底辺キング   作:シェーク両面粒高

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追憶8 凡人たち

 時間を忘れて分析に没頭した。トレーナー室に戻ったとき、窓から覗く外はまだまだ明るかったのに、気づけば真っ暗になっていた。

 

「…………」

 

 いくつか、不調の原因として考えられるものを洗い出した。それを書き出したホワイトボードに目をやった。

 

 

 “高負荷のトレーニングによる疲労の蓄積。身体の変化”

 “不適切なトレーニングメニュー”

 “メンタルの問題。モチベーションの低下”

 “成長の停滞。早熟の可能性”

 “才能(ポテンシャル)の限界。能力(パフォーマンス)の限界”

 

 

 最悪な文字列が並んでいた。目にするだけで陰鬱な気持ちになってくるが、ひとつひとつ考察していくしかない。

 

 

 

 まずは“高負荷のトレーニングによる疲労の蓄積。身体の変化”。

 

 疲労はある。それは間違いないが、許容範囲を超えるものではない。毎日トレーニング後に身体の状態確認しているが、大きな問題は見受けられない。自覚症状の訴えもない。フォームが崩れていたり、身長体重が変化しているわけでもない。脚長も変化ないし、左右差があるわけでもない。

 状態が変わらないのなら、タイムが段々落ちてきていることに説明がつかない。

 触診ではわからないだけで、どこか痛めているのか? 彼女には少しでも違和感があれば伝えるように言っているし、ほんの少し前……セントライト記念の後に精密検査をしたときには何も見つからなかった。もう一度精密検査をするべきだろうか。

 でも、何も見つからなかったら? 

 

 ……現時点で明確な答えは出せなかった。

 

 

 

 次は“不適切なトレーニングメニュー”。

 

 基本的なメニューはそのままに、その時々の状態や目指すレースによって柔軟に変えている。メニューは定期的に清島に見てもらって修正しているし、不適切というものにはなっていないはずだ。

 

 ……しかし、今のメニューが完璧だという確証はない。清島は直接キタサンブラックを見ているわけではないからだ。

 

 

 

 3つ目は“メンタルの問題。モチベーションの低下”だ。

 

 天皇賞秋に出走すると決めてから、キタサンブラックの持ち前の明るさや元気さが戻らないままだった。

 接しているときは元気な様子や笑顔を見せてくれるのだが、独りの時の彼女は考え込んで悩んでいるような仕草を度々見せていた。

 その様子から察するに、菊花賞への未練があるのだろう。それも時間が解決し、彼女も次第に納得してくれると考えていたのだが、どうもそうはいかないようだった。

 

 これらが元気の無さやモチベーションの低下につながり、トレーニングに影響しているのなら、対応を考えないといけない。しかし、どんな話をすればいいのか分からない。この時期に話がこじれる事だけは避けたいので、やはり様子見が正解だろうか……?

 

 

 

 

 最後の2つ“成長の停滞。早熟の可能性”と“才能(ポテンシャル)の限界。能力(パフォーマンス)の限界”。

 

 正直、これは考えたくない。もしそうだった場合、打つ手がないからだ。

 しかし、答えとしては一番しっくりくるのだ。

 

 キタサンブラックは順調な成長曲線を描いてきた。ジュニア級を丸々身体作りに費やし、クラシック級になってから目覚ましく成長した。スプリングステークスを勝ち、GⅠの皐月賞は3着。ダービーでは大敗したが、セントライト記念には勝てた。

 重賞2勝、GⅠで掲示板。立派な競走成績だ。

 

 その成長がここで頭打ちだったら? 

 タイムが伸びないのは、彼女が早熟で、今が競走能力のピークだからではないだろうか? 

 

「…………」

 

 過去のトゥインクルシリーズを振り返ると、ジュニア級やクラシック級で全盛期を迎えて終わっていったウマ娘なんていくらでもいる。

 皐月賞やダービーで好走しても、その後全く成績を残せず引退していったウマ娘なんて、それこそ掃いて捨てるほどいる。

 

 ──キタサンブラックがそうでないなんて、誰が言える?

