底辺キング   作:シェーク両面粒高

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時系列は現在……夏合宿初日の夜へと戻ります。


第45話 滲んだ星空

「まあ、俺の話はこんなもんだ。……のど乾いたな」

 

 私たちは辺りを一回りしてスタート地点であった自販機が並んでいるバス停に戻ってきていた。

 坂川は自販機でペットボトルのお茶を買うと、それを勢いよく呷った。

 

「っはあ…………初めてだ。こうやって誰かに話したのは」

 

 彼はベンチに腰を下ろして背を預けた。

 その彼に向かい合うように私たち3人は立っていた。

 

「もう一度言うが、キタサンの話だけは誰にも言わないでくれ。頼む……」

 

 彼は私たちに向かって頭を下げた。私も含め、カレンモエとペティもそれに頷いて同意した。

 

「ありがとうな。……で、どうだった俺の話は? 幻滅したか?」

 

 彼は普段と変わらない口調で私たちにそう訊いてきた。

 

 正直、彼の話を聞いた感想は一言で表せない。

 彼が様々な経験をしてきたのも分かった。辛い体験をしてきたのも分かった。彼がどこか()()ているのも分かった。

 でも、幻滅するなんてことは無かった。

 

「確かにあなたがキタサンブラックにした行為は許されないことだと思うわ。でも、だからってあなたを見限るなんてことにはならない」

「…………」

 

 私の言葉にカレンモエは小さく頷いた。

 だが、もう1人は違った。

 

「少し、考える時間をください……」

 

 考え込んでいる様子のペティは踵を返して私たちに背を向けた。

 

「他のチームに行きたかったら行っていい。移籍申請の用紙なら様式を後からメールで送ってやる」

「チームを辞める気はないです。でも……今は独りで考える時間が欲しいんです」

「……そうか」

 

 彼女はそう言って宿舎の方へ戻っていった。

 

「お前らも帰っていいぞ。夜遅くまで長々と付き合わせて悪かったな」

「……そう。それじゃ、私も失礼するわ」

「ああ。……キタサンブラックが俺のことを憎んでるから、この前お前にあんなことをしたと思うんだ。お前には迷惑かけたな……すまない。……また明日な」

「……もう一度言うけれど、あなたが謝る必要はないわ」

「……」

「おやすみなさい」

 

 私もペティに続いてその場を後にした。

 

 

 

 

 宿舎へ帰る道すがら、私は彼のことを考えていた。

 あの場に残って、彼のことをもっと色々訊きたい気持ちもあった。彼の行動の意味やそのときの感情について知りたいこともあった。

 彼を見限っていないというのは本音だ。でも、ドーピングの話が出たときは流石に驚いた。そんなことをする人間だとは思っていなかったから。あの瞬間は、目の前にいる坂川が得体の知れない化け物のように見えた。

 レースに臨むトレーナーとして許されない過ちだとは思う。ウマ娘としても、騙してドーピングさせるトレーナーなんて許してはならない。

 しかし、それだけで彼は悪だと決めつけるほど私は単純でない。彼の主観という話を差し引いても、ドーピングに至る道筋は決して同情できないものじゃない。当時の状況と先輩トレーナーの存在によりドーピングへ至ってしまったこと……起点であった彼に非があるとはいえ、彼だけが絶対的な悪という訳ではない。当時の彼はトレーナー2年目……私たちとそう年齢は変わらない若者だったのだ。

 

 あと引っかかったのは彼の考え方……うまく言葉にはできないけれど、彼は()()ている……そんな気がする。

 

 でも──

 

「……()()()()()

 

 ──そう。それよりも、今の私の頭に中にあるのは私自身の……()()()()()()()()()()()()()のことだ。

 

 彼には申し訳ないかもしれないけど、それよりも私は()()()()()()()()()()が気になっていたのだ。彼の話を……いや、彼がたどってきた歩みのことを聞いて、そのことが頭を徐々に占めるようになった。

 

