「ってなわけでいよいよ模擬レースだ。今から休んでレースに備えろ」
「はあっ、はあっ……分かったわ」
時刻は11時。11時半発走の模擬レースまであと30分といったところだった。
トレーニングを終えたキングヘイローは建物の日陰に入って座り込みその体を休めていた。
アドマイヤベガと普通に走ればキングヘイローが勝つ可能性が高いので、出来れば競ったレースをしてほしい俺としては、ハンデという訳ではないが普通にトレーニングをさせてある程度疲労がある状態で走らせることにした。もちろん負荷量には十分注意している。疲労が溜まりすぎた状態で出走させて怪我でもさせれば元も子もないからだ。
座って壁に背をもたれさせてドリンクを飲んでいるキングヘイローと並ぶように、立っていた俺は壁に背をもたれさせた。日差しが当たらない分いくらか暑さはマシだった。
「身体、問題は無いな?」
「んぐっ、ぷはあ……30分もすれば平気よ」
「ならいい」
「ねえ、あのアドマイヤベガって娘。速いの?」
「速い。将来、最低でも重賞を取るレベルだろうな。ジュニア級の世代筆頭候補だ。順調ならGⅠも取れるかもな」
「……そう。おーっほっほっほ! キングの相手に相応しいわね! 相手にとって不足はなし、ね!」
「だが、普通に走ったなら今のお前の方が確実に速い。だからレース前にこんだけ負荷かけたんだ。対してアドマイヤベガは模擬レースのために朝から調整してるみたいだからな。相手はほぼ100%で来るぞ。こうなるとお前が勝てるか分からねえ」
「ふんっ。担当トレーナーならどんな状況でも担当ウマ娘が勝てると信じるべきじゃないかしら?」
「朝にも言ったが実戦さながらの拮抗した相手とのレースがしたいんだよ。でも、俺は負けてもいいとは言ってねえぞ。やるからには絶対に勝て」
「あなたに言われるまでもないわ。勝つのはこのキングよ。……それで、今回のレースどう走ればいいのかしら? あなたのことだから、また課題か何か指示があるのでしょう?」
「…………」
「……黙ってどうしたのよ」
驚いたというか、彼女の言う通り課題を与えるつもりだったので面食らってしまった。
彼女と出会ってもう1年になる。それを察されるぐらいには付き合いも長くなったということだろうか。
「いや、その通りだ。今回、全体として大きな目的が一つ。それに関する具体的な課題は二つ。マッチレースにしたのは理由がある──」
そうして俺はキングヘイローにふたつの課題を提示した。
◇
2人分の手動式の簡易ゲートが用意され、その前で軽く身体を動かしていた。すでにトレーニングをこなして身体には疲労があったので、アップは最低限で済ましていた。
コースには私たち2人だけ。コースの周囲には合宿所に来ている他のウマ娘やトレーナーが観客のように居座っている。
私たち2人に皆が注目している……良い気分だ。
「…………」
私から少し離れたところで、アドマイヤベガが無言でアップしていた。
私は彼女と話したことがない。というか、彼女が誰か他のウマ娘と話している姿を見たことがない。物静かというだけでなく、周りとは関わろうとしないように見える。
彼女も私やカレンモエと同じく、GⅠを複数勝ったウマ娘を母に持つウマ娘だ。話をしたら意外と気が合うのかもしれないが、今はレース前だからやめておくことにした。
でもまあ、せっかくこの
「おーっほっほっほ! 私はキングヘイロー、一流のウマ娘よ! キングと走れること、光栄に思うことね。胸は貸してあげるわ。お互い全力で走りましょう、アドマイヤベガさん」
「……ええ」
こちらには目もくれず、そっぽを向いたまま目を閉じて彼女はそう答えた。
レース前で集中したいのか、それか気が立っているのかもしれない。盤外戦なんてしたくないし、彼女の邪魔をするのは気が引ける。これ以上話しかけるのはやめることにした。
そうしているとゲート役である他のチームのトレーナーから声がかかった。公平性を期すために私たちとは関係のないトレーナーがゲート役をすることになっていた。
(よしっ!)