 

 過去10年を遡り、キタサンブラックと似た成績……皐月賞5着以内かつダービーで10着以下のウマ娘のその後の成績を調べてみた。該当するウマ娘は10人いた。その内の1人はダービー後未出走なので、実質9人だった。

 その結果は、GⅡを勝ったのが1人、GⅢを勝ったのが4人、重賞を勝てなかったのが残りの4人だった。

 悪くはない。しかし、GⅠには誰1人として届いていなかった。

 

「……嫌なデータ見つけちまったな……」

 

 ウマ娘のピークは短い。それに、ウマ娘が衰える予兆なんて誰にも分からないのだ。ある日を境に全く走れなくなるなんて珍しくもない。彼女は今が全盛期で、ここが才能(ポテンシャル)能力(パフォーマンス)の限界点の可能性だって十分にある。シニア級になって衰えない保証なんてどこにもない。

 彼女がGⅠを取れるチャンスは今だけ……今年の、この天皇賞秋だけかもしれない。

 

 もしそうなら、絶対に失敗できない。正解を見つけ出すしかない。

 

「GⅠを取らせてやるんだ……絶対に……」

 

 彼女の夢を叶えさせたい。何より、彼女に喜んでほしい。彼女に心の底から笑ってほしい。

 自分がトゥインクルシリーズの主役なんだって、自分は凄いウマ娘なんだって、そう自分を認めさせてやりたい。

 

 ……そのために、俺はどうしたらいいんだろう。

 

 ◇

 

「……くそっ…………どうすりゃ……」

 

 それから、その他にも様々なことを分析した。でも、いくら考えても答えが出なかった。

 ここまでやって、やっと俺は認識する。俺はデータや数字に表れない抽象的なものにめっぽう弱いのだ。

 

 書類が広げられたテーブルの上に俺は頭を抱えて突っ伏していた。どうしたらいいのか、何が正解なのか分からない。

 既にピークを迎えていて、今は衰えに入ってしまっている可能性を考えると、焦りばかりが募ってしまう。

 

 俺は完全に行き詰っていた。

 

 精神的にギリギリまで追い詰められていた。

 

 

「おいおい、こりゃあ見事な荒れっぷりだなあ」

 

 

「……え?」

 

 その声に思わず顔を上げると、いつの間にか部屋の中に先輩トレーナーがいた。入ってきたことに全く気づかなかった。

 彼はテーブルにぶちまけられた書類や、びっちりと書き込まれたホワイトボードに目をやっていた。

 

「先輩? どうして……?」

「最後に寮に残してたモンがないか見に来てたんだよ。そんで偶然トレーナー棟を通りがかったら電気ついてたから顔出したんだが……何かあったのか?」

「……実は──」

 

 渡りに船だと思って、キタサンブラックのことについて彼に話した。

 

「…………なるほどな」

「俺、どうしたらいいんでしょう」

「……なあ、坂川。今から飲みに行かねえか?」

「え?」

「長い話になりそうだしな……アドバイスになるかは分からんが。どうだ?」

「はい……いいですけど」

「よしっ、決まりだな。さあ行こうぜ! ……っと、ホテルに荷物だけ置いてから行くわ。駅前で待っててくれ」

 

 俺は先輩に連れられて繁華街へ向かうことになった。

 俺はノートに今日考えたことをまとめてから駅へ向かった。

 

 ◇

 

 連れてこられたのは普通の居酒屋だった。先輩は最初バーに行くつもりだったらしいが、俺が晩飯を食べてないことを伝えたら「なあらメシ食えるとこだなー」と目についたこの店を選んだらしい。

 案内された個室のテーブル席にて適当に注文し、運ばれてきた酒や食べ物を口にした。

 

