翌日、キタサンブラックへ昼までにサブトレーナー室に来るようメッセージを送った。
彼女は授業の休み時間にやってきた。
「おはようございます、トレーナーさん! それで、ご用事ってなんでしょうか?」
「ああ、いつも昼に飲んでもらってるビタミン剤なんだが」
俺は真空パックに入った錠剤を差し出した。
心臓が痛いぐらいに跳ねていた。心臓の音がうるさくて、キタサンの声もかろうじて聞こえるぐらいだった。
「今日、これ追加で飲んでくれるか?」
「はい。わかりました!」
キタサンブラックは何の疑いもなくそれを受け取った。
────本当にいいのか?
そう考えている間に、彼女はそれをスカートのポケットに入れた。
「あたし、栄養のこととかあまりわかんないですけど……いつも気を遣っていただいて、ありがとうございます! それじゃトレーナーさん、放課後、よろしくお願いします!」
「…………キタサン……っ」
「? どうかされました?」
踵を返した彼女を呼び止めた。
振り返った彼女は不思議そうにこちらを向いた。
「……いや、なんでもない。また放課後な」
「はい!」
キタサンブラックはサブトレーナー室から出ていった。
独りになったサブトレーナー室で、この前まで先輩のものだった無人のデスクに自然と目がいった。
──もう後戻りはできない。
心臓の鼓動は未だ鳴りやんでいなかった。
◇
放課後になり、キタサンブラックとのトレーニングに臨んでいた。彼女の様子は変わりなく、いつもと同じように見えた。
そして、遂にタイムを測るトレーニングになった。これまでと同じように、1ハロンごとのタイムを測って記録していった。
彼女が設定したゴールラインを通り過ぎた。足を緩めて流す彼女を確認すると、最後の1ハロンのタイムを記録用紙に書き込んだ。
今のタイムと昨日のタイムを見比べると、思わず声が漏れ出た。
「…………これ、は……」
昨日のタイムを見ると、13秒台ぐらいから入り、12秒台の時計が連続して最後の2ハロン目で11秒台、最後の1ハロンで12秒台となっていた。
対して今日のタイムは、13秒台から入るのは変わらないが、途中から11秒台の時計が連続していた。そして極めつけに叩き出されたのが、最後の3ハロン全て10秒台というタイム。しかも加速ラップでラスト1ハロンは10秒前半。
「──駄目だ。これは」
速すぎる。
こんなタイム、担当してから見たことがない。それどころか、アルファーグのウマ娘でもこんなタイムを出しているのを見たことがない。
これがドーピングの力だというのだろうか。
おぞましい、と思ってしまった。
「駄目だ、駄目だ駄目だ。こんなの駄目だ……!」
こんなタイム、今のキタサンブラックが出していいタイムじゃない。
このタイムを目の当たりにして全身が粟立った。熱に蕩けていたような頭も急速に冷やされたように感じた。
また、昨日と今日のことで頭が混乱してきた。頭の中がぐちゃぐちゃで、思考がまとまらなかった。
──何をやってるんだ俺は……! ドーピングなんて……こんなタイム…………こんなの、許されることじゃ……!
頭がこんがらがって、情緒が不安定になってきたのが分かった。表現し難いほどの焦燥感に駆られていた。
昨日考えに考え、悩みに悩んで、強い決意を持ってクスリを使うと判断したそれは、記録されたタイムによってあっさりと破壊されることになった。
幸い、キタサンブラックに渡したクスリは今日の1回分のみ。明日からは摂取させなければいい──
「トレーナーさんっ! 今のタイムどうでしたか!? あたしとしては、すごく手ごたえがあって!」
「あ! おいっ、キタサ──」
キタサンブラックは俺の持っていた記録用紙を覗き込んだ。見せないようにしようとしたが遅かった。
彼女はそのタイムを見てしまった。
「ええっ! このタイム……~~~~っ!! やったやった! すごくいいタイムですよね、トレーナーさんっ!」
「え、あ……」
「あたし、こんなタイムで走れるようになったんだ……! トレーナーさんのトレーニングのおかげです! やっぱり、トレーナーさんは凄い!」
──違う違う違う! これはクスリのせいなんだ!