心の中で気合を入れて2枠へ向かっていった。ゲートに収まるまでの間、気を落ち着かせるために頭の中を整理した。
模擬レース。右回り。距離は2000m。コースはトレセンより小さいので、向こう正面2コーナー過ぎたところからのスタートでコーナー6つの小回りの形態。与えられた課題……その一つは──
──彼女より前でレースを運び、内ラチ沿いに走ること。そのためにはスタートの失敗は許されない。
「……ふぅ」
そこまでしてやっと頭が冷静になってきた。
遅れてアドマイヤベガがゲートに入ってから、私が片脚を引いて構えた。
そして間もなく、鈍い金属音がしてゲートが開いた。
スタートを決めて先頭へと躍り出た。足音で後ろにいるアドマイヤベガの位置を確認しながら内へと切れ込んでいく。マッチレースなのでお互いの足音しかしないため、視覚で確認せずとも相手の位置が分かりやすい。
まず最初の課題はクリア……内ラチ沿いに彼女の前でレースを運べる形となった。
坂川からペースについてはハイペースでなければ自由にしていいと言われた。アドマイヤベガが来なければ超スローに落としていいとも。
(……まるで逃げてるみたいね。これじゃダービーと──)
思い出しそうになったダービーの記憶を頭の隅に追いやって消した。あれはもう終わったことだ。経験として活かしはすれど、今更悔やんだって何の意味もない。
確かにマッチレースとはいえ、この形が逃げになっていることに変わりはない。
しかし、このレースの目的は逃げることではないのだ。
(目的は逃げじゃなくて、後ろの相手をマークする……!)
レース前に交わした坂川との会話を思い出した。
◇
「今回のレースの目的は、後ろにいる相手をマークするってことだ」
「後ろの相手を?」
「ああ。そうだ」
これまで私は本番でマークする作戦を取って走ることが多かった。逃げたダービーは除くとしても、弥生賞と皐月賞ではセイウンスカイを、東スポ杯ではマイネルラヴをマークして走った。2人とも私の前を走っていたウマ娘だ。
「話を整理するぞ。デビューしたころに比べると、お前はスタートも上手くなったし、追走スピードも速くなった。今のお前は前目でレースを運ぶことが出来ている。だからこそ、後ろのウマ娘をマークする技術が必要になってくる」
「確かに、それができれば作戦の幅が広がるわね」
「ああ。ダービーの敗戦で俺も気づいたが、お前は誰かマークする相手を設定する方がおそらく走りやすい。だが今のままじゃ、前にいるウマ娘しかマークできない。それで今回のレース……後ろのウマ娘をマークするって話に繋がる」
「それならわざわざ今日みたいな舞台じゃなくてもいいんじゃないかしら? 昨日までだって他のウマ娘と模擬レースしてたのだし、そこでやっても──」
「いいか。今から俺は事実だけを言うぞ。今回アドマイヤベガ相手にマッチレースを申し込んだ理由だ。まず一つ、この夏合宿にいるアドマイヤベガ以外のウマ娘じゃお前の相手にならない。分かるだろ」
「……ええ。まあ、それは」
これまで合同夏合宿に来ている他のウマ娘と多人数での模擬レースをしてきた。主にバ群の中での競り合いを課題として臨んでいたが、多少失敗して走りを崩しても負けなかった。ここまでの模擬レースで私は全勝だったのだ。
一緒に走ってくれたウマ娘を貶す意図は全くない。心の底から感謝している。でも、物足りないというのも事実だった。
「絶対的なスピードが違う。普通に走るだけでお前は他のウマ娘に難なく勝てるだろう。遅い相手をマークしたって仕方ないし練習にならないからな。ペースを遅くしてやってもいいが、俺としてはできるだけ本番を想定したい。だからお前に対抗できそうなウマ娘……ジュニア級で最高峰の実力を持つアドマイヤベガ相手にマークの練習をするんだ。失敗したら負けるって緊張感も生まれる。もしアイツがレース受けてくれなけりゃ、どこか別の場所で合宿してるチームと連絡とって模擬レースやろうと思ってたぐらいだ。そしてもう一つ、これはマッチレースに関する話だ。……お前は器用なウマ娘じゃない。色々な課題を要領良くこなせるタイプじゃない」
「……」
横目にギロッと彼を睨んでやった。
「怒んなよ。事実を言ってるだけだ。……お前だって、そろそろ分かってんだろ。俺だって言いたくて言ってるわけじゃない」
「……ふんっ」
認めたくない。でも、認めざるを得ないというのも理解できる。彼の言う通り、私はことレースに関しては要領の良いタイプではない。
しかし、認めるのとそれを言われて怒るのは別の話だ。
