「バカな! そんなことあるわけないだろう!!! 何かの勘違いか、検体を間違えたんじゃないのか!?」
「いいえ、残念ながら事実です。私と検査技師2人で確認しましたから。疑われるなら、あなた方の目の前で再び採血して検査しましょうか?」
「ああ、そうしてくれ! ドーピングなんてするわけが──」
「先生」
「──なんだ、坂川?」
「すいません…………俺、です……」
「!? まさか……お前……!」
「……よろしいでしょうか。私も技師も、マスコミに垂れ込もうなどとは思っていません。しかし、多くのウマ娘を診てきた当院の医師として、この事実を秘することはできません。トレセン学園とご両親には連絡させていただきます。……以上です。今日はお引き取りを。キタサンブラックさんのことは我々が責任をもって経過を観察します」
◇
「一体どういうことだ!!!」
「ぐっ……」
診察室から解放された俺は、病院の駐車場にある清島の車の中で胸ぐらをつかまれていた。
「ウマ娘にドーピングだと!? 許されることじゃねえ!!! ウマ娘のことを……キタサンのことをなんだと思ってやがる!」
「すいません……すいません……」
「謝ってるだけじゃ分かんねえだろうが! 全部だ! 全部説明しろ!」
清島に言われる通り、クスリを使うに至った経緯やその後のことを包み隠さず話した。俺がキタサンブラックを勝たせたくて悩んでいたことも、先輩にクスリをもらったことも、今日初めて使ったことも、使って後悔したことも、サブトレーナー室で出走レースを巡ってキタサンブラックと揉めたことも。
清島は怒ってはいたが、俺の話を静かに聞いてくれていた。
「アイツがクスリをくれたってのか!?」
「はい……」
「何やってんだアイツは! 今はまだ飛行機か? ……どっちにしろアメリカに行ったんだ。もう連絡つかねえと思っといた方がいいな……」
清島は俺の胸ぐらをつかんでいた手を離した。
「バカが……そんなに自分を追い詰めるまで、なんで相談してこなかったんだ……!」
「…………」
「いや、相談したのがアイツだったのか。クソッ! ……本当に、今日の1回だけなんだな? クスリを使ったのは」
「はい……それだけは信じてください……」
「……分かった」
そして清島は車を発進させ、運転しながらこれからのことを話してきた。
「お前は帰ったら寮の部屋から出てくるな。俺からの連絡があるまでずっと待機だ。新人寮の他の奴らと接触するなよ。あと俺以外からの電話やメッセージには反応するな。キタサンブラックにもだ」
「え……」
「学園関係者もそうだし、マスコミが嗅ぎつけて動き回るかもしれねえ。それに……俺もお前も、これからどうなるか分からんからな」
「そんな……」
この言い方だと、俺だけじゃなくて彼まで罰せられ──
「先生は関係ないです! 俺が悪いんです! ……帰ったら俺がやったこと全部、学園に言いに行きます! だから先生は──」
「ガキは黙ってろ! いいか、キタサンブラックの所属はアルファーグだ。俺の担当ウマ娘だ。だから責任は全て俺にある。お前はサブトレーナーとして
何を言ってるんだこの人は。これじゃまるで、彼が俺を庇うつもりにしか聞こえない。
そんなことはさせたくない。何も悪くない彼が……今まで散々世話になってきた恩師と言える彼が、罪を被る必要なんて一切ない。
全て俺が悪いんだ。俺だけが罰を受ければいい。
そんな風に思っていた。
「俺がやったって言います。先生は何も──」
「あのな。キタサンブラックのこともそうだが、お前をサブとして雇ってんのはチーフである俺だ。チームの誰かが何かをしたら、責任を取るのは頭の俺なんだよ。……テレビで悪いことをした企業の謝罪会見を見たことがあるだろ? 社員が不祥事を起こしたとき、謝るのは社長とかの偉いさんだ。それと一緒だ」
子どもを諭すようにそう言われた。
そういうものだと理解はできるが、納得はできなかった。でも、言い返すこともできなかった。
──このときの俺はまだガキだったと思う。悪いことをすれば自分だけが責任を取ればいいとばかり考えていたのだ。それが大人だと思っていたし、それで済むと思っていた。
