トレーナー室を飛び出てトレーニングコースへの道を急いだ。しばらくしてペティとカレンモエもついてきて、ヒトである俺のペースに合わせて後ろからつき従っている。
雨が上がり静まり返った学園を駆けて、トレーニングコースが一望できるところまでたどり着いた。
「……! あれか!」
「キングと……誰でしょう? もう1人いますね……」
「レースでもしてんのか……?」
照明が焚かれたトレーニングコースで、向こう正面で走っているウマ娘の姿が
頭が高いフォームから、後ろにいるのがキングヘイローだと分かる。データによると相当な距離を走った後だからか、フォームは崩れてしまっていた。
2人は向こう正面から第3コーナーを回ってこちらにやって来ていた。
──問題は、その前を走るフードを被ったウマ娘。
「──!? あ、ああ……」
「……どうしたの?」
「なんで……なんでだ……なんでだ……」
「ちょっと、トレーナーさん……? 変、だよ……大丈夫?」
理由を求めるうわ言だけが自分の口から零れていく。
前を走るウマ娘のフォーム。それを一目見た瞬間、彼女が何者か分かった。
なぜなら、あのフォームは10年前の俺が彼女と2人で作り上げたフォームだからだ。
俺が見間違うはずがない。見間違えるわけがない。
自分でも分かるほど、コースへ降りていく足取りがおぼつかなくなっていた。
後ろからカレンモエとペティが声をかけてくれるが、それが頭の中で意味を結ばなかった。
第4コーナーからホームストレッチに入った2人は競り合うように──いや、競り合ってはいなかった。フラフラと走るキングヘイローに、謎のウマ娘がバ体を寄せて一方的に削っているだけだ。
コースに降りて芝に足を踏み入れた俺たちに近づいてきたのも束の間、削りに耐えきれなくなったキングヘイローが崩れ落ちるように倒れてしまった。起き上がろうとしているが力が入らないようで、再び体が芝に沈んでいく。
「っ! おい! キング!」
倒れこんだキングヘイローを目にしたことで意識がはっきりした俺は彼女の元へ走っていく。
その時だった。
立ち尽くしたまま微動だにせず、起き上がれないキングヘイローの方を見ていた謎のウマ娘が自らのフードを取り払った。
フードの中から黒髪をしたウマ娘の顔が明らかになった。
フードが取れたウマ娘の顔が走ってきている俺の方へ向けられた。緋色の瞳が10年ぶりに俺を捉えた。あの時……彼女の家の前で別れた時以来だった。
この10年間、片時も彼女を忘れたことはなかった。ずっと心のどこかに彼女の姿があった。
キタサンブラックだった。
「……っ」
感情が読めない彼女の視線を受けて、足が止まった。止める他なかった。
彼女は何も言わなかった。
少女から大人の女性になった彼女を前にして、俺は何も言えなかった。
どうしたらいいのか、分からなかった。
◇
「キング、大丈夫か!?」
「……? トレーナー……?」
過度な疲労で朦朧とするなか、顔を上げると坂川が私の元へやってきた。いつの間にコースへやってきていたのだろう。
力が入らずボロボロになった身体に鞭打って何とか立ち上がろうとしていた私を彼が抱えて起こした。
「怪我はねえか? 痛むところは?」
「ええ……特別、痛むところはないわ……ただ、力が入らなくて」
「濡れた芝の上ですまねえが、体触るぞ!」
そうして彼は私の筋や関節を触ったり動かしたりして手早く確認し始めた。
筋肉痛と思われる痛みはあるが、関節痛や過剰な痛みは感じなかった。改めて私の身体を見下ろすと、手足のあちこちに擦り傷があり血が流れていた。
「……大丈夫そう?」
「ああ、故障はないみたいだ……良かった」
安堵した様子の彼は一転、真剣そうな表情に変わった。彼はチラッとキタサンブラックの方を見やった。
「お前、あいつと知り合いだったのか」
「いいえ……今日、初めて話しかけられて──」
これまでの経緯を簡単に説明した。坂川のことをダシにされたことは言わなかった。
「……そうか」
彼はキタサンブラックの方を向いた。