 彼にかけてあげたい言葉はあったが……今はまあ、カレンモエがいるなら大丈夫だろうと思った。……私より彼女の方が長い時間を過ごしているし、たぶん彼女の方が彼のことをよく見ている。

 

 だから彼と話を続けず、こうして独りで帰ってきたのだ。ペティと考えていることは違うだろうが、独りで考える時間が私も欲しかった。熱に浮かされたような頭を冷やしたくなかった。この熱を持った状態のうちに考えたいことができた。

 

 

 彼の話に……“一流”の手がかりがあるような気がしたのだ。

 

 

 彼は自分のことを底辺にいるトレーナーだと言っていた。初めて会った時も彼はそう言っていた。『トレーナー10年やって重賞勝利0。一流どころか、二流、三流ですらない。弱小、底辺……そう呼ばれるのが相応しいトレーナーだからな』と彼が言っていたことを私は覚えている。

 

 でも、本当にそうだろうか。

 

 彼自身が間違えてきたことも分かる。結果を出せなかったことも分かる。しかし、今の私は彼が死に物狂いで努力してきたことを知っている。どれだけ辛い目に遭おうが折れずに立ち向かってきたことを知っている。

 彼はその部分を殊更強調して話さなかったが、話の節々からそれは察せられた。キタサンブラックのこともそうだし、中央に戻って来てから担当したウマ娘たちにだって、彼は必死に努力してきたのだろう。

 他でもない、彼のトレーニングを受けてきたウマ娘であるから分かる……彼のトレーニングメニューには必ず明確な理由と目的が存在しており、その結果の評価や考察を含めて全て論理的に導き出している。一朝一夕でできるものではない。それらは彼の中にある膨大な知識量や理論の数々を前提に、気が遠くなるような成功と失敗の試行錯誤を繰り返して研鑽されたものだ。

 ……以前、あるトレーニングメニューの理論について彼に尋ねたところ、口頭で長々と説明を受けたあとに彼は参考とした論文のPDFをメールに添付してたくさん送ってきたことを思い出した。海外の論文も多数あった。

 

 でも、そこまで努力しても結果は芳しくなかった。カレンモエの同学年も3人退学にしたと聞いているし、私を担当するまで重賞を勝てなかった。彼の話にあった青鹿毛のウマ娘がリステッドを勝ったのが最高の成績だった。

 そうだ、彼の言う通り()()()()を見るなら彼自身が底辺だというのは正しい。

 

 では、彼のことを知った私も坂川健幸は底辺トレーナーと切って捨てることができるだろうか? 

 どれだけ努力しようが、結果が出ていないお前は底辺なのだと。

 

「……できない」

 

 出来ないのだ。以前の……彼と初対面の時の私は出来ていた。

 彼の話を聞いてしまった私はそんなこと出来ない。どうしてもそう思えない。それどころか、それほどまでに辛い経験をしても決して折れずに研鑽を重ねてきた彼は一流──

 

「……どういうことなの……」

 

 ──と一瞬でも考えてしまった自分がいた。

 

 契約直前、トレーナー室で彼とペティの会話を耳にしたとき、彼と私に共通点があることを見出していたことを思い出す。それは彼も私も諦めずに上を目指す在り方だということ。何があっても首を下げないということ。

 そうだ、私と彼は似ているところがあるのだ。

 

 そうして坂川健幸からキングヘイローへと繋がってくる。キングヘイローとは、己が一流のウマ娘だと証明するために走っているウマ娘だ。

 

 私にとっての一流をいったん整理してみよう。

 キングヘイローは一流のウマ娘だ。

 そんな私は自分が一流のウマ娘であると証明するためにトレセンに入った。そして、レースに反対する母親……グッバイヘイローに自分のことを認めさせるため。

 しかし、今になったら分かるのだが、私の中では一流のウマ娘の姿が定まっていなかった。クラシック三冠を達成すれば、GⅠをいくつも勝てば、勝ち続ければ一流のウマ娘だと、そんなことを考えていた。