「不器用なお前には課題を限定してやりたかった。だからある程度拮抗した実力のウマ娘とのマッチレースがしたかったんだ。1対1なら相手の位置取りも把握しやすいし、マーク相手以外のウマ娘に走りを乱されることもない。モエ相手に普段から似たようなことはしてるが、トレーニングはトレーニング、レースはレースだからな」
結局、何だかんだ彼は私のことを考えてくれる。言い方に難があるけれど……たぶん、彼のこれは直らないだろう。
仕方ない。キングとして、その程度は受け入れてあげよう。
「分かったわよ。それで二つの課題っていうのはなに?」
「一つ目、スタートを決めて前に出ること。そして内ラチ沿いを走ること。そして二つ目……」
「……どうしたの?」
坂川はそこで言い淀んだ。
「これを伝えるかどうか迷ったんだ。いや、二つ目の課題じゃなくてだな」
「?」
微妙に煮え切らないような彼は観念したように口を開いた。
「アドマイヤベガは何となくだがスペシャルウィークに似ている気がする」
「スペシャルウィークさんと?」
出てきたのは私たちクラシック級の頂点に立っているダービーウマ娘、スペシャルウィーク。目下、セイウンスカイと並んで最大の相手だ。
「あの抜群に切れる脚……天性のものを感じさせるあの走りはスペシャルウィークとよく似ている。俺の印象ってだけだが……」
「……それで?」
「今日はアドマイヤベガをスペシャルウィークだと思って走れ。弥生賞でも皐月賞でもそうだったように、次に対戦したときもスペシャルウィークは後ろから捲って来る可能性は十二分にある。そのための二つ目の課題だ。このコースは小さいから最後の直線も短い。あいつは十中八九コーナーで
◇
レースは第3コーナーに差し掛かってきた。
先頭は私、その3バ身か5バ身後ろにアドマイヤベガいる。レースが始まってからこの距離は変わっておらず、同じような間隔を保っていた。私は特にペースコントロールしている訳じゃないけど、アドマイヤベガが自らその間隔を維持しているようだった。
マークして意識をやっている後ろからヒリつくような視線と気配を感じる。物陰から獲物を狙う肉食獣のようなプレッシャーを感じる。
(確かに、スペシャルウィークさんってトレーナーが言ったの、分からないでもないわね……! ──っ!? 来た!?)
第3コーナーから第4コーナーに差し掛かったところで、後ろの足音が急激に近づいてきた。彼女と私の距離がぐんぐんと縮まってる。
確かにその圧力と雰囲気はスペシャルウィークと似ているかもしれない。
第4コーナー中間まで来たところで、私のすぐ左斜め後ろまでアドマイヤベガが迫って来ていた。私との差は半バ身といったところ。このまま私を捲って最後の直線で先頭に立とうとする気だ。
「はっ、はっ──」
彼女の確かな息遣いがすぐそこにあった。
(そう簡単には──)
彼女が来たのと同時に私もペースアップした。ピッチを上げ、加速してトップスピードへ持っていく。
(──行かせないわよ!)
「はっ、くっ!?」
アドマイヤベガの息が一瞬乱れた。
私と彼女は併走するように最後の直線へ入ってくる。
これこそ、与えられた課題の二つ目……彼が言ったのは『アドマイヤベガがコーナーで捲ってきたら、加速してペースを合わせて捲らせないようにしろ。そして、微妙にわざと外へ膨らみながらあいつのラインを潰してやれ。スムーズに走らせるな。そしてお前が前か、最低でも並んだ状態で最後の直線に入って来い』ということだった。
最後の直線、半バ身ほど前で私がリードしている。目論見通り、捲らせずに立ち回ることができた。コーナーを回る自然の遠心力に任せて、外に膨れて相手のラインを乱した。
レース運びのテクニックの一つとはいえ、最初の頃はこういう風に他人の力を削ぐような走りをしたくなかった。本音を言えば、今でもしたくない。
でもそれでは勝てないと現実を知ってしまった今、受け入れる必要があるのだ。
あのダービーで、地上から飛び立つかのような末脚で全てを置き去りにしていったウマ娘を目の当たりにしたから。
『最後の直線に入ったらあとは末脚勝負だ……疲れてるとはいえ、ジュニア級のウマ娘に負けんじゃねえぞ。言ってしまえばこれは対スペシャルウィークを想定したレースだ。絶対に勝ってこい!』
「はああああっ!」
残り100m。私は完全にトップスピードに乗っている。でも後ろのアドマイヤベガも食い下がってくる。足音の位置から察するに、おおよそ1バ身ほど後ろ。
気を抜けば一瞬でやられると本能が告げていた。
(本当にジュニア級!? 勘弁してほしいわね……!)
