「ない……ない……どこにもない……一体どこにやったんだ……」
模擬レースの翌日の午前中、俺はトレーナー室の物を手あたり次第ひっくり返していた。というのも大事な万年筆をなくしてしまったのだ。昨日はそれを持っていた。模擬レースを見た際、それを使ってメモ帳にラップタイムを書いたりしていたからだ。だから昨日は確かに持っていた。
今朝トレーナー室へ来て早々見当たらないことに気付き、それから数時間トレーナー室の中を探し回っているのだが一向に見つからない。
これだけ探しても見つからないのだから、トレーナー室にはないということだろう。昨日は模擬レースのために学園中を歩き回っていたため、その時に失くした可能性を考え、少し前に学園の事務へ拾得物の照会をした。しかし、万年筆は届いていないらしく、もし該当しそうなものが届いたらこちらに連絡してくれと事務に伝えておいた。
手詰まりになってきた。最終手段は直接探しに行くことだが、他にやっておくことや見落としたことはないだろうか。
「昨日と言えば……あ!」
そこで1つ案が浮かんだ。昨日会っていたマコに聞いてみるのはどうだろうか。もしかしたらあっちの荷物に紛れ込んでいるかもしれない。
善は急げよろしく、俺はすぐさまマコに電話をかけた。数コール後、あの快活な声が聞こえてきた。
『はい! どうしたッスか坂川さん』
「突然すまん。マコお前、俺の万年筆知らねえか? 名前の入った黒いやつ。黒い革のケースに入ってたんだ」
『ああ、あれッスか。どうしたッスか? 失くしたんスか?』
「そうだ。見当たらねえんだ。昨日模擬レースを見たときは持ってたんだが」
『なんで万年筆を外に……ってあー、昨日坂川さんドレスシャツだったッスもんねえ。いつも作業服なのに珍しいと思ったんスよ。坂川さん、綺麗目な恰好の時は万年筆持ち歩いてますもんね。今時、記者でもないのに持ち歩くもんでもないと思うッスけど』
「……人の勝手だろ。放っとけ」
マコの言う通り昨日はドレスシャツとスラックスで割とフォーマルな装いにしていた。昨日は栗毛のウマ娘とその母親が会いに来ていたから流石に作業服で応対するわけにはいかなかったのだ。
学園にいるときの俺は基本的に作業服で、週末のレースを見に行くときなどはフォーマルな恰好をしている。普段万年筆はトレーナー室から出すことなく机の引き出しに入れており、一方で自分の担当ウマ娘のレースを見に行くとき──つまりフォーマルな恰好のときには持ち歩いている。
昨日は模擬レースだったので持っていく必要はなかったのだが、そんな恰好をしていたせいか無意識にポケットに入れてしまっていたようなのだ。
『こっちでも探してみるッス。伯父さんにも聞いておくッスよ』
「ああ、頼む。見つかったら連絡くれ」
『はーい。じゃお疲れ様ッス。……あ、昨日の模擬レースの動画、夕方にでも持っていくッスね』
通話の切断音が耳に当てたスマホから聞こえた。スマホを顔から離して机の上に置く。椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げてからため息をついた。
「なんで……クソッ」
自分を責める。あの万年筆は昔、
あの万年筆は、
……いつまでもこうして自責の念に駆られていても仕方がない。
とりあえず昼が過ぎるまでマコと学園からの連絡をしばらく待つことにした。もしそれでも見つからなければ、昨日通った自身の導線を辿ることにしよう。
考えが纏まったところで目の前の惨状に目を向ける。
「……片付けるか」
目の前には物があちこちに散乱して散らかったトレーナー室が広がっていた。それを見てげんなりとしながらも、俺は立ち上がって片付けに取りかかることにした。
◇
来客がトレーナー室の扉を勢いよく開けたのは、時刻が正午を回り片付けも終わって昼飯を食べているところだった。あれから学園の事務とマコから電話はかかってこなかったので、これはいよいよ学園を徘徊して探すしかなくなってきたかと覚悟を決めながら昼飯のカップ麺を啜っていると、バーンッと引き戸がストッパーに叩きつけられる音と、少女の声が耳に届いた。
「失礼しますよ!」
「ああ!? 戸はゆっくり開けろって言ってるだろうが!」
「そんなことは初めて聞きましたね。これからは気を付けることにします」
