夏合宿から約1ヶ月半後の10月18日、京都レース場のターフに私はいた。
もちろんレースに出るため。そのレースとは京都レース場芝2200m、京都新聞杯(GⅡ)。11月8日に行われるクラシック最後の一冠、菊花賞へのステップレースの1つだ。
『曇り空の京都レース場、第11レース京都新聞杯の出走が迫ってまいりました。主催者発表によると第9レースでは重だったバ場は稍重まで回復して──』
有名な男性実況アナウンサーの声がゲート前で精神統一を図っている私の耳に入ってくる。
彼の言う通り、台風の影響で今日のバ場は重い。稍重に回復したとはいえ、直前まで重だったのだから限りなく重に近い稍重といったところだろう。
私は重いバ場にそこまで苦手意識を持っていない。キタサンブラックとトレセン学園で走った不良バ場のコースは別として、メイクデビューは稍重で勝っているからだ。ダービーも稍重だったが、バ場とペースの関係性があったとしてもあれは私の暴走による負けだから、バ場が直接響いたわけではない。
「ふう……」
気を落ち着けたことを心の中で確かめてから目を開く。前方にはゲートが鎮座し、私の周りには出走予定の立ち止まっているウマ娘や、緊張を紛らわすように身体を動かしているウマ娘がいた。
その中に今年のダービーで勝ったスペシャルウィークの姿もあった。
『──さて、何と言っても注目はスペシャルウィーク。ダービー以来の出走となります。もちろん圧倒的1番人気!』
『パドックを見てきましたが、仕上げ切っていたダービーと比べると体重の増加はあるようですが成長分でしょう。菊花賞へ向けて、良いレースを期待したいですね。圧勝もあるかもしれません』
そんな実況と解説の掛け合いが聞こえてくる。
『対する2番人気は少し水をあけてキングヘイローです。前走阪神2000mのGⅡ神戸新聞杯3着からの巻き返しはなるか』
『神戸新聞杯は1着から2バ身差程度の3着で大負けしたわけではありませんからね。皐月賞2着の実力を発揮すればいい勝負は出来るでしょう。ダービー2着、前走の神戸新聞杯でも2着と彼女が負けたボールドエンペラーが3番人気になっているあたり、実力は評価されているようですね。キングヘイロー、春に騒がせた三強の一角としての力を示したいところです』
「……ふんっ。言われなくても示してあげるわよ」
実況と解説が言う通り、休み明けとなった9月20日の神戸新聞杯では3着に敗れた。調子は悪くなかったが、速めのペースを前に着けたこともあって、最後の最後で甘くなってしまった。坂川は休み明けだからそこまで勝敗に拘らなくていい、不利なレース展開でよく3着に粘ったと珍しく慰めてくれたが、やっぱり負けはとても悔しい。
『三強と言えば、先週はここ京都大賞典でセイウンスカイがあっという結果を残してくれましたね~』
『いや~先週は凄かったですね! 毎日王冠のサイレンススズカもそうでしたが、京都大賞典のセイウンスカイも逃げ切り勝ちとは!』
「!」
セイウンスカイは1週間前の京都大賞典にてシニア級のウマ娘相手に逃げ切って勝利していた。私もトレーナー室のテレビで坂川らと一緒にレースを見ていた。逃げて後続と大きく差を離し、変幻自在のペースコントロールで息を入れて勝ちまで持っていった。
シニア級相手に勝つだけでも凄いのだが、その相手と言うのがまあ凄い。去年クラシック級で有馬記念を制したシルクジャスティス、天皇賞春の覇者メジロブライト、天皇賞春と宝塚記念のGⅠで2着2回のステイゴールドなど、シニア級の超一線級が揃っていたのだ。
そんなウマ娘相手に勝利を収めたテレビの向こうのセイウンスカイに対し、私は自然と拍手してしまっていた。ライバルとは言えど、それ以前に私たちは同学年で友人同士。彼女が誇らしげに左手でガッツボーズして喜んでいるのを見て、私も心底嬉しくなった。……なお、坂川は頭を掻きながら「やってくれるな……」と難しい顔をしていた。
私も負けていられない。セイウンスカイにも。そして私の視界の端で──
「よしっ!」
──気合を入れているスペシャルウィークにも。
(絶対に勝つわ!)