「そういや先輩って、いつから会社のほう行かれるんですか?」

「明日」

「は? 明日ですか!?」

「おう。明日飛行機でアメリカの本社に行く予定」

「なっ!? こんなとこで酒飲んでていいんですか?」

「別にいいんだよ。準備は済んでるし、発つのは夕方だ」

「じゃあ、今日が本当に最後なんですね」

「そうだ、最後に忘れモンはねえか一応寄ったんだよ」

 

 他愛もない話をしながらアルコールを体に入れていく。お互い顔も赤らんできて、程よいぐらいにアルコールが回ってきてから、話が始まった。

 

「俺はトレーナーとして天才じゃなかった。15年近くトレーナーやって、俺の同期やチーフがバンバンGⅠウマ娘を育ててんのを見てると、嫌でもわかる」

「急になんの話を……?」

「まあ聞けよ。キタサンブラックとお前にも関係ある話だ……多分な」

 

 そう言われるならと、彼に話を促した。

 

「同期にもチーフにも知識量だけは負ける気がしなかった。ウマ娘に関する海外の論文も死ぬほど読み漁ったし、学会にだって参加しまくった。客観的に見て、知識量は学園のトレーナーで1、2を争うレベルだったと思う。……でも、俺は結局GⅠウマ娘を1人も出せなかった。知識とトレーナーとしての実力はイコールじゃないって、身をもって知った。改めて考えりゃ、当然のことだけどな」

 

 知識と実力がイコールではない……彼がそう言うのを聞いて、複雑な気持ちになった。

 

「その一方で、神に選ばれたようなトレーナーってのが事実いる。そいつが接しただけで多くのウマ娘が才能を爆発的に開花させる。何人も見てきたよ、そういうトレーナー。チーフも……清島チーフもその1人だよ。ああいう人達を天才って呼ぶんだろう」

 

 輝かしい成績を残し、今年もリーディングを快走している清島。その手腕をまだ俺は身近に感じたことはないが、彼が言うならそうなのだろう。

 

「俺は天才じゃなかった。そして……坂川。お前もたぶん、天才じゃない。俺と同じ凡人だ。よく似てるよ、俺とお前は。貪欲に何でも知識を吸収する姿勢とか、無駄に回る頭とかな。……それが結果に結びつかず悩んでるのなんて、昔の俺そのまんまだ」

「……昔の先輩も、俺みたいに悩んでたんですか?」

 

 俺がそう言うと先輩の表情が一瞬だけ陰った。

 

「ああ。最初に担当したウマ娘がいてな。引き合わされたお前とキタサンの関係と違って、俺自身がスカウトしたウマ娘だったんだ。身体は弱いし、ガラスの脚って表現がぴったりなくらい脚が脆くてな。実際、現役中何回も故障に泣かされたウマ娘だった」

「それは……大変だったんですね」

「……どうなんだろうな。ま、そいつが変わったウマ娘でな。芝中距離が適性なのに選抜レースでは出走枠がないからってダート短距離走ったり、契約したらいきなり美術館に連れていかれたり、色々振り回されたもんだ。見た目も中身もまんま深窓の御令嬢なのに、変なとこで強情だったり悪戯っぽかったりしてな。…………ああ、今でもこんなに覚えてるもんなんだな……」

 

 そう話す先輩は懐かしむように……そして、どこか哀しそうに見えた。

 

「そいつは契約したあと、こう言ったんだよ。『今、この瞬間に輝かせるために命を賭すことは、私に許されたただ1つの権利なのです』『私は私自身の生きた軌跡を、『今』にひと筋、残したいのです』……ってな。いつ砕け散るか分からない脆すぎる身体だってのに、よくそこまで覚悟を決められるなって感心したもんだ」

「先輩はどう答えたんですか?」

「『俺もアルダンが輝けるよう──』って、何言わせんだ! あー恥ずかし!」

 

 そう言う先輩は手うちわで顔をパタパタと扇いだのち、気を取り直すように咳ばらいをした。

 

「『今』を輝かせんと突き進むあいつを、これから精いっぱい支えていこうって、そう思った。……今のお前と同じだよ。彼女にどうしてもGⅠを取らせてやりたかった。あいつの宝石のような願いを叶えてやりたいって……そう思ってたんだ……」

