京都新聞杯の翌日、俺はトレーナー室で昨日のレースを見返していた。
最後の直線でのキングヘイローとスペシャルウィークの競り合いが目の前のPCのモニターに映し出されていた。ほどなくして、スペシャルウィークがクビ差抜け出してゴールした。
「……これで勝てねえか~」
何度見てもキングヘイローは2着になる。こうして何度も見ていればいつか勝つんじゃないかと思わせるような最後の直線でのデッドヒートだった。
当日目の前で見ていたときは悔しさのあまり観客席の柵を思わず蹴りつけようとしたぐらいだったが、時間を置くと冷静になれていた。
「でもまあ、うまくやったな……ちゃんと成長してるぞ、お前は」
キングヘイローはほぼ事前の作戦通りにレースを運んだ。後方にいるスペシャルウィークをマーク、進出してきた彼女に捲らせないように一緒に上がっていくなど、うまく立ち回っていた。担当してからのことを思えば少し感慨深くなった。
ただ全てが完璧だったという訳でもない。ペースや進出し始めるタイミングなど、見返せば修正すべき点はあったように思えた。例えば追い出しをほんの一瞬遅らせれば、最後もう少し粘りこめてたかもしれない。
それで今日はキングヘイローと京都新聞杯の振り返りをする予定だった。京都から東京に帰ってくるともう時間も遅かったので、昨日は最寄り駅に着き次第解散としていた。
「しかし、昨日はなんかいつもと違ったな……」
昨日、2着に負けて控室に戻ってきたキングヘイローの様子が気になっていた。これまでの敗北したレース後は泣いたり怒ったりして感情を発露することが多かったのだが、今回は口数少なく終始沈んだ様子で顔を俯けていた。弥生賞で負けた時も似たような感じだったが、その時よりも落ち込んでいるように見えた。
俺はレース内容についてその場では触れず、ただ彼女を労った。さっきの独り言の通り、昨日の彼女は上手くやったのだ。フォームだって大崩れしてないし、明らかなミスらしいミスはなかった。
「スペシャルウィークに負けたのが効いたのかねえ……」
原因として考えられるのはそれだった。あの展開でキングヘイローを差し切ったスペシャルウィークは改めて恐ろしいウマ娘だと思った。これまでどちらかというと後方からぶん回すマイペースなレース運びをしてきたウマ娘だったから、ああやってバ体を合わせてやったら走りが崩れたり怯んだりする可能性を考えたのだが……俺の目論見は外れた。あんな勝負根性も持っているとは思わなかった。その点を考慮すると、キングヘイローに落ち度はなく、この作戦を立てた俺に全て非が──
「──おっと、その考え方はやめねえとな……でもなあ」
そこまで考えて思考を一旦止めた。
ダービーの後に彼女に言われた通り、勝利も敗北も俺たち2人のモノだ。どちらかが絶対的に悪いと思い込んではいけないと、そう彼女は俺に教えてくれた。
だが、事実として走っている彼女とトレーニングを課したり作戦を授ける俺とで役割は分担されている。ウマ娘とトレーナーである以上、そこの違いは存在しているのでちゃんと分けて考えるべきだ。
敗北したという事実は2人のモノ。しかし、具体的な原因はそれぞれ分けられたモノ……うまく言葉にできないが、そんな感じだろうか。
今回のことも、うまく作戦がハマったからあそこまでスペシャルウィークに肉薄できたのかもしれない。
「ま、やるべきことをやるだけだ。次は菊花賞か……」
夏合宿にて秋の予定を計画立てた。キングヘイローは迷うことなく菊花賞を選択した。一生に一度のクラシック三冠、当然の選択だろう。
叩きとして神戸新聞杯の出走は確定として、身体が問題無ければ京都新聞杯でもう一叩きするというスケジュール通りにここまで来ていた。
菊花賞まであと3週間を切っていた。
「…………」
──頭をよぎるのは、彼女の身体の変化のこと。
「いや、まだ早計だ……」
頭からその考えを振り払って思考を元に戻す。
京都新聞杯の振り返りで何を話すか考えながら放課後を待った。
◇
放課後、トレーナー室にはペティとカレンモエがやって来ていた。この後は2人だけでトレーニングに行ってもらうので、内容だけ指示して送り出そうとしたところでキングヘイローが部屋に入ってきた。