なんて、言えるはずがなかった。
タイムを見た彼女は飛び跳ねるように喜んでいた。
このトレーニングのあとは息を整えるのに時間がかかるのに、彼女は平気な様子だった。今の自分が異常だということに彼女は気づいていないようだった。
「このタイムなら……! ……トレーナーさん」
一転、彼女は真剣な表情をして俺に向き直った。
「……どうした?」
「今日のトレーニングの後、お話したいことがあるんです。お時間よろしいですか?」
「ああ、別に大丈夫だが……何の話だ?」
「それは……その時で。じゃああたし、もう1本行ってきますっ!!」
「あ、おいっ!」
彼女はあっという間に走りに行ってしまった。
◇
トレーニング後、制服に着替えたキタサンブラックがサブトレーナー室にやって来た。先輩がいなくなって現状俺だけの部屋になっているこの場所で、彼女と向かい合った。
まだ頭は混乱していて、焦燥感は消えていなかった。
「どうしたんだ改まって」
「あの……トレーナーさんにお願いがあって」
「お願い?」
「はいっ!」
彼女の目は意を決したように強い光を宿していた。
「あたし、菊花賞に出たいですっ!!!」
「……は?」
耳から入ってきた彼女の言葉を、脳が理解することを拒んでいる。
その言葉で、精神的な余裕が消え失せていく。
──今更、何を言ってるんだ?
「今週までですよね。菊花賞の出走登録」
「……ああ」
彼女の言った通り、今週末が菊花賞の出走登録の締め切り日だ。
「トレーナーさん! あたし、どうしても菊花賞を走りたいんです! 天皇賞秋じゃなくて、菊花賞に出させてくださいっ! お願いします!!!」
立ち尽くしている俺に対して、彼女は勢いよく頭を下げた。
──あのとき、お前は了承したじゃないか……
──俺が、どれだけ考えて天皇賞秋を選んだか知っているのか……? ダービーが終わってからお前に直接伝えるまで、天皇賞秋で間違いはないかと何度も何度も分析したのに……
爆発しそうになる感情をなんとか抑えながら、口を開いた。
「……理由を訊いてもいいか?」
「はい! ……あたし、ある友だちと約束したんです。菊花賞に出られないその娘の代わりに、菊花賞を取るって!」
──友だちとの約束? そんなものに、俺の血の滲むような努力が否定されるのか……?
──菊花賞に出るなら、全てのメニューの組み直しが必要だ。天皇賞秋のために作られたメニュープランをぶち壊して、今から俺に新しくメニューを作れってのか? 毎日のメニューひとつひとつが、時間をかけ熟考を重ねて作ったものなのに……
──第一、菊花賞の3000mはお前の適性外だって伝えただろうが……! お前は今がピークかもしれなくて、GⅠを取る最期のチャンスの可能性だってあるのに、そんな大切な時期になんで負けにいくような真似をしなくちゃならないんだ……!
せき止めようとしても、抑え込もうとしても、体の奥底から自分の声が聞こえてくる。
追い詰められた自分から聞こえてきたのは、
──そんな理由でレースを選んでGⅠを勝てるなら、誰がこんなに苦労するか……! 約束なんて、くだらない……!