 それを指摘されたのが弥生賞が終わったあとの母からの電話だ。私は母に『あなたの言う一流のウマ娘ってなにかしら?』と訊かれた。私は答えることができなかった。

 そして母から最後に『あなたがそれを分かっていないようなら、一流になんてなれやしないわ』と告げられた。

 

 ……はっきり言って癪だが、母が言ったことは正しいと思った。目指している一流のウマ娘とは何かが分かっていないのに、証明するなんて到底無理な話なのだ。

 私はその後悩みに悩んだ。キングヘイローにとって、目指す一流のウマ娘とはどんなウマ娘なのか、何を成し遂げたら一流のウマ娘を証明できるのか分からなかったから。私の決意を込めたはずの『一流のウマ娘』……それがこんなにもあやふやなものなんて、思いもしなかったから。

 

 結局思考は堂々巡りで答えは出なかった。しかし、そこに手を差し伸べてくれたのがカレンモエだった。

 皐月賞の前……スタートのトレーニング後、カレンモエに誘われて夜の食堂で食事の席に着いた。そこで、今答えが出ないで悩んでいるのなら、その答えを探しながら歩んでいくのはどうかと言われた。いつか答えが出る日が来るからと。

 その考え方は悩んでいた私を楽にしてくれた。胸が軽くなり、憑き物が落ちたような気がしたのを覚えている。

 カレンモエのアドバイスもあり、その後は一流について考えないようにしていた。時が来ればその答えが出るから、それまでは気にしないでいようと。

 

 そして、今改めて一流について考える機会が訪れていた……いや、考えるというよりは、考えさせられてしまっていると言う方が正しいか。

 坂川健幸というトレーナーのこれまでの歩みを聞いたことによって、なぜ私は“一流のウマ娘”のことがここまで気になっているのか。そして、こうも心が揺さぶられているのか。

 

 その答えは……彼の話を聞いた私は、一流のウマ娘の答えを今導き出せるのだろうか。

 

 

 キングヘイローが目指すべき一流のウマ娘とは? 

 グッバイヘイローを認めさせる一流のウマ娘とは? 

 

 

「……ダメだわ……まだそこにはたどり着けてない……」

 

 ……その答えは出そうになかった。頭が熱に浮かされているからではないと思う。

 おそらくだが、私にはまだ一流のウマ娘とは何か掴むためにはまだ何か()()()()──

 

「足りない……?」

 

 思考の果てに出てきた“足りない”という言葉。

 その言葉には聞き馴染みがある。と言うより、さっきの彼の話でよくそのワードが出て来ており、とても印象深く心に残っていた。彼が昔の話を語るうえで、力の及ばなかったと思われる時に度々口にしていた。

 

「…………トレーナー、あなたは──」

 

 繰り返される“足りない”……おそらく彼は今でもそう思っているだろう。トレーナーとしての自分が足りないと。それは実力的なものなのか、実績的なことなのか、それとも別のことなのか……全部ひっくるめてなのか、当人ではない私では分からない。

 

 でも、そこまで考えが至ってとふと思うことがあった。これは単純な疑問だ。

 

 

 

 

 

「──どうすれば、どうなれば、“()()()”のかしら……?」

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「モエ、お前は帰らないのか?」

「……トレーナーさんはモエに帰ってほしいの?」

「は? いや、そういう訳じゃねえけど……まあ夜も遅いしな。……どうだった、俺の話を聞いて」

 

 何を言われても受け入れるつもりでいた。

 

「キングの言ったこととモエも変わらないよ。ドーピングはびっくりしたけど、だからって何も変わらない。モエはモエで、トレーナーさんはトレーナーさん。それで、モエはトレーナーさんのことを知ってる。……でも、今だから言えるけど、聞けて良かったって思う」

「良かった……? こんな話をか?」

「うん。……んー……そっか…………じゃあ」

 

 彼女の澄んだ青色の瞳が俺を捉えた。

 

「トレーナーさんは、モエのこと大切?」

「! ……」

 

 唐突に訊かれたそれは返答に困るものだった。さっきの話とどんな脈絡があるかも分からなかった。

 俺は思わず顔を下に向けた。

 ……答えようとしたが、口にするのを無意識的に躊躇してしまった。

 

 

 なぜなら、誰にも言ったことがないからだ。担当したウマ娘に対して……おそらく俺は心ではそう思ってるのだろうが──

 

 ──え……?