 

 ……彼のウマ娘はGⅠを取っていない。ということは──

 

「でも、GⅠは取れなかった。ダービーでクビ差の2着、天皇賞秋でアタマ差の2着と3/4バ身差の3着。それで終わりだった。……俺、すげえ頑張ったんだぜ? ガラスの脚に爆弾がついてたようなウマ娘だったからな、毎日のダッシュ一本の負荷にも注意を払いながらトレーニングしてた。今でも、あの時の俺は極限まで努力したって言い切れる。大学の研究なんてそっちのけだったよ。……でも駄目だった。シニア級3年まで走らせて、その内半分の期間は故障していた。結果的にはGⅡをひとつ勝てただけだった。……あいつの夢は叶わずに終わった。生きた軌跡、少しは残せたのかもしれない。でも、その輝きは限りなく淡いものだった。あいつが心の底で望んでいたような輝きは得られなかった」

 

 彼の言葉が重く胸に圧し掛かってくる。彼とそのウマ娘の行く果てが、自然と俺とキタサンブラックの行く果てと重なってしまう。

 

「現役最後のレースになったジャパンカップで、14着に負けて戻ってきたあいつの顔がな……今でも忘れられないんだ。ずっと怪我と戦って、苦しい思いに必死に抗ってきたあいつが、初めて諦めた顔をしていた。そしてあいつは引退して……今は、どうしてるか知らない。暖かい家庭を築いて、好きな絵でも描きながら幸せに暮らしてくれてたらいいんだけどな……」

 

 そのウマ娘の表情のことを聞いて、自然と思い出されるのはダービーを負けた後のキタサンブラックのこと。

 

 彼の話を聞いてると、キタサンブラックのことばかり思い描いてしまう。

 このまま勝てずに終わってしまった未来のキタサンブラックを。

 

 ……それだけは嫌だ。

 

「あいつが引退したあと、俺は何人かのウマ娘で重賞を勝てた。でも、どんなに努力しても、GⅠには誰も届かなかった。俺のトレーナー生活では、どんなに努力しようが結果を残せなかった事実だけが残った。……この15年、悔しい思いばっかりだった。俺じゃ駄目なんだって、嫌というほど身に染みた。結局は、結果を残すことこそが全てだと思い知らされた」

「……そう、ですね」

「ああ。最も重要なのは結果を出すことだ。過程じゃない。ウマ娘に当てはめたらわかりやすい。才能があって、普通に努力してGⅠを取ったウマ娘と、才能がなくて、死に物狂いで24時間365日正しい方向に努力しても未勝利戦で二桁着順で終わり退学したウマ娘。どっちが賞賛される? 褒め称えられる?」

「……前者です」

「そうだ。才能の有無も、努力でさえも、結局のところ過程でしかない。過程に意味はない。結果が全てだ」

 

 そう言った彼は突然窓の外へ目をやり何かを指さした。

 

「坂川、見えるかあれ」

「? 建設中のビルですか?」

 

 居酒屋の窓から、建設中の高層ビルが見えていた。巨大なクレーンが上に載っており、深夜の漆黒に佇むその姿はさながら得体の知れない化け物のように見えた。

 

「あの建ててるビル、まだ創業して10年未満の企業のなんだぜ。なあ、真面目に真っ当に立派なことをやってるだけで都心にあんなビルが10年足らずで建つと思うか?」

「……先輩は、何が言いたいんですか」

「言うまでもないだろ。()()()()()()だ」

 

 この話の流れから、彼が言わんとしてることはわかる。でも、自分の口から言いたくなかった。

 

「過程に意味がないって、さっき俺は言ったな。つまり、結果が伴えば過程なんてどうでもいいんだ。もっと言うなら、結果を出すためなら、過程で何をしてもいいってことにならないか?」

「先輩、それは……!」

 

 話の雲行きが怪しくなってきた。

 どういうことだ? こんな話の持って行き方……まるで──

 