「って、あの娘と約束したのはあたしだけじゃなくて、もう1人いるんですけどっ。夏合宿のときに──」
キタサンブラックの口から放たれた、その約束をしたウマ娘と言うのは、皐月とダービーで二冠に輝き、故障により菊花賞を回避していたあのウマ娘……ドゥラメンテだった。
もう1人のウマ娘とは、キタサンブラックがスプリングステークスで勝利し、皐月とダービーでは先着されたウマ娘……リアルスティールだった。
彼女らと仲良くなったのはダービーが終わってからのことらしく、それが立ち直るきっかけになったらしい。確かに、キタサンブラックがダービーの惨敗から元気を取り戻した時期と合っている。
──いつの間に
裏切られた気持ちになった。
キタサンブラックは何も裏切ってなんかないのに。
彼女はただ友だちと友情を育んだだけなのに。
俺の弱い心はもういっぱいいっぱいだった。
「だから、お願いします! トレーナーさんが
尽力。
これまでの俺の苦悩や努力が、たったその一言だけに集約されていた。
そのことが────許せなかった。
「……キタサン」
「はいっ」
ダムが決壊するかの如く、感情の激流が心から溢れて出てきた。
限界だった。
一度溢れたものを止める
歩みを進め、頭を上げたキタサンブラックの目の前に立つ。
「……っ!」
「トレーナーさん……? え──」
手を振り上げて、彼女の頬へめがけて、それを振るった。
バチッと、小さな破裂音が響いた。
手のひらには、彼女の頬を張った感触が残っていた。
「──トレーナーさん、どうして……」
何が起こったのかわからないと、呆然として自身の頬に手をやっているキタサンブラック。驚愕で見開かれた彼女の大きな瞳に俺が映し出されていた。
俺はいったいどんな表情をしているのだろうか。
でも、彼女の瞳に映る自分の顔を見る余裕は無かった。
「キタサン……!」
「ト、トレーナーさ……っ!?」
再び俺に近づかれた彼女は目を瞑った。またぶたれると思ったのだろう。
俺はそんな彼女の両肩を掴んで詰め寄った。
「お前は、なんで……!」
──全部、お前のためなんだ。
──お前の担当になってからの俺の日々全てを、お前に捧げてきたんだ。
──毎日のメニューも、体調管理も、栄養管理も、レースプランも…………ドーピングに手を染めたのだって、お前を勝たせるためなんだ。
──お前にGⅠを取ってほしいから。
──お前に笑ってほしいから。喜んでほしいから。
──お前の夢を叶えてほしいから。
──それだけだ。俺はそれだけでいいんだ。なのに……なのに!!!
「──なんで、分かってくれないんだ……!!!」
「!? わかっ……っ!?」
俺の言葉の真意を理解できない彼女の両肩を強く握って揺さぶった。
なおも詰め寄る俺に対し、彼女は後ずさりし始めた。
キタサンブラックの瞳は潤んでいた。
「いやっ……やめてください……トレーナーさん……」
「こうでもしないと! お前は分からないだろうが!」
「ごめんなさい! 気に障ったならあやま──」
「っ!!」
謝るとか謝らないとか、そういう話ではないのだ。
苛立ちを抑えられない俺はまた手を振り上げた。
「っ、いやっ……!」
「──ぐっ?」
俺が手を振るう前に、キタサンブラックが俺を勢いよく突き飛ばした。
ウマ娘の力によって俺の上体は大きくのけぞり、ほとんど吹っ飛ばされるように後退していく。体が倒れてしまわないように、必死に足を後方に出してバランスを取ろうとしたが、突き飛ばされた勢いが圧倒的に勝った。
視線が上転し、天井の照明が目に入ってくる。そのまま金属製のラックやパイプ椅子などの備品が固めてあるスペースに倒れ──
「!! トレーナーさんっ、危ない──!」
俺に向かって飛び込んできたキタサンブラックが、俺の頭を胸に包み込むように抱いてきた。
しかし勢いは殺せず、俺は彼女もろとも後ろの金属ラックに頭から突っ込んでいった。
「ぐうっ!?」「っ、うっ──」
突っ込んだ衝撃で、けたたましい音とともに立てかけてあったパイプ椅子や金属製のラックが倒れ、機材などが俺たちの上に落ちてきた。
俺はキタサンブラックの胸に抱かれ、守られるように倒れていた。倒れた際に打ったのか背中に痛みがあるものの、それ以外は特に痛みを感じる箇所は無かった。頭も衝撃ひとつさえなく、俺は無傷で済んだ。
「キタサン、大丈夫か!?」
