夏の合宿を終え、9月に入ったばかりのサブトレーナー室には2人のトレーナーの姿があった。
アルファーグのサブトレーナーである俺とその先輩だった。もっとも、そのうちの1人はもうすぐトレーナーでなくなるのだが。
「本当に辞めるんですね。先輩」
先輩トレーナーはサブトレーナー室にある自身の荷物や書類などをまとめてダンボールに入れていた。普段から俺が世話になっている先輩で、生理学や薬学に精通しており、博士号も持っている優秀な人物だ。
その彼だが、海外を拠点とする世界有数の製薬会社にヘッドハンティングされる形でトレーナー辞めることになっていた。トレーナーになっても大学で研究を続けており、先日出した論文の成果が評価されたらしい。
「なんだ、寂しいのかよ?」
「いえ、そうでもないです」
「おい!? そういう時は嘘でも寂しいって言うもんだろうが!」
「……先輩はトレーナー辞めて、心残りとかありませんか?」
「どうした急に。そうだな……やりがいもあったし、金も貰えたし、ウマ娘みたいな可愛い女の子たちとずっと接せられたし、楽しかったぜ。ただまあ……GⅠは取りたかったな」
彼の担当したウマ娘から重賞ウマ娘は何人も輩出していたが、結局GⅠウマ娘は出せなかったのだ。
こんな優秀な人でもGⅠを取れないなんて……やはり、G1を勝つことは容易ではない。
「それぐらいだな。ヒトやウマ娘と接するのも楽しかったが、やっぱ俺には研究職が肌に合ってた。研究ってうまく行っても行かなくても、自分だけ悩んでればいいから気楽なもんだよ。大学じゃなくて企業に入るんだから、これからはそうもいかないんだろうけどな。ま、今回の話は渡りに船ってところだ。あんなデカい会社、中々入れるもんでもないからな。……よし、今日はこんなもんでいいか。残りはまた後日だな。じゃあな坂川。最近ずっと言ってっけど、根詰め過ぎんな。ほどほどに頑張れよー」
彼は段ボールを抱えて出ていった。彼の担当だったウマ娘は俺以外のトレーナーに振り分けられており、もうトレーニングを見る必要はなくなっていた。
「……ほどほどに頑張れ、か」
彼に言われたそれに、素直に従うことはできなかった。
「ほどほどに頑張る程度じゃ、GⅠなんて……」
そう独り言ちた俺は気を取り直してトレーニングの準備を始めた。
キタサンブラックにGⅠを勝たせる。そのためにはどんな努力だって惜しまない。
今の俺にはそれしか頭になかった。
まずは前哨戦、今から3週間後のセントライト記念へ向けてやれることをやるだけだ。
◇
キタサンブラックのトレーニング量は春の頃とは比較にならないぐらい増えていた。正確に言えば、俺が増やしていた。故障につながらないギリギリのラインを攻めていた。
「もう一本だキタサン! いけるな!」
「ふっ、ふっ、……はい! まだまだ、大丈夫です!」
坂路から上がってきたキタサンブラックに休憩させることなく、すぐさま次の一本に向かわせた。
彼女はダッシュで坂路の下へ戻り、幾度目かとなる坂路を駆け上がってきた。
「遅い! タイムが落ちてるぞキタサン」
「はあっ、はあっ。す、すいませんっ」
トレーニングは苛烈さを極めていた。彼女はそれに耐えうる体を持っているとはいえ、他のウマ娘にこんな過酷なトレーニングを課してたら十中八九潰れてしまうような負荷をかけていた。
でも、この程度でタイムが落ちていては駄目なのだ。理想のタイムに全然届いていない。
……ここまでスパルタにして、俺自身心を痛めないと言ったら嘘になる。
しかし、勝つためには必要なのだ。セントライト記念を。そして、秋のGⅠを。
「……次は芝コースに戻るぞ。水分補給したらすぐに来てくれ」
「はいっ!」
元より、事前の話し合いでこのトレーニングについてはキタサンブラックにも納得してもらっている。だから彼女を信じて、俺は可能な限りのハードトレーニングを課すだけだ。
日本ダービーでの惨敗から、キタサンは中々立ち直れないでいた。日常的に話していてもどこか浮かない表情をしていたし、トレーニングにも身が入っていなかった。身体は問題なかっただけに、当時の俺は焦っていたことを覚えている。
やっと立ち直れたのは6月も下旬になってからだった。親友であるサトノダイヤモンドに献身的に励ましてもらったり、同期のウマ娘たちと何かあったことがきっかけで、本来の調子を取り戻していった。それ自体は良かったのだが、メンタル面では何もサポートできなかった自分に無力感も感じていた。