「なんで、こんなことをした……?」
「…………」
キタサンブラックは何も答えない。ただ、こちらを見ているだけだった。
「俺が憎いなら! そんなに……今もそんなに俺を恨んでるなら!」
坂川が自身を呪うようにそう吐き捨てた。
こんな風に話す彼を、私は知らない。
「……俺に、何かすればいいだろうが………………こいつは、関係無いだろう……」
彼は絞り出すようにそう言ったきり下を向いてしまった。彼の横顔からは噛みしめている下唇しか見てとれない。
その感情が何なのか、私には分からない。
「…………」
キタサンブラックは座り込んでいる私と坂川に踵を返して歩き始めた。
彼女は少し離れた位置で私たちを見守っていたペティとカレンモエの横を通り過ぎる際、足を止めて前を向いたまま口を開いた。
「本当に、そこにいるんだね」
「……わたしがどのチームにいようが、わたしの勝手でしょう」
それに反応したのはペティだった。
「……そうだね」
そう言うと、キタサンブラックは再び歩き始めて去っていった。
「…………おねえさん……」
ペティは視線を落として、ぽつりとそう呟いた。
キタサンブラックが姿を消すまで、4人が皆その場で固まっていた。
その中で、一番最初に動き出したのはカレンモエだった。彼女は私の元へ駆け寄ってきた。
「キング、大丈夫なんだよね? トレーナーさん」
「あ、ああ……怪我はない」
「じゃあモエが寮まで送ってく。こんな格好でいたら風引いちゃう。早くシャワー浴びて着替えよう。それに傷の消毒もしないと。いいよね、トレーナーさん」
「そう、だな……」
「それなら」
「ちょっ……モエさん?」
カレンモエはしゃがんで背を向けたと思ったら、座り込んでいる私の腕を彼女自身の首に回して私をおぶり始めた。太ももに手を回され軽々と持ち上げられた。私の濡れた身体についた泥や血が、彼女のジャージを汚していく。
「そんな……私、独りで歩けます」
「行くよ。掴まってて」
「……はい。お願い、します」
有無を言わさぬ様子のカレンモエに折れる形となった。
彼女の首に回した腕にきゅっと力を入れてしがみつくようにすると、彼女はゆっくりと走り始めた。
揺れないように配慮してくれてるのか、掴まってる私に走っている振動はほとんど来ない。
「……」
カレンモエに身体と頭を預け、少しの間目を閉じた。
◇
キングヘイローをおぶって行ったカレンモエを見送り、残されたのは俺とペティの2人のみ。
ただ立ち尽くしている俺の近くに来た彼女の瞳は不安げに揺れていた。
「トレーナーさん……」
「…………」
ペティは何か言いたげに口を開きかけるが、それが音を成すことはなく唇が引き結ばれた。
「……ペティ、キングとモエに今日はもう休めって連絡しといてくれ」
「え、ええ……分かりました」
「お前も帰っていいぞ。また明日な」
「はい……」
俺はコース外へ向かって歩き出した。
「あ、あのっ! トレーナーさん」
「……なんだよ」
振り向くと、ペティはためらうような仕草を見せた。
「さっきの……キタサンブラックとのこと、ですけど……トレーナーさんと──」
「すまん。今日は独りにしてくれねえか。…………ちょっと整理する時間が欲しいんだ」
俺はペティの言葉を待たずに歩を進めた。
「……はい」
消え入るような返事だけが耳に届いた。
◇
私はカレンモエにおぶられたまま栗東寮の自室に戻ってきた。
彼女は私を自室まで送り届けると、寮長に救急箱を借りに足早に去っていった。
部屋に備え付けのシャワーで泥や血を流し始めると、手足のあちこちにピリッとした痛みが走った。
「いっ!」
痛みがする箇所を見やると、そこには生々しい擦り傷がいくつもあった。
「……これ、おフロに入るのは無理ね……」
とてもじゃないが、この状態で入浴する気にはならなかった。入った瞬間四肢の擦り傷が痛むのが目に見えていた。浴槽に入る他のウマ娘に迷惑にもなるし、今日は大浴場に行くのは無しにしよう。
シャワーだけで汚れを落とす。まだ出血が止まっていない生傷も多数あり、湯が触れるたびに感じる痛みを我慢しながら泥や血を流していく。