でも現実はそうじゃない。社会はそんな単純になっていない。
「帰ったら学園には俺から言いに行く。さっきも言ったが、寮の部屋から出てくるなよ。俺以外の電話やメールは無視。誰かが部屋に来ても居留守を使うんだ。いいな?」
「……はい」
自分が情けなかった。
間もなくトレセンに着き、俺は数日分の食料品を買ってから新人寮の自室へ向かった。俺のデスクの棚に入ってる例のクスリは清島に場所を教えてあり、彼が回収することになっていた。
部屋に戻った俺は軽く食べてから布団に入った。
──俺はずっと、ドーピングのことを知らされたキタサンブラックがどう思うのかを、意識的に考えずにいた。
考えるのが、怖かった。
◇
次の日の午前中、清島から連絡が入った。今回の事件の事実調査のため、学園やURAが呼び出しているとのことだった。
昨日から今日までにアルファーグのサブトレや同期の天崎からメッセージや電話が入っていたり、扉をノックして呼びかけられることがあったが、清島の指示通り無視していた。
すぐさま準備をして、本部棟へ向かった。
本部棟に入るとそこには清島が待っており、2人で指定された会議室へ向かった。
「いいか、余計なことは喋るなよ。訊かれたことにだけ答えろ」
俺はそれに頷いて、清島のあとをついていった。
会議室に入ると、URAか学園の上層部の者と思われるスーツを着た人間が5人ほど。どれも鋭い眼光を……社会を勝ち抜いてきた人間特有の目をしていた。あとは学園側の秋川やよいと駿川たづなが出席していた。この2人の表情は見るからに明るくない。
もっと大人数でのものを想像していたので、思ったより規模が小さいことに少し驚いた。
俺たちが入室すると、真正面の中央に座している、髪をオールバックにした糸目の男が口を開いた。
「揃いましたね。それでは始めましょう……っと、その前に。皆さん、スマホやICレコーダーの類を持たれていたら机の上に出していただきたい」
言われるとおりに皆がスマホを取り出して机の上に置いた。
「では会議が終わるまでこれらはお預かりします。万が一にも録音などは許されないのでね。それと……おい」
「はい。かしこまりました」
彼の後ろに控えていた、秘書らしき女が輪のついた棒みたいなものを取り出した。テニスラケットを一回り小さくして、ガットを無くしたような形状をしていた。
「金属探知機です。念には念を入れて……ね」
──ここまでしなきゃいけないのか、というのが素直な気持ちだった。事の重大さが、俺が犯した罪の大きさが今になってやっとわかってきたような気がした。
1人1人立たされて、金属探知機のチェックを受けた。服の装飾品以外のペンなどの小物類は全て取り上げられた。
秘書はスマホや小物を持って退室していった。
そうしてまでやっと本題が始まった。
「まずは事実確認をしましょう──」
彼の口から今回の事情調査に至った経緯が話された。
昨日の夜、入院したキタサンブラックが検査の結果ドーピング陽性となったと清島から連絡を受けた。
確認のために病院に連絡すると、例の医師が直接学園に出向いて説明しに来た。その医師が清島と俺にその事実を伝えたと言ったらしく、それで俺たちが呼ばれた。
「URAはいかなる時と場合でも禁止薬物の使用を認めておらず、徹底したアンチドーピングを掲げています。ご存じですね? もし発覚したら厳罰が待っています」
そんな前置きを聞いてから、ドーピングに至った経緯の事実確認に入った。
清島は変に着色することなく、俺がやったことや、クスリの出どころなど、最低限の事実だけ話した。
俺はずっと黙って話を聞いていた。
「キタサンブラックだけ、ですか。アルファーグが常習的にドーピングを用いたトレーニングをしていたわけではないと?」
「ああ」
「ふむ……本当ですか? 今から抜き打ちでスクリーニング検査を行っても?」
「好きなようにしてくれ」
「……いえ、試すようなことを言って申し訳ございません。そんなことはしませんよ。URAとしても、事を荒立てたくはないのでね。……それで、坂川くん」