……悔やんでいても仕方ない。今はやれることをやるだけだ。
「よし、行くぞ……スタートっ!」
「っ! はあああああっ!」
声を上げて気合をつけながらキタサンブラックはターフを駆けていく。
決して甘やかさない。一切妥協しない。俺は心を鬼にしてトレーニングに臨んでいた。
「次は併せだ! 競られても絶対に掛かるなよ! ペースを維持するんだ!」
「ふっ、ぐうっ、はあっ、はっ……はっ、はい!」
「全然駄目だ! もう一本!!!」
全てはGⅠを取るため。
キタサンブラックの夢を叶えるため。
そのためだったら、なんだってやってやる。キタサンブラックに嫌われたっていい。
たまにキタサンブラックが俺の体調を気遣うようなことを言ってくるが、その度に一蹴していた。いくら寝不足になっても、体調を崩しても、絶対に表に出ないようにしていた。
彼女に余計な心配をかけたくないのだ。彼女には自分のことだけに目を向けてくれればいい。
──そうして過酷なトレーニングを続けていると、すぐにセントライト記念の日はやって来た。
◇
中山レース場2200m、3着までに菊花賞への優先出走権が与えらえるセントライト記念(GⅡ)。
キタサンブラックは6番人気でレースを迎えた。ダービーで惨敗したからか、人気を落としていた。同じ中山での皐月賞で3着になったウマ娘の人気ではなかった。……舐められたものだった。
9月の最初の週こそハードトレーニングを課していたものの、疲れも出てきていたことから、その次の週から今日まではトレーニングを大きく緩めて疲労を溜めないようにしていた。あくまで目標は来月のGⅠ、仕上げはするが仕上げし過ぎずを意識して調整した。
その結果は──
『キタサンブラックが2番手から抜け出した! 後続も迫って来たが抜かせない! キタサンブラックゴールインッ! 2着以下は接戦!』
ゆったりとしたペースを番手につけたキタサンブラックが直線で抜け出し勝利した。4コーナーで逃げウマ娘に並びかけ、沈んでいく逃げウマ娘を尻目に、先頭に立った彼女はそのまま押し切った。
これでスプリングステークスに続いて重賞2勝目。6番人気を覆す見事な勝利だった。この仕上げでどうなるか心配だったが、しっかりと勝ち切ってくれた。
「……“2200には対応可能。ただし、スローペースを番手”」
ウイニングランをしているキタサンブラックを見やったあと、ノートにそう記した。
2200mと距離に不安があったものの、キタサンブラックは克服して勝利した。夏合宿からのハードトレーニングに耐えてきたキタサンブラックが報われる結果となった。
1着になったので、菊花賞の優先出走権を得た。だが──
「セントライト記念で1着。なら……」
──菊花賞には向かわない。3000mは彼女の適性外だからだ。
セントライト記念で善戦し2000mへの適性を改めて確認できたなら天皇賞秋、明らかに失速して惨敗してしまうようなら距離短縮してマイルチャンピオンシップと最初から決めていた。
「天皇賞秋だ」
天皇賞秋──東京2000mのGⅠ、秋の盾を巡る下半期の中距離王者決定戦。
俺が選んだのはシニア級が中心となるこの大一番だった。厳しい戦いになることは百も承知だ。だが、キタサンブラックは既に東京2000mで勝利した経験がある。これ以上ない絶好の舞台だ。
天皇賞秋まであと1ヶ月強。メンバーレベルはこれまでの比ではない。今のキタサンブラックのままじゃ足りないのは明らかだ。
「……浮かれてる暇はねえ」
ウイナーズサークルで記念撮影に応じる笑顔のキタサンブラックから目を離し、スタンドをあとにした。
◇
その翌日、サブトレーナー室にキタサンブラックを呼び出した。もちろん、次の出走レースについて伝えるためだ。
「キタサン、昨日はよくやった。身体の調子はどうだ?」
「ありがとうございますっ! 身体の方は万全です!」
「そうか、良かった。昨日言い忘れたけど、ライブも良かったぞ」
「本当ですか!? えへへ、嬉しいですっ! ……ハァア~~ン! よおし、喉の調子もまだまだ絶好調ですっ!」
昨日のレースの疲労なんてどこに行ったのか、演歌歌手のようにこぶしを効かせた発声練習をする彼女は元気いっぱいのようだった。
「なあキタサン、次走のことなんだが」
「はいっ! 菊花賞ですねっ! クラシック最後の一冠、絶対に──」
「天皇賞秋に行く。菊花賞はパスだ」
「──え」
彼女は一瞬にして真顔になった。真ん丸になった緋色の瞳が真っすぐにこちらを見ていた。