──でも抜かせない! 勝つのは私、キングヘイローなんだから!
「はあああっ!!!」「──はあっ!!!」
お互い死力を尽くしてゴールラインへ向かっていく。
そしてそのゴールラインを先に迎えたのは
ゴール後、レースを見ていたウマ娘やトレーナーからのささやかな歓声や拍手が私たちに贈られた。
「よしっ!!! はあっ、はあっ……」
──勝った!
アドマイヤベガは私から1バ身半から2バ身ほど遅れてゴールしたようだった。一時は1バ身まで迫られたが最後の50mぐらいで私が突き放す格好になった。
課題を実践し、勝つことができた。確かにこの手に掴めたものがあった。
「……はっ、はっ……」
息を整えているアドマイヤベガに近寄って、手を差し出した。
「ありがとう。アドマイヤベガさん。いいレースだったわ」
「……ええ」
彼女は私の手を取ることなく、コース外へと向かっていった。
「……」
受け取られなかった自分の手のひらを見つめた。
「勝った方から声をかけるのは、やっぱりやめた方がいいのかしら……」
そうも思ったが、これはあくまで模擬レースだから……とも考えた。結局答えは出なかった。
坂川たちがいる元へ戻ってくると、カレンモエとペティが迎えてくれた。
「ふふっ、これがキングの実力よ!」
「お疲れさまですキング」
ペティからもらったタオルで汗を拭っていると、坂川が私の目の前に立った。
「指示通り、完璧に課題を遂行したな。しかも勝った。上出来だ」
「私を誰だと思ってるの? キングヘイローよ! 当然の結果ね!」
「よくやった。今日は褒めてやる。身体に異常ないなら昼の休憩に入れ。午後練はモエはいつも通りの時間に、キングは休息も兼ねて30分遅らせて始める。いいな?」
私たちは3人は各々返事をした。
「よし。そのまま解散でいいぞ。お疲れさん」
彼はどこかへ向かって歩き出した。
◇
俺が向かったのはアドマイヤベガとその新人トレーナーの元だった。
人目につきにくい物陰にて2人は話していた。その様子を見ると、負けた彼女を彼が必死に宥めているようだった。
「ちょっといいか?」
「あっ!? 坂川さん」
「勝ったのはキングだ。それで今日の夜のことだが……こっち来て、耳貸してくれ」
「は、はい!」
アドマイヤベガのウマ耳に聞こえないように、彼の耳元で小声で囁いた。
「今日の夜、晩飯が終わったら俺の部屋に来い。……お前がアドマイヤベガに課してるメニューと、出来ればフォームを撮影したビデオをあるだけ持ってきてくれ。USBメモリーがあったらそれも持ってこい」
「えっ!?」
「そういうことだ。……大丈夫か? もしどうしても嫌ならやめるが……予定入れたりしたのか?」
「いや、大丈夫ですよ! ……そういうことでしたか」
「まあ、そんなとこだ。待ってるぞ」
俺はそう言ってその場を離れた。
◇
「お邪魔します!」
「おう。入ってくれ」
晩飯を食ったあと、アドマイヤベガのトレーナーが俺の自室にやって来た。その脇にクリップファイルやタブレットを抱えて。
「何をするか言わなくても分かるだろ。本当は他のトレーナーのトレーニングに口出しすんのはタブーみたいなもんなんだが……いいか?」
「いえ! ぜひこちらからお願いします! 俺の作ったメニュー見てくださるってことですよね」
「ああ」
彼女の走る姿やその内容を見ていて気になることがいくつかあった。そのことを彼に訊いてみたかったのだ。でも、俺も言ったように他のトレーナーのメニューに口を出すのは暗黙の了解でタブーとされている。
だから今回は俺が勝つことによって、口出しする権利を得たのだ。大分強引ではあったが……彼の様子を見るに上手くいったようだ。それに模擬レースに彼女を出してくれた恩義もある。
「まずその前に……あいつの選抜レースを見たことがあるんだが、フォームがその時と今で変わってんぞ。気づいているか?」
「え? 本当ですか?」
やはり彼は気づいていなかったようだ。これだけでも彼を呼び出した甲斐があった。
「アドマイヤベガの左脚が曲がってんのは知ってるよな」
「はい」