 

 と考えたところである光景が頭をよぎった。

 キタサンブラックに大切じゃないと言ってしまった、あの時のことだ。

 あの時の俺は自分のことが分からなくなって……ドーピングさせて暴力を振るった自分はそうなんだとしか考えられなくて。

 

 

 ──でも……俺は……本当は、キタサンにも……

 

 

 自分の気持ちを、思いを、確かめるように声という形にしようと試みた。

 けれど中々出てこない。

 

 

「ねえ、言ってほしいな」

「俺は……」

 

 

 顔を上げてカレンモエの表情を改めて見る。目尻が少し下がって、優しげな表情を彼女はしていた。

 逃がしてくれそうになかった。意を決して、カレンモエへの気持ちを口にした。

 

「ああ……大切に、思ってる」

「……うんっ、ありがとう。モエ、うれしいよ。トレーナーさんに大切って思ってもらって、うれしい」

「そう、か……」

 

 なぜだろう。彼女のその言葉が胸に入ってくる。でも、怒りや憎しみをぶつけられたときに感じるような突き刺さる感触ではもちろんなかった。

 むしろ真逆だ。心地よささえ感じられ、暖かいものに満たされてくるような──

 

「……モエも、トレーナーさ……ううん」

「……?」

 

 そしてカレンモエは笑って──俺に優しく笑いかけてくれた。

 

 

 

「モエも、()()()()さんのこと、大切だよ。大切に思ってる」

 

 

 

「──っ」

 

 そう言われた瞬間、熱いものがこみ上げてきた気がした。

 

 

 

 

 ──カレンモエは明確な意図があって言ったわけではない。

 坂川の問題を言語化できるわけでもない。だが、本質的なものをおそらく掴んでいた。彼は他人や状況に否定されてきた……そして何より、彼は今でも自分自身に否定され続けていることを。

 だから大切(これ)が出てきたのだ。

 その真意は哀れみでもない。憐憫でもない。同情でもない。

 

 ──彼女自身が彼に言いたかったから言ったのだ。伝えたいから伝えたのだ。ただ単純なことだった。

 担当ウマ娘とトレーナーだけの関係ではなく、カレンモエという一人のウマ娘は坂川健幸という人間をこう思っていると……それだけのことだった。

 

 

 

 

「っ……俺はっ……」

 

 そんな資格はないのだと、そう言おうとした。

 

 俺はお前の力になれていないのに。

 過ちばかり犯してきた最低の人間なのに。

 そんなことを思われるような価値のある人間じゃないのに。

 

 でも、それを言うのは……考えるのは憚られた。なぜなら──

 

「……うん?」

 

 目の前でこの表情を向けてくれるカレンモエに背を向けることになるからだ。

 大切だと言ってくれたことを否定するのは……カレンモエを否定することになるから。今まで俺についてきてくれて、こんな話を聞かされてもここにいてくれる彼女だから。

 

 彼女が俺へ向けてくれるこの気持ちはとても尊いものだと思ったから。

 

「……いや……ありがとうモエ。俺も……その……嬉しい」

「! ……うんっ。トレーナーさんがうれしいなら、モエもうれしいよ」

 

 うれしいことばっかりだね──と彼女は微笑んで、ベンチに座っている俺の隣に腰を下ろした。

 

「モエね。来年も学園に残ろうと思うの」

「え?」

「ほとんどのウマ娘はシニア級2年の3月に卒業を選ぶでしょ? だからみんなシニア級1年で走るのを辞めちゃう。でもモエはシニア級2年になっても、3年になっても……モエが走りたいと思う限り走ろうって」

「……そうか」

 