~~♪ ~~♪!
ファンファーレの演奏が終わり、スタンドからの歓声が上がる。スタート位置が正面スタンドの前で距離が近いせいか、歓声に包まれるように感じた。
「入れー」
誘導員の声に導かれ、私はゲートへ向かっていった。今日の私に与えられた枠は8枠15番。16人でのレースなのでほぼ大外の枠になっていた。
ゲートに入り、その中でスタートを待つ。順調に枠入りが進み、私の左隣である16番グリーンプレゼンスが収まって一瞬の静寂──
──ゲートが開く。
『さあ飛び出した! ダービーウマ娘スペシャルウィークのスタートもまずまずであります。さて、どんなレースをするんでありましょうか』
私のスタートもまずまずといったところで、順調に加速していきながら外から先団を伺うように進出していった。
バ群の中から2人のウマ娘が先頭へ躍り出るのが見えた。
『注目の先行争いですが、サクラナミキオーが行こうとしております。それからランスルーザターフ』
2人のうちランスルーザターフが先頭に立ち、その後にサクラナミキオーが続いた。第1コーナーを入る辺りでその差は1バ身と言ったところ。
その2人から更に2人のウマ娘を挟んで、私は先頭から6バ身ほど後ろにいた。内に2人のウマ娘を置いて外側を走っており、5番手か6番手といった位置で先行していた。
そしてスペシャルウィークは────いた。特徴的な前髪の白い流星が見えた。最小限に首を振り右後方を確認してその姿を視界の端に収めた。
『スペシャルウィークは後ろから5、6人目といったところであります。中団よりちょっと後ろといったところ』
スペシャルウィークはバ群に包まれるようにして後方にいた。
(予想通り……といったところかしらね)
これまでのレース全てでそうだったように、私が前で彼女が後ろからという展開になりそうだ。
作戦通り、後方にいるスペシャルウィークをマークして走る──!
第2コーナーを抜けて向こう正面に入っていく。
私は5番手あたりの位置を維持して駆けていく。他のウマ娘にも大きな動きは無い。ペースは……はっきり言ってよく分からないが、速くもないが遅くもない気がする。
間もなく目の前に上り坂がやって来た。バックストレッチの中間あたりから始まるこの急坂の影響もあり、ペースが少しずつ緩んできているようだ。
(この坂……やっぱりキツイわね……!)
京都レース場の高低差4.3mの坂。この坂を上るのは2戦目の黄菊賞以来だ。ストライドとピッチを変化させて坂に対応させた走りに変えるが、やっぱり脚への負担は大きく、一気に疲労が溜まっていくのを感じる。
残り1200m地点から始まる急坂を100m上ると緩やかな上り坂が姿を現した。
ストライドとピッチをまた微調整して残り1000mを示す10のハロン棒を通り過ぎると、第3コーナーにある上り坂の頂点が見えてきた。
(第3コーナー! ここで──)
レース前の打ち合わせ通り、ここでスペシャルウィークの位置を確かめようと思い右後ろを振り向いた。さっきまでは私の右後ろ後方のバ群の中にいたからだ。
(スペシャルウィークさんは今どこに────え?)
振り向いた後方にスペシャルウィークはいなかった。
いきなりのことで頭の中が真っ白になる。一瞬、故障の文字が頭の中でよぎった。
(──いや)
そんな考えはすぐに取り消された。なぜならこれまでに何度も聞いていた足音が確かに耳に届いているからだ。全てを置き去りにする、あのバネの塊のような足音が。
私はある種の確信をもって左後方へ振り向いた。するとそこに、外へ持ち出して進出してきているスペシャルウィークの姿があった。彼女はバ群を抜け出し外から勝負を仕掛ける気だ。
あの暴力的な速度の捲りがやってくる……!
(やっぱり……っ!)
そうして目が合った。刹那の瞬間だけ、スペシャルウィークと。それはあの弥生賞を思い出させた。
普段の温和で抜けている様子なんて消え失せている、世代の頂点に立ったダービーウマ娘がそこにいた。
──ねえ、キングちゃん。行くよ……?