俺が今言ったことが理解できないと、聞き間違いではないかと、彼女の態度が如実にそう物語っていた。
「ど、どういうことですか。だって、セントライト記念で菊花賞の優先出走権を取ったのに……」
「3000mは距離適性外だからだ。キタサンに長い距離は合わない。お前の適性は10ハロン……2000m前後だ。ダービー14着、忘れたわけじゃないだろう」
俺はキタサンにこの結論に至った理由を説明した。戦績やレース内容、血統、体格など、俺が考えた経緯を包み隠さず話した。セントライト記念の結果次第で、天皇賞秋かマイルチャンピオンシップどちらに出走するか決めようと考えていたことも。
「じゃあ最初から菊花賞は……」
「選択肢に入っていなかった。セントライト記念に出したのは優先出走権を取るためじゃなくて、叩きと距離適性の見極めのためだったんだ」
「でも、トレーニングを積んだ今のあたしなら3000mだって……それに皆だって3000mは初めてなんですし、気合入れて、頑張って走れば絶対に大丈夫です! 今度こそ勝ってみせますっ!」
彼女は納得していないようだった。そこまでして菊花賞にこだわる理由が俺には分からなかった。一生に一度のクラシックだからだろうか。
「……ウマ娘の距離適性を甘く見るな。努力で距離を克服できないことは、これまでのウマ娘たちが証明してる。才能、能力、血統……生まれ持ったものが距離適性を決めるんだ。……確かにその通りにならないウマ娘もいる。でも、お前はダービーで惨敗してる。それが何よりの証明だ。セントライト記念はスローペースを番手につけたから粘り勝ちできた。あと1ハロン伸びたり、ペースが速ければ後ろから差されてたかもしれない」
畳みかけるように言葉を継いでいく。
「そんな…………でもっ!」
「主役になりたいんじゃないのか? 同世代だけの長距離GⅠの菊花賞より、クラシック級で天皇賞秋を勝つ方が遥かに価値があるし、絶対に注目される。一気にお前はトゥインクルシリーズの主役になれる。レースを見ているみんなに元気と笑顔を与えられる。お前の夢は菊花賞に出ることか? 違うだろ、G1を取ることだろう?」
「……」
「……キタサン、どうしてそこまで菊花賞にこだわるんだ?」
「それは…………約束、しちゃったから……」
彼女は何か小声でつぶやいたようだが、俺には聞き取れなかった。
「今年の天皇賞はチャンスなんだ。宝塚を勝った現役最強格のラブリーデイは多分出てくるだろうが、去年勝ったスピルバーグは絶不調、ジェンティルドンナやジャスタウェイはトゥインクルシリーズ引退……抜けた絶対的な王者はいないし比較的層が薄い。ダービーで3着のサトノクラウンも出るらしいが、2000mなら十分巻き返せる。俺はキタサンなら勝てると思ってるから、天皇賞に出て欲しいんだ。頼む……!」
俺は彼女に頭を深く下げた。
「なっ! 頭を上げてくださいトレーナーさんっ……」
言われた通りに頭を上げると、下を向いて険しい顔で考え込んでいる彼女が目に入った。胸の内で何かがせめぎ合っているような、そんな様子に見えた。
「…………はい。分かりました。天皇賞秋に出ます」
「! そうか! 良かった!」
なんとか彼女の同意を得られた。絶対に嫌だと言われたらどうしようか悩みどころだったが、彼女も分かってくれたようだ。
「じゃあ、また今日からよろしくな! 絶対に秋の盾を取るぞ! クラシック級で天皇賞を勝って、みんなをあっと驚かせてやろう!」
「……はい……」
まだ心残りがあるのか、歯切れの悪い返事だった。でも時間が経てばちゃんと納得してくれるだろう。
──これが誤った選択だとは、当時の俺は微塵も思っていなかった。
◇
キタサンブラックに天皇賞秋への出走を伝えてから約2週間が経過していた。
10月にも入り、天皇賞秋へ向けてのトレーニングに臨む日々が続いていた。
過去5年の天皇賞秋の勝ちウマ娘の傾向を見ると、そのうち3人が上がり3ハロン最速、残りの2人は上がり3ハロン2位と上がりの速さを要求されるレースとなっていた。勝つことを考えるなら、絶対的な上がりの速さは必要になってくるように思える。
しかし、その5人のウマ娘全員が中団や後方からの差しウマ娘であったので、前目につけるキタサンブラックとは事情が異なってくる。先行から粘って掲示板に入ったウマ娘が何人かいるので、そのウマ娘を基準にしてメニューの参考にした。