清島と話していたその男の顔がこちらを向いた。
「キミの話を聞こうか。今、清島さんが言ったことは事実ですか?」
「はい。間違いありません」
「認めるのですね。キミがキタサンブラックにドーピングさせた張本人だと」
「待ってくれ! この件は俺の管理不行き届きだ。こいつには──」
話に割って入ってきた清島を、男は手で制した。
「私は坂川くんと話しているのです。どうですか、認めるのですか?」
「……はい。俺がやりました」
この場にいる皆の視線が俺に注がれている。
その視線がどんな感情を映しているのかが怖くて、顔を上げることができなかった。ただ下を向いて話すだけだった。
俺はクスリの投与に至った経緯を自分の口から話した。
詰られたり非難されるかと思ったが、誰も口を挟まず、俺が1人で話すだけだった。
「なるほど。キタサンブラックを勝たせたいがあまりにねえ……トレーナーとしては当たり前の感情なのかもしれないが、短絡的で愚かな選択をしたものですね。……おっと失礼。私の所感など必要ないですね」
男は周りと目配せをすると、納得いったように息をついた。
「本日は以上です。今、預かったものを取ってきますのでしばらくお待ちください。言うまでもないですが、今日のことは他言無用でお願いします。……お2人の処分については、また後日に。改めてお呼びします」
呼び戻された秘書にスマホなどの持参物を返却され、追い出されるように俺と清島は退出させられた。
言い方は不適切かもしれないが、思ったよりあっさりしたものだった。もっと時間をかけて事実関係を確認されるかと思っていた。
「お前は引き続き寮の部屋に籠ってろ。いいな」
「……はい」
清島とは本部棟を出て別れた。
俺はできるだけ人目につかないよう、物陰に隠れながら新人寮に戻った。
「……誰もいないな」
外から寮のエントランスに人影がないことを確認してから中に入った。
「あっ! 坂川くん!」
足音を立てないように靴を脱いだところだった。外からは死角になっている通路の角から天崎が姿を現した。タイミングが悪いとしか言いようがなかった。
「よう。天崎」
「『よう』、じゃないよ! ……どうしたの? 昨日の夜も今日の朝もごはん出てこなかったし、メールも返信してくれないし……心配したんだよ?」
「なんでもねえ。ちょっと忙しくて、用事があっただけだ」
「えっ?」
「じゃあな」
「ちょ、ちょっと!」
強引に話を切り上げようと思ったが、お節介な彼女はそうさせてくれなかった。
「アルファーグのウマ娘、誰だかは知らないけど病院運ばれたんでしょ? 大丈夫なの?」
落ち着いて、なんとか誤魔化せる方向へ舵を取るよう意識する。
「ああ。先生から関係者以外に話すなって言われてるから、これ以上は言えないんだ。心配してくれてありがとうな……俺急いでるから」
「あ、待って待って!」
「なんだよ。これ以上は──」
「……坂川くん、幸ちゃんのお父さんのこと、知ってる?」
不安そうに彼女はそう尋ねてきた。
「? なんかあったのか?」
「……いや、知らないならいいよ。引き留めてごめんね! 今日の晩ごはんはみんなで一緒に食べようね!」
「……ああ」
曖昧にそう頷いてから自室へ向かった。
結局その日も俺は自室で食事をとった。
夜には、何度も扉をノックする音と天崎の心配そうな声が室内まで聞こえてきたが、布団をかぶってやり過ごした。
◇
その2日後、清島から電話がかかってきて、再び本部棟に出向くことになった。
彼もこの2日間自由に動けなかったらしく、情報を集めながら話が漏れないよう陰で立ち回っていたらしい。
2日前と同じ部屋に入ると、中にはまた同じ面子が顔をそろえていた。スーツを着た男達数人と、秋川やよいと駿川たづなだ。
「お待ちしていましたよ。さあ、お座りください」
前と同じように、糸目の男が話を進めるようだった。
「本題に入りましょう。私たちは意識を取り戻したキタサンブラックと接触しました。その上で事実確認をもう一度行います。坂川くん、よろしいですか?」