「あ、お疲れ様ですキング……って!? どうしたんですかその顔!?」
ペティの驚きの声につられて彼女の顔を見る。
……目の下に酷い隈が出来ていた。
「……別に、大丈夫よ」
「いや大丈夫じゃ……ねえ、トレーナーさん」
「…………」
黙ってキングヘイローを見つめる。彼女は視線を逸らして俯いていた。
……だいぶ、重症のようだった。
「モエ、ペティ、今日はトレーニング終わったらここに寄らずに上がってくれ。京都新聞杯の振り返りには参加しなくていい。ペティ、タブレットは持って帰ってくれ。モエはセンサーを。2人ともなくすなよ。いいか?」
「あ、はい……分かりました」
「……うん」
2人は返事をしてトレーナー室を出ていった。物分かりの良い2人で助かる。
部屋の中には立ち尽くしているキングヘイローと俺が残された。
「いつまで突っ立ってんだ。座れよ。昨日のレースを振り返るぞ」
「……ねえ」
「なんだ」
「私は、スペシャルウィークさんに勝てるの?」
やはりか、という気持ちが胸を占めた。
「唐突だな。一体どうしたんだ?」
「答えてよ」
「はあ?」
「答えなさいよ。キングヘイローってウマ娘のこと、トレーナーのあなたなら全部分かってるでしょう」
「それは驕りだな。全部なんて分かるわけねえだろ」
「はぐらかすのはやめてっ!」
隈に縁どられた弱々しい視線が俺に向けられた。この様子じゃまともに寝ていないのだろう。
昨日のレースの疲労もあるのに眠れていない……肉体的にも精神的にも極めて脆弱な状態だ。だからこんなにも余裕がなく感情的になっているのではないか。
「少し寝ろ。レースの振り返りは明日でいい。自室に戻ってもいいし、そこのソファーで寝ても──」
「答えてよ! 私はスペシャルウィークさんに勝てるのっ!?」
「……はあ」
埒が明かなかった。
言うことを聞いてくれないなら仕方ない。話し合うしかないのだろう。
「分かった。話をするにしてもまずは座れよ。そうしねえと俺はお前と一切口は利かん」
「…………」
キングヘイローはレースの振り返りするテーブルの所の椅子ではなく、ソファーに腰を下ろした。
そして俺もソファーに……彼女の真正面に座り、目を合わせる。
「お前がスペシャルウィークに勝てるのか、か」
「ええ。菊花賞で私は彼女に勝てるの?」
「それが俺に訊きたいことか?」
「そうよ。あなたなら分かるでしょう?」
「分からねえよ」
「……なによ。やっぱり答えてくれないんじゃない……」
彼女は苛立ちを増したというよりは意気消沈したように見えた。
「レースなんてのは水物だ。何が起こるか分からん以上、勝てるかどうかなんてのは分からん。重要なのは勝てるかどうか考えるんじゃなく、勝つためにレースに出るってことだ」
「……」
「第一、スペシャルウィークに勝てたとしても菊花賞に勝てるかは別の話だ。アイツに勝ったって1着じゃなかったら意味がねえし、京都大賞典で現役最強レベルのウマ娘を倒したセイウンスカイだっている。だから──」
「──私が訊きたいのはそういうことじゃないわ!」
一転、彼女は溜めていた怒りを放つように声を上げた。
「…………」
まあ、そうだろう。キングヘイローが俺に訊きたいのはそんな単純なことではない。
彼女は俺からこの質問の答えを欲しているのではない。この質問はそう形作られただけで、真意はおそらく別のところにある。
眠れないほど悩んだ末に、その感情の行き場を無くしてこうして俺にぶつけているのだ。
「怖くなったか?」
「……怖い? なにが?」
「お前は自分じゃ菊花賞を勝てないって、自分はクラシックを取れずに終わるって、そう思って怖くなったんだろう?」
「……っ!」
彼女は歯を噛みしめていた。ギリッと音が聞こえるかと思うほどに。
おそらくキングヘイローは今になって初めて現実と真正面から向き合っている。と言っても、今まで全く現実に向き合っていなかったわけではない。
彼女は当初クラシック三冠を制覇し三冠ウマ娘になることを目標としていた。しかし、セイウンスカイが皐月賞を取り三冠ウマ娘の夢は早々に潰え、ダービーもスペシャルウィークに勝たれてしまった。