「は!? ……って誰だお前?」
扉を開けてトレーナー室の中に入ってきたのは黒鹿毛の髪の毛を腰まで伸ばした青縁眼鏡のウマ娘だった。制服の上に羽織っている飾り気のない白衣が目を引いた。
「…………」
「黙ってねえで名乗れ」
「……わたしのことはちゃんと通達が行っていると思いますけど」
「通達? んなことは何も…………んん?」
改めて彼女の恰好を見る。その羽織っている白衣、同じようなものを着用しているウマ娘を見たことがある。確か、日常的に白衣を着用しているウマ娘たちと言えば────
「お前、スタッフ研修のウマ娘か」
「ちゃんと知ってるじゃないですか。そうですよ。今日から配属になります。放課後に来てもいいんですけど、トレーナーさんがトレーニングに行って入れ違いになるのは御免なので昼休みの今、挨拶に来たんです」
彼女はそう言ってトレーナー室の中に入り後ろ手に引き戸を閉めると、俺のいるトレーナー用デスクの前まで来て右手を胸に当て堂々とした様子で自己紹介を始めた。
昨日、その配属の書類を見たことをちょうど思い出した。
「初めまして、わたしはスタッフ研修課程1年のスタティスティクスペティと申します。ペティでいいですよ」
長いストレートの黒鹿毛をさらっと揺らして小さく礼をしたスタティスティクスペティことペティ。
昨日書類で確認した名前と、彼女が名乗ったそれは一致していた。
何とまあ、言動にしろ言葉使いにしろ態度にしろ、小生意気というか癖のあるウマ娘だなというのがペティに対する俺の率直な第一印象だった。
そして、ここに来たからには訊かなけばならないことがある。
「俺は坂川健幸だ。単刀直入に聞くぞ。なぜ俺のチームに配属を希望した?」
「ふふ、それは──」
俺の問いに対し、ペティは口角をあげてにやっと笑ってから、どこか芝居がかったように右手を勢いよく上げて人差し指で俺を指さした。
「──トレーナーさん、あなたは一流のトレーナーだからです!」
「……は?」
理解ができないセリフをペティは言い放った。
◇
「確かこの辺……よね」
坂川の万年筆を拾った翌日、つまり模擬レースの翌日の昼休み、キングヘイローはそれを坂川へ届けるべくトレーナー室が集まっているトレーナー棟までやってきていた。
あれから万年筆をどうするか悩んだ末、自ら坂川へ届けることにした。学園の事務か担任の教師か駿川たづなに渡せば坂川まで届けてくれるだろうが、わざわざそれを選ぶ気にはなれなかった。
(それじゃ私がアイツから逃げているみたいじゃない!)
私の一流としてのプライドが何事からも逃げるなと訴えてきたのだ。
昨日の坂川は模擬レースに関して貶してきたかと思えば、唐突にいくつかアドバイスをしてくれた。その一瞬だけは見直したが、その後は土下座の練習をしろと馬鹿にしたことを言ってきた。結局、私は坂川に遊ばれていただけだったのだ。
これから先、私を馬鹿にする坂川のような人間との出会いはいくつもあるだろう。だから、ここで逃げる選択肢を選んではいけない。一流のウマ娘として、キングヘイローとして、何事からも逃げることは許されないのだ。
それにしてもあの時の自分はらしくなかった。模擬レースに負けたダメージが多少あったとはいえ、初対面に近い坂川相手に自分のことを喋りすぎたし、感情的になりすぎていた。
「……あの部屋」
ここまでの道程を思い返しながら人気のないトレーナー棟の廊下を歩いていると、気付けば坂川のトレーナー室まで数メートルのとこまで来ていた。引き戸が少し開いているのか、部屋からは明かりが漏れている。
更に近づくと、中から話し声が聞こえてきた。女の声と男の声。男の声で『──坂川健幸だ』と聞き覚えのある声がした。坂川の声で間違いない。
「来客? 取り込み中かしら? 出直した方が──」
と考えながらつい引き戸のすぐそばまで近づくと、女の声が外にいる私にまではっきりと届いた。
『トレーナーさん、あなたは一流のトレーナーだからです!』
「へ? ……っ!」
思いもよらない言葉に思わず声が出てしまった私は慌てて手をやって口を塞いだ。
「……」
どういう話をしているのだろうか。
無意識の内に息を潜めてその会話に耳をそばだてた。
スタティスティクス(統計学)+ペティ(統計学の父)
スタッフ研修のオリウマ娘です