翌日の放課後、キングヘイローはトレーナー室にやって来た。
カレンモエとペティは既にトレーニングへ送り出した後だった。
「よう。どうだ調子は」
普段の調子で俺はそう訊いた。
「まあまあね」
そう言って彼女はデスクを挟んで俺の前まで来た。その顔色は昨日のような酷いものでなく、いつものように血色の良い顔をしていた。目の周りの隈も消えていた。
どこか吹っ切れた様子だった。昨日、あの後何かあったのだろうか。
「昨日は勝手に出て行って、心配かけてごめんなさい。荷物も、寮に届けてくれたって聞いたわ」
「別にいい」
「……」
なにか言いたげな表情をしたキングヘイローに恨めしく睨みつけられた。
出ていったのならまだしも、寮の門限を破るまでとは思わなかったからそこそこには心配していた。しかもご丁寧にスマホをここに置き忘れていっているのも手伝った。
寮から帰ってきたと聞いたときにはやはり安心したのを覚えている。
「……昨日は俺もすまなかった」
「謝らなくてもいいわ。あなたに非はないのだもの」
キングヘイローはそっけなくそう言うと、テーブルの所にある椅子へ座った。
「京都新聞杯の振り返りをするわよ。トレーナー、あなたにレースの修正点を指摘する権利をあげるわ」
「言われなくてもやるぞ。昨日すっぽかしたせいでトレーニングの予定が狂ってる。さっさとやって終わったらすぐにトレーニングだ」
……彼女が昨日のことについて触れないのなら、それでいいと思った。積極的に訊くものでもないし、もし昨日のように思い悩むのでないなら答えを急ぐものでもないからだ。
俺もテーブルについて、モニターにレース映像を流しながらもいつもの回顧を行った。
それほど問題点の多いレースではなかったので、レース回顧自体はスムーズに進み、いつもより時間をかけずに終わった。
「よしっ。さあ、トレーニングに行くわよ。トレーナーも準備を……って、どうかしたの?」
「…………」
回顧が終わって椅子から立ち上がったキングヘイローが、椅子から立ち上がる様子の無い俺を見て目を丸くしていた。
「ちょっと座ってくれるか?」
「……なに?」
心の中である決心をして口を開く。
これまで感じていた彼女の身体の変化についてだ。昨日の彼女の様子を見ていて、話すべきなのだと判断した。
「夏合宿の頃からだが、お前の身体を俺がよく確認してたのを覚えているか?」
「ええ。確かに触られる回数が多いと思ったけれど……」
「お前の身体が成長に従って変化してきてるんだ」
「? それは普通のことじゃないの?」
「いや、そうじゃなくてだな……」
「…………もうっ! 言いたいことがあるならはっきりと言いなさい!」
こっちの気も知らないで言ってくれる。
でもまあ、こう言うのだから伝えよう。今日の彼女ならおそらく大丈夫だろう。ショックを受けるかもしれないが……その時はその時だ。
何がどうなっても受け入れる覚悟はできている。それぐらいの余裕を持てるようになったんだ。
……10年前と違って。
「お前の身体は短い距離を走る身体になってきている。はっきり言ってしまえばマイラーやスプリンター寄りの身体になってきてるってことだ」
「……え」
「これまでお前にはどんな距離にも対応できるような身体作りを心掛けてきた。クラシック路線を目指していたから、長距離も走れるような筋肉を意識して身体を作ってきたんだ。でも身体の成長方向までは誤魔化せない。お前の脚や臀部はじめ股関節回り……上半身もそうだが、お前のその筋肉質な身体はマイルやスプリント向きだ」
「……」
キングヘイローは考え込むような仕草を見せたが、すぐさま口を開いた。
「それじゃ、私は菊花賞を走っても勝てないと言うこと?」
「そういうわけじゃない。今はまだそんな影響は出ていない。さっきも言ったが、元からお前にはどんな距離も走れるように注意して身体を作ってたし、ダービー終わってからはトレーニングメニューも長距離に寄せてた。現状は問題なく菊花賞で勝負できる。だがクラシック級の内は誤魔化しが効いても、身体が完成形へと成熟するシニア級以降はどうなるか分からん」
一度そこで言葉を切ってから再度続けた。
「ただまあ、身体がその適性向きじゃなくても走れるウマ娘はいる。あくまで傾向ってだけだ。ウマ娘みんなに当てはまるもんじゃない。あきらかに短距離向けの体なのに長距離走れるウマ娘だっているし、その逆だっているからな。だから身体つきだけで適性を決めることはできない。適性ってのは走ってみないと……その時になってみないと分からねえんだ」
菊花賞と天皇賞秋をめぐって過ちを犯したキタサンブラックとのことで、俺は身をもって知った。
身体、体重、成績、血統……未熟な俺が考えたそれらを彼女は覆していった。
「もしお前がスペシャルウィークやセイウンスカイと戦いたくないって言うなら…………」
「なら、なに?」
言葉に詰まってしまう。
だが、ここまできて伝えないわけにはいかない。
「菊花賞を選ばず、短い距離……例えばマイルチャンピオンシップに行ってもいい。今なら天皇賞秋でもいい。クラシックを諦めることになるが……」
「…………」
キングヘイローは黙り込んで俺を見ている。
心の奥底を見透かされているように俺が感じるのは、俺が弱気になっているからだろうか。
「それだけ?」
「……は?」
「それだけなの? 私に距離短縮を勧める理由は」