「……今日学園に来て、最後にお前に会ったのも、何かの運命なのかもな。本当はアメリカに持って行って、さらに詳しく成分や作用機序の解析をする予定だったんだが」

 

 彼はポケットから手のひらに乗る程度の大きさをした白い無地の紙袋を取り出して俺の方に差し出した。

 それを受け取り紙袋の中を覗く。

 

 

 その中に、錠剤が入った真空パックがいくつもあった。

 

 

「これ、は……?」

 

 

 訊きたくない。聞きたくない。

 でも、直感的に分かってしまっている自分がいる。これは先輩が普段くれるビタミン剤とはわけが違う。

 

 ビタミン剤とは比べ物にならないぐらい禍々しいものだ。

 

 

 

「お前が思っている通りのもんだよ。クスリだ。競走能力を著しく向上させる、な」

 

 

 

 これは、禁止薬物だ。

 

 

 

「……先輩っ!!! なにやってんですか……!」

「おいおい、そう興奮すんなよ」

「なにを! ドーピングなんて、絶対に許したら駄目です! いくら結果を残したいからといって、絶対に手を出しては──」

「落ち着けって! ちょっと話を聞いてくれ。……言っとくが俺は使ったこともないし、お前に使わせるためでもない」

 

 信用できない。

 使ったことがない? どこにその証拠があるのか。

 俺に使わせるためでもない? ならここで俺に渡して見せる必要がない。

 

 彼の真意が全く見えない。

 だが、この話の流れからして、俺に使わせようとしていることは明らかだ。

 

「知っての通り、俺は薬学が専門分野でな。こういう世界にいると、そういう情報も入ってくるんだ。トレセン学園のごく一部のトレーナーの間で流通しているクスリの成分がどんなもんか、興味があって手に入れたんだ」

「流通!? トレセンでドーピングが蔓延してるんですか!?」

「ごく一部だって言っただろ。蔓延はしてない。ただ、常習的に使っているトレーナーはいる。……安心しろ、清島チーフ含めアルファーグのトレーナーは使ってねえよ。清島チーフみたいな天才にはこんなもん必要ないからな」

 

 嘘としか思えないような衝撃的な事実が彼の口から語られる。

 

「でもっ! ドーピングなんかしてたらレース後の検査で──」

「そのクスリはレースで使うもんじゃない。トレーニング時に使うクスリだ。URAはレース後のドーピング検査は行っているが、学園での抜き打ち検査は行っていない。だから、クスリの残留にさえ気をつければバレるリスクは限りなく低い」

「──そんな」

「このクスリ、色んな成分を使ったハイブリッドでな。スピードやスタミナを高めるから普段より高負荷のトレーニングをこなせるようになる。加えて、トレーニング効果自体を高める効果もある。そのふたつの相乗効果で飛躍的なトレーニング効果が期待できる。夢のような代物だ。長期的に服用すると副作用のリスクはあるが、短期的には副作用はほぼない。せいぜい血液凝固が阻害されるぐらいだ。よく出来てる」

 

 彼は続けてそのクスリの用法や体内の残留時間について説明し始めた。

 

 彼が語ったクスリの効果がとても甘く聞こえた。

 禁止薬物でなければ、喉から手が出るほど欲しいと思ってしまった。

 

「……俺に使わせるためにじゃないって言われましたよね。なら、なんで見せたんですか?」

「お前に使えって強制している訳じゃないんだ。ただ、選択肢を用意してやろうと思ってな」

「選択肢……?」

「ああ。そもそもの話……お前とキタサンの話に戻るぞ。お前が悩んでることに対して、トレーナー15年やってきた今の俺から言えるのは、『諦めて受け入れろ』ってことだけだ」

「キタサンのGⅠ勝利を諦めろって言うんですか」

 

 できるわけがない。

 

「ああ、そうだ。トレーニング内容は問題ない……逆に良いぐらいだ。量は確かに多いが、2年目であそこまでの分析とメニューの組み立てがよくできたもんだ。感心したよ。あれで勝てなかったら、仕方ないって受け入れるしかないんだよ。キタサンのピークの話もそうだ。今が全盛期で落ちるだけなら、そういうもんだったんだってことだ」