彼女に残されたのは菊花賞。夏合宿でも彼女は度々菊花賞のことを口にしていたことから、菊花賞に並々ならない思いを抱いているのが分かった。クラシック三強と謳われた1人として、キングヘイローというウマ娘のプライドにかけて、最後の一冠だけはなんとしても勝つと決意していた。……そんなところではないだろうか。
しかし、京都新聞杯の敗北でその決意が揺らいだ。菊花賞に直面するこのタイミングになって、彼女は今置かれている現状から目を逸らせなくなった。
今の自分では勝てず、一冠も取れずに終わってしまう未来が見えてしまったのだろう。
これはレースに挑むウマ娘誰にでも訪れる瞬間だ。理想の自分と現実の自分とのギャップに気づいてしまった。
ウマ娘に限らず、この社会に生きる者なら多くの者が経験したことがあるのではないだろうか。……逆に、中にはそんなことに気づかずに済むような者もいるだろうが。
こればっかりは時間をかけて、理想と現実を擦り合わせて妥協して受け入れていくしかない。
それに、今のキングヘイローと同じような境遇に陥ったウマ娘を俺は……いや、俺だからこそ何人も知っている。
彼女の今の状態は、最後の未勝利戦に挑んできたウマ娘たちとよく似ているような気がする。
奇跡でも起こらない限り勝てないと分かってしまって。
でも、それでも退学を避けるために、自らのレース人生を続けるために立ち向かうしかなくて。
そして挑んでいったあのウマ娘たちと。
「あなたもそう思ってるんじゃないの……?」
「は?」
「私じゃ菊花賞を勝てないって! スペシャルウィークさんにも、セイウンスカイさんにも勝てないって!」
……この状況で、勝てると言えたらどれだけ楽だろうか。中央に戻ってきた頃は、そんな無責任極まりないことを担当ウマ娘に言って多くの痛い目を見てきた。
キングヘイローのダービーのときも気分を上げさせるためだとか言って、同じようなことを言った。メンタルのためだと考えたそれが正しかったのか、今でも分からない。
「勝つか負けるかで言ったら、負ける可能性の方が高いだろう」
「っ!」
「スペシャルウィークはそもそもスペックが違う。これまで一緒に走ったお前が一番分かってるだろう。お前も限りなく上澄みのウマ娘だが、スペシャルウィークは上澄みの中の上澄みだ。そしてセイウンスカイ。皐月もそうだが何と言っても京都大賞典の勝利。逃げのペース配分が上手くいったとしても、全て計算づくでレースを作ったのは奴だ。距離が違うとはいえ、今年の春の盾を取ったメジロブライトに勝った……単純に考えれば、天皇賞春を勝てるレベルのウマ娘が菊花賞に出てくる。お前に限った話じゃない、この2人相手に優位に立てるウマ娘なんて歴代でもほとんどいねえよ」
キングヘイローは俺に食ってかかるように身を乗り出していたが、俺の言葉を聞くと身を引いて顔を俯けた。
「……なによ。結局そうじゃない。あなたも私は勝てないって思ってるのよ」
「勝てないなんて思ってねえ。これは事実関係から推察できる、単なる可能性の話だ。それにレースでは何が起こるか分からないって言っただろ」
「一緒よ。何も起こらなければ、実力通りに走れば私は勝てないってことでしょう?」
「
「…………そんなの詭弁だわ」
会話は平行線を辿っていた。
キングヘイローは目を伏せた。
「……勝てないのに。何も証明できないのに──」
その口調はひどく弱々しかった。
「──走る意味なんて、あるのかしら?」
「……!」
普段の彼女なら、今までの彼女ならこんなことを言わなかっただろう。
なのに今こんな弱音を吐いているのは敗北によるショックと極度の疲労のせいなのか、ただ強がってただけで心の中に元々あったものなのか、俺には分からない。これは真意なのか、ただ口を突いて零れた泡沫なのかも分からない。
だが、彼女の言葉をこのまま無視するわけにはいかない。
ちゃんと目を覚まさせてやらないといけない。
キングヘイローのトレーナーとして。彼女の走りを一番近くで見てきた者として。
「お前は勝てないなら、報われないなら、走るのを辞めるのか?」
「…………」
「別にそれを否定するわけじゃない。そんなウマ娘もいるだろう。だがな、お前もそうなのか?」