「はい……あの、キタサンブラックは、大丈夫なんでしょうか……?」
彼女の容体が気になった。接触したなら知っているはずだ。
「は? ……ええ。意識障害もなければ記憶障害もなくて、精神機能は問題なし。身体も至って健康とのことでしたよ。私たちの聞き取り調査に対しても、しっかりと答えてくれました」
「そうですか……良かった。ありがとうございます」
無事と聞いて、内心で胸を撫でおろした。
「しかしまあ、ドーピングなんて非道なことをしといて、そのウマ娘のことが気になるもんですかねえ。キミもおかしな男だなあ」
「ちょっと、そんな言い方……」
俺を詰った彼に抗議の声を上げて立ち上がってくれたのは駿川たづなだった。
「? 私は至極真っ当なことを言ったつもりですが。本当に彼女の身を案じられる人間なら、最初から副作用の可能性のあるドーピングなんてしないでしょう? それに、バレればその娘のレース人生は滅茶苦茶になるのですよ?」
「しかしっ、トレーナーさんは──」
「自重ッ! ……たづな、気持ちはわかるが……」
「よろしいですか? 駿川さんもお座りください。話を始めますよ」
窘められた彼女は静かに椅子へ腰を下ろした。
その一連を見ていた俺には、今のこの男の言葉が胸に深く突き刺さっていた。
『本当に彼女の身を案じられる人間なら、最初から副作用の可能性のあるドーピングなんてしないでしょう?』
全くもってその通りだった。正論以外の何物でもなかった。
──俺は、本当に彼女のことを大切に思っていたのだろうか?
「昨日、自宅へ戻ってきたキタサンブラックと彼女の両親に、今回のことについて聞き取り調査と事実確認をしました。概ね、坂川くんと彼女の言い分は一致していました。ただ当然と言ったらいいのか、ドーピングのことは知らなかったようでしてね。それを彼女に伝えると放心状態になって、しばらく話ができないぐらいでしたよ。話せる状態に戻っても、信じられないと、嘘だと、聞き入れてくれませんでした。逆にご両親……特に父親の方は激怒しておられました」
「────っ」
さらっと彼から語られたキタサンブラックの様子が容易に想像できてしまう。
頭の中に描いたその光景が俺の心を抉っていく。
「事実確認ができたところで本題に入りましょう。要するに、あなた方の処分に関してです。キタサンブラックに関しては完全なる被害者のようなので処分は今の所検討していません。レース後の検査で発覚したわけではないですから失格や降着もありません。ただドーピングが実は常習的だったり、あなた方が庇ってるだけで故意であると発覚したら検討します。次はお2人について。坂川くんが犯した行為は以下の通り。ウマ娘への禁止薬物投与。ウマ娘への暴力行為……これは平手打ちして彼女に詰め寄ったこと。……どちらも悪質ですね。禁止薬物投与だけでもトレーナーライセンス剥奪ものなのに。以上を加味して坂川くん、キミには────」
「頼む! コイツにはどうか──」
「ちょっと清島さん、口を挟まないでいただきたい」
「こいつのことを気にかけてやれなかった俺の責任でもある! それに、クスリを持ってきたのも俺のとこの奴だ! 全部俺の管理不行き届きが原因だ。俺にはどんな処分が下ってもいい! だから──」
必死に庇ってくれている清島を見ていると、無意識的に唇を血が滲むほど噛みしめてしまう。
この人は何も悪くない。自分は庇われるような価値のある人間じゃない。
もういい。そこまでしないでくれ──と清島を止める前に、男の方が一喝した。
「しつこい!! ……坂川くんには──」
苛立ちを抑えた彼が、清島の声を遮って口を開いた。
「減給と、しばらくの間、地方トレセンへの出張研修を命じます。清島さんには減給のみ。以上です」
「「……は?」」
俺と清島の声が重なった。
聞き間違いにしか思えない。
だって、あまりにも処分が軽すぎる。
「ま、そういう反応になるでしょうね。普通なら2人ともトレーナーライセンス剥奪でもなんらおかしくないですから」
「……どういうことだ。説明してもらえるか」