そんな彼女の声が聞こえた気がした。
立ち向かってみせろと。
迎え撃ってみせろと。
日本一になったダービーウマ娘である自分に抗ってみせろと。
彼女の瞳がそう私に訴えていた。
(っ! 上等よ!)
『行った行った! スペシャルウィークの始動であります! 京都レース場の坂を上るスペシャルウィーク、ダービーウマ娘!』
前を向く。もう後ろは見ないでいい。後ろからやって来る気配とその足音が彼女の位置を何よりも示しているから。
『スピードとキレは抜群! そして夏を越してパワーもつけたスペシャルウィークが外を通って上がっていった!』
坂を上り切り、眼下に広がる坂を下っていく。
坂の下りを利用し速度を上げて、私も外を回して前に進出。先頭との差を縮めていく。
(来てる……来てる!)
すぐ背後に嫌でも感じる。圧倒的な強者のプレッシャーを。
私のすぐ1バ身左後ろに間違いなくスペシャルウィークがいる。
(これまでの捲られっぱなしの
下り坂を利用してさらに加速。スペシャルウィークに捲らせないよう彼女と同等以上まで速度を上げていく。
(ダービーの後も、夏合宿も、夏合宿が終わってからも……その成果を今出す時よ!)
『前にキングヘイローがいる! 場内大歓声! そしてスペシャルウィークと一緒にキングヘイローも動いたっ!』
坂を下り終え、残り600mのハロン棒を横目に通過して第4コーナーへ入った時には私は先頭まで躍り出ていた。形としては私も外から捲っていったということになる。
その左後ろ……いや、もう左横と言った方がいい。私の半バ身だけ遅れて外側にスペシャルウィークが上がってきた。私は彼女にぴったりとマークされている。
お互いがお互いをマークしていた。だからこの展開は必然なのかもしれない。
コーナーを回るときに遠心力に任せて自分の走りやすいように少し膨れながら────アドマイヤベガとの模擬レースを体で思い出しながら────最後の直線へと向かっていく。これで少しは彼女のラインを乱せたはず!
『キングヘイローがダービーの借りを返すのか!? スペシャルウィーク2番手!』
(ダービーの借りも! 弥生賞の借りも! 今ここで返すっ!)
そして私たち2人は並ぶようにして先頭で最後の直線に入った。
『スペシャルかキングヘイローか!? スペシャル楽に交わすのか!? いや──』
ここから先はキングヘイローとスペシャルウィークの追い比べ。残り400mを速く走り切った方が勝つ──!
「はあああああっ!」
バ体を合わせて走る。残り300m。死力を出し尽くす!
コーナーを回ってすぐのところでは前に出られそうになったが、今はまた私が半バ身ほど前に出ていた。私はバ場の4分どころから真ん中あたりを目指して僅かだが斜めへ走っていく。坂川に言われた通り、バ場の良いところを走るためと、スペシャルウィークの走りを少しでもスムーズにいかせないため。
明らかな妨害はしない。あくまでクリーンな戦いの範囲内での行いだ。
『2人! 2人でありますが、もう一度キングヘイロー! このウマ娘はゴール前もう一度伸びるぞ!』
残り200mを過ぎる。
僅かに私がリード。まだ粘れている。この差をあと1ハロンでいい──
(絶対に持たせるわ! 持たせたら私の勝ちなんだから!)
京都新聞杯は完全に私とスペシャルウィークのマッチレースになっていた。ずっとバ体を合わせて、お互いに身を削るかのようにゴールへ向かっていく。
横を見ている余裕は無い。ただ、彼女の荒い息遣いや風を切る感触、そして視界の端に見え隠れする翻った勝負服が彼女の存在を伝えてくれる。
この世界は今、私と彼女の2人だけ。
『さあスペシャルかキングか!? この2人だ! 火花が散る! 火花が散る! 火花が散る!』
残り100m。
私とスペシャルウィークは完全に並んでいる。
脚がちぎれてもいい。今持てる全ての力を全て脚に注ぐ。重いバ場へと脚を叩きつけるように走っていく。
ここまで来て負ける訳にはいかない! 前哨戦だからとか、ステップレースだからとかは関係ない!
──瞬時に想起されたのは神戸新聞杯、ダービー、皐月賞、弥生賞、ホープフルステークス、ジュニア級9月の模擬レース……敗北したレースのこと。
もう…………もう、悔しい思いはいらないのよ!