「いや、それだけじゃない」
俺は彼女の精神的な面を指摘した。何度か言っているが、彼女は器用なウマ娘ではないことを。
トレーニングで改善はしてきているが、依然として他のウマ娘に寄られたり邪魔されたりすると走りを崩しやすいのだ。単純な話、レースの距離が長ければ長いほどそのリスクは高くなる。
また長距離は得てしてペースが変わりやすいし、コーナーの数も多い。その分だけ考えることが増えて走りに集中できないことや、バ群が密集する機会が必然的に増すと、その分だけ掛かったり走りを乱される可能性は高くなる。
以上のことを頭に入れつつ、彼女の力が発揮できるレースやシチュエーションを考える。
これまでのレースを例として挙げるなら、キングヘイローが最も高いパフォーマンスを出したのは東スポ杯ジュニアステークスだろう。東京の1800mのワンターンで、レース内容はペースを気にせず他の人気所であるマイネルラヴをマークする形で進めた。それがレコード勝ちに繋がった。
1人をマークするなど頭のタスクは必要最低限に、コーナーも少ない方が彼女の全力を発揮しやすいのではないかと考えた。
加えてゲートはうまくなったし行き脚も速いのは距離短縮に生きるとも。
そう彼女に話した。
「全てあなたの言うことが正しいとして、それじゃ私には中長距離は全く合わないってことになるわね」
「そうとも限らない。ようは走りを崩さなければいいんだ。菊花賞や有馬記念でコーナーが6つあろうが、走りを崩されなければ力を発揮できる可能性は十分にある。コーナー4つの皐月賞や京都新聞杯では好走してんだからな」
「……結局どういうこと?」
「こんだけ言ったが、適性含め何もかも決めつけちゃダメなんだ。ウマ娘の可能性ってのは考えだけで測れるものじゃない。……だから、俺が示したかったのは──」
俺はキングヘイローに強制したいんじゃない。
……するべきじゃなかったんだ。キタサンブラックにも。
「
「…………違う道を、選ぶ……」
「ああ」
「……そう。あなたの言いたいこと、やっと分かったわ」
俺はあの時、キタサンブラックにもこう言うべきだったんだろう。
「お前が決めてくれ。このまま菊花賞に行くか、路線を変更して距離短縮への道を歩むか。どっちを選んでもいい。決められないなら、俺も一緒にまた考えてやる」
「…………」
そこでやっと彼女は目線を下げた。考えているのだろう。
「大事な決断だ。早い方がいいが、別に今日じゃなくても────」
「いいえ。先延ばしにする必要はないわ。もう決めてあるもの」
また彼女は俺を真正面に見据える。その瞳には強い意志が宿っている。
どうしてこうも昨日と今日でこんな様子が違うのか不思議にさえ思えてくる。
「……トレーナー」
「なんだ」
「あなたの心の中には今、キタサンブラックがいるのでしょう?」
「────」
「いえ、今だけじゃない。ずっと、でしょう?」
言葉を失った。
それは誰でもない俺が一番よく分かっていた。だからそれについての驚きはなかった。
俺が驚いたのは、彼女がそれを指摘したということ。
「……これは俺とお前の話だ。あいつは関係な──」
「あるわよ。私、分かったわ。
「キング、お前なにを……」
話の要領を得ない。
しかし、その言葉の意味を考える前に、彼女の口から答えが発された。
「でもあなたの事情なんて関係ない。私は菊花賞に行くわ」
「!」
「言っておくけど、あなたの都合なんて本当に関係ない。謙遜じゃなくて、これはただの真実。私が、私のためにこの道を選ぶの。
「……約束、か……」
『あたし、ある友だちと約束したんです。菊花賞に出られないその娘の代わりに、菊花賞を取るって!』
不意にキタサンブラックの声がフラッシュバックした。
運命のめぐり合わせか、神様のイタズラか、偶然か必然か……その言葉をまた聞くとは思わなかった。
「この菊花賞だけ、あの娘は私に走る意味と理由をくれたの。逃げるわけにはいかない」
彼女の瞳に迷いはなかった。
「……そうか」
言いようのない気持ちが胸に広がった。
キタサンブラックとキングヘイローは、俺が関わった2人は似たような境遇を経た。
だが俺は一方には押し付けて、一方には選ばせた。
担当ウマ娘を勝たせてやりたいという気持ちに変わりはない。キングヘイローとキタサンブラック、2人ともに対しても強くそう思っている。
でもキタサンブラックに俺は許されないことをしてしまった。
──俺は弱かったんだ。
昔の俺は勝たせてやりたい気持ちを履き違え、何があっても受け止めてやる覚悟が無かった。それが怖くて堪らなかった。
正直、どうしたら正しいのかなんて今でも分からない。
胸に広がるこれは何なのだろう……うまく表現ができない。でも──
──これで良かったのだと。そう俺は思えたのだ。
彼女が決めたのなら、俺も迷ってはいられない。迷っていてはいけない。
いつものように全力で彼女に応えるだけだ。
「分かった。菊花賞だな…………よし、じゃあ早速トレーニングに行くぞ」
「……もちろんよ! あなたに菊花賞を勝てるようにキングを仕上げる権利をあげるわ」
「意味の分からねえこと言ってねえでさっさと着替えてコースに出て来い」
そうして俺たちは2人でトレーナー室を出ていった。
足りないものはまだまだ多くある。
それでも、少しだけでも前に進めた……そんな気がした。