「ええ。いいですよ。端的に申し上げると、URAはこの事件を明るみに出したくないのです」
「! もみ消すってことか……!」
「はい。今このタイミングでチーフトレーナーである清島さんと、10代という若さで鳴り物入りでトレーナーになり、キタサンブラックの活躍でメディアにも露出するようになってきた、将来を嘱望されている坂川くん2人のライセンスを剥奪したら世間は黙ってくれません。ライセンス停止だって同様で、必ず理由を調査する者が現れるでしょう。それは避けたいのです。なのでURAはこの事件を闇に葬り去ることにしました。トレセン学園を……トゥインクルシリーズを守るためにも、ね」
嫌な微笑を浮かべた男が話を続けた。
「今のアルファーグはトゥインクルシリーズのリーディングチームです。世間からの人気も注目度も1、2位を争うようなチームだ。キタサンブラック以外にも、ジュニア級、クラシック級、シニア級それぞれにGⅠレベルのトップウマ娘たちが揃っています。……そんなあなた方がいるチームにドーピングが発覚したらどうなります?」
「……それは」
「考えるまでもない。アルファーグがバッシングされるだけじゃ留まらないでしょう。他のチームにも多大な影響を及ぼし、トゥインクルシリーズそのものに大きな影を落とすことになる。トゥインクルシリーズの、レースの人気が著しく低下する可能性は決して低くない。観客が減りスポンサーの多くが降りるとなると、トレセン学園の資金繰りも厳しくなるでしょう。設備の維持や、食事だって十分に賄えなくなるかもしれません」
「…………」
清島は考え込むように黙り込んだ。
「ドーピングに関係なく、懸命に頑張っているトレーナーやウマ娘たちが不当なバッシングを受けてしまうことだって十分あり得ます。それはあなたたちも望むところではないでしょう?」
「それはそうだが……」
「もっと大きい事件だった場合……例えば清島さんが首謀でアルファーグ全体にドーピングしていたとか、クスリを横流しして複数のチームがドーピングしていたとかなら打つ手はありませんでした。ドーピングで何人ものウマ娘が結果を残していたなら、真っ当に頑張っているトレーナーから反発の声を上げるだろうから、もみ消すのは難しいでしょう。URAはドーピング排除へ実力行使していくしかなかった。しかし今回は幸運にも、ただ一個人が持っていたクスリを、魔が差して1人のウマ娘に1回トレーニング時に使ってしまったというだけだ。事態の収拾は非常に容易ですし、レースで使ったわけではない。もし情報が他のトレーナーに漏れたとしても、この程度ならそこまで反感を買わないかもしれません。それどころか、坂川くんの心情を汲み取って同情してもらえることすらあるかもしれません。トレーナーは皆、担当ウマ娘を勝たせたくて必死ですから。……トレセン学園というのは良くも悪くも村社会です。トレーナーたちの仲間意識というものはあなたたち自身がよく理解しているでしょう? トレーナーもウマ娘もみんな夢を追って、必死に努力しているこの尊いトレセン学園を守りたいですよね?」
「てめえ……!」
小バカにしたような口調の男を、清島は睨みつけた。
しかし、それは逆効果だったようで、その男は満足そうに笑みを浮かべた。
「トゥインクルシリーズというのはつまるところただのエンターテインメント。ショービジネスなんですよ。若くて見目麗しいウマ娘を走らせ踊らせ歌わせ、客に興奮と感動を提供する娯楽的な興行なのです。それ以上でも以下でもありません。避けられるイメージダウンなら、避けなければね」
清島はあからさまに苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
彼のこの考えが正しいのか正しくないのか、分からなかった。ただ俺にとって、決して好ましいものではなかった。