「はあああああああああ!」
『外がダービーウマ娘! 内がキングヘイロー!』
残り50mを過ぎて、ゴールまで30mもないところだった。
(──え?)
スペシャルウィークが私より僅かに前に出た。
(ま、だッ!)
その差を埋めようと脚に力を入れる。
数ミリでもいい、ストライドを広めないと。
コンマ1秒でもいい、ピッチを上げないと。
そうしないと、このまま負けてしまう──
「ああああああああああああああ!」
ほとんど叫ぶように声を上げながら追う。
でも、差は縮まらない。
どうやっても縮まらない。
ゴール板まであと10m。
『キングヘイローも伸びるが──』
全部絞り出した。今まで私が培ってきたものを全て絞り出した。
トレーニングした成果もちゃんと出せた。レースも事前の作戦通りに運んだ。ほぼ理想通りにレースを進めた。
──でも、なんでこの差は埋まらないんだろう。
『──僅かに外だあっ!!!』
ゴール板を迎えた。クビ差、スペシャルウィークが前に抜け出して。
──私は2着に負けた。
「はあっ……ぐっ、はっ、はっ──」
私は膝をついて息を整える。
観客は大歓声。スペシャルウィークの勝利を祝っている。
「──キングちゃん! はあ、はあ」
「はっ、はっ……っ、スペシャルウィークさん……」
俯いていた顔を上げると、そこには私と同じように荒い息をついたスペシャルウィークがいた。
「はあ、はあ……キングちゃん、大丈夫?」
「え、ええ。はっ……はっ、息が、まだ整わないだけ、よ……」
「そっか。はあ……っく、私と一緒だね! いいレースだったね! キングちゃん!」
スペシャルウィークはそう言って私に手を差し出した。立ち上がるのに手を貸してくれるということだろう。
その手を見てから、改めて手を差し出す彼女を私は見た。
私はその手を取った。
──間違いなく全力を尽くした。作戦通りだった分、私の方がレース展開としては有利だったはず。
「はっ……ええ。いいレースだったわ!」
「うんっ! 菊花賞も、頑張ろうね!」
お互いを称え合った。
──コーナーでの膨らみや最後の直線の進路など、彼女の走りは少しながらでも乱せたはず。
「おーっほっほっほ。クラシック最後の一冠を手にするのはキングヘイローよ! ……次こそは負けないわ。スペシャルウィークさん」
──なのに、負けた。
彼女の手を取りながらもほぼ自力で立ち上がった。
立ち上がってスペシャルウィークと向かい合うと、彼女の宝石のように輝く瞳と目が合った。
その瞳が眩しくて、顔を背けてしまった。
「……スペシャルウィークさん、ウィナーズサークル行かなくていいの?」
「あっ!? そうだった! ありがとうキングちゃん!」
彼女はそう言って足早にウィナーズサークルへと向かった。
その背中を私はただ立ち尽くして見送る。
「……」
──夏合宿を経て私は確実に成長していた。その上で死力を尽くした。レース展開も向いた。対策もうまくいった。力を120%発揮したこれ以上ないレースだった。
じゃあ、なんで負けたのだろう。
……考えるまでもない。今感じていることを、いつか前にも感じていた。
──スペシャルウィークの方が速いから。
──キングヘイローの方が遅いから。
私が完璧に走っても、策を弄しても、スペシャルウィークはただ足の速さだけで私をねじ伏せて上回った。
この敗北は惜しいクビ差ではない。実力を発揮できず大敗したダービーよりも、私と彼女の差は大きいと感じた。
「……」
心のどこかで思っていた。実力を付ければ絶対に勝てると。セイウンスカイにだって、スペシャルウィークにだって勝てると。
クラシック最後の一冠、菊花賞を取れると。
そんな楽観的な未来予想図を勝手に描いていた自分に今更気づいた。
──全力を出し尽くしても勝てないと言うのなら……
「…………」
小さくなった彼女の背中を見つめる。彼女がスタンドに近づくと、更なる歓声がスタンドから上がっていた。
「……私は……」
──どうやったら、あんな
何かが折れる音が、体の奥から響いた。