「今更説明するまでもねえが、脚が曲がってると、その脚だけじゃなく逆の脚にだってでかい負担がかかる。そうやって負担かかってバランスが崩れてくるとフォームもおかしくなるんだよ。それとは逆に、別の要因……例えば身体の成長度合いや筋肉量の増加でフォームが変わることで脚に負担がかかりやすくなることだってある」
「……今のフォームは駄目ってことですか?」
「分からん」
「へ?」
「だって俺はあいつの担当じゃねえからな。今のフォームの変化が良いか悪いかを判断できる情報を持ってないし分析もしていない。だから軽々しく良いとか悪いとか言えねえよ。そのウマ娘個々人によっても適したフォームは異なるし、芝やダート、距離によって理想のフォームは違う。ただ、フォームが変わってることだけは見て分かった」
「…………」
「その辺一緒に分析してやろうと思ってな。もちろんお前が良かったらだが……」
「そんな! こちらからお願いしたいぐらいです! 俺、全然そういうの分からなくて……坂川さんが一緒に見ていただけるなら、お願いします!」
「そうか。じゃあ、分析していくか」
そうやって彼が持ってきたビデオを確認しながら分析を進めた。今日の模擬レースの映像は俺も撮影していたので、それも用いた。
◇
「ふう、こんなもんだろ」
「ありがとうございます! ……良かった」
分析が進み、今のフォームの変化は悪い変化ではないという結論に至った。それを聞いた彼は安堵のため息をついていた。
「……ひとつ言ってもいいか?」
「何でしょう?」
「脚の曲がりによる故障は致命的なものになることが多い。だから毎日のフォームチェックは絶対に必要なんだ。これからは毎日数分でもいいからビデオを撮って映像を残せ。昨日との、一昨日との、1週間前との、2週間前との、1か月前との……それよりもっと前もだが、フォームの変化の評価をするようにしろ」
「……俺にできるんでしょうか」
「できるかどうかは関係ない。俺みたいに分析できなくてもいいから、今のお前ができることを最低限しろって話だ。……こんなことは言いたくないが、故障した後に後悔したって遅いんだからな」
「…………はいっ。頑張ります」
「おう。頑張れ」
時計をチラッと見ると、もうすぐ日付を越える時間になっていた。
「時間遅いがまだ大丈夫か?」
「全然大丈夫です!」
「よし。次はトレーニングメニュー見せてみろ」
そうして彼女に課しているトレーニングメニューの駄目出しを始めた。確かに工夫の跡はある。だが、いかにも新人が頑張りましたって程度で、所詮教本に毛が生えたくらいのものだった。
それぞれのメニューの根拠を尋ねると、一応理由や目的はあるものの根拠が薄かった。なので参考になりそうな理論や論文を彼に渡して詳しく説明した。海外の論文がいくつもあったので、俺が作成していた日本語訳のまとめを彼のUSBメモリーに入れてやった。
説明してやっていると彼は「こんなのあるんですか!?」「すごいな~」「分かりやすいです」「全然知らなかったです! 本当に勉強になります!」と感激していた様子だった。
……まあ、悪い気はしなかった。俺も単純なものだ。
全てが終わった時には空はすでに明るくなっていた。熱中しすぎて時間を忘れていたようだ。
「今日は完徹確定だな……お前は大丈夫か?」
「体力には自信があります。大丈夫ですよ。坂川さんこそ、こんな時間まで付き合っていただいて……」
「俺は寝不足には強いんだ」
そう強がって返した。実を言うと、アラサーになってから寝不足は堪えるようになってきていた。
「ほれ、帰った帰った。俺もちょっと休むわ」
「ありがとうございました。……あの、坂川さん」
「なんだ?」
「どうしてここまで? いや、俺は凄い勉強になったし、助かったんですけど……どうしてかなと」
「……気が向いただけだ」
確かに彼もアドマイヤベガも俺にとって赤の他人だ。夏合宿で一緒になっただけの存在だ。
でも、アドマイヤベガの姿をあの夜俺は目にしていた。未練ではないが……おそらく俺自身が言ったように気が向いただけなのだと思う。
あの夜に俺も声をかけようとしていたことは言わなかった。言う必要もないと思った。