「という訳で、このドーピングは無かったことにします。だから処分もこれだけ軽い、減給としたのです。表立たせたくないのでね。検査結果を知る医師と検査技師にも既に話はつけてあります。もちろんいくらか金は握らせます。ああそういえば、クスリを提供した彼に話を聞こうと連絡を試みましたが、無理でした。製薬会社の方に連絡しても理由をつけて断られました。まあ、トレーナーを辞めた身ですし、国外にいるのでどうしようもできませんけどね。……それと、キタサンブラックの今後についてです。本人と両親とも相談しましてね」
男は机の上で手を組んで話し始めた。
「結論だけ最初に申し上げると、キタサンブラックはアルファーグ所属のままで良いそうです」
「はあ!? どういうことだ……?」
声を上げた清島と同じように、俺も内心では驚いていた。
「彼女の父親は清島さんの人となりを随分と気に入っておられるようでして……キタサンブラックがチームに所属してから、何度も会って食事に行かれているとか」
「……ああ。そうだ。よく酒を飲みに行く仲になった」
「だからですか。父親に今回の事件を説明しても清島さんへの信頼は変わっていないようでして。管理不行き届きがあったとしても、あなたはどちらかというと被害者ですからね。それを父親も理解しているようでした。だから清島さん本人がキタサンブラックを担当してくれるなら是非アルファーグのままで頼むと。この時期にチームを変えるのもおかしいので、父親の言うとおり彼女にはアルファーグに残ってもらうことにしました。ただ──」
彼が何を言うのか分かる。俺は駄目だってことだ。
「──坂川くんは別だと。キミがアルファーグを辞めるのが絶対条件です。父親は坂川くんのライセンス剥奪を希望されていましたが、表立てないためだと説明し、一応は納得していただきました。彼も、娘がドーピングしていたと公にはされたくないようでしたので」
「……」
「ただ、すぐにチームを辞められてはマスコミに嗅ぎつけられる可能性がある。あなたがこの時期にいきなり辞めるのは不自然極まりないですから。だからと言って、アルファーグにいるのにキタサンブラックと関係を断つのは難しいですし、籍だけ置いて学園内で独立したかのように別行動するのも怪しまれる可能性があるし、父親も納得しないでしょう。だから、私たちが描いた坂川くんのシナリオはこうです」
「……それは」
「キタサンブラックは秋のGⅠへ向けて、実績のないサブの坂川くんからチーフである清島さんの元へ管理が移った。それに合わせて、坂川くんはアルファーグ所属のまま地方トレセンへ研修へ向かった。元々独立志望があって、その勉強の一環のためだった。でも、この先本当に独立するかはまだ決まってなかったので、籍はアルファーグに置いていて清島さんもそれを認めていた。そしてタイミングの良いところで中央に戻り、同時にアルファーグを脱退し独立。……というのはいかがでしょう。これならアルファーグを辞めず、キタサンブラックにも会わずに済みます。彼女とは物理的に離れてもらいます」
「そのための、地方トレセンへの出張研修ですか」
「ええ。正確には処分と言うより辞令みたいなものですね。これなら自然な流れだと思いますが。もし探りを入れてくる者がいたとしても、この設定で答えればいい」
彼の話した架空のシナリオは、確かに筋が通っていた。
「どうですか。よろしいですか? まあ、あなた方に拒否する権利など──」
そこで、扉をノックする音が室内に響き、彼は話すのを止めた。
「……邪魔は入れるなと言ってあったのだが」
彼は扉から顔を出して、外にいる人物と話をしているようだった。
「──わかった。すぐ行く。……皆さん、申し訳ございませんが、しばらくお待ち下さい」
彼はそう言うと、部屋から出ていった。
それから10分ほど経ったころ、彼が部屋に戻ってきた。彼は急いだ様子で元の席に座った。
「申し訳ございません。お待たせして。突然ですが、今日はここまでといたします」
その言葉を受けて、彼以外の者は皆訝しむような視線を彼に送った。
一体何があったのだろうか。
「と言うのも、今、キタサンブラックの父親から電話がかかってきましてね」
その名前が出て、室内に緊張感が走った。
「キタサンブラック本人ができれば今すぐお2人と……特に、坂川くんと話したいと言われているようでして」