 

 そう諦められたらどれだけ楽だろう。できないからこうして相談しているのに。

 

「お前はキタサンが初めてのウマ娘だから、GⅠを取らせたいって気持ちは痛いほどわかる。でもな、ウマ娘を何十人も担当してくると、次第に諦めがつくようになる。……いや、諦め方が上手くなるって方が正しいな。直に()()()慣れるさ」

 

 彼はグラスに入ったウイスキーを呷ってから話を続けた。

 

「だけどな、もしも……もしもの話だ。俺がトレーナー1年目に戻って、アルダンをまた担当して、手もとにそのクスリがあって、それを使えばGⅠを取れると……あのわずかな(絶望的な)差が埋められるなら──」

 

 彼がこの先何を言うのか、言葉にせずともわかってしまう。

 

「──俺はクスリを使う。あいつがGⅠを勝てるなら、喜んで手を汚してやる」

「……何を言ってんですか……そもそも、そのウマ娘がドーピングを受け入れるかどうかは──」

「なぜ本人に言う必要があるんだ? あいつはクスリなんて自分からは死んでも使わない。なら本人に言わなけりゃいいだろ? 適当にビタミン剤やプロテインにでも混ぜて摂取させればいい。ドーピングを知ってるのは俺だけでいい。本人にもURAにも、バレなけりゃいいんだ。違うか?」

 

『ウマ娘には何でも包み隠さず話した方がいいぞ』

 

 以前、そう言っていた彼と同一人物だとは思えない。これが彼の本性だというのだろうか。

 

「それは……」

 

 言い返せない。

 

「…………」

 

 

 

 

 なんで俺は言い返せないんだろう……? 

 

 

 

 

「俺はな、今でもあいつのことを夢に見るんだよ。どんな夢だと思う?」

「……分かりません」

「夢の内容はいつも一緒だ。あいつがGⅠを勝って、笑ってる夢さ。……最高(最低)の夢だろ?」

 

 先輩が伝票を手にし、自身の荷物も持って席を立った。

 テーブルの上に白い紙袋は置いたままだった。

 

「お前も、もしかしたら同じような夢を見るかもな。……じゃあな、坂川。これでお別れだ。今まで楽しかったぜ」

「先輩、待っ──」

「それはお前の好きにしたらいい。……嫌なら捨ててくれ」

 

 先輩は俺の引き留めに足を止めることなく去っていった。

 

「……」

 

 目の前に置かれた紙袋を凝視する。

 紙袋は居酒屋の照明に当てられ、鈍い光を放っているように見えた。

 

「…………」

 

 

 

 

 

 ……いつまでそうしていただろう。

 

「……っ!」

 

 俺は──

 

「クソッ……!」

 

 ──その紙袋を懐に入れた。

 

 入れてしまった。

 

 

 ◇

 

 

 

 戻ったトレーナー室にて、ソファにもたれて目を瞑っていた。あの紙袋はデスクの引き出しに入れていた。

 酔いが醒めた頭でずっと考え込んでいた。

 

「……」

 

 目を開けて、手にしていた万年筆を目の前に掲げた。彼女から貰ってから毎日使っているのに、それはまだ新品のように綺麗に光り輝いていた。

 

 ──結論が出た。

 

「…………俺は」

 

 

 俺だけが手を汚せばいい。

 罪の意識に苛まれていればいい。

 騙した罪悪感で押し潰されてればいい。

 

 

 傷がつかないように、万年筆をケースにしまった。

 

 

 

「……俺は」

 

 

 

 キタサンブラックが勝てれば、それでいい。

 

 

 

「俺は──」

 

 

 

 キタサンブラックが夢を叶えて、笑って喜んでくれるなら、それでいい。

 

 

 

 

 

 

「──最低のトレーナーだ」

 

 

 

 

 

 

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