「……ったいわね……」
痛みと格闘しながら汚れをおおかた流し終え、シャワー室を出た。部屋にはカレンモエが既に救急箱を携えて佇んでいた。汚れたジャージから着替えたようで、Tシャツ姿だった。
「モエさん……ありがとうございます」
身体だけさっと拭き、下着を着けてから、手っ取り早くキャミとショートパンツを身に着けた。
カレンモエに座るよう促され、ベッドに腰を下ろす。彼女に差し出すように足を投げ出した。
「……じゃあ、消毒してくよ」
「はい。お願いします……っ!」
カレンモエは消毒液を染み込ませた脱脂綿で、あちこちにつけられた擦り傷をテキパキと消毒していく。シャワーに晒したときとはまた違う、染み込むような痛みに耐える。出血が続いている箇所には絆創膏が貼られていった。
「次、腕」
腕も前腕から肘、そして上腕にも少し傷がついていた。
走っている途中から意識が朦朧としていたので、何回転んだか正確には分からないが、この傷の量を見るに両手の指では足りないだろう。
「……はい。終わり、だよ」
「ありがとうございます。モエさん」
「右膝の傷、まだ結構血出てるから、こまめに絆創膏替えてね」
「分かりました」
右膝には正方形をした大きい絆創膏が貼られていた。今回つけられた傷の中でも随一大きく、痛みも酷い箇所だった。
「ペティから連絡来てたけど、今日はもう休んでくれってトレーナーさんが。じゃあね」
「分かりました……あの、モエさん……!」
「……?」
救急箱を手にして立ち上がったカレンモエを呼び止めた。
「その……トレーナーのこと、なんですけど……」
呼び止めた理由は坂川健幸……私たちのトレーナーについて。
カレンモエに運ばれているときからシャワーを浴びている間は考えないようにしていた。考え続けると、答えが出なくて深みに嵌ってしまいそうな気がしたから。
今は身体的にも精神的にも余裕ができてきたので、余計にそのことが気になり始めていた。あんな目に合わされたことに文句がないわけではないけど……それよりも、彼とキタサンブラックが出会った時の反応が鮮明に目に焼き付いている。
感情的になって嘆いているように見えた坂川と、ずっと黙っていたキタサンブラック。
彼女が言っていた、坂川との関係。彼女が私に向けた、強い敵意のようなもの。
あの様子を見るに、2人は単なる昔の知り合いではない。坂川が言ったことを言葉通りに受け取るなら、キタサンブラックは彼を憎んでいる、恨んでいるということになる。
彼女はアルファーグというチームのウマ娘で、彼は昔そこでサブトレーナーをしていた。繋がりがあるとすればそこだろうか……私に分かるのはそれぐらい。具体的なことは何も分からない。
だって、私は彼について知らないことばかりだから。
「…………」
彼女はベッドに座る私の横に腰を下ろした。
「モエさんは、トレーナーとキタサンブラックについて知っていますか?」
「……なにも知らないよ」
「そう、ですか……」
「……キングは……あのウマ娘と何があったの?」
私は彼女に今日の経緯を話した。
ロードワーク途中に突然話しかけられたこと。
坂川との関係性をダシにされて、持ちかけられた勝負に乗ったこと。
勝負では全く彼女に敵わず、コースではバ体をぶつけられ続けて倒れてしまったところに皆がやってきたこと。
「……そう。大変だったね。怪我無くて良かった……今、痛むところはない?」
「はい。擦り傷以外は大丈夫です」
四肢の擦り傷は痛むものの、関節や靭帯を痛めたような嫌な感じは無かった。それだけは不幸中の幸いといったところだろうか。
「……モエはなにも知らないけど……ペティは、キタサンブラックと知り合いみたいだったよ」
「! そう言えば……」
「うん……さっき、モエたちの横を通り過ぎたとき、ペティと話してた。お互い、ただ知ってるって感じじゃなかった。ワケありって感じ。……キタサンブラックのこと、おねえさんって呼んでた」
ペティがキタサンブラックと知り合い?