 カレンモエは現在シニア級1年……高等部3年だ。今この段階で夏合宿に参加していることや、これまでの親を交えた面談でもそれとなく現役を続けることを匂わせていたが、初めてはっきりと言葉で示してくれた。

 納得するまで走りたい……口で言うのは簡単だが、おいそれと決められることではない。大事な時間を棒に振る可能性だってあるからだ。

 

「ねえ、トレーナーさんはずっとそばにいてくれる? モエが走り続ける限り、一緒にいてくれる? ……モエは一緒にいたいな」

「っ……」

 

 気のせいではなかった。こみ上げてくるものが確かにあった。

 

 『お前がいいなら』……浮かんできたその言葉は泡となって消えていった。

 言うべきことじゃ……いや、違う。俺が言いたいのは、俺の本当の気持ちはそうじゃない。そこを履き違えてはいけない。

 ……いい加減目を背けるのはやめろ、と自分に心の中で言い聞かせた。

 

「……ああ。お前が走り続けるなら一緒にいる。俺も、お前と一緒にいさせてほしい……」

「! えへへ……うれしいな」

 

 ことん、と肩に何かが乗せられた感触がした。

 横を見るとカレンモエが俺にもたれかかり、俺の肩に彼女の頭が乗せられていた。芦毛の髪が目と鼻の先にあり、彼女の体温と髪の毛の感触が感じられた。

 

「前、トレーナーさんが言ったの覚えてる? モエがそばにいてくれるだけでうれしいって。モエもそうだよ。……こうしてるだけでうれしいんだよ?」

「……っ……」

 

 彼女はこちらを見ないでいてくれた。

 

 何で俺はこうなっているんだろうか。こんな歳になって情けないと思う。

 こうなっている理由は分からない……でも、キタサンブラックと別れたときとは違う気がする。

 

「トレーナーさん。大丈夫……大丈夫だから。モエはここにいるからね」

 

 多くの星が瞬いているであろう夜空を見上げても、どれもぼやけてしまっていた。

 

 けれど、その景色は綺麗だと思った。不鮮明であっても、視界いっぱいに広がる星空は綺麗だった。

 

 

 ◇

 

 

 宿舎に帰り、割り当てられた自室に戻ろうと廊下を歩いていると、曲がり角でちょうど向こうから来た人とぶつかった。

 頭の中でずっと考え事をしていたせいで、注意力が散漫になっていた。

 

「っ!? ごめんなさい。大丈夫?」

「あっすいません……って、キングちゃん? そっちこそ大丈夫?」

 

 ぶつかった相手は郷田マコだった。

 

「キングちゃんどこか行ってたの?」

「はい。少し散歩に……」

「そっか。早く寝ないと明日に響くからほどほどにね。坂川さんの夏トレめちゃくちゃハードだから。じゃあ、おやすみ!」

「ええ。おやすみなさい」

 

 彼女はそう言って宿舎の出口の方へ向かっていった。

 

「……そうね」

 

 考えごとは尽きそうにない。でも、トレーニングに影響するようでは一流のウマ娘と言えない。

 クラシック級になってから悔しいことばかりだった。秋にはリベンジするためにもこの夏が重要なのは言うまでもないだろう。

 

「今は切り替えないと」

 

 明日からの夏トレに向けて、気持ちを切り替えていこうと決意した。

 

 

 ◇

 

 

 ベンチに座った俺の肩にカレンモエがもたれかかっている。彼女は寝ているわけではない。でも、俺たちの間に会話は無く、ただそうしているだけだった。溢れそうだったものは流れることなく、気がつけばおさまっていた。

 そうしてどれくらいの時間が経過しただろうか。数分だったかもしれないし、10分は優に経っていたかもしれない。

 

「あっ!」

 

 そんな時だった。前方に人影があった。その声と背格好は聞き覚えも見覚えもあるものだった。

 

 面倒なことになったと、直感的にそう思った。

 

「ちょ!? 坂川さんとモエちゃん? な、な、なにしてんスかあ!? こんな夜更けに、2人で寄り添って──」

「マコ!?」

「……ぁ」

 