「────」
それを聞いて、頭が真っ白になった。
しかし、段々と恐怖心が俺の心を満たしていった。
「お2人はこの後すぐキタサンブラックの自宅へ向かってください。彼女と両親がお待ちです」
彼女と会うことが、こんなに怖く感じるなんて、思いもしなかった。
◇
ここからは坂川健幸が知らない一幕。
「少々処分が軽すぎるのではないかね?」
清島と坂川、そして学園側の秋川やよいと駿川たづなが退室し、残されたURAの取締役の1人……丸顔の初老の男がそう口にした。話しかけた相手は先程まで坂川と清島相手に饒舌に話していたオールバックの糸目の男だった。
「これぐらいが妥当でしょう。私たちの目的はこのドーピング事件を闇に葬ることですから」
「それは分かるが……坂川だけでもライセンス剥奪で良かったんじゃないか? マスコミには圧力をかけておけばどうとでもなるだろう?」
「いえ、坂川くんだけはライセンスを剥奪してはならないのですよ」
「? どういうことだ?」
──相変わらず愚鈍な男だ。
と、丸顔の男に対して、糸目の男はそう思った。
「もし坂川くんのライセンスを剥奪したら、彼には失うものが何も無くなるのですよ。トレーナーを辞めさせられた彼が逆恨みしてドーピングのことを私たちの息のかかっていないマスコミにリークしたり、ネットで発信したりするかもしれません。彼は少し悩んだからといってウマ娘にクスリを与えたり、カッとなって暴力を振るう、非常に短気な人間です。……ドーピングが表沙汰になることを避けるためには、彼のライセンス剥奪はリスクが高すぎるのです」
「おお、なるほど……」
坂川や清島に対しては、マスコミに嗅ぎつかれないためにライセンスを剥奪しないと説明していた。確かにそれも理由の一つではある。
しかし、今話したことが一番の理由だった。
トレーナーを辞めさせられた坂川がどんな行動をとるか予想がつかない。反省して殊勝な態度を取っているように見えるが、本心ではどう考えているか分からない。メディアに情報を流したり、ドーピングをネタに、逆にこっちが
それなら彼には
また彼自身がどうしてもトレーナーを辞めたいというのであれば、ほとぼりが冷めた頃合いを見計らって辞めてもらうつもりでもあった。今回の件で重要なのは、彼の逆恨みや怒りの矛先を逸らすことなのだ。辞めさせられるのと、自分から辞めるのでは大きく意味が異なってくる。
それでも彼がメディアに情報を流すようなら、清島に言ったように抜き打ち検査などを導入してドーピング排除を徹底的に推し進めていくだけだ。
一時的に人気は落ちるだろうが、クリーンであることをアピールすれば、時間はかかっても人気が戻る可能性は高い。そのための算段もいくつか考えてある。
もし人気が戻らないなら……URAという泥舟を捨てればいいだけのこと。
──この糸目の男はトゥインクルシリーズに大して執着はない。彼は優秀なビジネスマンとして別の企業からURAへやってきた人間で、トゥインクルシリーズを単なるビジネスモデルの一つだとしか考えていない。
URAが沈むなら、また別の企業に行けばよいだけだ。
「地方に研修に行かせると言っていたが、どのくらいの期間の予定なのだ?」
「短ければ1年ほど。長ければキタサンブラックのトゥインクルシリーズ引退までと考えています。いたずらに長すぎても、坂川くんの反感を助長させるだけでしょうから。そのあたりは状況を見極めながらといったところです」
「ふむう……しかし、早すぎると問題は起きないかね? キミも言った通り、少なからずトレーナーや教師陣にはドーピングの話が漏れるだろう。その噂の熱が冷めないうちに、彼が中央に戻ってきて活躍しようものなら、それを知っている奴からドーピングを疑われて蒸し返される可能性も……」
糸目の男はきょとんとした。この丸顔の男にしてはまともな意見だったからだ。
「……その点については考えがあります。彼は中央に戻ってきても、
糸目の男は嗜虐的な笑みを浮かべていた。
「彼にはせいぜい、底辺を這いつくばってもらいましょう」