DTLの現役最強ウマ娘といちスタッフ研修課程のウマ娘、そこにどんな繋がりが……
「ペティさんに訊けば、教えてくれるのかしら……」
「……さあ、モエには分からないよ」
「モエさんは気になりませんか? トレーナーとキタサンブラックのこと」
「…………」
平坦な表情のまま宙に目をやるカレンモエ。相変わらず外見的な感情の発露に乏しいが、今の彼女が言葉を選んでいることぐらいは分かる仲になった。
「……ならないことは、ないよ。でも…………」
「でも……?」
「トレーナーさんのこと……モエはちゃんと知ってるから。それに今、トレーナーさんのそばにいるのはモエ……たちだから」
「……」
訥々と彼女は語ったそれを、全て理解できたとは思わない。
でも、何を言わんとしたかぐらいは分かる気がする。
「だから……トレーナーさんが話したいなら、それでいいと思うし、話したくないなら、それでいいと思う。話したいなら、聞いてあげたいよ。でも、トレーナーさんが話しても話さなくても、何も変わらないと思うな」
カレンモエはこっちを向いて、薄く微笑んだ。
「モエはモエだし、トレーナーさんはトレーナーさんだから」
──彼女は坂川を信頼しているのだ。この笑顔が、それを証明している気がした。
消灯時間になり、潜り込んだベッドの中で色んなことを考えていた。
カレンモエは、坂川が話しても話さなくてもどちらでも良いと言っていた。
何も変わらないからと。彼と接しているのは自分だからと。
でも、私はそうは思わなかった。
私は知るべきだと思う。
キングヘイローと坂川建幸は、担当ウマ娘とトレーナーなのだから。
2人でG1を取ると、誓ったのだから。
◇
その日は眠れなかった。自室に置いてある酒を片っ端から開けて、流れ作業のようにアルコールを身体に入れていった。
そうやって自分を罰していないと、俺自身が耐えきれなかった。アルコールの快楽なんて、全く訪れなかった。
「……ぐ」
代わりに訪れたのは、胸元から逆流してくる感覚。
吐き気に耐えながらトイレに行った。
「う────」
吐く。
吐く。
吐く。
「ぉ、え──」
吐く。
吐く。
酒を全部吐く。
苦しくて、泪で世界が滲む。
吐ききって、胃がカラになっても、胃の痙攣は収まらない。
「ぅぉえ────」
吐けるものが無いのに、嘔吐の反応だけが俺を襲う。
口から零れていくのは唾液と胃液が混ざりあったもの。
「ぐっ、はあ、はあ」
吐き気は収まっても、アルコールに侵された頭は割れるように痛く、そして重い。
「はっ、はあっ……」
これは単なる自傷行為以外の何物でもない。
ダービーの後、自分を責めることはただの逃げだと気づいたのに、性懲りもなく俺は自分を痛めつけて逃げている。
でも今日だけは……今日だけは、許してくれないだろうか。
「……ははっ」
そう考えて、乾いた笑いが漏れた。
「誰に、許して欲しいんだ……」
キタサンブラック?
キングヘイロー?
ペティ?
カレンモエ?
清島先生?
キタサンブラックの家族やその弟子たち?
神様?
それとも、
「何が、許してくれないか、だ……バカが……!」
そこまで思考が至って、やっと意識がはっきりし始めた。
「許されねえんだよ!
正気に戻れてきた感覚があった。
トイレを出て、キッチンでうがいをしてから水を飲んだ俺はベッドに寝転がった。
少しは冷静になれた頭は、これからのことを考えていた。
「……話すときが、来たのか」
キタサンブラックがキングヘイローにあんなことをしたのは考えるまでもなく俺が原因だろう。キングヘイローには何の関係もないのに巻き込んでしまい、下手したら怪我に繋がりかねない事態になるところだった。
驚いたことに、ペティはキタサンブラックとどうやら面識があるようだった。どういう関係性かは不明だが、これでは昔のことをはぐらかしておくことにも限界がある。それに、彼女の正体も探る必要がありそうだ。
カレンモエも、皆が動けないなか率先して動いてキングヘイローの介抱をしてくれた。何が起こっているのか知りたくないはずがないのに。
これで彼女たちに何も話さないのは真摯ではないし、筋が通らない。
「…………」
いつか来るかもしれない、とは思っていた。
「…………あいつら、どう思うんだろうな」
この期に及んで、女々しくそう考える自分に心底嫌気がさした。
ベッドから起きて、ソファに座り込んだ俺は窓の外の白んできた空をただ見ていた。
朝日を迎えるまで、俺はずっとそうしていた。