俺よりもキタサンブラックの方が心配だった。俺をかばって金属ラックに頭から突っ込んだのも、落ちてくる機材からも守ってくれたのも彼女なのだ。
「キタサン……?」
俺の呼びかけに彼女は反応しない。未だに彼女は俺を胸に抱きしめたままだ。
嫌な予感が胸をよぎった。
「くっ!」
俺は上に乗ったものを除けて起き上がり、彼女の上体を確認した。
「おい、キタサン! しっかりしろ!」
「────」
彼女は気を失っているようだった。声をかけても反応しないので、意識レベルの確認のため耳元で声をかけるか頬を軽く叩こうとして、彼女の頭の方まで行くと──
「──え?」
──彼女の頭から血が流れていた。
流れた血は床へと滴っていき、その血だまりを徐々に広げていった。
「っ!」
俺は使ってないハンカチを取り出し、止血するために傷口を探し出してそれを強く押し当てた。思ったより傷口が大きい。
「どうする……!?」
焦る頭で対処を考える。
止血はとりあえずこれでいいだろう。問題なのは頭部への衝撃のほうだ。気を失うほどの衝撃を頭部に受けたのなら、脳の損傷がないか心配だ。すぐさま病院で頭部の検査をする必要がある。万が一何かあれば取り返しのつかないことになる。保健室で悠長に回復を待つ余裕は無い。
ちょうどそこで扉が開かれた。その先にいたのは、アルファーグのウマ娘だった。
「なんかすごい音聞こえたんですけど──って、キタちゃんと坂川トレーナー!? ちょ、大丈夫なんですか!?」
「すまない! 救急車を呼んでくれないか!? 頭を打って意識がないんだ! 頼むっ!」
「は、はいっ!」
そのウマ娘はスマホを取り出して119番をしてくれた。俺は途中で電話を替わって症状を説明した。10分もせずに着くとのことだった。
電話してくれたウマ娘には清島に伝えるよう頼んだので、この場を離れていた。
「……キタサン、大丈夫だ……大丈夫だからな……」
永遠にも思える時間の中、俺はずっと彼女の頭の傷口を抑えていた。ハンカチには血が
結局、キタサンブラックは救急車が来ても意識を取り戻さなかった。同時に血も中々完全に止まらなかった。
『せいぜい血液凝固が阻害されるぐらいだ』
俺は彼の台詞を忘れてしまっていた。
◇
搬送された病院にて、俺と清島はキタサンブラックの精密検査が終わるのを待った。
彼女の父親と母親はコンサートのツアーの真っ最中らしく遠方にいるようで、今日中には来られないとのことだった。なので、代わりに俺たち2人に診断結果を聞いてほしいとの願いがあった。
清島にはキタサンと少しもめて言い合いになってそうなったと濁した。しかし、ことが落ち着いてからちゃんと説明しろと釘を刺された。
しばらくして、医者が俺たちの前に姿を現した。眼鏡をかけた真面目そうな風貌の中年男性だった。
「キタサンブラックさんのご両親から話は聞いています。清島様と坂川様ですね? どうぞこちらに」
俺たちは医者に診察室へと促された。
「キタサンブラックは大丈夫なんですか?」
「ええ。頭部CTの画像からは特に異常は認めませんでした。しばらくすれば意識も戻るでしょう。意識が戻ったら問診をして、なにかしら症状があるようならMRI検査も検討しましょう。今は病室に移られて休んでおられますよ」
「そうですか……良かった」
肩の荷が下りたようにほっとした。ひとまずは安心した。
「……ただ」
「え?」
医者の穏やかだった口調が硬くなった。
「出血が中々止まらなかったもので……流石に異常だと思い、血液検査をさせていただきました。検査技師もいましたので、より詳細な検査もしました」
「──え」
「当院はトレセン学園から近いこともあって、トゥインクルシリーズに出る多くのウマ娘を診てきた歴史があります。歴史があるということは、その分多くのデータも蓄積されているということです。またそのような歴史からスポーツ方面に強い病院でもあります」
「……
ずっと黙っていた清島が口を開いた。
『せいぜい血液凝固が阻害されるぐらいだ』
そこでやっと彼の台詞を思い出した。
心臓が暴れるように跳ねていた。
「まだこれは私と技師だけしか知らないことです。まことに残念なことではありますが……彼女の血液から異常な成分や正常値から外れた値が検出されました」
これから医者が何を言うのか、分かってしまった。
「彼女に、ドーピングさせていましたね? 清島様、坂川様」
そう彼の口から言い放たれた。
そうしてやっと、どれだけ罪深いことをしたのか、俺は気づくことになった。