあっ、はあっ……!」
「…………」
謎のウマ娘は数メートル先で私を見ていた。口元は固く引き結ばれていた。
「……続き、行くよ。このまま始めるよ」
「ええ……!」
彼女は走り出す。
今みたいにバ体を寄せてくるのなら、外から強引に抜いてやろうと画策して私も走り出したが──
「え……!?」
──ぐんぐんと彼女と私の差が開いていく。
先程までのペースとはあまりに違う。速すぎる。良バ場での走りかと一瞬思ったほどだ。
それに走り方も……不安定な走り方なんてどこに行ったのか、体に鋼の芯が入っているかのように全くフォームがブレていない。不良バ場なんてものともしていない。
さっきまでの走りは全くのブラフ。これが彼女の本当の走り。
(また、手を抜いたってわけ……!)
どれだけ私を嘗めて見下したらここまで出来るのだろうか。キングのプライドにかけて、やられっぱなしで済むわけにはいかないのだけれど──
「く、くうううう!」
──追いつけない。差は開くだけ。抜かすとか抜かせないとかそんな問題ではない。10バ身は軽く離されていた。
良バ場のように上手く加速していかない。どうしても芝に足を取られてしまう。
「っ……?」
なんとか追いつこうと見ていた前方の背中が7バ身、5バ身、3バ身と近づいてくる。
私の速度は変わっていない。ということは、彼女が速度を下げているのだ。
(今度は一体なにを……!)
彼女がわざとペースを緩めていることぐらい、これまでの彼女のやり方を見ていれば自明の理だ。
仕掛けられた罠にむざむざかかってやることはない。私は速度を維持して様子を見る。
2バ身、1バ身、半バ身と彼女との差が縮まる。
そして肩を並べるまで下げたかと思うと、バ体を私にぶつけてきた。
彼女の肩が私の肩に押しつけるようにぶつけられる。まるで金属の塊にぶつかったかのように感じた。
「!? ぐあっ!」
それを食らった私は姿勢を保てず、前方へ投げ出され、横向きに身体が転がっていく。
止まった時には、全身が芝と泥にまみれていた。
「うっ、ううっ……」
体中が痛い。当たり前だ。不良バ場とはいえ、ほぼ全速力で走っていた勢いそのままに地面へ叩きつけられたのだから。
痛みに負けず体を起こして、私を見下ろしている彼女の方へ向く。
「あなたっ……こんな……危険な……!」
「…………」
彼女は応えない。ただ私を見下ろしているだけ。
──そんな位置関係だったから、フードの下にある彼女の顔が見えてしまった。
「……! あなた、は……」
黒髪のなか、額に曲線を描く流星が一筋。
両耳に花を模したブローチと、右耳にだけ結ばれる赤紐リボン。
見下ろす大きな緋色の瞳。
見覚えがあった。今年の初め、トレーナー室でWDTを見たときにその姿がテレビの向こうにあった。
「キタサンブラック……?」
トゥインクルシリーズでGⅠ7勝。DTLで中長距離にて絶対王者として君臨しているウマ娘。
間違いなく、今のトレセン学園で頂点に位置するウマ娘だ。
「あれぐらいで倒れるとは思わなかった。この程度で終わりだなんて言わないよね。キングヘイローさん」
「……っ!」
その言葉には、これまでの明るい声色が消え失せ、代わりに恐ろしいほどの冷たさを含んでいた。
鋭く細められた緋色の視線が、私に突き刺さっていた。