 もたれかかっていたカレンモエから離れるように俺は反射的に立ち上がった。

 

「ど、どういうことッスか坂川さん!? 最初は地元のカップルがイチャつきやがって死ねと思ったッスけど……ま、まさか坂川さんとモエちゃんだなんて。まさか2人は──」

 

 あまりよろしくない誤解をしているようだった。

 

「誤解だ! ただちょっと……そう、少し話をしてただけだ。お前こそなんでこんなところにいるんだ?」

「私は飲み物でも買おうと思っただけッスよ。こっちの自販種類沢山あるから」

 

 そういうマコの手には財布が握られていた。

 

「そんなことより! ちゃんと説明してくださいッスよ! この状況、言い逃れできないと思うッスけど。そうならそう言ってくれたらよかったのに。水臭いっすよ坂川さん! 大丈夫ッス、今どきトレーナーとウマ娘なんて珍しいもんでもないッスよ! やっぱ坂川さんも男だったんスねえ!」

 

 彼女の目は爛々と輝いていた。その口調は純度100%の好奇心を隠し切れないでいた。

 

「だからそうじゃねえって……モエも何か言ってくれ」

「……」

 

 俺がそう言うとカレンモエは静かに立ち上がり俺の横に立った。

 

「……トレーナーさん、ちょうどいいし、バラしちゃおうよ」

「は?」

「トレーナーさんとモエが、前からそういう関係だったってこと」

 

 俺の腕に彼女が絡みつき身を寄せてきた。彼女の色んなところが腕に触れていた。

 

「はあ!? お前何を──」

「やっぱり! モエちゃん、本当なの?」

 

 ありもしない事実を公言したカレンモエへの抗議はマコの声にかき消された。

 

 ──何を考えているんだコイツは!? 

 

「うん。週1回はお出かけしてデートもしてるよ」

「えーほんとう!? 坂川さんいつの間に……隅に置けないッスねえ」

「意味の分からん嘘ばっかついてんじゃねえ! お前とデートなんて──」

「……お出かけはしてるでしょ?」

「お出かけだあ? ……ん?」

 

 そう言われて今までのことを思い返す。

 確かにここ半年ぐらいは週1回カレンモエと出かけている。というのも、2月の紫川特別が終わったぐらいから彼女は土日のトレーニング後もトレーナー室に姿を現し夕方から夜にかけて居座ることが多かったのだ。俺は土曜か日曜どちらかの夜は大体外食をするため、彼女の予定が空いてればメシに連れて行ってやっていた。電車などの公共交通機関は人の目が気になるので主に車で行っていた。

 まさかそのことを言っているのか? 

 

「あれはメシ食いに行ってるだけだろうが!」

「でも、ごはんだけじゃなくて買い物も行くでしょ?」

「お前が『ついでに寄ってほしいところがある』って言うから連れて行ってやってるだけだろう」

 

 シューズ屋だったり蹄鉄屋だったり、他には雑貨屋や服屋など、通り道のついでに寄ってやることは確かにあった。車の中で待ってるのも手持ち無沙汰なので一緒に店へ入ってはいた。

 ……あれはデートなのか? いや、そんなはずはない。ただの買い物だし、どちらかと言うと足として使われているだけではないのか? 

 

「いい加減なことばっか言ってんじゃねえ! ……そろそろ離せ」

「ぁ……」

 

 カレンモエの力が緩んだ瞬間を見計らい、絡みつかれていた腕を引き抜いた。

 

「マコ、分かっただろ。モエが俺たちをからかって遊んでるだけだ」

「え~ほんとッスかあ? モエちゃんそういうタイプじゃないと思ってたんスけどお……」

 

 マコの言う通りカレンモエはからかうような言動をするタイプではない。俺と2人の時は喋ってくれる彼女ではあるが、あまりそういう一面は見たことがなかった。だからまあ、今回のこれは気の迷いみたいなもんだろう。

 

「……ったく」

 