その中でも注目したのが昨年と一昨年とも2着に敗れたジェンティルドンナ。どちらも先団につけてレースを運んだウマ娘だ。上がり3ハロンは34.4秒と35.8秒となっていた。キタサンブラックは東京2000mのクラシック級1勝クラスで34.7秒を記録しており、その2つとは遜色ないように思える。時期は違うが、ジェンティルドンナの天皇賞秋は東京開催9日目、キタサンブラックの1勝クラスは8日目と、条件的にはほぼ同じ。これが天皇賞秋を選んだ理由のひとつだ。
しかし、レースペースによって上がりのタイムは上下するのだ。だからこれで足りているとは言い切れない。ジェンティルドンナはジャパンカップで32.8秒を出せるウマ娘だ。それを考えに入れるなら、条件さえ整えば……もっと言うならトレーニングでそれぐらいのタイムを出せないと勝利には至らない。なにしろジェンティルドンナは2着に負けているのだ。相手関係のこともあるとはいえ、そのタイムを数ある目標のひとつとしてトレーニングを行っていた。
ついでに言うなら東京2000mの持ちタイムはキタサンブラックが1勝クラスで2:01.4、去年の天皇賞秋勝ちウマ娘スピルバーグが1:59.4と圧倒的に足りない。しかし、1勝クラスは半年以上前のことだし、単純比較はできないがコーナー4つの中山2000mの皐月賞でキタサンブラックは1:58.8と、2000mで2分を切るタイムで走ることができるのだ。これも天皇賞秋を選んだ理由のひとつだった。
夏合宿を経て上がりの速さはぐんぐんと伸びて来ていたので、少し前まである程度の期待感があったのだが────
ここに来て、その期待感は悪い方向へ裏切られることになっていた。
キタサンブラックが俺の目の前を駆け抜けていき、設定したゴールラインを越えていった。
「はあっ、はあっ、トレーナーさん、タイムどうでしたか」
「……目標に届いてない。休憩したらもう1セットやるぞ」
「はっ、はっ……はいっ……わかりました」
「ほら、これ」
「あ、ありがとうございますっ」
地面にへたり込んだキタサンブラックにタオルとドリンクを渡したのち、今の基準に達していないタイムをノートに書き込んだ。これまで記録していたタイムの一覧表と今のタイムを見比べてみた。
(……タイムが落ちてる)
トレーニングのタイムが全然伸びない。むしろ、タイムが落ちていて上がり目が見られない。
彼女の歩んできた成長曲線を考慮して立てた予測からすると、もっとタイムは良化するはずだと想定していた。でも、現実はそうなっていない。逆に下降線を描いている。
このままじゃ、天皇賞秋を勝てるレベルまで引き上げることができない。
俺の内心は焦燥感に駆られる一方だった。
「はっ、はっ……はあっはっ……」
「……」
未だに息が整わないキタサンブラックに目をやる。
ここ最近のトレーニング量は以前にも増して苛烈になっていた。清島から「無理をさせるな」と注意を受けたぐらいだった。客観的に見て、量と質を高い次元で要求する俺のトレーニングをこなすだけでも凄いものだと思う。……このトレーニングを課して彼女を苦しめている張本人が思うことではない。
このままではうまく行かないことだけは分かった。考える時間も欲しかったし、俺は彼女を休ませることにした。
「……キタサン、今日はもうやめとこう。トレーニングは終わりにしよう」
「はっ、はっ…………えっ? いえ、あたしは大丈夫です! 元気いっぱいなのでっ! このまま続けてください!」
「いや、今日はこれで上がろう。最近ずっとハードだったし、休みも無かったからさ。ストレッチだけ入念にやって、ゆっくり休んでくれ」
「……はい。トレーナーさんがそう言われるなら……」
キタサンブラックを地面に寝転ばせ、筋肉や腱の状態を確認しながらストレッチの手伝いをしてやった。
確かに疲労はある。でも、目立った筋の突っ張りや炎症があるわけでもない。身体の状態に何も問題はないことにひとまずは安堵した。
「俺は片付けてからトレーナー室に戻る。キタサンは寮に帰ってくれていいよ。じゃあな、お疲れさん」
「……お疲れ様でした。ありがとうございました。また明日もよろしくお願いします。トレーナーさん……」
キタサンブラックと別れ、出した用具を片付けた俺はトレーナー室に戻った
「いろいろ見直さねえと……」
タイムが伸び悩んでいる原因があるはずだ。それを解決するためにも、これまでのトレーニングのデータを見ながら分析し始めた。