「あとはお前次第だ。それに、アドマイヤベガ含めて1月になったら嫌でも最低5人は担当しなきゃならない。今のうちにできることはやっとけ」
「そうですよね……俺にできるかな……」
「できるかどうかは分からん。でもやるしかねえんだ。……まあ、どうしても悩み事があったら相談に乗ってやらんでもない」
「本当ですか? じゃあ、またよろしくお願いします!」
そう言って彼は俺の部屋を出ていった。こんな朝方だと言うのに元気な奴だ。
「ん~。俺もちょっと休むか」
背筋を伸ばした後、俺は息抜きがてらアメリカのダートのレースを鑑賞した。
◇
夏合宿最終日。今日をもって夏合宿の全日程は終了する。
その約1ヶ月に渡る夏合宿が今まさに終わりを迎えようとしていた。
「──よしっ! よくやった! これでトレーニング終了だ!」
最後の走り込みを終えたキングヘイローとカレンモエが芝に横たわって荒い息をついていた。
「お疲れさん。2人ともよく頑張ったな」
「キングもモエさんも、よくこのトレーニング量を耐えきりましたね……見てるだけでげんなりするぐらいでしたよ」
そんな軽口を叩きながら2人にドリンクとタオルと配るのはペティ。今更だが、ビデオ撮影やデータ整理に加えてこういうマネージャー的な役割もしっかりとこなしてくれているので、実を言うと俺としてはかなり助かっている。
「はあ、はあ、はあ……菊花賞は絶対に勝つんだから……このぐらいのトレーニング、こなして当然よっ!」
キングヘイローもカレンモエも2人は俺の課したトレーニングを最後までこなした。もちろん、疲労度を見て内容の微修正は行っていたが、それでも凄まじくハードなものだった。2年目のカレンモエはともかく、暑さに弱いキングヘイローがどうなるか最初は不安だったが、持ち前の根性で最後まで走り切った。
「……あ。キング、ストレッチ始めるときは俺に言え。ちょっとお前の身体の状態確認しときたい」
座り込んでドリンクを胃に流し込むように飲んでいるキングに向かって俺はそう言った。
「んくっ……はっ、はあっ……今日も? いいわよ。あなたにストレッチする権利をあげるわ」
「じゃあ始めるぞ」
早速ルーティンとなっているストレッチを機械的にこなしていった。やはりと言うべきが、最終日だけあってかなりの疲労があるようだ。
「……よし。次は筋肉触っていくぞ。関節も動かす。触られて嫌に感じたら言えよ」
「ええ」
一通り終わらせたので、次は身体のチェックに入った。
下肢と臀部の筋肉を入念に確認していく。加えて関節可動域も確認する。
「…………」
「んっ……」
キングヘイローの口から悩ましげな吐息が漏れるが、無視して続ける。彼女の太ももや臀部……つまり尻を手全体で何度もなぞったり揉んだりするように触って筋肉の状態を確かめる。
「……いいぞ。終わりだ」
そう言ってキングヘイローを解放してやった。
「…………」
今触って得られた情報を頭の中で整理する。
夏合宿中を通して今のように……最近は特に彼女の身体の状態を念入りに確認していた。
だから、彼女の身体が段々と変化してきてることに俺は気がついていた。
「黙り込んでどうしたのよ?」
立ち上がったキングヘイローが訝しむような眼差しでこちらを見た。
「何もない……わけじゃねえが。少し思うところがあるだけだ」
「思うところ?」
「ああ。だがまだその片鱗ってだけでな。まだ判断を下すのは難しい。もうちょっと様子を見ねえと……こればっかりは時間を経ないとどうなるか分からん」
「……? なにを言ってるの?」
「まあ時期が来るか、俺の頭の中がまとまったら話す。ほら、さっさとシャワー浴びて来い。汗くせえぞ」
「っ!? なんてデリカシーの無い……!」
「俺にデリカシーがあると思ってたのか? とんだ見込み違いだな」
やいやいと言い返してくるキングヘイローを無視して俺は一足早くその場を去った。
周りに誰もいなくなってから俺は口を開いた。
「あの筋肉の付き方……やっぱりあいつの適性は……」
──そして頭に浮かんできたのは、キタサンブラックとのこと。
「短距離……なのか」