 一先ず騒動が収まりそうだったので、俺は手に持っていたペットボトルの茶を飲もうと蓋を開けた。そしてそれに口をつけようとした瞬間、偶然横目に見たカレンモエと目が合った。

 

「…………」

 

 いつも通りのフラットな表情だった。

 でもどこか不満げな……そして悪戯っぽい感じを抱いた。

 

 

 ものすごく嫌な予感がした。

 

 

「……ひどいよ。トレーナーさん」

「え? どういうことモエちゃん?」

 

 俺は茶を飲んでいた。

 

 

「モエのこと、抱いてくれたのに……肩を

 

 

「ぶふうっ!? ゲホッ、ゲホッ!?」

 

 飲んだ茶は気管に入ってしまった。これ以上ないほどむせた。

 

「ぶっ!? も、もうそこまで!?」

 

 何も飲んでいないマコも吹き出していた。なんでだ。

 

「それは流石にアウト! 完全アウトッス坂川さん!!!」

「ゲホッ! ゴホッ! 肩を……っ、だろ! そこ……っゴホッ、はっきり、ゲホッ、言えアホ!」

 

 彼女は最後に小さく「肩を」と言っていたが、俺に聞こえていただけでマコには聞こえていなかっただろう。それを聞こえているのといないのでは大きく意味が異なってくる。

 

「モエ、寝てたから……でも、モエを気遣ってくれてるの分かったよ。優しいなあって思った」

「モエちゃんの寝込みを!? はい犯罪! それは犯罪ッスよ坂川さん! 坂川さんのケダモノ! ……同意があればいいんだっけ……いやいや、一体何してんッスかあ!? 寝てるモエちゃんがカワイすぎて我慢できなかったんスかあ!?」

「ゴホッ、ゴホッ……おえ……んなの、嘘に決まってんじゃ……あ?」

 

 ようやくむせ終わって落ち着きを取り戻せた。そして清明になった頭で考える。

 

 肩を抱く……寝てた……まさか!? 

 思い当たる節があった、あれはカレンモエが乙訓特別で負けたあとメシを食いに行って酒を飲まされた時の話だ。帰りの電車で舟を漕いでいる彼女を引き寄せようとして肩を抱く形になったことがあった。

 そのことを言っているのか!? と言うか肩を抱いたことなんてあれ以外に思い浮かばない。

 

「お前あんとき起きてたのか!?」

「……何のこと?」

 

 すっとぼけるカレンモエ。こういうとき、彼女の平坦な表情は効果を十二分に発揮することを知った。

 

「~~~~っ! 坂川さんっ……!」

「なんだよ!?」

 

 マコはいつの間にかスマホを取り出して懸命に何か操作していた。

 そしてほどなくして、俺のポケットに入ってるスマホにメッセージの着信が入った。スマホを開くと予想通りLANEにマコからのメッセージが来ていた。

 

「何だ……?」

 

 そのメッセージを確認すると、聞いたこともない建物と住所が送られていた。近くの街にそれはあるようだった。

 だがしかし、よくよくその建物の名前と外観を確認するとそれが何か分かった。それは大人の営みをするホテルだった。

 

 マコは暴走していた。

 

「バカか! こんなとこ行くわけねえだろが!」

「ええ!? じゃあ宿舎で……ってことッスかあ!? あそこの壁意外と薄いし、その……声とか……音とか……多分他の人に聞こえるッスよ……まさか聞かせたいとか──」

「ああもう! そう言うことじゃねえんだよ! ……モエ、もう勘弁してくれ……」

 

 どうしようもなくなったので、俺はカレンモエにそう懇願するしかなかった。

 

「……うん。ふふっ、ごめんね……?」

 

 カレンモエは悪戯っぽくそう言うと、ただ俺とマコをからかっただけだと弁明してくれた。

 一応マコからの疑いは晴れたようだった……納得はしていないような、訝しむような表情はしていたが。

 

 ちなみにその後俺がマコにジュースを奢ってやることになった。なんでだ。

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