「……私は……」
「走る意味ってお前は言ったな。お前の走る意味……理由は一体なんだ?」
「……それは…………」
彼女は散々言っていた。
一流のウマ娘であると証明するのだと。グッバイヘイローに自分を認めさせるのだと。
「お前はどうしたいんだ? なんでトゥインクルシリーズで走ってるんだ? もう一度訊くぞ、お前の走る意味、理由ってのはなんだ!?」
「……いっ、一流よ。私が……キングが、一流のウマ娘だと証明するためよ……」
「なら訊くぞ!」
これを曖昧にしてはいけない。彼女の口から答えを聞くべきときだ。
「そもそもの話だ。お前にとって一流のウマ娘ってのはなんだ!?」
◇
彼の言葉を聞いた瞬間、どくん、と心臓が跳ねた。
そして瞬時にフラッシュバックしたのはあの言葉。
──『あなたの言う一流のウマ娘ってなにかしら?』──
同じだった。坂川健幸とグッバイヘイローは同じことを言っていた。
そのことに無性に腹が立った。
でも、訊かれたからには答えないといけないと思った。
私としても、いい加減答えを出したかった。
……一流のウマ娘について。
昨日負けたことで、有り体に言えば私は走る意味が分からなくなった。
私は自分が一流のウマ娘だと証明したかった。そのために三冠ウマ娘になることを掲げて走った。最大限努力して、一切妥協しなかった。手を抜いたことなんて一度もなかった。
けれどライバルのスペシャルウィークとセイウンスカイの躍進により、待っていたのは一冠も取れそうにないという現実。努力しても届かないという現実。
そんな現実に直面した。菊花賞で勝てるイメージがこれっぽっちも湧かなかった。
(……そうよ)
勝てないから私はこんなにも悩んでいる……やはり答えは明白だ。
やっぱりGⅠを……いや、何よりもまず勝つこと。それが一流のウマ娘だ。
これまでもやもやしていたのはGⅠをいくつ勝つとか、どのレースを勝つととか、その中身が分からなかったからだ。
──『あなたがそれを分かっていないようなら、一流になんてなれやしないわ』──
母にそう言われた直後から色々悩んでいたが、やっぱり何よりも勝つのが名ウマ娘で一流のウマ娘の条件だ。
シンプルで良いと思った。どれだけ重賞やGⅠ勝てれば良いとかその中身はまだ分からないけれど、“勝利”は共通しており確定している。
だから、彼にそう言ってやろうと思った。一流のウマ娘とは、勝つウマ娘のことだと。
坂川に目を合わせる。彼は真っ直ぐに私を見つめており、逃げることは許さないとその瞳が物語っていた。
そんな彼に向かって口を開く。
「……一流のウマ娘は──」
勝つウマ娘だ。間違いない。勝てるウマ娘こそ、一流のウマ娘。
「────」
言葉が途切れる。その先が出てこない。
(──なんで)
なんのことはない。勝てるウマ娘こそ一流のウマ娘だと言うだけだ。
一流に必要なのは何よりもまず勝利だと。
勝利することこそ一流の証明なのだと。
(──なんでっ……!)
でも、どうしてもそれが言えない。
目の前にいる男を見ていると、どうしても勝利こそ一流だと言うことができない。
ふいに思い出したのは、彼の過去の話を聞いた夜に独りで考えたこと。
──彼のことを知った私も坂川健幸は底辺トレーナーと切って捨てることができるだろうか? どれだけ努力しようが、結果が出ていないお前は底辺なのだと。
──彼の話を聞いてしまった私はそんなこと出来ない。どうしてもそう思えない。それどころか、それほどまでに辛い経験をしても決して折れずに研鑽を重ねてきた彼は一流──と一瞬でも考えてしまった自分がいた。
「……どうした?」
「っ……」
「一流のウマ娘ってのは、なんだ?」
「……いち、りゅうは……」
まとまりかけていた頭の中の考えが急速に崩れていく。
今の自分は、過去の自分によって否定されていく。
私は何もかも分からなくなった。
「────ない」
「なんだって?」
「分からないっ!!! 分からないのよっ!!! 一流のウマ娘も!!!!! 走る意味もっ!!!!!」
「あっ!? おいっ、どこ行くんだ!?」
私はトレーナー室を飛び出ていった。
まるで、逃げ出すように。